終焉と絆
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ある日、一人の少女が、路上で立ちつくしていた。
――ひっぐ……うぇ……ん……!
泣いていたのは、幼少期のリセであった。
周囲の建物は機銃で撃たれた無数の弾痕が、空襲の激しさを物語っていた。
――どうしたの?
そこにもう一人の少女が現れた。ナミである。
リセは声をかけてきたナミに、泣きながら答える。
――弟が……弟が死んじゃったよ〜!
リセのその手には、布で包めた小さな赤子を抱えていた。
まだ生後、一カ月も経っていないのに、その布は血にまみれており、機銃に撃ち殺された惨たらしさを物語っていた。
――ひどい……。
血まみれの布に巻かれた赤子を見ながら、悲しそうに触れるナミ。
――嫌だよ〜! まだ名前も決めてないのに〜!
リセは最初、弟が生まれて嬉しかった。自分がお姉さんになれる事を心から喜んでいたのだ。
これから先、弟の成長と共に面倒を見てあげられるのを凄い楽しみにしていて、自分が立派で素敵なお姉さんになるのを夢見てたのだ。
しかし、今となっては、その肝心の弟の首は、無惨にも機銃の流れ弾が貫通し、切断同然にもげて、ぐらついていた。
即死であった。
――あたし、お姉ちゃんになりたかった……頼りがいのある素敵なお姉ちゃんになりたかった……あああ……ああああああ〜!
リセは無惨に殺された弟を抱えながら、ただ、泣く事しか出来なかった。
――じゃあさ、私があなたの妹になってあげよっか?
その時、ナミは死んだ赤子を抱えていたリセを抱きしめて、耳元で囁くように伝えた。
――私も、お兄さんがいたけど、兵隊さんになって南方戦線に行っちゃったんだ。多分、もうこの世にはいないけど。
南方戦線の激戦の噂はナミも聞いていた。そして、南方諸島が連合軍によって占領されたという事も。
ナミも唯一、慕っていた兄が戦争に行ってしまった事で、ショックを抱えていた。もっと兄に甘えたかったのである。
だが、その兄は今頃、玉砕突撃の命令を受けて、南の島の地で散ってしまったのは、考えるまでもないぐらい、分かりきっていた事であった。
戦死か自決で兄を失ったのを悟っていたナミは、戦争の影響で厳しく変わり果てた両親と親戚と共に生活していくのに嫌気が差し、誰でも良いから甘えても良い人が欲しかったのであった。
――私ね。お兄さんかお姉さんが欲しかったんだ。だからね。もし、良かったら、私と姉妹にならない?
ナミはリセに義姉妹になる事を求めた。
――弟さんのかわりに、私が妹になってあげるよ。
優しく抱きしめながら、耳元で囁いてくるナミを見て、リセは呟く。
――お姉ちゃんの間違いじゃないの……?
――そんなの関係ないじゃない。
リセは、どちらかというと姉のように慰めてくるナミのその姿に、どうしても妹のように見る事が出来なかった。
――こんな頼りがいのあるお姉ちゃんみたいな妹は嫌だよ。
――良いじゃない別に。
眠るように目を閉じていたナミは、クスッと笑う。
――自己紹介が、まだだったね。
すると、ナミはリセを少しだけ離し、目の前で泣いてる少女の両頬に優しく手を当て、その顔を見つめる。
――私は斎藤ナミ。あなたは?
リセは笑顔で名乗ってきたナミを見ながら答える。
――井口リセ。
それが、彼女らの出会いであった。
それから、二人の交友関係は続いた。
リセは、どうしても姉のように接してくるナミを妹として受け入れる事が出来ず、結局、話し合いの下、二人は友達という関係で留める事になってしまった。
それでも、二人はまるで本当の姉妹のように仲が良く、深い絆が出来たのである。
あれから、七十年以上の時が流れた現在。
今、目の前にその姉妹同然の幼馴染がいる。
「ナミちゃん……やっと会えたね……」
暗い洞窟の中で、リセは目の前で大樹の根に絡まっている黒焦げの少女を見つめる。
「リ……リセ……チャ……ン……?」
すると、黒焦げのナミは目の前の老婆を見て、呆然とする。
「そう、あたしだよ……!」
その時、黒焦げのナミは緊張が解けたかのように脱力すると、まるで人形の糸が切れるかのように、絡まった根から身が崩れ、リセは老体の身でありながらも走り出し、その体を受け止めた。
「ナミちゃん……!」
リセは涙ながらに声を震わす。
「もういいよ……もういいよ…………もう……いいんだよ……」
リセは泣きながら何度も呟くと、黒焦げのナミはわなわなと手を震わしながら、その涙が伝う頬に触れる。
「エヘ……へ……リセ……チャン…………ミィ……ツ……ケ……」
黒焦げの少女は、枯れた声でその名を呼び、無邪気に笑う。
彼女らのかくれんぼは、今ここでようやく終わったのだ。
『リセちゃん――』
その時、どこからか少女の声が聞こえてくる。
『リセちゃん――』
それは、今となってはもう忘れかけていた、かつての幼馴染の声であった。
「これは?」
「テレパシーっていうやつか」
そして、それは、この場にいたリセ以外の四人にも聞こえいた。
『良かった……良かった……!』
ナミは泣いてるかのような声で安心する。
『ずっと心配だった……! どこか怪我がないか心配だった……! でも、やっと見つけたよ……こんなにおばあちゃんになっちゃて……それでも、リセちゃんが生きてて良かった……!』
「ナミちゃん。あたしを恨んでないの?」
リセは安堵するナミに問いかける。
「あの日、私がナミちゃんを見捨てたから、こんな事をしたんじゃないの?」
長年、抱えていた苦悩を打ち明けるリセに、ナミは優しく答えた。
『恨んでなんかないよ。だって、私達、姉妹同然の友達でしょ?』
ナミはこれまでの経緯を話す。
『あの新型兵器が落とされた日、私はこの洞窟にリセちゃんが隠れていると思って、這いずりながら探してたんだよ? 結局、見つからないどころか、途中で洞窟が崩れて、出られなくなっちゃったけど……』
リセは七十年間、この場所で火傷と渇きに苦しみながらも生き続けたナミに悲痛な思いと共に、放っておいて逃げてしまった過ちによる罪悪感を抱える。
『でもね。私は、それでもリセちゃんを見つける為に、必死に生き続けてきたの。リセちゃんが、無事なのかだけでも知りたかったの。ずっと心配してた……』
「ナミちゃん……」
腕にナミを抱えながら見下ろすリセ。
長年、たった一人で過酷な戦後を生き抜き、辛い事を嫌というほど味わって来たリセは、とっくの昔に枯れて果ててしまった筈の涙が止まらなかった。
『だけど、こんなに年月が経っちゃって、もうリセちゃんはこの世にいないと思ってしまって、遂に諦めちゃった。だから、私、自暴自棄になっちゃったのかもしれない……』
長年、瀕死の大火傷を負いながら、洞窟の中で閉じ込められ、誰も助けてもらえず、親友の為に死よりもただ生を求めて、ここまで来たナミもまた、結局は人間であった。
いくら驚異的な生命力があっても、人の尊厳を失った化け物同然の姿をしても、人間は人間である。
過酷な苦痛を味わい、耐え続けてきたナミの心は、とっくの昔に折れてしまったのである。
『死を恐れず敵を道連れにしようとするこの国の人々と、いつまで経っても続くこの勝ち目のない戦争と、町を一瞬で破壊出来る殺戮兵器が存在するこの世界に、私は只々、嫌気が差しただけだったのかもしれない……』
「ナミちゃん。まさか、まだ戦争が続いてると思ってたの?」
『うん。だって、本土決戦の前触れで、あの新型兵器を落としたんでしょ? それで、この国の人々が諦めるわけがないよ。みんな滅ぶのを覚悟で戦ってるんだからさ』
ナミは、未だに日本が終戦を迎えていた事実を知らなかった。
リセは、ボロボロのナミを少しでも安心させる為に、真実を告げる。
「ナミちゃん。安心して。戦争はもう終わったんだよ?」
『えっ……?』
その時、ナミは一瞬、聞き間違えではないかと疑ってしまい、改めてリセに問う。
『ほ、本当に……?』
ナミの言葉にリセは頷く。
「うん。日本は負けちゃったけど、もう、あたし達が戦争に苦しむ時代は、とっくの昔に終わったんだよ?」
ナミは未だに信じられなかった。あの時代にいた凶暴な日本国民と獰猛な日本軍が、戦争をやめるとは、到底思えなかった。
勝ち目のない戦争にたとえ負けても、全ての日本国民が一人残らず死ぬまで戦争を長く継続させるか、国が滅ぶのを覚悟で敵と戦って道連れにするかのどちらかを選ぶかと思っていた。
あの時代の日本を見てきたナミは、祖国のことをそういう風に見て、印象を抱えていた。
だからこそ、リセのその真実をとても受け入れきれる事が出来なかった。未だにナミは、まるで夢を見ているのかと言わんばかりに呆然とする。
しかし、ナミは思った。もし、リセの言葉が真実だったら、これまでリセが生きて来れた事もなんとなく分かる。
もし、連合軍が最終的に日本本土に侵攻して、自決、玉砕覚悟の本土決戦が実現されていたら、今頃、この世にリセは生きていなかったのかもしれない。
でも、事実、目の前には、老婆に変わり果てたとはいえ、かつての親友が生きている。本土決戦は実現されず、日本が降伏したことをナミは悟ってしまう。
あの広島と長崎を滅ぼした殺戮兵器によって。
『うれしい……』
ナミは心の中でそう呟いた。今にも泣きたいくらいの喜びが芽生えた。
『戦争が終わっただけでも、まだこの世界は捨てたもんじゃないんだね。まだ救いようがあるんだねこの世界は……』
過去を変え、世界を変え、時代を変えようとしていたナミは、これまで嫌悪感を抱えていたこの世界を、初めて心の底から祝福したくなった。
「ナミさん……」
讃良とその横にいた三人もまた、心の中で泣きたいぐらいに喜ぶナミの声を聞いて、涙をこぼしてしまう。
『あたし、もう無理に生きなくても良いんだね?』
「うん。もう、あたし達は十分生きたのよ……」
過酷な生き様を乗り越えてきた黒焦げのナミは、安堵しながらリセに呟く。
『リセちゃん。お願いがあるの』
「な〜に?」
リセは彼女の心の声に耳を傾ける。
『何か飲ませてくれない?』
ナミはそう答えた。
「あれからずっと、死なないように水を飲まなかったから、喉がカラカラなんだ。でも、もう私も長くないし、いい加減辛すぎるから、せめて何か飲ませてくれない?」
「分かったよ! 誰か、飲み物を持ってないかい!?」
「自分が」
すると、杉浦刑事が、先ほど水分補給の為に、自販機で買っておいたミネラルウォーターを用意した。
リセはそのペットボトルを受け取ると、キャップを外してナミの口に近づけた。
「さあ、これを飲んで」
ナミの口にゆっくりと水が流れ込む。
ゆっくり、時間をかけて、ゴク……ゴク……と水を喉に通し、その蒸発しきった体を少しでも潤わせる。
そして、半分くらいまで水を飲ませると、ナミはフゥ〜と安心するかのように一息つく。
だが、まだ息があった。
リセは生きてる今の内に、ナミに問いかける。
「最期の別れだよ。何か思い残すことないか言って」
『思い残すこと……』
水を飲み終えたナミは、その視界に走馬灯が流れ始めた。死が徐々に迫ってる証拠であった。
『ミアちゃんはあっちでどうしてるのかな? 今も元気でいるのかな?』
「うん。元気だよ」
死後のミアと電話を交わしたリセは、ナミに告げる。
『会いたいな……また三人と一緒に……』
走馬灯が目に映るナミは、その中で三人と一緒に遊んだ頃の映像に目が付いた。
『そして、たくさん、たくさん……たくさん……』
『遊びたかった……!』
その時、黒焦げのナミの右目から、綺麗で透明な液体が流れ始めた。今さっき飲んで吸収した水分が涙として零れ落ちたのである。
『まだまだ遊び足りない……もっとみんなと一緒に遊びたい……もっとかくれんぼがしたいよ……!』
「ナミちゃん!」
その時、リセは泣き出すナミを見て耐えきれず、その黒焦げの身を抱きしめた。
『もっと、みんなを見つけたい……もっと、みんなに見つかりたい……』
ナミは一番楽しかったかくれんぼに、今更ながらに未練を抱いた。
神社の周辺で遊んだあの日が、教会の近くで遊んだあの日が、学校の中で遊んだあの日が、そして、この山の中で遊んだあの日が、とても恋しかった。
『お腹が空いたままでもかまわない。喉が渇いたままでもかまわない。いつまでも楽しいという日々を続けたかった……』
「ナミちゃん……!」
黒焦げの少女をぎゅっと抱きしめるリセは涙が止まらない。離したくない。ずっと側にいたい。
『そして、何よりも私、リセちゃんの妹になりたかった……!』
すると、今度はナミの片方の左目からも涙が流れ始める。
『リセちゃんに甘えたかった。本当の姉みたいにリセちゃんに甘えとけばよかった……! 頼りがいのある妹でごめんなさい……』
ナミは今の思いをリセに曝け出した。
『怖い……』
焼けただれた手で、リセを抱きしめ返すナミ。
『怖いよ……私、やっぱり死にたくないよ……!』
生きる為に水を拒絶し、安心して死を受け入れようと水を飲んでしまったナミは、今更ながらに死の恐怖を抱えた。
『寂しいのは嫌だよ……孤独は嫌だよ……みんなと別れたくないよ……!』
リセは涙ながらに驚いた。あの姉のように振る舞っていた頼りがいのあるナミが、子供のように怯えていたのだ。
リセは生まれて初めて、姉のように見ていたナミを、妹のように見てしまったのだ。
『ミアちゃんとも、姉妹になりたかった……三人で姉妹になりたかった……!』
ナミは、リセとミアを会わせた三姉妹が揃う夢を見てしまう。もし、違う世界に行ったら、今度こそ三人で姉妹の契りを結んでいたのかもしれない。
しかし、それはもはや、生きて叶う事の出来ない、儚く切ない夢であった。
ナミはその夢が叶えない事が、とても悔しくて、涙が止まらなかった。
しかし、原爆の火よりも遙かに尊い命の灯火が、飲み水によって今まさに消えかかっているのを悟ったナミは、せめて最期くらいは姉妹らしい事をしたいと思い、ある言葉を出してしまう。
『大好きだよ……お姉ちゃん……!』
ナミは抱きしめてくれる老婆を姉と呼んだのである。
「ナミちゃん……大丈夫よ……」
リセは妹の耳元に優しく囁いた。
「アタシ、いつまでも、一緒にいてあげるからね……何せ、ナミちゃんは素敵な妹なんだから……!」
お互い涙を流す二人は、姿や血は違えど、姉妹としての強い絆が、今ここで結ばれたのであった。
「オ……ネ……チャ……ン……」
その時、枯れた素の声で呟いたナミは、それを最期に事が切れるかのように、ガクリと手が崩れてしまう。
「ナミちゃん……!」
リセはナミに声をかけるが、当の本人は何も答えない。
ナミは息を引き取ったのである。
「あぁ……あ……あ……!」
リセは黒焦げのナミを抱き締めたまま泣き崩れる。
洞窟中に、老婆の切ない泣き声が、ただ響いた。
――――――――――
それから四人は、事切れたナミを抱えながら洞窟を出た。
目の前には、夜が明け、長崎市と山中を照らそうとする美しい日の出の光景が目に映った。
「ナミちゃん見てるかい? 夜明けだよ?」
ナミの遺体を抱えたリセは、優しく囁きながらその顔を見下ろす。
「こんなに安らかな顔しちゃって……!」
リセの腕に抱えられたナミは、とても、原爆で被爆した人間とは思えないような安らかな死に顔をしていた。
リセはその死に顔を見て、またも涙を流す。自分でも、なぜ泣いてるのかも分からなかった。
「綺麗だね」
「ああ」
その横にいた讃良と翼彦の二人もまた、その日が昇り始める光景を目の当たりにする。
「これで、全て終わりましたね……」
「ああ、今度こそな……」
この長崎で毎年、人が犠牲になる夏祭りの怪死事件の元凶を断ち切り、事実上、解決した事に安堵する刑事二人。
だが、讃良だけは、素直に安心する事は出来なかった。
「でも、これで良かったのかな?」
「何が?」
俯きながら呟く讃良に、首を傾げながら見つめる翼彦。
彼女のその目は、どこか元気がないように見えていた。
「別に、何でもない」
しかし、彼女は何も答えず、ただ、自らの思いを胸の内に隠してしまう。
結果はどうであれ、讃良は唯一、悲惨な過去と歴史を変えるチャンスを自ら捨ててしまったのだ。
殺戮兵器によって生まれた子達の中の、たった一つの自分の命と存在の惜しさだけで、被爆した50万人以上の人々全てを救える唯一の方法を、彼女は断ち切ってしまった。
(結局、私は核兵器の子だったのね……)
彼女は過去と歴史を変える事を邪魔してしまい、原爆の惨劇を止めないどころか、逆にその殺戮に加担してしまった自分を責めてしまう。
讃良は今更ながらに、大勢の人々を救えず、苦しめる方向に導いてしまった罪悪感を覚える。
「七瀬」
その時、その横にいた翼彦が、彼女の両肩を掴んだ。
「何か悩みがあるなら言ってくれよ」
彼は真剣な目で、讃良を見つめる。
「別に何でもないよ」
「嘘つくなよ。隠しても無駄だって」
翼彦は、讃良が何か深い悩みを抱えている事に気づいていた。
「もう犬が亡くなった時みたいに、一人で思い悩まないでくれ」
「獅童くん……」
讃良は彼のその目を見つめる。
それはどこか寂しく、切なそうな目をしていたが、同時に「お前は決して一人じゃない。俺がいるから。俺を頼ってくれ」というような思いを伝えてるかのようにも見えていた。
彼女はそんな彼を見て、同じ核兵器で生まれたこの人になら、自分を苦しめてるこの悩みを聞いてくれるだろうと思ってしまう。
「分かった。教えるね」
讃良は今ここで、目の前の彼に真実を伝えようとする。
「いや、後がいい。お前、疲れてるだろ?」
ところが、翼彦はその思いを伝えようとする讃良を止めてしまう。
「今聞いてやっても良いが、まずは体を休めてからだ。それからでも遅くないだろ?」
彼は讃良の身を案じて、彼女を休ませる事を優先した。
「じゃあ、一緒に私の家に来てくれる?」
その時、上目遣いで呟いた讃良の予想外の言葉に、翼彦は慌てふためく。
「な、なんで……!?」
「ウチの親、忙しいから、基本、家にいないんだ。心細いし、この悩みを抱えたまま、安心して家で休むなんて出来ないよ」
彼女のその悲しく、寂しそうに見つめてくる目を見て、翼彦は断る事が出来なかった。
彼は一旦深呼吸をする。
何もいやらしい事をするわけではない。
ただ、彼女を家まで送って、布団で休ませながら悩みを聞いてあげるだけだ。
看病みたいなものだ。
そうさ決していやらしい事ではない。彼は自分にそう言い聞かせながら讃良に答えた。
「分かった……送ってやるよ。七瀬」
なんとか平静を取り戻した翼彦は、讃良のその願いを聞き入れ、彼女の家まで一緒に行く事を約束した。
日の出の光が、ようやく長崎市全体とその囲まれた山々に差し掛かり、彼らを照らしたその時、異変が起こる。
ボォウ!!
それは、リセの抱えていたナミの遺体に起きた。
長崎の地を照らす日の光が、少女の遺体に当たった途端、その黒焦げの体が突然、自然発火を始めたのである。
「うわっ!」
突然の自然発火に、リセは驚き、ついその手を離してナミの遺体を落としてしまう。
「ナミちゃん! ナミちゃん!」
炎に包まれるナミの遺体を目の当たりにしたリセは、すぐさま、その炎を払おうとするが、その後ろにいた佐野刑事がリセの肩を掴んで止め始めた。
彼は無言で首を横に振る。手を出す必要はない。そう言ってるようだった。
「う……うぅ……!」
リセは燃え盛る遺体を前にしながら膝を落とし、妹が炎によって葬られる光景を涙ながらに見送った。
「人間の体って、不思議な事が起きるものなんですね」
「ああ、まるで超能力に目覚めたみたいというか、生命の奇跡に目覚めたみたいというか、そんな感じだな」
二人の刑事は、自然に火葬されていく犯人を眺めながら、そう呟いた。
この炎は、かつてあの激動の時代に受けた原爆の炎なのか、それとも人間の超常現象によって生まれた炎なのか、はたまたナミを哀れんだお天道様が与えた炎なのかは定かではないが、少なくとも、ナミを埋葬してくれる何かなのは確かであった。
「人殺しは人殺しだが、頼むから、どうか無事に天国に行ってくれよ……」
「どうか安らかに。ナミさん……」
長年、夏祭りの怪死事件を追っていた刑事二人は、柱のように立ち上がる炎を前にしながら、犯人を優しく見送った。
やがて、炎の勢いが弱まると、ナミの遺体は骨一つすらも残さずに、炎と共に消えてしまった。
原爆の放射線で骨が脆くなった影響である。
原爆は健康や命を奪うだけでなく、遺骨すらも奪うのである。
リセは妹の骨一つすらも手に出来ず、ただ悔しさのあまりに泣き崩れるしか出来なかった。
その後、刑事二人は、妹を失ったリセをパトカーまで連れて行こうとすると、その後ろにいた男女二人は、流れる川を背にしながら隣同士で並ぶ。
「獅童くん」
讃良は隣にいる翼彦を、上目遣いで見つめながら呟いた。
「帰ろっか」
「ああ」
二人はお互い手を取り、指を通すかのように絡めて恋人繋ぎで手を固めた。