1-4 謎のエージェント、ミシェルの憂鬱
警察署から自宅に帰った堤三千世が鵯藤江からの受けた依頼の資料を作成していた頃、また別の物語が動き始めていた。
賑やかな歓楽街は欲望と愛憎が渦巻く街へと変貌し、街を歩く住民も昼とは様相が変わってしまう。日本は治安がいいとはいえ、やはりその様な時間帯には闇の中でしか生きられない人間が現れるものだ。
それは雑居ビルの一角にとあるメイド喫茶で起こった物語。そのメイド喫茶の店の入口には防犯カメラが設置されており、屈強な黒服がいつでも動き出せるようにタバコを吸いながら待機していた。
一見するとなかなか入りにくい店ではあるが何も問題ない。何故なら客もまたそういう店である事を理解していたからだ。
店内では身なりの良い一人の外国の初老の紳士がメイドに囲まれていた。彼はオムライスを美味しくなる魔法をかけてもらい、それはそれはお楽しみの真っ最中の様に見える。
「あーん!」
「あーん!」
初老の紳士はスプーンに乗った大して美味しくもないオムライスを美味しそうに食べていた。これが至高の料理と錯覚するのは露出の多いメイド服を着た女性が隣に座っているからだろうか。
風営法には抵触しているが何も問題はない。むしろこの後の事を考えればどんどん違法な事をして欲しいものだ。
しばしば議員が政務活動費を使って風俗店に行く際、女性の貧困の調査など訳の分からない理由をこじつけるが、まさか公務で自分がメイド喫茶に行く事になるとは思いもよらなかった。
「はーい、これチップだよ~!」
「わあ、ありがとうございます! ご主人様!」
初老の紳士は内心ほくそ笑んでいたが、ひとまず今はこの戯れを楽しむ事にしよう。彼は胸の谷間に札束を突っ込み、だらしなく鼻を伸ばしていた。
しかしその間も初老の紳士は店内の観察を忘れない。万が一の際店の人間がどうやって逃げるのか、どこで違法な行為を行っているのか、用心棒はどこにいるのか――彼は五感を研ぎ澄ませて短い時間で素早く分析する。
「ねえねえ、君って歳いくつなの~?」
「え~? いくつに見えますか~?」
初老の紳士の質問に風俗メイドはぶりっ子で訊き返す。こうして彼女は今までいろんな男を手玉に取って金を巻き上げてきたのだろう。
しかし別にそれは悪ではない。大人の店で遊ぶ時は基本的に自己責任だ。ましてやそれが法律で護られない違法な店でならばなおの事である。違法な風俗店、闇カジノ等、法律を護らない人間は法によって護られないのだ。
「うーんとね、二十八歳!」
「あ? わ、わあ! 正解です~!」
ニコニコしていたメイドは初老の紳士が年齢を口にすると豹変しドスの聞いた声を出した。だがすぐにこめかみをひくつかせながら営業スマイルに戻り、金のためにその無礼な態度を受け入れた。
「メイド喫茶って若い子ってイメージがあるけど、実際は結構年がいっている人も多いんだよね~。風俗で働けないから仕方なくメイド喫茶で働くって感じでね。だがそれがいい! その痛々しい姿で懸命に生きる姿はまさしくアスファルトに咲く雑草の如く、そう、萌えである! これがジャパンの真の萌えなのだ!」
「そ、そう、萌えキュンですよ~!」
メイドは殺気を隠しながらもプライドを捨てひたすら笑い続ける。いつか絶対に這い上がってこの金と権力を貪り肥え太ったブタどもを焼き豚にして食い殺してやる――裏社会で生きる彼女の心の中にもまた燃えの感情が芽生えてしまう。
「さ、さあ! ご主人様! この萌え萌えラブリードリンクをお飲みください!」
彼女は気を取り直してこの店ではモエ・エ・シャンドンに相当するドリンクを提供した。一見するとピンクのエナジードリンクにしか見えないが、五万円となかなか高額なドリンクだ。
しかしこの店は風俗店であり、つまりこのドリンクの価格はそういう事である。黒服は店の奥に移動してこの後に行われるサービスにまつわる諸々の準備をした。
「ほう! これが萌え萌えラブリードリンクか! これはまた……!」
「さあ、飲んで飲んで~!」
初老の紳士はニヤけながらグラスに注がれたドリンクを凝視する。もちろんこのドリンクはおまけでありメインはこの後だ。メイドは手早く事を済ませるためドリンクを飲む事を促した。
だが彼女たちは気が付いていなかった。笑みを浮かべる初老の紳士の目が一切笑っていなかった事に。
仕事とはいえメイドは好みのタイプだったのでもう少し楽しみたかったが仕方がない。これ以上遊んでいれば税金の無駄遣いと文句を言われるだろう。
全ての証拠が集まった以上いたずらに任務を長引かせる理由もない。初老の紳士は泣く泣く決断した。
「うん、わかった! これを飲んで『変態おしりおじさんとオーマイガーファンクル』しようね!」
そして彼が笑顔でそう叫んだ瞬間、一斉にバラクラバを被った屈強な男たちが店内に突入して作戦は決行された。
「な!? なんだお前ら! 警察か!?」
「動くな!」
黒服たちは暴力を生業にしているとはいえ所詮は素人のプロだ。本物のプロにはどうあがいても勝てない。彼らはまともに抵抗も出来ずに瞬く間に制圧され、素早く組み伏せられ拘束されてしまう。
「ち、畜生ッ!」
素早く危険を察知したオーナーは裏口から逃げ出そうとしたが、ドアを開けた瞬間に頭部への強い衝撃と共に脳内に小さな星が散る。彼は何が起こったのかわからないまま、呻き声を上げる事も出来ずに昏倒してしまった。
コンクリートの床に沈んだ彼は意識を失う間際、自分の頭を蹴り飛ばした人間を確認する。
その長身の肌の黒い人間は体型からおそらく女性なのだろう。しかし随分と奇妙な戦い方だ。
彼女はまるでダンスを踊るかの様に仲間を吹き飛ばしている。ならず者としてそれなりに場数は踏んできたが、その独特な武術を彼は一度も見た事がなかった。
「終わりました」
「うむ、ご苦労」
「テメェ! ハメやがったな!」
「ハメてないよ。ハメたかったけどね」
ラテン系黒人女性の隊員は初老の紳士に話しかける。風俗メイドは罵声を浴びせていたが、彼は一瞥もせず席を立った。
「ご時世を考えてください。いささか不適切な発言ですよ。あと途中から普通に楽しんでませんでしたか?」
「気のせいだよ。皆、後は任せた。君も行くよ」
「ええ」
女性隊員は初老の紳士と共に店を後にする。自分の役目は終わった、後はこの国の人間と自浄作用に任せるべきだろう。
店の外に出た女性隊員は誰にも見られていない事を確認した後バラクラバを取り、用意されていた軽ワゴンに乗った。
無表情のアジア系の運転手はロボットの様に車を操作し、車は繁華街を抜けオフィス街へと向かった。先ほどまでの血生臭い喧騒はどこへやら、闇夜の帳に包まれた街には静寂だけが存在していた。
「早めに任務を完了する事が出来て良かったよ。ミシェル君、君はこの後どうするつもりだい?」
「引き続き任務にあたるまでです」
「ああ、そりゃそうだ。あの店は所詮おこぼれで恩恵を受けていただけの末端だからね」
後部座席に座った初老の紳士はミシェルという名の女性隊員に尋ねるが、彼女は同じ様に表情を変えずに淡々と答えた。
「ただもし余裕があれば趣味に時間を割いてもいい。その為に日本に来たのだろう?」
「何の話ですか?」
ミシェルはあくまでもポーカーフェイスを貫いていたたが内心血の気が引いていた。もしかするとこのまま任務から外され目的を達する事が出来なくなるのではないか――彼女は恐怖した。
「隠さなくていい。私は別にその事を咎めるつもりはない。ルールの範囲内なら何をしても構わないよ。ルールの範囲内ならね」
「……わかりました。ありがとうございます」
しかし初老の紳士は彼女に最低限の忠告だけをし、それ以上口出しする事は無かった。彼女はひとまず安堵したが、言い換えればルールの範囲内でしか行動出来なくなってしまったので手放しで喜ぶ事は出来なかった。
捏造探偵、寺内真矢。悪名高き彼女はドン・キホーテ事件を境に表舞台から姿を消し、その消息は明らかになっていない。謎の多さからそのような探偵が本当に実在していたのか、存在そのものを疑う声も少なくないという。
だが彼女はそれが事実ではない事を知っていた。何故ならば自分は彼女の捏造によって人生の軌道修正を強いられたからだ。
(捏造探偵……私はあなたに辿り着いてみせます)
ミシェルは心の中で静かにそう決意する。だがその原動力となる感情が怒りなのか憎悪なのか、それとももっと子供じみた好奇心にも似たものなのか、自分自身の事であるのに彼女はそれすらもわからなかった。




