6.真の聖女の力
翌日、リュートとシルフィアは、幾人かの護衛とともに、とある村を訪れていた。
シルフィアにとっては三年ぶりの外出である。神殿では窓から差す日光も木立をざわめかせる風もあったけれど、大地を踏みしめる感触と全身で浴びる木漏れ日はまた格別だった。
意外にも言いつけを破ったことに対する恐怖はなかった。リュートが隣にいてくれるからかもしれない。
村を訪問しようと申し出たのはシルフィアだった。
以前から神殿を訪れていた老人が、畑の様子がおかしいと不安げに語っていたことを覚えていたのだ。月に一度、農作物を売りに王都へやってくると、老人は必ず神殿を訪れて祈った。老人を心配し、シルフィアも、畑がよくなるようにと精霊に祈っていた。
精霊の力を得たのなら、もっと協力できるはずだ。
「――こんにちは!」
「おぉ、シルフィア様」
「来てくださったのか。ありがたいことだ」
訪れたシルフィアを村人たちが出迎えた。
老人の暮らす小屋には、どこで手に入れたのかシルフィアの配った薔薇が、手作りの器に活けて飾られている。王都に来ていたほかの誰かにもらったのかもしれない。
「あんたはシルフィア様の護衛かい? さすが、凛々しいお姿をしていらっしゃるね」
「シルフィア様をお守りしてくれよ、聖女様だからな」
村人たちはリュートも護衛の一人だと思ったようで、にこやかに話しかけている。リュートもまた話を合わせて、「はい、シルフィア様をお守りします」などと応えている。
(その方は、わたしよりずっと身分が上の方なのだけれど……!!)
シルフィアの背に汗がつたうものの、リュートの身分を明かすわけにもいかない。
「あっあのっ、さっそくですが畑を見せてくれませんか!?」
「もちろんだとも。こちらじゃよ」
あわてて言うと、リュートは意図に気づいて苦笑いをこぼした。
「そんなに私に気を使わなくともいいんだよ」
「ですが……」
もちろん、リュートがこんなことで気分を害するなどとは思わない。だが、自分に付き合わせたうえに、と考えれば気が引けるのだ。
老人に案内され、リュートとシルフィアは村の奥へと進んだ。小屋が集まった広場から少し離れた場所に、開墾された土地があり、畑が広がっている。
けれど、畑には生気がなかった。植えられた種は一応芽吹いてはいるのだが、肩を落とすようにどこかぐんにゃりと萎れて、これから成長していく雄々しさがない。
「これは……」
「以前から実りは悪くなっておったのですが、今年はとくに酷い。これでは花を咲かせることもなく枯れてしまうじゃろう」
シルフィアは目を凝らした。
畑全体に、黒っぽい靄のようなものがかかっている。嫌な感じのする靄だった。
「リュート様……靄のようなものが見えませんか?」
「いや、わからないが……」
村人たちを怯えさせないようリュートだけにこっそり尋ねると、リュートは首をふった。
ならば、あの靄はシルフィアにしか見えないらしい。
靄は畑のむこう側へ行くほどに濃くなってゆく。その先には四方を壁に囲まれた立派な屋敷があった。
「あの建物はなんですか?」
「あれは領主様のお住まいですじゃ。たしか……名はバラクと」
「バラク?」
聞き覚えのある名にシルフィアはおうむ返しに呟き、すぐに思いだした。シルフィアが成長させてしまったあの薔薇の花束の送り主が、カーティス・バラクといった。
領主はカーティスの父か親戚なのであろう。
(黒い靄が、あのお屋敷から染みだしている気がするのだけれど……)
領主の屋敷なのであれば、おいそれと近づくわけにはいかない。
それよりも今は畑を助けることだと、シルフィアは気持ちを切り替えた。
神殿の外で祈ったことはない。神殿から離れて昨日のような力が出せるかもわからない。けれど、神殿にいるときと同じように、シルフィアは精霊の存在を感じた。
(リュート様も信じてくださったのだもの)
目を閉じて祈りを捧げる。
この靄を払い、畑が本来の姿を取り戻すように。精霊の恵みを受け、よりよい姿になるように。
じんわりと、身体の奥からあたたかな力が湧いてくる。
シルフィアは手を差しのべた。
そのとき、シルフィアの全身から光があふれだし、きらきらと輝いた。
目を閉じているシルフィアは自分の変化に気づいていないが、周囲の人々は息を呑む。
「精霊よ、加護を――」
ざあっと背後から風が吹いた。風はくるくると踊るように楽しげに畑を吹きわたり、黒い靄を払っていく。靄の消えたあとは、押しつぶされるようだった芽が生き生きと葉を広げた。
それだけではない。まるでこれまでの遅れを取り戻そうと、畑のあちこちで種は芽吹き、芽は茎をのばし、すくすくと成長してゆく。
わあっと村人から歓声があがる。
「ありがとうございます。シルフィア様」
「やはりシルフィア様は聖女じゃ、奇跡を起こしてくださった」
「ああ。はっきりと見たぞ。わしらもシルフィア様を見習って、精霊へ祈りを捧げます」
「精霊のお力ですわ。でもみなさんのお役に立ててよかったです」
はじめての大役をこなし、シルフィアもほっと笑った。口々に浴びせられる称賛はおもはゆい。
シルフィアにとっては、これは自分の力ではなく精霊の力だからだ。
(精霊と人との橋渡し役に、一歩を踏み出すことができたわ)
こうして精霊を信じ、祈る人々が増えれば、ヴァルティスとティティアにとっても暮らしやすい場所になるはずだ。
(でも……)
一つだけ不安を覚え、シルフィアは畑を眺めた。
精霊の加護を持った風によって黒い靄は吹き払われたが、あのバラクのものだという屋敷の周りだけにはまだ靄がわだかまる。
(この黒い靄はなんなのかしら……)
胸騒ぎをおぼえ、シルフィアはきゅっと拳を握った。
そんな彼女を、リュートは心配そうに見つめている。
「リュート様……お願いがあるのです。わたしをほかの村にも連れて行っていただけませんか。もしかしたらほかでも、同じようなことが起きているのかも……」
「ああ、わかった」
頷くリュートにシルフィアはようやく笑顔を見せる。
「ありがとうございます、リュート様」
黒い靄は恐ろしいが、いいこともあった。シルフィアの力でこの靄は払えるということだ。ならば困っている人々を助けることができるだろう。
そしてシルフィアが力を使うことで、精霊の存在が皆にも伝わる。そうなれば精霊たちへの祈りは増える。
「リュート様。マリリアンヌ様が神殿に戻られて、わたしが不要になったら」
「そんな、君が聖女だと信じると言ったろう。神殿には君が――」
「いいえ、聖女はどちらでもいいのです。むしろ、二人ともなれるのだとわたしは思います。だから」
シルフィアはリュートを見た。
己のやるべきこと、進むべき道が見えた、強い意志を持ったまなざしだった。
「聖女としてではなく、ただの平民としてでかまいません。国内を周り、人々に精霊について伝えていきたいと思います。そうすれば皆様のお役に立てるでしょうから」
「……そうか。君らしいな」
神殿にとどまるよう説得しようとしていたリュートも、ふっと口元をゆるめ、肩の力を抜いた。
そんなリュートをシルフィアは眩しそうに見つめる。
(マリリアンヌ様が戻られたら、お飾り聖女だったわたしの役目は終わり。神殿を離れればリュート様ともお別れになる……でも、少しでもわたしの行動が、国の役に立つなら)
それはきっと、第二王子であるリュートの恩に報いることにもなる。
シルフィアはそう信じた。