川に潜む手
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翌年 8月9日 長崎市
真夏の蒸し暑さと強い日差しが襲う炎天下、木から鳴り響く蝉の音、道路上で賑やかに走る車の音、交差点や歩道橋で横断し、それぞれ学校や仕事に向かって歩道を歩く人々の足音。
8月15日の夏祭りが近い、この8月9日の日は長崎にとっても特別な日であり、人々の記憶からは消えていっても、事実と痕跡は消えず、人々は過去に生きた人々を哀れんでいた。
そんな長崎市のとある高校から始まる。
キーンコーンカーンコーン
五時間目の授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る頃、女子達の間である噂が広まっていた。
『ねえ、知ってる? 夏祭りのかくれんぼのこと?』
『知ってる知ってる!』
『神隠しに遭う話でしょ? 有名だよ!』
『あるカップルが夏祭りで遊んだ帰りに、川の方から突如、子供の泣き声が聞こえてね』
『最初その二人は、祭りで子供が迷子になったのかと思って来てみると、能面のお面を被った小さい女の子が、川の前でしゃがんで泣いていたのを見つけたんだ』
『で、二人はその女の子を交番に連れて行こうと声をかけるんだけど、女の子がこちらを向いて、笑いながら言うの』
『私は鬼、一緒にかくれんぼしよ? 10数えるから隠れてねと』
『すると、カップルは何処なのかも分からない荒廃した町へと連れて行かれちゃうんだ』
『で、見たこともない町に来てしまったカップルは、怖くなって逃げるんだけども、二人とも途中ではぐれちゃって。彼女の方はたまたま隠れられる場所を見つけて、そこで身を隠して一夜を過ごしたんだ』
『その翌日、彼女の方は何とかその女の子に見つけられずに済んで、元の世界に戻る事が出来たんだけど、彼氏の方は行方不明になっちゃって』
『だけど、その五日後、警察から電話が来て、彼氏が見つかったんだって』
『黒焦げの死体となってね』
「キャー怖〜い!」
教室では、オカルト好きの女子達が怖い話しで盛り上がってる中、真ん中の窓側の席で一人の女子生徒、七瀬讃良が座っていた。
真夏には相応しい、涼やかなショートカットに、白いカチューシャをかけたその女子生徒は、無表情で目に光もなく、ただ無口で静かな雰囲気をしていた。
「讃良、元気ないね」
「前はとてもテンション高くて明るかったのに……」
「誰か声をかけてあげたら?」
「無理だよ。だって讃良ちゃんの……」
「よしなって、本人近くにいるんだから」
「ごめん。でも、なんか可哀想だよ」
周りの女子達が心配そうな目で彼女を見るが、当の本人はそんなのどうだって良い気持ちであった。
彼女はスマホで、ある写真を見ていた。
「なっちゃん……」
スマホの画面には可愛らしい小型犬と楽しそうに笑っている讃良の姿が写ってあり、彼女はその写真をずっと眺めていた。
三日前、彼女の愛犬が死んだ。
一週間前、突如元気がなくなり、最初、彼女はたまたまかと思って放っておいたら、その三日後、容体が急変して苦しみだし、急いで動物病院へ連れて行くと、非常に危険な状態にまで追われ、医師は全力で手を尽くしたが、空しくも愛犬はこの世を去ってしまった。
突然の出来事であった。小学校の頃からずっと一緒だった愛犬が、こんなにも早く別れる事になるなんて夢にも思わなかった。
皮肉にも、最後に愛犬を見たのは、お見舞いに来た時の事であった。もがき苦しみ、呼吸困難に陥る姿が目に焼き付き、彼女はその思い出したくもない記憶を心に刻まれてしまった。
彼女は今、絶望の底に堕ちていた。
「よ、よう七瀬……元気か?」
その時、とある男子生徒が讃良に声をかける。
「獅童君……」
彼の名は獅童翼彦。元陸上部であったが、今は帰宅部へ転部した普通の男子生徒である。
「何? どうしたの?」
興味もなさそうな虚ろな目で見つめる讃良。
「そ、その……」
何やら言いづらそうな表情をしながら頭を掻く翼彦。
「なあ七瀬、こんな時にこんな事を言うのもアレだが、もし良かったら……」
彼は何としてでも勇気を振り絞って、彼女に伝えようとする。
「お、俺と……」
翼彦は目を瞑って想いを伝える。
「今度、俺と一緒に……祭りに行かねえか!?」
思春期真っ盛りの男子生徒は、青々しく想いを一人の女子高生に伝えるが、
「ごめんなさい」
讃良は無表情で即答する。
「今はそういう気分じゃないの」
その一言で、翼彦は愕然とした。
「そ、そうか……悪かったな……!」
トボトボと歩きながら去る翼彦に男子達は「ドンマイ」やら「後でなんか奢ってやる」などと言いながら、肩を組まれる。
「祭りなんてどうでもいい……」
彼女は窓に映る町の景色を眺めながら小さく呟いた。
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その後、部活にもサークルにも入っていない彼女は何事もなく下校していく。
自宅へ帰る途中、彼女は周囲を眺めながら歩いていた。一見すると、いつもと変らない風景だが、彼女にとってはそれらが全て新しく見えた。
愛犬の死は彼女の見る世界そのものを変えてしまったのだ。
讃良は、とある河原の側にある道を歩いてる途中、その川を眺めながら立ち止まってしまう。
「なっちゃん……」
この道はよく愛犬と散歩した場所であり、最初に愛犬と出会った特別な場所でもあった。
小学生3年生の夏の頃、学校帰りにたまたまこの河原の側を歩いていた時、川で子犬が溺れていたのを助けた事がある。
それが彼女の愛犬、夏子であった。
当時の讃良はびしょ濡れのまま子犬を抱えて帰宅すると、最初は親に川へ飛び込んだ事と子犬を連れてきた事で怒られたが、その後、飼い主も里親もみつからない子犬を飼う事を許可してもらい、子犬に夏の日に出会った意味を込めて夏子と名付けた。
それから約八年間、共に幸せを共有しながら過ごしてきたが、今となってはその愛犬も側にはいない。
讃良を残してこの世を去ったのである。
「なっちゃん……なっちゃん……!」
彼女はもう泣き疲れたのに、河原の側で泣き出してしまう。
讃良にとって、愛犬はそれほどかけがえのない存在であった。
モウ、イイカイ?
その時、河原の側で泣いていた讃良の耳元から、何処からか声が聞こえた。
「……グスッ……ん……?」
彼女は一旦泣き止むと、またも耳元から小さな声が囁いてくる。
モウ、イイカイ?
それは川の方から聞こえてきた。
彼女は少し気になり、川に近づくと少し濁った水の底から何かが見えていた。
「なんだろ?」
彼女はしゃがんでよく見えない水の底を覗くと、
サララチャン、アーソボッ!
ガシッ!
その時、水面からいきなり焼けただれた手が飛び出し、讃良の右腕を力強く掴んだ。その手の体温は焼けるように熱く、皮膚は服のように剥がれて筋肉が丸見えになり、蒸気が漂っていた。
「きゃああああ! 誰かぁ!!」
蒸気を纏う焼けた腕に掴まれた讃良は恐怖を覚え、必死に抵抗しながら川から離れようとするが、その得体の知れない手は男並みに力強く、次第に讃良の腕は水に浸かり、川に引き込まれそうになる。
「どうした!?」
そこへ、先ほど教室で会った男子生徒、獅童翼彦が現れ、陸上部で鍛えた足を頼りに全速力でこちらへと走ってくる。
得体の知れない、焼けただれた手は翼彦が近づいてくると、途端に手を離し、水の底へと消えていく。
「大丈夫か!?」
「獅童君……!」
翼彦が讃良の肩を掴むと、彼女は恐怖に怯えながら川に指を差した。
「い、今そこに手が……誰かが私を掴んだの!」
「何!?」
翼彦は川に近づいて覗くが、それらしきものはどこにも見当たらなかった。
「何もないが?」
「ウソよ! さっき本当にいたんだってば!」
そう言うと、彼女は自らの掴まれた右腕を見せて必死に翼彦に訴える。
「おい、大丈夫かそれ!?」
翼彦が何やら驚いてる表情を見た讃良は、ゆっくりと自らの右腕を見下ろすと、そこには手形の火傷跡が不気味に残り、讃良の表情は徐々に青ざめていく。
「ちょっと、待ってろ!」
すると、翼彦はすぐさま自らのワイシャツの一部を破り、包帯代わりに火傷を負った讃良の右腕を巻きつけた。
「とりあえず、病院行くか?」
地面に膝をついてる讃良に声をかける翼彦。だが、彼女は、
「別に良い!」
何かに怯えながら逃げるように、その場から立ち去った。
「お、おい、七瀬!」
走り去っていく彼女の背中を見て、翼彦は後ろの頭を掻きながら呟いた。
「まいったな~。犬が死んで、落ち込んでるのを心配して後をつけてみたが……やっぱり、これじゃあストーカーみたいだよな~」
翼彦には卑しい気持ちも悪気もなかったが、自らの出過ぎた事をその場で反省し、その日は大人しく自宅へ帰ることにした。
モウ、イイカイ
河原のどこからか、子供の声がその場で小さく囁く。