希望の白球
下校のチャイムがなると、大勢の高校生たちが一斉に正門から湧き出してくる。茜色の夕暮れの空の下、女子生徒の集団が、まるで電柱か郵便ポストのように風景と化したこの店の前を通り過ぎ、三十メートル先のコンビニエンスストアでたむろする。六月の中途半端に強い西日が「佐藤おにぎり店」と書かれた看板を感慨深げに眺めるうちのひとの顔を照らしている。
「今日もたくさん売れ残ってしまったわね」
梅。鮭。昆布。しぐれ。五目。私は店内のショーケースに並んだ大量のおにぎりを眺め、これらを丹精込めて握ったうちのひとが気分を害さないように気を遣いつつ溜息をついた。
地元に一校しかない公立高校の正門前で、うちのひととこの店をはじめて今年で三十二年。開店当時は、下校時ともなれば、お腹を空かせた団塊ジュニア世代の生徒たちが、私たちの握ったおにぎりを、美味しい美味しいと頬張ってくれた。店の前に生徒の行列が出来ることなど日常茶飯事だった。ところがどっこい世が令和ともなれば、進む少子化、物価の高騰、そして何より経営の大打撃となったのが、半年前近所に開店した大手コンビニの存在。以降客足は笑っちゃうほど遠退いた。
「かーちゃん。今日まで苦労かけたな」
「なんですか、藪から棒に」
「藪から棒もへったくれもねえ。この店は今日で閉店だ。約束しただろう。今月も売り上げが芳しくなかったら店を閉じるって」
そうか。今日は月末。売り上げの締め日だ。
「……約束? ただの戯言でしょう? ……ねえ、あんた、本気なの?」
「潮時ってやつだ。仕方あるめえ。客が来ねえんだから」
あっけない。あまりにもあっけない。情けない。あんた、悔しくないの。と思い切り罵ってやりたかった。でもうちのひとは、こうと決めたら曲げないひとだし、そして何より、誰よりも辛いのは他でもないうちのひとなのだし。私は目を伏せ、ただ無言で頷くしかなかった。
彼はエプロンを外し、私は割烹着を脱いだ。「あれ? お前、白髪が増えたな」「と、突然なに」「すまねえ。オイラ、今日までおにぎりに夢中で、かあちゃんにつらい思いばかりさせて」「やめて下さい。そんなこと言われたら逆につらいです。こちとら涙がちょちょぎれそうです」「明日からは、二人でゆっくりと老後を過ごそうや」「そうさねえ。いっそ新婚からやり直しますか」
私たちは、夕暮れ時の店頭で、容赦なく襲う寂しさを打ち払おうと、精一杯陽気に会話をした。うちのひとが、先端がフック状になった長い鉄の棒でシャッターをガラガラと閉め始める。するとその時、一人のお客さんがうちのひとに声を掛けてきた。
「すみません。おじちゃん、梅のおにぎり三つちょうだい」
――背が高く、体格の良い、スーツ姿の若い男性。
「悪いね、お客さん。この店はたった今閉店しちまったのさ」
――あれ、この男性、どこかで見た覚えが。
「固いこと言わないでよ。まだシャッターを閉めている途中でしょう」
――思い出した。間違いない。この子。かつてのうちの常連客。
「いや、そういう意味じゃなくて。今日限りこのおにぎり屋は廃業――」
「キャー。きみ、ひょっとして四番くん」
「はい。ご無沙汰しています、おばちゃん」
私は、うちのひとの話を遮り、黄色い声を上げた。
四番くん。言うまでもなくこれは彼のニックネーム。本名は……なんだっけ。忘れちゃった。彼は、今から七年前、この高校の野球部で、将来を有望視されるスラッガーだった。彼が打席に立つイコール本塁打を意味した。私たちは校内のグランドで日暮れまで練習する彼の姿を、お店を経営する傍ら、境界フェンス越しにいつも見ていた。
「うそっ。四番くんって、あの四番くんか」
「ご無沙汰しています。おじちゃん」
「どひゃ~。スーツなんか着ちゃって。こいつは見違えたな。こちとら、四番君と言えば、泥だらけのユニホーム姿しか知らねえからな」
「今年で二十五歳。俺だって、いつまでも野球少年ではないですよ」
彼の活躍のおかげで無名の野球部が甲子園へ初出場することが出来た。あの当時、地元はそりゃもう大騒ぎ。とは言え、野球は団体競技。彼の卓越した才能だけでは全国には力及ばす、残念ながらチームは一回戦で敗退してしまったけれど。
「地元の誰もが、四番くんは高校を卒業したらプロに行くのだって噂をしていたな」
「でも確か卒業後は社会人野球の強豪チームにスカウトされたのだよね」
さっきまで重苦しいムードだった私たちの気持ちは、突如として現れた地元のスターによって一気にかき消された。しかし、四番くんはどこかしら冴えない表情をしている。
「結局プロからのスカウトは無かったし、社会人野球の一年目で膝を故障しちゃうし、その後の試合はひたすらベンチを温めるだけだったし、挙句の果てには、チームを引退後に転職した今の会社で大失敗をしちゃうし。あ~あ、思えば俺の人生の全盛期は、この高校で白球を追いかけていたあの頃だったのだなあ……」
そう言って四番くんは、錆びたフェンスの向かうに広がるグランドを懐かしそうに眺めた。
「おいおい。泣き言なんてお前に似合わないぜ」
「何か悩みがあるのかい? おばちゃんでよかったら相談に乗るよ」
閉めかけたシャッターをこじ開け、私たちは珍客を連れて店内に戻る。
「悩みと言うか何というか、要するに人生に行き詰ってしまったよ。さっきも言ったように、仕事で大失敗をしちゃってさ。野球をやめてから俺が勤めた会社は、経営状況の芳しくない店舗や商店街のリニューアルをプロデュースする会社なのだけれど、そこである町の商店街のリニューアルを担当したんだ。でも打ち合わせを進めるなかで、自分のプランと先方の希望の食い違いを埋めることが困難になり、強引に自分の意見を押し切るかたちで業務を進めてしまった。その結果プロジェクトは大失敗。商店街の経営は更に悪化。会社に多大な損失を与えてしまった」
「あらあら。野球部時代も強気のプレイが目立ったけど、社会に出ても人間って変わらないのね。オホホ」
四番くんは、冗談っぽく笑う私に取り合うことなく、見えない本を朗読しているかのように淡々と話し続ける。
「そして今日、いつもの朝、いつもの駅の、いつものホームで電車を待っていたら、ふと自分の人生がどうでもよくなってしまった。いつもの時間に乗り込む筈の、いつもの電車を、俺はあえて見送った。それからは時の経つのを忘れ、駅のプラットホームから眼下に敷かれた錆色の線路をただ見詰めていた」
「おいおい。まさか物騒な事を考えていたのじゃあるめえな」
「そんな怖い顔で睨まないでよ、おじちゃん。詰まるところ俺は物騒な行動を起こさず、こうして生きているのだから。気が付けば、すっかり日暮れ時。帰宅する気もなく、酒場でヤケ酒を飲む気もなく、ただもう線路沿いの道をふらふらと歩いていたら、懐かしいこの店にたどり着いたというわけだよ」
「誰もが順風満帆と羨んだ地元のヒーローの人生も、現実はいろいろ大変だったのね」
「おい、四番くん。おにぎりを喰え。ここに並んだおにぎり、好きなだけ喰っていいぞ。腹を空かせると人は落ち込むものさ。うちのおにぎりを腹いっぱい喰ったら必ず元気になる。それはお前が一番よく分かっているだろう」
懐かしいなあ。高校時代の彼は、部活が終わるや否やうちに来店し、その日のプレイの反省点をうちのひとに語りながら、おにぎりを頬張っていたっけ。そしていつも最後はうちのひとが「おじちゃんが直々にコーチをしてやる」なんて調子に乗って倉庫から金属バットを持ち出しては、バッティングの指導なんかしちゃったりして。
「ありがたい。それではおじちゃん、梅のおにぎりを三つくださいな」
ああ懐かしい。そうだったそうだった。彼は他のおにぎりには目もくれず、いつも梅のおにぎりを三つ注文していたなあ。感慨にふける私の前で、竹模様の木船皿に乗せたおにぎりを四番くんが在りし日の姿のようにガツガツと食べ始める。
「七年ぶり。しんなりと湿った海苔。これでもかと塩分多めの梅干し。その梅干しでピンク色に変色したお米。懐かしい味。変わらない味」
二つめのおにぎりを頬張った時、いよいよ四番くんが感極まった。
「ちょ、ちょ、ちょっと~、四番くん、たかがおにぎりで、なにも泣かなくても」
「オイこら、かあちゃん、男の涙は見て見ぬふりをするものだぜ」
「すみません、おばちゃん。あまりの美味しさに思わず……」
それから声を震わせて三つの梅おにぎりを食べ終えた彼は、やがて頬をつたう涙をスーツの袖で勇ましく拭ってこう言った。
「おじちゃん。おばちゃん。俺、この店のおにぎりを食べていたら、俄然ヤル気がみなぎってきたよ。俺ね、本当は自分の欠点にとっくに気が付いている。俺の欠点は、かつて地元のヒーローだったというおごりを捨てきれないこと。でも、今ここから、これまでの傲慢な自分をリセットして、ゼロから頑張ってみるよ」
「おったまげた。急にすんげ~前向きになりやがった」
「この目眩がするほど酸っぱい梅干しが、俺に元気をくれたんだ」
「目眩がするほど酸っぱい? あら嫌だ、四番くんたら、私の漬けた梅干しを、褒めているのだか、貶しているのだか」
「褒めているに決まっているじゃん。二人とも、ずっとこの味のクオリティーを維持しているなんて凄いことだよ。さぞや今もこの店は繁盛しているのでしょう?」
「……繁盛? 繁盛どころか、この店は今日で閉店さ」
人が変わったみたいに陽気に話す四番くんとは対照的に、うちのひとが、こうべを垂れてボソボソと答える。「えっ」絶句する四番くん。
「半年前に近所にコンビニが出来て以降、閑古鳥が鳴きっぱなし。ここらが引き際。今日を持って『佐藤おにぎり店』は廃業。……ちゅうわけだ」
「どうしてだよ。こんなに美味しいのに」
四番くんが憤りの声を上げ、絵に描いたように地団駄を踏む。
「知らねえよ。こっちが聞きてえよ、バカヤロー」
うちのひとが鏡に映したように地団駄を踏み返す。
「やい、おじちゃん。あんた、本当にそれでいいのか。悔しくねえのか」
「悔しいに決まってんだろコノヤロー。ガキこら、舐めてんのかコンチキショー」
うちのひとと四番くんは似ている所がふたつある。ひとつ、こうと決めたら曲げない強情な性格。ふたつ、ご覧の通り、揃って瞬時に沸点に達する直情型。
「仕方ないよ。こっちがどれだけ心を込めておにぎりを握っても、肝心のお客さんが来ないのだから」
まあまあ二人とも落ち着いてという身振りをして、私はつらい現実を四番くんに伝える。
「だったら、俺にこの店をプロデュースさせてよ」
「え?」
「この店のおにぎりの味が一流であるのは間違いない。ではこの店に足りないものは何か。それはコマーシャルの訴求力」
突然の四番くんの提案に、私たちは思わず互いに怪訝な顔を見合わせる。
「SNSを活用して、消費者がこの店のおにぎりを食べてみたいと感じるような発信をするんだ。いっそこの昔ながらの味を前面に押し出し、他との差別化を図ろう。この昭和感漂う店内も、アプロ―チ次第ではインスタ映えする人気スポットになるよ」
「いや、でも、私たち、自慢じゃないけど、コンピューター関係はまるでダメで」
「だから、それを俺に任せてって言っているのさ、おばちゃん」
「いや、でも、恥ずかしながら、オイラに四番くんの会社にこの店のリニューアルを依頼するお金は無いぜ」
「報酬なんか要らないよ、おじちゃん。絶望の淵にいた俺に元気をくれたこの店のおにぎりに恩返しがしたい。そうだな、代金は一年間この店のおにぎり食べ放題ってのはどう?」
四番くんが、ずいと言い寄る。
「……ねえ、あんた、どうする? 四番くんがこう言ってくれているよ」
そっと諭すように私は言う。
「廃業は廃業。もう決めたことだい」
「相変わらず強情ね。でも彼も、あんたに負けず劣らず強情よ」
「絶対にこの店を再起させてみせる。おじちゃん、おばちゃん、信じてくれ」
「四番くんよ。念の為に確認する。その気持ち、お得意のおごりのたぐいではあるめえな」
「絶対に違う。純粋に恩返しがしたい。ただそれだけだ」
うちのひとは、眉間にしわを寄せ、腕を組んでしばらく考え込んでいた。そして――
「……なあ、かあちゃん。彼にこの店の再起を託してみるかえ」
「あなたぁん♡」
四番くんが見ているのもはばからず、思わずうちのひとに抱きついてしまった。嫌だ、恥ずかしい、私ったら年甲斐もなく。
「うおおお、そうと決まったらメチャクチャ興奮してきたぜ、四番くん」
「俺もだよ、おじちゃん。うおおお、マックスボルテージ」
握った拳に力を込めて震える二人。「声でかっ。うるさいよ、あんたら。店内で絶叫しなさんな」そう文句を言いつつも、口元に浮かぶ笑みを隠し切れない私。
「よ~し、こうなったら、久しぶりにやるか」
「ちょ、あんた、やるって何を?」
「オイラと四番くんがやるって言ったら決まっているだろう、バッティング練習さ」
うちのひとが勝手口から外へ飛び出し、倉庫から錆びた金属バットを持ってくる。
「おお、いいですね。昔懐かし、おじちゃん監督の素振り指導。野球部の監督や先輩とは着目点の違う、思わず目から鱗が落ちるようなアドバイスをくれるから有難かったんだ」
バッドを手渡された四番くんが、積もったホコリを払い、グリップを強く握り、うちのひとと一緒に店先へ出て行く。おのずと私も二人を追いかける。
夕暮れ空は、茜色から深い橙色へと移り変わり、店先のガラス窓に柔らかな光が反射していた。西日が店先に佇む二人の背中を金色に染めている。アスファルトに長く伸びた二人の影が、在りし日のように揺れている。
「さあさあ、これからはじまる大勝負。試合は0対3の負け試合。ところが9回裏ツーアウトでチャンス到来。相手ピッチャーの暴投が続きランナーは満塁。狙うはひとつ、逆転サヨナラホームラン」
うちのひとが講談師のような口調でまくしたてる。何やらこれは人生を掛けた大事な打席という設定みたい。
「ばっちこい」
七年前と同じように四番くんが風に乱れた前髪を軽く払い、バッドの先端で斜め四十五度の天空を指し、しっかりと地面を踏みしめて構える。あの頃の彼はまだ若く、無骨な構えの中に秘めた未知なる可能性が輝いていた。そしてそれは現在も何ひとつ変わっていない。
「ピッチャー振りかぶって、第1球投げました」
うちのひとが叫ぶ。一瞬の間を置いて四番くんのバットが唸りを上げ、空気を切り裂く音が辺りに響く。ひゃ~、豪快なスイング。
「えいいクソ。外した」
「もったいない。今のは当てるべきだったぜ」
え? どういうこと? 二人のなかでは、架空のピッチャーが投げたボールを、四番くんが空振りしたことになっているみたい。ふざけているのかしら。いいや、二人とも燃える炎のような瞳をしている。
「あと、回転する軸足の膝が折れすぎのような気がする。あれじゃあ例えジャストミートしたところでショートゴロだ」
うちのひとが、あろうことか、かつてプロ入り間違いなしと言われたスラッガーに背後から腕を回し、丁寧にバッティング指導を始めている。おいおい、分をわきまえなさいっての。
「それでは気を取り直して、ピッチャー第2球投げました」
すると、先ほどと同じ豪快なスイングを見せるかと思いきや、四番くんは何かを目で追う仕草をして立ち尽くすばかり。
「なに見送ってんだよバカヤロー」
「すみません。怖くて。つい」
「勇気を出せ。振らなきゃホームランは無いぜ」
いやいや、そもそも疑似なのにボールを見送るっておかしくない?
「さあ、四番バッター、次の投球で決めようぜ」
「うっし。特大ホームランをブチかましてやらあ」
大きく息を吸い込んで、足をわずかに広げる四番くん。手元のバットが軽く震えている。その表情はスポコン漫画の最終回さながら。う〜む。ただの素振りなのだけどなあ。
「ピッチャー、第3球投げましたああ」
四番くんの腕がしなり、再び豪快なスイングが放たれる。
「やった。当たった。こいつはデカい」
その刹那、うちのひとが夕空を見上げ、歓声を上げる。空は大気の微粒子が光を散乱させ、橙色から赤、そして紫へと色彩を変化させているところ。まるでパレットの真ん中で交じり合う絵の具みたい。え? 当たったの? 空振りでも見送りでもなく、今度はボールが当たったのね、そういうことなのね、お二人さん。
「打球よ、飛べ。白球よ、伸びろ。届け、センタースタンドへ」
傍らにバットを置いた四番くんが、同じ夕空の一点を見詰め、静かに両手を合わせる。
溜息や舌打ちばかりするようになったのはいつからかしら。かつての私は、何も恐れず、何も疑わず、愛する人と共に、ただもう無邪気に希望を追いかけて生きていた。でも今は時の流れに押し流され、あがらうことを止め、過去を振り返る癖のついた自分に気付くばかり。夕暮れよ。お前は時代を越えて変わらない美しさを厳格に見せつけてくれる。夕暮れよ。その美しさで、どうか私を叱っておくれ。
「頼む。お願い」と唇を震わせるうちのひと。「入れ。入ってくれ」と額に汗を滲ませて息を呑む四番くん。周囲の風すらも彼らの祈りを尊び静まり返る。
彼らの願いは野球に疎い私の心までをも激しく揺さぶった。私は、胸の奥深くで暴れる鼓動に突き動かされるように、本気半分、からかい半分で、彼らが目で追う夕空のそれに向かい、こう囁く。
「……入った」
時間が止まる。あるいは戻る。もしくは進む。そんな永遠の一瞬。
「しゃあああああ」
その場で飛び上がる青年の少年。
「逆転サヨナラホームラあああン」
目に涙を浮かべる初老の少年。
大きな鼻垂れ小僧が二人、お互いの肩を叩き合って喜んでいる。
やれやれ、男ってのは、いつまでたっても子供だねえ。強情で、我がままで、かわいくて、愛おしくて、たまんないよお、まったくもう。なんだろうねえ。私にはまるで見えないけどさ。こちらの鼻垂れ小僧さんらには、それはそれはハッキリと見えていたのだろうねえ。夕日の沈む反対の空に舞い上がった、希望の白球が。