三途の浦上川
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その後、彼らは廃墟の病院から出ていくと、長崎市の浦上川へとやってきた。
かつて、被爆者の水死体に埋もれた死の川である。
「とりあえず、時間がないから、聞いてくれ」
リセの言う通り、もって僅かで現世に帰ってしまう翼彦は、川の側で讃良に言い聞かせる。
「俺をここに送ってくれた協力者が言うには、この世界はあの長崎原爆の被害者の一人である、斉藤ナミという少女の悪霊が作り出した世界らしい」
「原爆? じゃあ、やっぱりこの世界は……!」
「そう。1945年、8月9日、あの長崎原爆を再現した世界だ」
讃良は、翼彦が口に出したその真実に息を呑む。
「七瀬は運悪く、あの悪霊に目をつけられて、ここに連れて来られたわけだが、ここから全く帰れないというわけでもないんだ」
「ほ、ほんとに……?」
彼のその言葉に、讃良は唯一の希望が芽生える。
「七瀬、確かお前は、あの悪霊に捕まって、川に引きずり込まれてこの世界にやって来ただろ?」
「うん……」
「つまり、この世界の川は、現世と繋がってるんだ。だから、あの悪霊は現世を行き来でき、人々を連れ去る事が出来るんだ。それを利用する」
翼彦は真剣な眼差しで、讃良に言い聞かせる。
「いいか、よく聞け七瀬。川に入るんだ」
「え……?」
その時、讃良は彼の言葉に耳を疑い、一瞬静止してしまう。
「協力者が言うには、この浦上川に入れば、元の世界へ帰ることが出来るんだ!」
彼が指差す川に目を向けた讃良は、背筋が凍り始めた。
「こ、この死体の川に入るの……?」
「そうだ」
人間の油と水死体が浮かぶ浦上川で、先ほど多くの屍に襲われた讃良は、その場で身震いする。
「そんなの危ないよ!」
「だが、どの道、他に方法はないんだ!」
翼彦は、あと僅かで現世に戻ってしまうが、讃良は違う。彼女を現世に連れ帰るには、このゾンビのような屍が大勢潜んでいる川に入る以外、他になかった。
「頼む。俺を信じてくれ」
「で、でも……!」
「大丈夫、俺がずっと七瀬の側にいて守ってやるから」
讃良は自らの肩を掴んで、優しく言い聞かせてくる翼彦のその真剣な眼差しに、彼の本気を悟った。
肩に掴まれたその手は、どこか力強く、どこか優しい温もりを感じる。
「わ、分かった……」
讃良は遂に決心し、死体の川に入る事を承諾する。
「でも、獅童くん約束して。絶対、私の側から離れないでね?」
「ああ、もちろんだ! 絶対、約束する!」
こうして、お互い了承した彼らは、ゆっくりと浦上川に近づく。
「い、行くよ……!」
讃良は恐る恐る、その流れる川の水に足を入れようとしたその途端、
「きゃぁ!」
突然、水面から無数の焼けただれた手が、まるで林が生えるかのように現れ、讃良はそれを見て驚く。
「あっち行けお前ら!」
その時、翼彦はその辺に落ちてた鉄パイプを手に持ち、その数多くの屍の手を、林を払うかのように振り回しながら、水死体の手を退ける。
「心配ない! 俺がついてるから!」
翼彦はそう言いながら、讃良の手を掴みながらエスコートして、林のような屍の手を鉄パイプで払いながら、浦上川の中央付近へと近づく。
やがて、水死体の群れは翼彦に怯えたのか、彼らから離れてしまい、二人は浦上川に呆然と立ち尽くす。
「本当にここでいいの?」
「その筈なんだが」
水に浸かっても、一向に元の世界に戻れない二人は、徐々に不安を抱える。
その時、
モウ、イイカイ?
突如、どこからか少女の声が、二人の耳に過ぎった。
「えっ……!?」
「なっ……!?」
二人はその聞き覚えのある声に警戒し、周囲を見渡すが、辺りは水中に潜んでいる屍以外、誰もいない。
モウ、イイカイ?
だが、声は確実に聞こえる。近くにいるのは間違いない。
「は、早く隠れなきゃ!」
「隠れるたって、もう潜るしか他にないぞ!」
見晴らしの良い浦上川に浸かっていた二人が取るべき最後の手段は、川に潜って身を隠すことであった。
「息は続きそうか?」
「何とかやってみる!」
以前、陸上部にいた翼彦は肺活量には自身はあるものの、彼は帰宅部の讃良が果たして、悪霊が去って行くまで息が持つかどうか心配であった。
モウ、イイカイ?
だが、今はそんな事を考えている場合でもなかった。翼彦は早く身を隠すために、讃良を信じることにした。
「苦しくなったら、いつでも俺の手を強く握って、教えてくれ!」
彼は讃良の目を見ながら、その細い手を強く掴むと、内心、息を止めるのに自信がなかった讃良は、その場で覚悟を決める。
「いいか? いっせーので、いくぞ!」
「う、うん!」
二人はその場で屈み、長時間、川に潜る体勢を取る。
「いっせー……」
ザッパーン!
「バァア!!」
だが、その時、二人が今まさに水の中へ潜ろうとした瞬間に、それは突如起こった。
二人のすぐ真下にある水面から、あるものが飛び出して現れたからである。
彼らはその光景を目の当たりにして絶句する。
その正体は、あの能面のお面を被った不気味な少女、すなわち鬼が現れたのであった。
「キャハッ! キャハハハハハハ!」
鬼役の少女は笑いながら、翼彦に目線を合わせる。
「マズ、ヨクヒコクン、ミーツケ!」
少女が宣言して、凍り付いた翼彦はその時、ある決断をする。
「すまん、七瀬!」
なんと、彼はいきなり讃良の体を手で突き飛ばして、その場から離れさせたのであった。
「キャッ!」
乱暴に押し飛ばされた讃良は水の上で勢いよく転ぶと、翼彦は力任せに鬼役の少女の小さな体に、腕を回して動きを封じる。
「走れ七瀬! 逃げるんだ!」
抱きつくようにガッチリ固めた翼彦は、少女の目線を讃良に向けないように、腕と体で顔を覆わせながら、彼女を逃がそうとする。
「な、何を言ってるの獅童くん!?」
讃良は彼のその思いがけない行動に驚愕する。
「早く行け! 俺がこいつを抑えてる間に、遠くへ逃げるんだ!」
彼は自らの命を犠牲に、讃良を救おうとしていた。
「おい鬼! お前なんかに七瀬を触れさせないからな! 俺が相手だ! 俺を連れて行け!!」
一見、男らしい行動をしてるようだが、彼のその強い声は若干震えていた。翼彦は内心怯えていた。
そんな彼を見た不気味な少女は、胸の中で翼彦に問う。
「ヨクヒコクン、本当ニイイノ?」
少女もまた、我が身を犠牲にしてまで、他人を守ろうとする人間をこの滅亡の世界で初めて見たようであり、内心ほんのちょっと狼狽えていた。
少女は、恐怖のあまりに体を震わしている翼彦を見上げると、彼は強く答えた。
「ああ、地獄だろうと、原爆を落された長崎だろうと、どこへでも連れて行け! もうお前の好きにしていい!」
そんな自らを犠牲にしようとする翼彦を見た讃良は、彼の命がけの行動に納得が行かなかった。
「いや! やめてよ獅童くん!」
讃良は翼彦に必死な思いを伝える。
「私のこと好きなんでしょ!? だったら、私と一緒に元の世界へ帰ろうよ! 私のために生きてよ!」
「もう遅い! 俺は帰っても、もうどの道、助からない。見ろ……」
すると、翼彦の体に異変が起こり始めた。
「ゥオェ!! クソ……!」
ひどい嘔吐が始まり、髪がズルッと抜け落ち、顔中には皮下出血の赤い斑点が浮き出し、歯茎からは出血が流れ、目は白内障を起こしていた。
原爆の被曝症状であった。
「どういう訳か分からないが……こいつを抑えてしまった時点で……既に俺は被爆してしまったみたいなんだ……!」
「そ、そんな……!」
讃良は翼彦のその被爆した姿を見て、悲鳴を上げそうになった。
「ヨクヒコクンハ、死ヌノガ怖クナイノ?」
不気味な少女は首を傾げながら、翼彦に問いかける。
「怖いさ。もちろん怖い……だが、七瀬を失うぐらいなら、俺はどうなったって構わない! これだけは、絶対に失いたくないんだ!」
彼は優しい笑顔を向けながら、鬼の少女に答える。
「七瀬を……愛してるからな……」
被爆した翼彦のその姿と覚悟を決めた言葉に、少女は笑い始める。
ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ
不気味な少女のケタケタと狂った笑い声が、滅亡の長崎全体に響いたその時、翼彦の体にまたも異変が起こる。
彼の体中のあっちこっちから、太陽のような強い光の熱線が溢れるように現れ、突然、自然発火を始めたのである。
「う、うわっ! ああぁ!! ぎゃああああああああ!!」
彼はその全身から燃え上がる炎を払いながら暴れ回る。
「い、行けぇ七瀬!! 俺を捨てて……早く逃げるんだぁ!!」
「いや……いやぁ……!」
讃良はその光景を見て、恐怖と絶望に歪むあまりに、足が震えて動けなくなり、涙がこぼれ落ちる。
「コ、コロ……セ……コロシテ……クレ……! タ、タノ……ム……ダレ……カ……オレヲ……ハヤク……コロシテ……クレ……!!」
炎と熱線は容赦なく翼彦を襲い、彼の体は徐々に皮膚が溶け、眼球が丸出しになり、焼き魚のような白い目と化し、全身の水分が焼き肉のように蒸発し、やがてその肉体は黒焦げの人型へと変わり果てていく。
「いやぁああああああああああああああああああああ!!」
讃良は今まさに目の前で、生きたまま焼き殺されていく翼彦を見て絶叫する。
誰も助けは来ない。鬼の容赦ない処刑が、かくれんぼの罰ゲームとして翼彦に与えられ、その体に刻みつける。
――ダメだよ。君はここで死ぬべきじゃない。
その時、どこからか声が過った。
――あの激動の時代がきっかけで、生み出されたこの世界で、君達が犠牲になる必要はないんだよ。
それは、とても可愛らしい女の子の声であった。
「え? なに……?」
讃良は突如聞こえたその子供の声に反応したその時、翼彦の体にまたも異変が起こる。
「グッ…………ガッ…………!」
それは、全身から溢れ漏れるかのように包まれた熱線と炎が、徐々に消え始めたのであった。
「エッ……!? ナンデ……ドウシテ……!?」
不気味な少女は意志に反して消えていく炎と熱線を目の当たりにして、一体何が起こってるのか分からないと言わんばかりに動揺する。
――ナミちゃん。君にこの二人を傷つけさせない。
声の主は、何やら不思議な力で、鬼の悪霊を妨害して、翼彦の処刑を止めようとしていた。
「こ、これは……?」
讃良はその炎と熱線が消えていく翼彦を呆然と見る。
「ダ…………レ……ダ…………?」
全身、黒焦げ人間と化して、煙を上げながら水に浮かぶ翼彦はまだ息があり、ワナワナと手を動かしながら、その声のする方へと耳を傾ける。
「だれ? 誰が私達に声をかけてるの……?」
讃良は辺りを見渡しながら、その声の主を探す。声の大きさからして、そう遠くにいないのは間違いなかった。
――ここだよ。
そしてその声は、讃良の持つ水袋から聞こえてきた。
「え? まさか……あなたなの!?」
それは、先ほど祭りで、翼彦から貰った金魚であった。
――当たり!
金魚は明るい声で答える。
――ナミちゃん。君が今も痛くて辛くて、水を求めてるのは分かる。でも、君が本当に見つけるべき人は、この二人じゃない筈でしょ?
「オ、オマエ……ナンカニ……ピカドンガ……分カル……カ……!!」
その時、不気味な少女の体から、計り知れないほどの殺気が放たれ、讃良はそれに圧倒され、今にも殺されそうな恐怖を感じて怯える。
ピカドン。それは原爆が投下された当時、被害者の間でそう呼ばれた原爆の呼び名である。
――僕は、この二人を守る!
すると、浦上川に異変が起きた。
浦上川が急激に増水し、上流からはまるで豪雨が降って出来たかのような波が流れ、彼らに迫った。
「な、何……!?」
讃良はその光景を見て、水の恐怖を覚え、悪霊もまた、その迫りくる水の流れを目の当たりにして取り乱す。
「イヤ! 邪魔シナイデ! マダ……」
だが、その瞬間、彼らはその波に呆気なく飲み込まれてしまった。
その流れの勢いにより、悪霊だけが不思議と引き離され、下流の奥まで流されてしまう。
後に残ってしまった讃良と翼彦は緩やかに流され、彼女の手に持ってた水袋の紐はその勢いで解けると、金魚はそのまま泳ぎ始める。
「あ、あれ……? 息が出来る……」
更に不思議な事に、讃良は水の中にいるものの、何故か呼吸が出来て、声も出せた。
――その人を引っ張りながら、僕に着いて来て。
金魚は讃良の目前に迫って、声をかける。
「き、金魚が喋ってる……!」
讃良は会話を交わしてくるその金魚に驚きを隠せなかった。
――お姉ちゃん。早く!
「う、うん……!
彼女は頷くと、隣で浮いていた瀕死の翼彦の手を掴んで、引っ張りながら金魚の後を追って泳ぎ始める。
金魚は川の奥底まで潜り、彼女はそれに続くと、周囲の景色はやがて、黄色へと変わり始めた。
「何、ここ……?」
讃良は見たこともない景色に目を通すと、やがてそれは、その時代に起こった歴史の映像へと変わり、まるで川のように流れていく光景を目の当たりにする。
1945年、7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州ソコロのアラモゴード砂漠で、世界初の核実験、トリニティ実験による爆発の様子が現れる。結果、マンハッタン計画は成功する。
最初の名は『ガジェット』。核兵器の時代が、幕を開けた。
そして、それはすぐに日本の本土空襲に使われ、同年、8月6日、広島に『Mark1・リトルボーイ』が、8月9日、長崎に『Mark3・ファットマン』が投下され、死者20万人以上の殺戮を起こした。
その5日後の8月14日、一月前から発令されたポツダム宣言が受諾され、日本が計画していた本土決戦を見事に踏み躙り、その翌日、終戦となる。
だが、それは核と戦争の終わりを告げるきっかけには、ならなかった。
その翌年、ビキニ環礁でクロスワード作戦により、更なる核実験が始まり、その八年後のキャッスル作戦で広島の1000倍の核出力を誇る水爆実験が行われ、地球上の母なる海に水柱を立たせた。
やがて、冷戦が起きると、キューバ危機が迫り、核ミサイルの睨み合いが始まり、危うく世界を滅亡へと導く核戦争が起こる寸前まで達してしまった。
「まるで世界が悲鳴を上げてるみたい……」
映っていたのは核兵器だけではなかった。
戦争に勝利し、狂うように栄光を掴む民衆の歓声、空襲や虐殺により、絶望と恐怖に歪んで狂い出す民衆の悲鳴。
または太平洋戦争や朝鮮戦争、ベトナム戦争などに参戦してる多くの兵士達の様子なども映り、銃弾が飛び交う戦場で兵士達の雄叫びが響く。
激動と混沌の時代が戦争を生み出し、戦争の犠牲が人類に核兵器を作らせるきっかけとなった。
暴走する人類こそが、世界を震わせ、神や聖母すらも恐れる対神兵器を作り出したのであった。
「世界って、こんなにも怖いんだね……」
讃良はそんな歴史の光景を目の当たりにすると、嫌でも胸が締め付けられるような思いを抱く。
――止まっちゃダメ! 早く着いてきて!
いつの間にか、その場で止まって、歴史の光景を観賞してしまった讃良は、ようやく正気に戻ると、金魚はもう既に遠くまで離れてしまった。
「いけない! 私ったら……!」
讃良はすぐさま翼彦の手を引っ張りながら、金魚の後を追う。悲鳴や雄叫び、民衆の歓声、銃声や爆音などが流れる歴史の光景など、もう無視して泳ぎ続ける。
「獅童くん、大丈夫?」
讃良は後ろ目で、鯉のぼりのように体を揺らめかせながら、引っ張られる翼彦を見て問いかける。
「……ゥ……ゥゥ………………」
全身黒焦げとなっていた翼彦は力のない声で呻く。体中には、いつの間にか蛆虫が集り、彼の体を貪っていた。
重傷を超えて、瀕死の状態になっている彼は、明らかにいつ息が絶えてもおかしくはなかった。
「もう少しだけ、頑張って!」
彼女はそのボロボロに焼けただれ、血と肉汁が混じって滑りそうになっている手から離れないように指を絡め、恋人繋ぎで握って固めた。
手には、感触の悪い違和感を覚えるが、そんなのお構いなしであった。
――ここだよ。
すると、金魚は目的の場所へ辿り着くと、その先には、原爆で滅ぼされていない、現世の長崎市が映る穴があった。
――ここから先へは、僕は行けないけど、後は二人だけでこの穴に進めば、元の世界へ帰れるよ。
現世に帰れる道へ案内してくれた金魚に、讃良は感謝の言葉を伝える。
「ありがとう。なんとお礼を言ったら良いか」
――別に良いよ。讃良お姉ちゃんには、ずっとお世話になってたから。
「え?」
その時、彼女は耳を疑った。金魚が彼女の名を呼んだのである。
――讃良お姉ちゃん。今まで育ててくれてありがとう。ずっと一緒にいて楽しかったよ。でも、たまには獅童くんの事も考えてあげてね。
「なんで……? なんで、あなたが私と獅童くんの名前を知ってるの……?」
初対面の筈の小さな金魚に、讃良は疑問を持つ。
「ずっと一緒に……? 育てて……?」
讃良はこれまでに金魚を飼った事がない。だが、今まで生きてきた人生の中で、唯一飼っていた動物がいた。
「ま、まさか……!?」
讃良はそれを察すると、金魚の名を呼んだ。
「なっちゃん!?」
それは、ついこの間まで飼っていた讃良の愛犬の名前である。
「なっちゃんなの!? ねえ!?」
彼女はかつての愛犬の名を呼ぶと、金魚は無言で頷く。
――お姉ちゃん。いつか何かに生まれ変わった時か、それか来年のお盆に、また会いに来るからね。
すると、金魚は讃良を後にし、遠くの彼方へと泳いでいく。
「いや……待って! 行かないでなっちゃん!」
讃良はかつての名を呼んで引き止めようとするが、金魚は止まろうとしない。
――どうか獅童くんと二人っきりに、元気でね……。
それを最後に金魚の姿は、やがて消え去ってしまう。
「私、なっちゃんにまだ伝えたい事が……!」
ところが、その時、黒焦げの翼彦がもう一方の空いた手で、讃良の手を掴んだ。
「……ッ……!」
彼はわなわなと震えながらも、力を振り絞り、蛆虫が湧くその黒焦げの両手で、讃良の右手を握った。
戻ってはならない。一緒に帰るんだ。そう言ってるように讃良は感じた。
「ごめんね。獅童くん」
讃良はそんな翼彦を見て正気に戻り、彼のその頬に優しく触れながら謝った。
「私なんかのために、こんなにボロボロになって……!」
変わり果ててしまった翼彦を見て、彼女は悲痛な思いを抱いた。
「行くよ、獅童くん!」
彼女は翼彦の思いを無駄にしない為にも、かつての愛犬の後を追うのを諦め、一刻も早く彼を救急車に運ぶのを優先し、現世の穴へと身を投じた。
――安心してお姉ちゃん。獅童くんなら、大丈夫だよ……。
遥か彼方へと消え去ってしまった金魚は、その言葉を最後に言い残し、二度と姿を現わすことはなかった。