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名前のない石

作者: 神谷嶺心

「残るものすべてが、見られる必要はない。

でも、重さのあるものは、確かに存在する。」


気づかずに、生まれた。 覚えているのは、太陽の重さだけ。


大きな石たちの間で、 古い木のように静かに並んで、 自分が「何か」だなんて知らずに、ただ存在していた。


地面が私の形を作り、 風が私を削っていった。 そしてある日、偶然、私は顔を出した。


最初に来たのは、光。 白くて、鋭い。


その次は音。 足音、車輪、止まらない声。


私は動かないまま、考えていた。 なぜ、すべてが動くのに、私は動かないのか。


人々は通り過ぎる。 誰も下を見ない。 誰も、決して見ない。


ただ、彼らの影が一瞬だけ私を覆い、 そのあと、また太陽が私を焼く。


時々、雨が来る。 雨は私を軽くしてくれる。 体にこびりついた埃を洗い流し、 ほんの少しの間、私は輝いているように見えた。


それが好きだった。 「何か」になれた気がしたから。


私は名前がなかった。 決まった色もなかった。 ただの石だった。


でも、なぜか、 誰かに気づいてほしかった。


私は待った。 何を待っているのかも分からずに、ただ待った。


そしてある日、 足が、私のすぐそばで止まった。


小さくて、軽い足。 靴底が地面を叩いた瞬間、埃が震えた。


一瞬、何もなかった。 風が葉を揺らす音と、遠くの笑い声だけ。


そして、影が私を覆った。 一秒だけの暗闇が、まるで夏の全部みたいに長く感じた。


小さな指が、私の空に現れた。 ためらって、 そして、触れた。


それは温かい触れ方だった。 靴底のように荒くなく、 雨のように無関心でもなかった。


私は持ち上げられた。 世界が突然回った。 地面、空、雲、声——全部が踊っていた。


優しい握り。 そのあと、暗闇。


ポケット。


チョークの粉と忘れられた飴の匂いがする、布の隠れ家。


その暗闇の中で、私は思った。 「これが…選ばれたってこと?」


ポケットは急ぎ足と一緒に揺れていた。 その一歩一歩が、短い抱擁みたいで、何度も繰り返された。


外の世界は遠くに感じたけど、私は音を聞いていた。 チョークが黒板を引っかく音、 笑い声が泡みたいに弾ける音、 鉛筆が机を叩く、一定のリズム。


時々、ポケットが開いて、 私は学校の窓から切り取られた空のかけらを見た。


そこから見る世界は、すごく高く感じた。 まるで、地面から雲に昇格したみたいだった。


彼が私に触れるたび、温もりが増していった。 しっかりと、でも隠すように握っていた。 まるで、誰にも渡したくない綺麗な秘密を守るように。


チャイムが鳴ると、世界がまた変わった。 足音は軽くなり、ほとんど跳ねているようだった。 古びた布の隙間から風が入り、 太陽と濡れた道の匂いを運んできた。


そのあと、静けさ。 学校の静けさとは違う。 もっと重くて、遠くの声や鍋の音が混ざった静けさ。

そこで私は気づいた。 「家」に着いたんだ。


そして、初めて、怖くなった。 「家」が何なのか、私は知らなかったから。


でも彼にとって、 私はただのポケットの中の小石だった。


窓から差し込む光は、もう外のような金色じゃなかった。 ここでは、白くて硬い光だった。 外の太陽が見せてくれた美しさを、全部暴こうとするような光。


彼はリュックを部屋の隅に置いた。 ジッパーの音、ノートが机に落ちる音が聞こえた。


そして私は思った。 「ここだ。今だ。私の居場所ができた。」


彼はポケットから私を丁寧に取り出した。 壊れ物を扱うような手つきだった。


彼の顔が近くに見えた。 控えめな笑顔に照らされていた。


そして、小さな手が私を机の上に置いた。 色鉛筆と、ぐちゃぐちゃな線が描かれた紙の隣に。


その色に囲まれて、私は何か綺麗なものの一部になった気がした。


彼は時々私を見ながら、 モンスターやヒーローを落書きしていた。


私は思った。 「もしかして、私はお守りみたいな存在なのかも。」


廊下に足音が響いた。 強くて、迷いのない足音。 許可なんて求めない足音。


ドアが乾いた音を立てて開いた。 廊下の光が部屋を鋭く切り裂いた。


「これ、何?」


その声には、好奇心も怒りもなかった。 ただ…事務的だった。 床に落ちた紙くずを見つけた時のような声。


大きくて急な指が、私を乱暴に掴んだ。


世界がまた回った。 机、ノート、壁——全部が逆さまになった。


私はまだ彼の手の温もりを感じていた。 でも今の手は違った。


冷たくて、感じる時間もない手。


短いため息。 そして——空気。


たくさんの空気。 光が多すぎる。


私は飛んだ。


一瞬だけ、それが綺麗だと思った。 まるで、私がそのために生まれたみたいに。


でも、その美しさは、 硬い道にぶつかった瞬間に終わった。


私はそこに、動かずにいた。 空を、逆さまの視点で見ながら。


背後で門が閉まった。 何もなかったかのように。


そして私は理解した。


小さなものの人生では、誰も謝らない。 ただ、勝手に「ここが君の場所だ」と決めて、置いていく。


そして私は—— もう、自分の居場所が分からなかった。


道が、また私の家になった。 でも、もう前と同じ道じゃなかった。


私はポケットの温もりを知ってしまった。 机の上の居場所も知ってしまった。 誰かの視線の、あの軽い重さも。


今はただ、コンクリートと風と、 決して下を見ない足音だけ。


私はそこに、しばらくじっとしていた。 すべてが止まる気がした。


でも——人生は、止まるのが嫌いだ。 人生は、押してくる。


そして、押してきた。


タイヤが近づいてきた。 ゆっくりと、まるで何も壊すつもりがないように。


でも、それが私に触れた瞬間、 無言の力が私を引きずった。


それは、選べない運命が私にくっついたようだった。


私たちは一緒に転がった。 世界がぼやけていった。


道の石たちは消え、 空は細い線になって、上で震えていた。


私は思った。 「もしかして、これが私の物語なのかも。 誰かに運ばれるだけの物語。」


世界は速度になった。


私が知っていたすべて—— ざらざらした地面、 電線で分けられた青空—— それらは震える線に溶けていった。


タイヤは、私を簡単に捕まえた。 気づきもしなかった。


彼にとって、私はただの汚れた埃。 見えない細かいもの。


でも私にとって、それは 目のない獣に捕まったような感覚だった。


目的もなく走り続ける、 止まるタイミングも分からない。


アスファルトが私の下で震えていた。


曲がるたびに、 私は持っていないはずの部分が引きちぎられるように感じた。


急ブレーキのたびに、 私の体は空を飛びたがった。


それでも—— 私は憎まなかった。


なぜなら、転がっている間、 私は今まで見たことのないものを見ていたから。


光のように過ぎる看板、 光で傷ついた壁、 顔とも言えない顔——ただのぼやけた形。


それは、ほとんど美しかった。


ほとんど。


美しさは、 自分がその中に属していないと分かっている時、 いつも痛みになる。


どれくらい続いたか分からない。


一瞬のようでもあり、 夏の全部のようでもあった。


そして——私は離れた。


自分の意思ではなく、 ただ、運命から滑り落ちただけ。


タイヤはそのまま進んだ。 振り返ることもなく。 振り返る方法すら知らない。


そして私は、数メートル転がって、 熱いアスファルトに体を擦りながら、 忘れられた道の隅で止まった。


静けさ。


とても大きな静けさ。


遠くの声、クラクション、足音でできた静けさ。 でも、私の近くには、何もなかった。


私はそこに、動かずにいた。


熱はまだ私にまとわりついていた。 まるで、もういない誰かの残した抱擁のように。


そして私は思った。 「これが、私の運命なのか? 見えない力に、ずっと運ばれていくだけなのか?」


空は、上でとても大きかった。 青くて、ほとんど白い。


私はその空を見上げて、願った。 ほんの一瞬だけ、 雲のように軽くなりたいと。


でも、違う。


私は石だ。 重さそのもの。 「留まるために作られたもの」。


それなのに、私はいつも留まれない。


私はそこに、どれくらいの間いたのか分からない。 もしかしたら数分。 もしかしたら数日。


石にとって、時間は針で測るものじゃない。


伸びていく影、 緑から灰色に変わる葉、 止まらずに通り過ぎる足音—— それが時間だった。


私は…ほとんど安らぎを感じていた。


「幸せ」ではない。 石には、それが何か分からない。


でも、静かだった。 静かで、 道の一部になっていた。


そして、足が来た。


太くて、急いでいて、荒い足。


走っていたのか、ただ前を見ていなかったのかは分からない。 ただ、私にぶつかった。


痛みは、私にはない。 でも、驚きはある。


乾いた音。 人間の体が、私のせいでつまずいた音。


「くそっ!」


その言葉は空気に爆発した。 怒りを吐き出すような、熱い音だった。


そして、私が準備する間もなく、 手が来た。


強く掴まれた。 まるで、私がそこにいることを選んだかのように。


そして——飛んだ。


翼もなく、希望もなく、戻る場所もない飛行。


世界が回った。 光が回った。 風が、私の小さくて無力な体を切り裂いた。


そして——衝撃。


アスファルトでも、コンクリートでもない。


柔らかくて、湿っていて、私の下で沈むもの。


草。


そのあと、土。


転がって止まった時、私は聞いた。 水の音。


湖の音は、ささやきだった。 穏やかで、 誰にも話されない秘密のような音。


私はそこにいた。 湖のすぐそば、ほんの数センチの距離。


小さな波、 光の帯が水面で踊っているのを見ていた。


まるで、世界全体が踊れるみたいだった。 ——私以外は。


私は思った。 「もしできるなら… 今すぐ飛び込む。 この青の一部になりたい。」


でも、できない。


私は石だ。 重さそのもの。 いつも「ほとんど」な存在。


それでも、私は見ていた。


太陽が傾き始めるまで。 すべてを金色に染めながら。


その金色の中で、一瞬だけ、 私は風景の一部になれた気がした。


——ほとんど。


太陽は、地平線に絵の具のように流れていった。


私はそこに、動かずにいた。


空が色を変えていくのを見ていた。 まるで、誰かが最後のデートのために服を着替えているみたいに。


影が最初に来た。 芝生の上に指を伸ばして、 そのあと、すべてを覆った。


——湖以外は。


湖はまだ輝いていた。 しつこく、 もうそこにない光を映していた。


音も変わった。


蝉は黙り、 遠くの笑い声も消えた。


残ったのは、 水が静かに動く、柔らかい音だけ。


まるで、世界が残された者を優しく眠らせようとしているみたいだった。


私は、どれだけ旅をしたかを思った。


どれだけ「誰のものでもない存在」だったか。


蹴られ、 しまわれ、 忘れられ、 気づかれずに走る何かに捕まって——


いつも、私の場所じゃない場所へ運ばれていた。


今は… ここがその場所のように感じた。


いや、違う。


私は、どこにも属していない。


でも、それは悲しいことじゃなかった。


——ただの事実だった。


冷たさが、ゆっくりとやってきた。


でも、痛くはなかった。


石は、感じないから。


でも、痛みにはもう一つの種類がある。


それは、 「すべてが自分なしで続いていく」と知ること。


私はもう一度、湖を見た。


今は暗くなっていた。 まるで、消された鏡のように。


最後に聞こえたのは、 私の隣に落ちた一枚の枯れ葉の音だった。


とても軽くて、 落ちる瞬間だけ、生きていた。


そして、夜が目を閉じた。


私は動きの一部ではない。


でも、残されたものの一部ではある。


動かずに、そこにいる。


誰にも感じられない重さ。


でも、確かに存在している。



― 終 ―

私は、別れの中で育った。 選んだわけではなく、それが日常だった。


他の子どもたちが学校の門を通る頃、 私は別れの門を通っていた。


そして気づいた。 終わりは叫ばない。 静かに、そっとやってくる。


それは、小さなものの中に隠れている。 名前のないもの。 誰にも気づかれないもの。


この物語は、一つの石から生まれた。 でも、石の話ではない。


世界が通り過ぎたあとに残るもの。 誰にも聞かれずに運ばれていくもの。 一度だけ触れられて、忘れられるもの。


石は話さない。 でも、感じている。


そして、きっと誰もが望んでいることは同じ。 ——見られなくても、そこにいていい場所。


ここまで読んでくれて、ありがとう。 下を見てくれて、ありがとう。

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