変わらない事実
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時は、翼彦と讃良が出会う少し前のことであった。
この頃、現世の長崎に翼彦はまだいた。
河原に入って、腰の位置まで水に浸かって立ち尽くし、手には、原爆で炭化したナミの指を握り締めながら、彼は覚悟を決めていた。
「かの者を常闇のいざなへと導きたもう……」
そのすぐ目の前の岸で、リセが印を結んで奇妙な呪文を唱えていた。
霊媒師特有の呪文なのかは知らぬが、やがて、時が経つと、翼彦の身の回りから赤色の光が現れ、彼を包み込む光景が見えた。
「ぅわっ!?」
その瞬間、翼彦はまるで落ちるかのように、水の底へと引きずり込まれ、消えてしまった。
「なっ……!」
「お、おいリセさん……!」
その光景を岸から眺めていた刑事二人は、翼彦が消えてしまった事を心配に思い、リセに声をかけるが、
「心配ないさ。どの道、もって五分程度であの子は戻ってくる。後は無事に帰って来れるかはあの子次第さ」
「もし、二人とも戻って来れなかった時は?」
「本気で人を助ける事に、いちいち自分の身の心配をする必要があるのかい? あたしはね、今まで他人もまたお互い様だと思いながら生きて、自分の命優先で身を守ってきたが、いざ、他人を助けるときは自分を犠牲にする覚悟で助けてきたのさ」
戦時中の空襲から逃げ、極限の飢えと戦ってきた経験を持つリセのその言葉に、刑事二人は何も言えなかった。
その後、佐野刑事と杉浦刑事は、鍵を手にしながら、リセをパトカーの後部座席に乗せた。
「さて、リセさん。どこに行けばいい?」
「とりあえず、この道の交差点を右に回ってから、しばらく真っ直ぐに進んでおくれ」
ハンドルを持った佐野刑事は、リセの言う通りにパトカーを走らせた。
その間、二人の刑事は目的地に着くまでの時間潰しに、リセと会話を始めた。
「ところでリセさん。さっき、思ったんだが、あの霊は飛行機を見た途端に逃げたが、なんで逃げたんだ?」
「そりゃあ、飛行機が怖いからさ」
リセのその答えに、二人の刑事は耳を疑った。
「飛行機が怖い幽霊なんて、初めて聞いた」
「幽霊にも、怖いものがあるんですね」
二人の刑事が呟くと、リセは当たり前だと言わんばかりに答える。
「少なくとも、あたしらの世代はね、飛行機が大嫌いなんだよ」
「なるほど」
「そういう事ですか」
刑事二人はリセのその言葉に納得した。戦時中の本土空襲に巻き込まれた経験を持つリセとナミにとって、飛行機は何もかも破壊する恐怖の対象であった。
「あいつらはまるで、デカいハエだよ。羽音を鳴らしながらウジャウジャと群がり、爆弾という名の卵を産み落として、町や田んぼを破壊する害虫さ。今でもあのハエみたいな音が大嫌いさ」
太平洋戦争で本土空襲を行った戦闘機と爆撃機、P-47サンダーボルト、P-51マスタング、B-29スーパーフォートレスなど、それらの米軍機に襲われた経緯を持つリセは、あの時代に飛んだ飛行機を害虫のように忌み嫌っていた。
「リセさん。思えば、あんたもよく生きて来られたよな」
「当時、原爆が落ちた長崎にいたんですよね? 被爆症状はなかったんですか?」
「勿論あったよ。これでも後に2回、癌を患ったからね」
リセは手術痕が位置する腹部に手を当てながら答える。
「それは大変だったな」
「やっぱ、被爆って恐ろしいんですね」
「そりゃね。何せ何十年も背負う事になるからね」
放射線の晩発障害による潜伏期間は数十年と言われており、その大半は癌の他にも白血病、白内障、瘢痕性萎縮障害などの病気を患うものであり、いくら原爆の熱線や爆炎から直接逃れられても、当時の長崎の荒れ地を踏んでしまったリセは、その放射線によって健康を奪われ、一生の大半を被爆という拷問に苦しみ、怯える人生を送ってきた。
「思えば、この町も随分と変わったねえ」
リセは窓から長崎の町を眺めながら呟く。
市内を走り回る中、夏祭りが終わっても尚、長崎市は未だに活気に満ちており、パトカーの中から覗くリセの目には、それは昔見た長崎とは、全く別の長崎に見えていた。
原爆を落とした後の面影は当に見えないのは勿論、ましてや原爆を落とされる前の故郷とも違う町であった。
「ある意味、町を変えるのは兵器でなく、時代の流れなのかもしれないよ。だが、いくら町を変えても、結果として被爆までは変える事は出来なかったがね」
リセは夜の長崎市を眺めながら、どこか寂しそうに呟く。
「変わってないのはリセさん。あんたもだろ?」
その時、佐野刑事が口を開いた。
「さっきから、気になってたんだが、俺たちは一体どこに向かってるんだ?」
「それは着いてからのお楽しみさ」
「いえ、そうやって誤魔化そうたって無駄ですよ」
杉浦刑事がそう言うと、佐野刑事は突然ブレーキを踏んでパトカーを止めた。
「俺たちには分かるんだ」
「あなたが適当な道を案内して嘘をついてる事を」
「な、何を言ってんだい……!」
すると、リセは二人のその言葉に動揺する。
「リセさん。いくらあなたが戦争や原爆を経験しても」
「警察の勘はナメちゃあいけない」
二人は後ろで座ってるリセに振り向き、尋問するかのように問い詰める。
彼らは、リセが事件解決の為に協力するフリをしていたのを見破っていたのだ。
「さっき、あの獅童という高校生にナミさんの指を渡したじゃないですか」
「始めから気になってたんだ。そもそも、あれはどこで見つけたんだ? なんであの真っ黒に炭化した指がナミさんのだって分かるんだ?」
刑事二人の質問にリセは押し黙ってしまう。
「リセさん。あんた、本当はナミさんの居所を知ってんだろ?」
「だけど、怖くて言えない。近寄る事が出来ない。そうなんですよね?」
二人のその問いにリセは徐々に身震いする。
「あ、あたしは……!」
よほどトラウマを抱えているのか、まるで幼い少女のようにリセは怯える。
「またそうやって逃げるつもりか?」
「正直に言ってください。あなたは一体どこに行くべきなんです?」
刑事二人は何としてでも、惨劇の夏祭り怪死事件を解決させる為に、リセを問い詰める。