第九篇・その1 一時の安らかな交わり
激闘の繰り広げられた夜更け過ぎ、屋敷の食卓でずっと待ちぼうけていたハレトの下に帰って来たのは、定型的な謝罪の言葉と、振る舞いこそ気品を保っているが、見てくれはボロボロになったマイ1人であった。
肘掛け椅子に腰掛けるハレトは頬杖ついて、落ち着いた表情を浮かべていたが、糸のように細く結ばれた目は瞳を隠していた。そして、声はやけに響き渡る。
「いやぁ、お前が帰ってきてよかったよ。ボク独りじゃ、この屋敷はいやに広くてね」
さっきから変わらない表情は、さながら仮面である。一方マイもまた、平静な表情を崩さずに言う。
「正直、私には何が何やら、なぜ自分が生きているかさえ分かりかねますが、どうやらあの霊獣、すっかりかき乱してくれたようですね」
マイは重傷を負った脇腹をさすっていた。
「かき乱した……ね。ま、一言で表すならその表現であってるよ。佐野ヒカルは取り逃がして、上里テツリにトドメを刺せず、おまけにフラムどころか、魔法少女たちはみんな契約切れでどっか行っちまいやがった。ついでにカオルの奴も死んでるし」
「へぇえ、羅列すると凄いことになってたんですね。よくぞ心を保たれておられました」
「保ってはねぇよ。一周回って、普通に見えるだけだ」
喉仏に触れながらハレトは言った。
「ああそうなんですか」
言われてみれば、何となく声が枯れているような、マイはそんな気がした。きっとひとしきり叫んだのだろう。
「で、どうするんだ?」
唐突にハレトに尋ねられると、
「どうするとは?」
マイは聞き返した。しかしそれが気にくわなかったようで、ハレトは盛大に舌打ちした。
「結局だ! 今回ボクたちは何一つとして目的を達することができなかった。どころか戦力も無くして、かえって痛手を負ったんだぞ! やるべきことは山ほどある、だからどうすんだって聞いてんだ!!」
力任せに机をバンと叩く。おかげで静けさが際立った。
けれどマイは極めて冷静で、前髪をかき上げてから尋ねる。
「失礼いたしました。ではまず優先順位を決めましょうか。佐野ヒカル、上里テツリ、フラム、手駒の補充、どれからなさいます?」
「そんなん決まってんだろ!」
「……なるほど分かりました。ではすぐに手配します。ご安心下さい、策はもうあらかた立てました」
「ならさっさと煮詰めて発動しろ。時間をかければかけるほど、こっちは不利益被るんだからな」
そう言ってハレトは離席して、部屋から出て行く。
「お任せあれ。お体、冷やさないでくださいね」
マイは頭頂部で、プリプリ怒って出て行くハレトを見送った。
どうやらまだ、彼女に休日は与えられないようだ。
上げた面には流石に疲労の色と、年齢が見えかけていたが、まだまだ活力がある。全ては主のために――
「……とは言え一旦、ひとっ風呂浴びますか」
マイは大きな息をついた。
⭐︎
朝日はとっくに昇っていて、閉じた瞳も光を捉える。消毒液の残り香が微かにするシーツも、真っ白い天井も、もはやテツリにとってここ1ヶ月で慣れたものだった。
「よぉ起きたか」
聞こえてくる声もまた、同じく聞き慣れた声だ。
「ヒカル君……」
ヒカルは病室の出入り口付近の壁に寄りかかっていた。彼もテツリと同じく、着流し風味の患者服を着ていた。そしてパンダのような青アザが痛々しい。
「ヒカル君も一緒に運ばれてきたんですね」
「みたいだな。……けどなんで助かったんだ、俺たち?」
ヒカルの記憶は、霊獣がリョウキによって虐殺される前で途切れていたものだから、大層不可思議だったらしい。
しかし、テツリから女みたいな男の人が霊獣を虐殺したと伝えられ、何となく自分らが助かった裏を悟る。と同時に、リョウキがそこに現れた意味から「じゃあカオルはもう……」と裏切り者となったかつての友の顛末を察し、その名を呟いた。
「どうかしました? ヒカル君」
「いや何でも……。ひとまず運が良かったな、色々と。まさかリョウキが、結果だけ見ると2回も助けてくれるなんてな」
「本当に、今回ばかりは僕ももう駄目だと思いました。奇跡ですよ、こうやって話していられるの」
とりあえず2人は、お互いが無事生きていることに胸を撫で下ろしていた。
しかし2人……と、テツリは指を顎に添える。
「あ」
途端にテツリは2人じゃ足りないことを思い出し、声を漏らした。しかしなぜ自分が病院にいるかはすっかり忘れており、肩を抱いて悶えた。
「おぉい大丈夫か。なんか肋骨とかバキバキだったらしいぞ、まだ治りきってないだろ」
ヒカルは優しく肩に手をやった。するとテツリはふと気づき、その手をマジマジと見つめた。
「ヒカル君、その指どうしたんですか?」
「え?」
「いや、指先ばっかりに、血もにじんで……」
十指の指先に巻いてある包帯が気になって、テツリだったがヒカルは
「まぁその、俺も昨日のでケガしちゃったみたい」
と、無理に軽口叩く。
「はぁ? それにしてもちょっと」
なんとなく、戦闘で負った怪我にしては違和感があって、テツリはヒカルの手を引き寄せた。しばらくは考えていたが、
「て、そんなことより!」
テツリはハッと我に返る。思わず手にも力が入り、傷ついた手にギュッと圧をかけられたヒカルはギャッと呻き、指先に息を吹きかけた。
「あ、おいテツリ、どこ行くんだ」
慌ただしくスリッパを履いて、戸に手をかけたテツリは背後からの呼びかけに動きを止めた。
「あの、ヒカル君。あの、えっ、その――」
「おいおい一旦落ち着けよ、死んじゃうぞ。お前の言いたことならよぉく分かる、安心しろ彼女もここにいる」
その言葉にテツリの顔が晴れ渡る。
「無事なんですか!? 無事ですよね!!」
「まぁまぁ落ち着け。もちろん、無事に決まってるだろ。俺たちと一緒に、ここに担ぎ込まれたんだとさ。幸い俺たちと違って、外傷も大したことないらしいぜ」
「ああ良かったぁ~~」
テツリは膝に手をつき、長い息を吐いた。本当に彼女の身が心配だったテツリは、例え伝聞だとしても彼女の無事が知れただけで、体中の力が抜けてしまった。
「会いに行くだろ? ついてこいよ」
その申し出を断る理由なんて1つもなかった。病室には力強い「はい」の声が響き渡る。そしてどうやら肝心の彼女の病室は、奇しくもテツリの病室の真上の部屋であったようだ。
傷ついた体でも階段を上る足取りは軽かった。舞い上がっているテツリは肉体に縛られない。ただ流石に、いざ扉の前に立つと言い表せない緊張から息を吹いたが、意を決するのは早かった。
そうして丸めた中指と人差し指で、軽い音のノックをすると中から間違いない声が返ってきたので、テツリは戸を引いた。迎えたのは、黒髪の下に咲く、清らかな微笑みであった。
「あっどうも……。一応これって、はじめましてになるんですかね?」
テツリが声を発すると、それで彼女も察した。読んでいたファッション雑誌も脇にやって、本腰入れてテツリを迎え入れてくれた。
「そう言えば、本名での自己紹介はまだでしたね。何度も顔はあわせてたのに」
確かに言われてみれば、テツリは彼女の名を知らない。少なくともフラムの名は、今の彼女に相応しくない。赤い髪からも、魔法少女からも、解き放たれた今。呼ぶべきは彼女の本名だろう。
「まぁ改めましてってことで、星崎ミウ、17歳です」
彼女は両手のピースを頬に添えた。
「星崎……ミウ……ん?」
思わずテツリは首を捻る。
「ああ、私の名前、どこかで聞いたことがあるなら、私一応アイドルやってますから。それで知ったのかもですよ。芸名が本名なんです、このご時世に。イェイ」
「なるほ……ど」
イマイチテツリはピンとこなかった。そもそも引っかかってるのは名前ではなくて……、いや名前で引っかかってはいるのだが、そういうことではないような。そもそもその名前を聞いたのは、かなり最近だったような……。
テツリはどことなく、魚の小骨が喉に刺さっているような、そんな感覚であった。とはいうものの……
「こうして落ち着いて話せるの、すごく嬉しいです。あなたとは一度面と向かって、楽しくお話したいなって、思ってました」
「僕も君がそうやって笑っていられて……とても嬉しい」
目の前の状況が待ち望んでいた幸せであったので、すぐにそんなどうでもいいことは忘れていた。
「えぇっと、上里さん……の声はずっと聞こえていました。本当に感謝しています、ありがとうございました。あなたがいなかったら、私はまたこうやって、楽しいって思うことも、その心を取り戻すことはなかった。想像してもゾッとする、もし上里さんがいなかったらって、エへヘェイ」
「そんな大袈裟な。僕なんか……別に大したことはしてないんだ。本当はもっと早く、君のことを助けたかったのに、こんなに待たせちゃった…………」
「けど、助けてくれたに変わりはないですか、早い遅いなんて小さな話じゃない。今こうしていられるだけで充分なんですよ。せっかくお礼くらい、どういたしましてで胸を張って受け取って欲しいなぁ。意外と自己評価低めなんですね」
「いやだって、本当に僕なんて大した人間じゃ」
「私には大した人間なんですよ、私の恩人なんだから」
……そしてこの場には、もう1人いたのだが、悪意はなくとも、どうやら2人にとってはどうでもいいに分類されていたらしい。
「すげぇなぁ……2人だけの世界ってこういうの言うんだろなぁ」
テツリと一緒に部屋に入ったというのに……、人から見えない幽霊かの如くスルーされ続けるヒカルは鼻をかいていた。そしてもはや指が鼻の穴に突入しかけたところで、肩を叩かれた。
「んえ?」
誰かいたもんかと振り返ってみれば、こっそり開けられたドアの隙間から、招く手があった。
意図を察して、2人の世界も壊さないことも大事に、ヒカルは静かに離席する。
「んえ!? 鳴賀さん!!」
「どうも」
ドアの外で待っていたのは、最近知り合ったばかりの警視庁の刑事だ。小脇には果物の入った籠を抱えている。
「どうされました?」
「いえちょっと、あなたがこの病院にいるって知りましてね」
「どうやって?」
「まぁ細かい話は良いじゃないですか」
「はぁ?」
まぁでも警視庁の刑事ともあれば、きっとそういう情報網があるのだろうと、ヒカルはそう納得することにした。
「それにしても、今回は申し訳ありませんでしたね」
鳴賀の口をついたのは謝罪の言葉であったが、ヒカルは目をパチクリさせ困惑した。
「何がです?」
「見たところ、酷く痛めつけられたようじゃあないですか。誠に申し訳ありませんね、私が捜査の協力を申し出たばかりに」
「ああいや、気にしないで下さいよ。ソレが原因の怪我は、この爪ぐらいのものですから」
ヒカルは照れ笑いを浮かべていた。そして鳴賀はヒカルの指先と笑みに交互に視線を送りながら言う。
「その様子だと、吐かなかったみたいですね。爪を剥がれるのは、一説には腕を切り落とされるよりも痛いと聞きますが、それを十度、鋼の口をお持ちのようですね」
「それは、まぁ……信念みたいなもんですよ」
「そうでしたか」
「ところで今日ここには、俺のお見舞いに来てくれたんでしょうか?」
ヒカルの視線は色とりどりの果物に向けられた。
「ええ、もちろん第一はあなたの具合を見に来たんです」
そうして鳴賀は顔の前に籠を掲げあげた。
「じゃあ第二は?」
その果物の影からヒカルが覗いて尋ねると、籠を脇に戻した鳴賀は急に神妙な面持ちとなった。
「第二については、今朝方、連絡がありまして。その情報をあなたの耳にも入れておいた方が良いかと」
当然だが、そう切り出されてヒカルは嫌な予感しかしなかった。そして、伝える側もその気持ちは同じだったのだろう。
一瞬、鳴賀は目を伏せた。そして口を開く時、唇は少々震えていた。
「今日の未明、星崎ミウのマネージャーの男性が、何者かに襲われたようです」
その知らせを受けて、ヒカルの目は眼球が飛び出さんばかりに広がっていた。血の気が引くのを鋭敏になった聴覚が捉え、そしてそれは、背後の病室から聞こえてくる幸せそうな2つの声も、頭の中がゴワつくほど響かせていた。
「幸い命に別状はありませんでした。ただ恐ろしいことに被害者は両手の爪を、全て剥がされていたそうです。ちょうどあなたのように」
「……誰がやったんですか」
絞り出したような声で尋ねたものの、鳴賀は首を振る。
「『分からない』とのことでした。しかもどうやら誰に襲われたかはおろか、なんで自分がその場所にいたのか、何をされたのかさえ、襲われた前後の記憶は無かった……だそうです」
気づいた時には病院のベットの上で、黒いスーツを着た警官に取り調べを受けていた。それがミウのマネージャーの認識なのだという。
「このタイミングで……ですか」
「ええ。このタイミングで、です。偶然の一言で片付けることも可能ですが、もしこれが必然だった場合、これから起きることにはある程度予想がつきます」
それはヒカルも同感であった。手がかりはないが、根拠は勘で充分だった。
「あんの野郎、もう動き出したのか。ミウちゃんを奪還するために……」
憤り、手を叩くヒカルだったが、この状況はかなりマズいと焦っていた。
マネージャーを襲ったならば、既にここの情報が知られている可能性も高い。そうなれば……
「どう思います?」
鳴賀が尋ねた。ヒカルは考え込んでいた頭を上げた。
「一刻を争う事態だと思います。今この瞬間に、ここが襲われても全然おかしくない」
ならば早急に手を打つ必要があると、2人の意見は一致している。
「なんとしても守り抜かないと……。せっかく自由になれたってのに」
ちょうど病室の中から、テツリとミウの大きな笑い声が聞こえてきた。
「…………くそ」
やっと笑えるようになった2人から、また笑顔が奪われるようなことあってはならない……!
けれど今、ハレトたちに襲いかかられたら、おそらく先の戦いの傷が残る自分とテツリだけで、到底守り切れるのかという疑問がヒカルにはあった。
「あ!」
ヒカルはハッと思いついた。
「あの鳴賀さん、俺ちょっと外します。その間、ここを見てて貰えませんか? あと、俺の口からは伝えづらいんでマネージャーさんの件も、隙を見て話して貰えます?」
ヒカルのお願いを、鳴賀は笑って了承してくれた。「ありがとうございます!」と、ヒカルは頭を下げ、一目散に廊下を駆けていった。