9.精霊顕現
リュートに連れられて国王へ謁見したとき、無礼とは知りながらシルフィアは思わず悲鳴をあげてしまった。
朝方に訪れた村で見た黒い靄。
あれと同じものが、国王の執務室へ、また国王自身にも、まるでべったりと墨を塗ったように張り付いていたからだ。
やはりリュートには黒い靄は見えないようで、シルフィアを庇うように前に出たが、シルフィアがなにに驚いたのかはわからずに戸惑っている。
「どうした? シルフィア」
「黒い、靄が……」
「黒い? 畑でも言っていたものか?」
頷くシルフィアにリュートは目を細めるが、彼の目から見た室内に変わったところはなかった。
だが、シルフィアは底冷えのするような気配に怯え、ガタガタとふるえている。
その様子を見たリュートは理解した。精霊の力を借りればまた靄を吹き飛ばすことができるかもしれない。その際に国王やリュートに害が及ぶことを、シルフィアは恐れているのだ。
しかし当然、国王には緊迫した空気が伝わらない。
むしろシルフィアを案じるリュートの態度は、アントニオたちに吹き込まれた嘘を裏付けるもののように国王には感じられた。
「お前たち、なにを言っているんだ!? アントニオの言ったとおり、国を惑わそうとしているのか、偽聖女め……!」
「父上! シルフィアは真の――」
「ええい! 衛兵ども! なにをしている、早くこの娘を捕らえろ!!」
「!!!」
国王の命令に兵士たちが駆けつけてくる。
リュートはシルフィアを背に隠し、兵士たちの前に立ちふさがった。
「やめろ、お前たち!」
「リュート様、おさがりください!!」
「リュート様……!!」
さえぎられた視界からも、兵士たちの持つ剣は見える。
(リュート様を守りたい……!!)
――そのときだった。
シルフィアの心の叫びに呼応するかのように、室内を突風が走り抜けた。風はそれ自体が盾であるかのように兵士たちを扉へ押しやり、外へ放り出す。
バン!!と大きな音を立てて扉が閉まった。
「ああ……っ!!」
「大丈夫だ、シルフィア。彼らは傷ついてはいない」
リュートの言葉どおり、扉のむこうからは「どうした!?」「なにがあったんだ!」と声が聞こえているが、怪我人は出ていないようだ。
それよりも、室内では不思議な光景が繰り広げられていた。
兵士たちを追い払った風はその場で渦を巻き、空気は徐々に光り輝く――。
その中心から、赤い髪の少年と、青い髪の少女が現れた。二人とも、姿かたちは少年や少女といえるが、その大きさは両手に乗るほどしかない。そのうえ、宙に浮いている。
明らかに人間ではなかった。
「ヴァルティス様、ティティア様……!!」
『シルフィア!』
『やっとこちらの世界に来られたわね』
「わ、わわ……っ!!」
シルフィアの姿を見たヴァルティスは途端に空気を蹴って、腕の中に飛び込んでくる。わたわたと手をのばして受け止めると、シルフィアはほっと息をついた。
いつの間にか周囲に立ち込めていた黒い靄は消えている。ヴァルティスとティティアが現れたときに吹き飛んでしまったのだろう。
『シルフィアのおかげで、わたしたちに祈ってくれる人間が増えたのよ』
『久しぶりのシャバの空気……』
『ヴァルティス、言葉遣い』
以前に会った時と同じ、騒がしいヴァルティスに冷静なティティア。ふたたび彼らの声を聞くことができ、シルフィアからもほほえみがこぼれる。
『それで――』
ティティアは腕組みをし、ぐるりと周囲を見回した。リュートと国王の視線は彼らにそそがれている。
精霊が見えるのだ。
『あまりよろこばしい状況ではないみたいね』
「まさか……本当に精霊なのか?」
『そうだよ。シルフィアはぼくたちが認めた聖女』
『シルフィアのおかげでわたしたちの力はより強くなる。この土地に加護をもたらすこともできるわ』
「……聖女……マリリアンヌではなく、か」
呆然と呟く国王に、ヴァルティスとティティアは揃って首をかしげる。
『だからさぁ……それ、誰?』
『わかりませんね』
「……!!」
精霊たちの言葉に、国王はがくりとうなだれた。
どうあがいてもマリリアンヌが聖女になれないことを悟ったのだ。噂は真実だったのだと国王には理解できた。シルフィアは精霊の力を使い、薔薇を生い茂らせ、リュートの報告によれば枯れかけた畑を復活させた。
民の心がシルフィアに向くのは確実だ。そしてシルフィアと敵対すれば、王家は民の支持を得られなくなる――国王の予想は当たっていた。ただし、国王はまだシルフィアを過小評価していた。
薔薇の一件はすでに王都の民に広がり、商家にもシルフィアの支持者はいたし、シルフィアが畑を救ったという話は村人たちによって徐々に近隣の農村にも語り伝えられていた。
それだけ早く〝聖女の奇跡〟が広まったのは、毎日神殿で参拝者に寄り添い、自ら祈り続けてきたシルフィアの行動のゆえだった。
座り込んでいた椅子から立ちあがると、国王はふらふらとシルフィアに歩み寄った。
シルフィアの手を取り、膝をつく。
「父上?」
「陛下、なにを……!」
「シルフィア、お願いだ」
一気に老け込んだ顔に皺を刻みながら、国王は苦悩の呻きを漏らした。
「アントニオと結婚してくれ」