現世の長崎
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歴史の光景が流れるその世界から離れていった讃良は、やがて、長崎の空が映る浦上川の水面を目の当たりにすると、彼女は黒焦げの翼彦の頭を胸で抱きしめながら浮上する。
「ぶはっ!」
水面からようやく顔を出した讃良は、大きく息を吸った。
「ハァ、ハァ……!」
辺りを見回すと、そこは讃良がよく知る長崎市であった。まだ交通量の多い道路から聞こえる車の音が耳に過ると、彼女はようやく現世の世界に帰れた事を実感する。
「そ、そうだ! 獅童くん!」
だが、讃良はすぐさま一番優先しなければいけない事を思い出す。
全身、大火傷で瀕死の重傷を負った翼彦を、一刻も早く救急車に運ぶ為に、彼女は翼彦を岸まで引き上げた。
「えっ……?」
ところがその時、讃良の目の前には、思いがけないものが映った。
それは先ほど負っていた黒焦げの火傷が徐々に治癒されていき、全身に張り付いていた蛆虫がポロポロと落ちて塵と化し、放射線で被曝した皮下出血の赤い斑点すらも消えていき、健康的な肌をした翼彦の姿が現れた。
「ん……ん……? あ、あれ……? どういう事だ……?」
黒焦げ人間から、なぜか元の姿へと戻ってしまった彼は、ようやく目覚めると、自らの手と体を見て、異変に気づく。
「熱くない、痛くない、苦しくもない、それに目が見える……!」
彼のその目は、白内障に侵されておらず、彼の視界には讃良の姿がはっきりと映っていた。
「俺、確か……あの時……」
翼彦は、夢を見てるのかと言わんばかりに、自らの顔を手で触りながら確認する。
火傷の跡はもちろんの事、被曝による症状すらも一切消えていた。
「獅童くん……」
バチン!
その時、翼彦の頬に彼女のビンタが炸裂した。
「バカッ……バカァ……!」
彼女は涙を浮かべながら、厳しい目で睨みつける。
「な……七瀬……!?」
いきなり頬を叩かれて、唖然とする翼彦。
「大っ嫌い……獅童くんなんか大っ嫌い……!!」
まるで、訴えるかのようにぶつけてくる彼女のその言葉が、翼彦の胸に突き刺さった。
「私、獅童くんの事、絶対許さないんだからね!!」
強い口調で言い放った讃良の言葉に、翼彦は上の空で思った。
(あ〜あ、フラレたな……)
彼はそう思いながら、やってしまったなと言わんばかりに溜息を吐く。
(でも、まあいいか。七瀬、お前が無事でいてくれて何よりだ……)
しかし、彼はフラれた事をこれっぽっちも後悔してなかった。
(七瀬、いつか俺よりも、良い男を見つけろよ……)
翼彦はそう思いながら、彼女に呟く。
「良いよ。俺は嫌われてもかまわない」
「そうじゃない!」
その時、讃良は突如、翼彦に飛びかかるように抱きつき、その胸に泣き顔を埋め、グリグリと押しつけた。
「お、おい……七瀬……!」
翼彦は突然、抱きついてきた讃良を見下ろしてしまう。彼女の柔らかい感触と温もりが体に伝わり、その頭部を押し付けてる胸から吐息がくすぶり、彼は顔を赤くする。
「凄く怖かったんだから! 獅童くんがあんな姿になって……!」
彼女は先ほど悪霊の手によって自然発火され、黒焦げ人間と変わり果てていく翼彦の姿が、今でも脳裏に焼きつき、深いトラウマを抱える。
「怖かった……怖かったよぉ……!」
「わ、悪かった……!」
翼彦は自らの胸の中で、泣きじゃくる讃良に謝罪した。
「もう二度と、あんなことしないでね……!」
「でも、ああでもしなきゃ、七瀬が……」
「嫌よ……! なっちゃんに続いて、獅童くんまでいなくなるなんて……!」
その時、翼彦は悟った。先ほど、讃良を守る為に自分を犠牲にする事が、一体どれだけ彼女の心を傷つけた事か、どれだけ怖がらせてしまった事かを自覚し、彼は自らの過ちを反省した。
「ごめん……七瀬……」
彼はまたも彼女に謝罪し、その頭に優しく手を置く。
それからしばらくして、10分ほどその状態が続くと、翼彦はここで口を開く。
「あの、悪いけど、そろそろ離れてくれないか?」
「イヤ、絶対離さない」
讃良は、まるでふてくされるように即答すると、翼彦はそれに困惑する。
「な、なあ……?」
「イヤ」
「な、七瀬……?」
「絶対イヤ」
彼に抱きつき、胸に顔を押しつけた状態で即答する讃良。
彼女は相当怒っているようであった。
翼彦は、このあと一体どうすれば良いんだろうと頭を掻きながら悩んだ。
すると、讃良はここで呟く。
「獅童くん、私達、助かったんだね」
まるで、子供が安心して眠るかのように呟く讃良に、翼彦は答える。
「ああ……」
頭を優しく撫でながら呟く翼彦に、讃良は安心感を覚える。
「全て、終わったんだね」
しかし、その時、彼女のその言葉に、翼彦はある大事なことを思い出した。
「いや、まだだ」
「え?」
翼彦は胸の中にいる讃良を見下ろしながら、真剣な目で答えた。
「まだ終わってない」
彼のその言葉が耳に過った途端、讃良は一瞬思考が止まる。
「詳しい話は後で言うが、この惨劇のかくれんぼは、まだ終わってないんだ」
彼はこのあと、井口リセと刑事二人に合流して、彼らと共に事件解決の為に協力しようと考えていた。
今も尚、原爆の炎と熱線によって、重傷を負い、苦しみ続けている悪霊の本体、斉藤ナミという名の黒焦げの少女を見つける為に。
元の世界に戻れても、この夏祭りの夜のかくれんぼは、まだ終わってなかった。
「いいか、よく聞け七瀬、お前はこのまま家に帰ってくれ。後の事は俺がやるから」
翼彦は讃良の華奢な両肩を掴みながら、言い聞かせた。
「イヤよ」
ところが、讃良は即答した。
「は?」
その時、翼彦は思いもよらなかった彼女の答えに、一瞬静止してしまう。
「獅童くん、また私を守る為に、何か危ない事をするんでしょ?」
「そ、それは……!」
彼はすぐさま否定しようとするが、讃良は彼のその図星を見抜いた。
「ふざけないで! 私、さっきの事、まだ怒ってるんだからね!!」
讃良は怒りを露わにしながら迫ると、翼彦は彼女のその勢いに押される。
「確かに獅童くんがいなかったら、私はもうあの世界で死んでたかもしれなかった」
「な、七瀬……!」
「だけど、またさっきみたいに無茶な真似をするんでしょ!? 私、絶対、獅童くんから離れないからね!」
何がなんでも側を離れないと迫る彼女に、翼彦はある手段を取った。
「七瀬、なんか俺はお前が嫌いになった! だから、もう近寄らないでくれ!」
彼は讃良の事を嫌いだと言って、彼女を引き離す方法を取った。
「お前を見てると虫唾が走るんだ!」
彼女を傷つける行為ではあったが、翼彦は彼女を守る為に、これ以上、事件に巻き込ませない為に、自ら嫌われ役を演じた。
だが、それでも讃良は、一切動じなかった。
「下手な芝居はやめて! じゃあ、さっきの告白は一体なんだったのよ!?」
「あれは取り消しだ! もうお前の顔なんか、二度と見たくない!」
「ほんと嘘が下手なんだね! 顔に出てるわよ!?」
浦上川の岸で喧嘩する二人は、お互い一歩も退こうとしなかった。
「良いから、黙って帰れ! 俺の事はほっとけ!!」
翼彦は渾身の思いで怒鳴りつけると、ここで讃良は勢いに負けてしまい、後ずさってしまう。
流石に言いすぎたと感じた始めた彼だが、それでも讃良を危険な目に遭わせない為に言い聞かせた。
「この事件に、もうこれ以上、お前を巻き込ませたくないんだ!」
「し、死んでも絶対離れないからね! 私には、もうなっちゃんが、いないんだから! もう獅童くんしかいないんだから!」
だが、讃良も負けないと言わんばかりに迫る。両者は一歩も引こうとしない。
だが、その時、
♪〜 ♪〜
どこからか、スマホの着信音のメロディが聞こえる。
「な、七瀬からだ……!」
それは彼女の持っていたスマホからその音が流れていた。
「なんでまた……!」
二人は驚きを隠せなかった。先ほど電源を切ったはずのスマホから、また着信音が鳴る事に。
彼らは、先ほどの喧嘩の熱が、あまりの恐怖によって冷めてしまう。
讃良はおそるおそる、着信音が流れるスマホを取り出す。
「お、おいやめろ!」
翼彦がそれを止めようとするが、時は既に遅く、讃良は通話ボタンを押してしまった。
「もしもし?」
彼女は受話器に耳を当てて、通話を始めると、
「誰……?」
それは、讃良も知らない、初めて聞く声が受話器に流れていた。
「誰なの、あなた……?」
彼女は不安気な表情で、電話越しの相手に問い詰めると、受話器からは、少女の笑い声が漏れ始める。