水音の記憶
真夏の夕暮れ時の化学室は、いつもより静かだった。
外の蒸し暑さを音にしたかのように、蛍光灯がじり…じり…と鳴っている。
僕たちオカルト研究部の6人は、円を描くように椅子を並べて座っていた。毎年恒例の怪談会だ。
「じゃあ、最初は私から話すね」
頬を手の甲で拭ってから、女子の声がゆっくりと、熱の籠った教室の空気を震わせる。
彼女が語り始めたのは、理科室の人体模型にまつわる話だった。
夜になると、模型が勝手に動き出す。誰もいないはずの部屋で、足音が聞こえる。
よくある話だけど、彼女の語り口は妙に生々しくて、背筋が少しだけ冷えた気がした。
「この化学準備室にも人体模型があるけど、もしかして夜な夜な動き回っているかもしれない」
そう、彼女が話終えた瞬間、遠くから「キャーッ!」という叫び声が聞こえた。
みんながハッと顔を上げる。
ぴちょん……
水道の蛇口から一滴の水が落ちる。
その音が、胸の奥に刺さる。
水の音は、いつも何かを思い出させる。
何か……忘れてはいけないものを。
「ビビったぁ……どっかのクラスでも怪談話してんのかな?じゃ、次俺な」
次に話し始めたのは、隣の席の男子だった。
彼が語ったのは、階段から突き落とされた男子生徒の話。
その生徒は、いじめられていて、ずっと友達がいなかった。
ある日、階段付近でイタズラに背中を押された。頭から転がり落ちた彼は、打ちどころが悪く、そのまま命を落としたという。
その階段を通ると、今も友達が欲している彼が、誰かを引きずり込もうと背中を押す――そんな噂があるらしい。
ふと、僕は手を頭にやった。
髪の隙間から、ぽたりと滴ったそれを、手の甲で拭った。
茹だるような暑さがまとわりつくが、どこか寒いような気もする。
話が終わる頃、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
ぴちょん… ぴちょん…
水音が、まるで誰かの涙のように続いていた。
僕は自分の手を見た。
じっとりと汗をかいた掌は冷たい。
ずっと、冷たいままだ。
誰かと笑うことも、話すこともできなかった。この世界に自分だけが存在していない、そんな感覚が消えなかった。
でも、この部活にいるときだけは、少しだけその感覚が薄れる。
みんな、どこか似ているから。
傷を抱えて、居場所を探して、みんなここにたどり着いた。
すると、突然ドアが開いた。
「ごめんね、職員会議で遅れちゃった!」
オカルト部の顧問であり、国語教師でもある女性の先生が、手で額を拭いながら入ってくる。
優しい笑顔。いつも通り。
先生もまた、過去に別の学校でいじめられて教師を辞めかけた人だった。
ここにきて、「教師を続けてよかった」と言っていた。
僕たちも先生が居なければ、どこにも居場所なんてなかったと思う。
「先生、遅いよ~!もう職員会議なんてでなくてもいいのにさ~」
手で頭を拭いながら、男子生徒が茶化すように言う。
「こーら!先生だって出たくないの!」
先生も冗談のように言い。みんなが笑った。僕も笑った。
その笑いの中に、ほんの少しだけ違和感が混じっていた。
「大事な生徒のための職員会議なのよ。さて、もう黄昏時だから、気をつけてそれぞれ戻りなさいね」
その言葉だけが、妙に重く響いた。
まるで、何かを知っているかのようだった。
「先生、また国語の問題みたいなこと言ってる~」
「ふふっ、国語力は大事よぉ~?」
そんな冗談を言い合っていると、今度はドアが勢いよく開いた。
女子生徒が息を切らしながら、慌てて教室に飛び込んでくる。
「よかった……!あの、えっと……居眠りしてて……急いでたら階段から落ちたと思ったの。でも、気がついたらまた教室にいて……夢みたいで……誰も見つけられなくて……そしたら、こっちから声が聞こえて……」
彼女の声は震えていた。
先生がそっと歩み寄り、優しく微笑む。
「大丈夫よ、安心して。先生はあなたの言葉を信じるわ」
彼女はほっとしたように笑った。
「ナツメくん、戻り道一緒のはずだからお願いしていいかしら?」
僕は頷いた。
ぴちょん…
水道の水がまた一滴、静かに流れる。
夕日が差し込む廊下を、僕たちは階段へと向かうため、並んで歩き出した。
「いきなり、ごめんね?あの、私、いじめられてて……久しぶりに誰かと話したんだ……あの、何か変な事言ったらごめん!」
彼女は勢いよく謝りながら、うつむいた。
その頬を、何かが伝い落ちていく。
彼女はそれを、ハンカチでそっと拭った。
「僕も同じだったよ。でも、オカルト研究部に入ってから、毎日が楽しいんだ。よかったら、君も入ってみない?」
「そうだったんだ……でも、私、ちょっと怖がりで……やっていけるかな……?」
彼女は不安げに笑い、またハンカチで顔を拭った。
僕は微笑んだ。
心の奥で、何かが静かに確信に変わっていく。
階段の手前。
水道から水が滴り落ちる。
ぴちょん…
「大丈夫。きっと気に入るよ。みんなとも気が合うと思うし。」
「そ、そうかな?だと、いいな……へへっ」
まるで初めて褒められたかのように、彼女は小さく笑った。
「うん。だって……」
ぴちょん…ぴちょん…
最後の水音が、淡い赤から青へと交差する空に静かに溶けていく。
「みんなも、僕たちも、あの階段で死んでるんだから」
夏のホラーとのことで、学園物にしてみました。
書いた後に「怪談と階段じゃん」と、親父ギャグみたいになっていることに気が付きましたw
テーマは[水]とのことでしたが、あえて直接、水のホラーというよりも、水音を視覚的にするというタイプにしてみました。
そして、みんなから何が滴っていたのでしょうねぇ?
この物語が、少しでもうだる暑さを減らしてくれますように。
あぁ、あと黄昏時、階段にはお気をつけてお帰りください、ね?