尊き生命
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「七瀬!」
洞窟中には、翼彦の声が鳴り響いていた。
「どこだ! 七瀬!!」
彼は必死な思いで、暗闇の中をスマホのライトで照らしながら、讃良を探していた。
「頼むから、無事でいてくれ!!」
彼は精一杯の思いで、叫び続けていた。
しかし、そんな彼とは別に、讃良とナミの二人がいる深層部では、今まさに生贄が始まろうとしていた。
「じゃあ、始めるよ」
心の中の世界で、ナミは讃良に優しく宣告した。
この命さえ奪えば、確実に過去に戻れる。そして、歴史を変えられる。大勢の人々の命が救われる。
ナミはそう思いながら、讃良を手にかけようとし、讃良もまた、それを受け入れようとした。
――獅童くん。今まで助けてくれてありがとう。でも、ごめんなさい。せっかく助けてもらった命なのに、それを踏みにじってしまって……。
――でもね。私たちはこの世界で、生きてはいけない人間だったの……。
――だからね。もう、ここまでにしよ……これで、本当に全てが終わるんだ……。
彼女は眠るように目を閉じると、最期の言葉を心の中で呟いた。
――さようなら……獅童くん……。
すると、現実世界で木の根に磔にされた讃良の体から、いくつもの小さな火が現れ始める。
生贄が始まり、その小さな焔が肉体を喰らおうとする瞬間である。
「七瀬ぇ!! どこにも行くなぁ!!」
その時、翼彦の喉が潰れるかのような大声が、はっきりと彼女の耳元に過ぎる。
「俺は死ぬまで、お前を探し続けるぞぉ!!」
彼は、ただ叫び続けた。
「ぃ……ゃ……」
その時、讃良は心の世界で小さく呟いてしまう。
「私……死に……たくない……」
うっすらと小さく開いてしまうその目からは、涙がにじみ出て、やがて頬を伝うように、こぼれ始める。
「いや……死にたくない……死にたくないよぅ……!」
彼女はまるで子供のように泣きじゃくりながら命乞いをした。
「獅童くんに、会えなくなるのは嫌だぁ……獅童くんと離ればなれになるのは嫌だぁ……」
彼女は翼彦の事を思うと、何故か胸が張り裂けるかのような気持ちに襲われ、その気持ちに耐えられず、今更になって、自分の命が惜しくなってしまった。
「私なんかを本気で想ってくれてる獅童くんの事が、とても興味深い……」
「もっと獅童くんの事を知りたい……! もっと獅童くんの事をからかいたい……! もっと獅童くんの事を弄りたい……!」
「獅童くんの下に、帰りたいよぅ……!」
讃良はそう願った。彼と一緒にいたい。ただ、それだけの思いが強くなってしまう。
『……!』
ナミは先ほどまで生贄になる事を承諾した讃良が、ここに来てまさかの命乞いを見て、内心焦り始めた。
『お願い讃良ちゃん! あなた一人の命で、多くの人々が救われるんだよ!』
「嫌だよぅ……獅童くんと一緒にいたい……獅童くんの側にいたいよぉ……!」
首を横に振りながら号泣し、彼の名を呼ぶ讃良。
『ごめんね……もう、私も体が持たないの』
だが、ナミはそんな讃良の願いを無視し、彼女の頭に手を置いた。
『目を閉じて。出来るだけ苦しまずに、逝かしてあげるから』
ナミはそう言うと、讃良は子供のように泣きじゃくりながら、目を閉じる。
そして、ナミは讃良にとどめを与えようとする。
『なんで……?』
ところが、ナミに変化が起きた。
『なんで? なんでなのよ!!』
ナミは片手で頭を抱え始める。
『どうして、こうなってしまうのよ!!』
少女は激しく動揺すると、やがて、号泣する讃良を見つめながら呟く。
『どうしても……讃良ちゃんを……殺せない……」
ナミは悔しそうな表情で、涙をこぼしてしまう。
少女もまた、ここに来て、子供のように泣きじゃくる讃良を見て、手にかけるのを戸惑ってしまったのだ。
ナミは讃良の命が、尊く感じたのである。
『私には、やらなきゃいけない役目があるのに! 私には、平和な世界を作る義務があるのに!』
真っ白な異空間の中で、喉が張り裂けるような大声を響かせるナミ。
『讃良ちゃん一人の命だけで、どれだけの人々が救われる事か! どれだけの人々が助かる事か! 今更、ここでやめるわけにはいかないのよ!』
心の世界で、激しく取り乱すナミ。
『ここで、やめてしまったら、これまで生贄にしてきた人達の犠牲が無駄になっちゃうんだよ! それは絶対にさせない!』
ナミは葛藤に苦しみながら、なんとか讃良に手をかけようとする。
『私は、ただ、友達を救いたい! 友達に会いたい! そして、人々を救いたいだけなのよ!!』
「私も……獅童くんに会いたい……この世界にしかいない獅童くんと一緒にいたい……」
讃良のその言葉に、ナミは訴えるかのように自分の思いを強くぶちまけた。
『私だって、この世界でリセちゃんにずっと会いたかった! でも、もう会えないのよ! もうこの世にはいないんだから!!』
真っ白な異空間で、ナミの叫び声が響く。
「それは違うよ。ナミさん……」
その時、讃良は呟きながら、それを否定する。
「さっき、過去を変えるという事で、私はそれに賛同しちゃった。過去さえ変えれば、全てが解決出来ると……だから、さっきは別に何も言わなくても良いと思ってた……」
「でも、この今の気持ちで気づいちゃった。ナミさんには過去を変えるよりも、もっと大事な事があると……」
胸に手を当てながら呟く讃良の言葉に、ナミは理解が追いつかなかった。
『えっ……? 何を言ってるの……?』
ナミは疑問に思うと、讃良は小さく答えた。
「リセさんは、まだ生きてるよ」
その瞬間、ナミの思考が停止し、その場で呆然と立ち尽くしてしまう。
『嘘よ……』
ナミはそれを否定した。だが、讃良はなんとしてでも真実を受け入れて貰おうと、伝えようとする。
「嘘じゃないよ? 今あなたの元に来てるんだよ?」
すると、ナミの体が突然震え始める。
『嘘よ……そんな……自分が、命乞いをする為の言い訳なんて……』
「嘘じゃないよ。今まさにリセさんが来てるんだよ? 残り少ない寿命で、あなたに会おうとしてるんだよ?」
『やめてぇ!!』
その時、ナミは両耳を塞いでしまう。
『ここで終わってしまったら、私がこれまで生贄にしてきた人達はどうなるのよ!? あの人達の犠牲はどうなるのよ!!』
またしても、訴えるかのように叫びだすナミ。
「山神様に託されたこの役目はどうなるのよ!? 私には歴史を変え、優しい世界を作らなければならない義務があるのに!!」
「だったらナミさん。あなたは本当はどうしたいの……?」
その時、讃良はそんな取り乱しているナミに問いかけた。
「過去を変えるとはいえ、何度も何度も過去を変えて作った世界で、リセさんとナミさんに会おうとする」
讃良は平和な世界で、三人の少女達が会える瞬間を思い浮かべる。
「でも、本当にそれで良いの? この世界にいるリセさんを放っておいて、新しいリセさん達に会って、あなたは本当にそれで満足出来るの?」
『そ、それは……』
ナミの心が揺らいでいく。
「ナミさんは、原爆が起きたこの世界に全く未練がないわけじゃない! 過去に戻れず、やむを得ず未来に足を踏み入れてしまったかぎり、人は必ずしも、どこかしらに未練が潜んでいるのよ! 気づかないだけで!」
讃良のその言葉は、ナミの胸に響き、まるで射抜かれたかのような思いを感じてしまう。
「同じ世界で生きた本物のリセさんに会うべきなんじゃないの?」
讃良は涙を滲ませながら、ゆっくりとナミに近づく。
「あなたは、どっちが欲しいの?」
「新しい友達? それとも今の友達?」
彼女は目の前にいる少女に、優しく問いかける。
『私……やっぱり、この世界の……リセちゃんに……会いたい……』
ナミは泣きながら、小さく答えた。
『会いたかった……ずっと、リセちゃんに会いたかった……七十年間も……!』
ナミもまた、もう耐えられないと言わんばかりに号泣する。
『リセちゃんに会いたい……会えないまま、遠くに行っちゃうのは嫌だよぅ……!』
「私だって、獅童くんに会いたい……会いたいよぅ……!」
二人はその異空間の中で、泣きじゃくる子供同然のように喚いてしまう。
いくら、核兵器によって生まれたとはいえ、本来、存在しない筈の命とはいえ、結局は同じ尊い命には変わらない。
生まれてしまったものはどうあっても仕方がない。原爆の殺戮がきっかけで、この世に生まれてしまった讃良もまた、原爆の被害者であったのだ。
命とは、きっかけで生まれるものであるが、それを責めることは誰にも出来ない上に、その存在を否定する事も出来ないのである。
この世に生まれてしまったかぎり。