第七編・その8 真実を視ていたか?
爆発で大穴が空き通じた殺風景なビル4階の屋上。この狭き戦場が、2人の戦いに決着をつける、晴れある最後の舞台だった。
陽は分厚い灰色の雲の壁に、風は四方を囲うビルの壁に遮られ、カオルとリョウキ、この2人の戦いにもはや割り込むものはない。
だからどちらが勝ち、どちらが死ぬか。それを決めるのは純粋にお互いが持つ知恵、覚悟、力である。そして敗者は孤独に死にゆく。
「もう逃げ場は無いぞ……」
カオルは言った。幾度となく命を狙い、挑んできたリョウキは穴を挟んで向こう側に立っていた。相変わらずムカつく面構えをしているが、それも見られるのは今日までと思えば少々寂しさはある。
「いや逃げようと思えば逃げられるよ、いくらでもね」
そう楽しげに言ってのけた彼だったが、そんな彼も次いで口を開く時、目の奥は顔にこびりつく煤のように黒ずんでいた。
「けどまぁ逃げないよ。あなたはわたしが生きるのに邪魔だ。だからここで、死んでもらう」
リョウキは自信に満ちあふれていた。事殺し合いに限って、いつも自分が負けるなど、ましてや死ぬなんて微塵も思っていない。だが彼の瞳に映るカオルもまた、自信があった、この暴虐を討ち、絶対に勝つ自信が。
「なるほど、だが悪いが……ここはお前の墓場だ!」
力強く言い放ち、毅然とした表情を浮かべたカオルは跳び上がる。
アクロバティックに前宙も加えて間合いを詰め、回り込んだ背後から剣を振りかざす。
洗練された風切り音の鋭い調べ。しかし奏はサビを迎える前にゴッという鈍い音が鳴って静まる。
リョウキがカオルの手首にハイキックを与え、剣を取りこぼさせたのだ。
「くっ」
痛みにカオルは呻くが、剣が地面で鳴る間もなくリョウキの拳が、空気をも弾く勢いで来ている。それから目を逸らすことはできない。
カオルは必死にかわした。風になびく布のように滑らかに、体をのけ反らせて。そうやって時にかわし、時に空間の壁を貼った身体で受け止め、次々と目が痛くなる連撃を裁いていく。
と、一瞬の隙を突いてカオルはリョウキの手首を掴む。そのまま合気道のように転がそうとしたが、リョウキは片手で側転して体勢を立て直す。
ならばとカオルは剣を念力でたぐり寄せ、足下を狙って振り払った。それをリョウキは軽々バク転でかわしてしまう。何度、何度と切りつけても、空を切るばかり。しかしこのままなら押し切れる、リョウキが避け続ける後ろには、先ほど空いた大穴があった。
1歩、1歩と、リョウキは淵へ近づいていく。が――
「?!」
もう1歩で押し込める……そんな崖っぷちで突如リョウキは獣のように、カオルの懐に入り込んだ。
しまったと思った時にはもう遅すぎる。
両手で剣を持つ腕を掴み、一本背負い。盤面は完全にひっくり返り、落ちるのはカオルの方……かと思いきやそれも違う。
背中から落ちていくはずのカオルは、右手の剣の浮力で空中制動する。浮かび上がって、そして再びカオルとリョウキは穴を挟んで向かい合う。さっきまでと全く同じ光景だ。
「やれやれこれで振り出しか」
「だねぇ……じゃあちょいと、やり方を変えてみますか」
そう言ったリョウキは足下に転がっていたコンクリートの欠片を拾った。そして拾ったからには当然投げつける。
コントロールは見事だった。カオルが頭をズラさなければ、頭蓋を砕いていた。しかも疲れ知らずに投げ続ける。
「チッ」
この量はかわしきれないと判断したカオルは不服ながらバリアを張って防ぐ。
だが完全に防御に徹する時、その時を待っていたリョウキは不敵に笑う。
瞬く間に間合いを詰めてしまい、勢いよく跳ねるままに殴りかかる。剛力でバリアもガラスのように砕き、流れるように後ろ回し蹴りを仕掛けるリョウキ。しかし――
パチン!
と乾いた音が鳴る。
「うわっっと?!」
当たるはずの攻撃が当たらなかった。勢い余って転びかけるも、リョウキはなんとか堪えた。
「フフ、残念だったな」
「あーあ、またそれかよ!」
リョウキは思わず地面を踏みならした。
「なんだんだそれ、ズルくないか。どんな能力だ」
「そうだな……別に名前はつけてないが、今つけるなら”虚数化”とでも言っておこう」
「ふーん……絶対! 当たらないのかねぇ」
「ああ当たらない」
「そうか。試してみよ」
全力で真っ正面から雑に殴りかかってみるも、やはりすり抜けて当たらなかった。力ではどうにもならない。
「空気を殴るのとも違う、まるで吸い込まれるような……。けどとにかくその状態でいる限り、こっちの攻撃は全部あたらないみたいだね」
「的確な分析だな。さて、結論はどうだ?」
「結論? 別にだからどうしたって話だけど!!」
強気にそう言ってのけた途端、リョウキは助走をつけて蹴りかかる。
しかし案の定当たるはずはなく、しかもその勢いのまま地面を転げた。
カオルはリョウキを見下ろす。
「どうしたはこっちのセリフだ。らしくない、無様な姿だな」
そう言ってカオルが指を鳴らしたのを、リョウキは怪訝そうな険しい目つきで見ていた。やがてそれは笑い………いや嘲笑へと変わる。
「何かおかしいか?」
警戒心を露わにカオルが問う。
「たった1回」
リョウキが首を上げる。
「たった1回失敗して、転んだだけのわたしが無様なら……あなたはどうなの? 自分は無様じゃないと……私を笑えるか?」
別にリョウキの言葉に深い意味は無かった。単にイラつかせて、冷静な判断を奪えさえすれば、かける言葉はなんだって良かった。
しかしそれがどうして、カオルは表情こそ変えなかったものの、直情的に剣先をリョウキの眼前に差し出した。
「俺を見くびるな……。俺は……高みにいる」
「ホントかなぁ? 自分が高みにいると思うなら、わたしみたいな底辺相手に、なんだってこだわるのかねぇ」
「……」
みるみるカオルの顔が醜く歪む。その表情と反比例するようにリョウキの口の端はますます上がり、さらに畳みかける。
「本当は怖がりなんじゃないの。だから色々なものを積み上げて、纏って、自分を強く見せて、守らないと生きていけないじゃないの。けどわたしにはそんなの通じないからねぇ、それが――」
だが最後までは続かなかった。カオルが続かせなかった。躊躇なく、剣で突き殺そうとした。それは彼自身からしても予期せず、カオルはしまったという表情を浮かべる。
リョウキはすんでのところで首を傾げ、頬を剣が掠めていったのを痛みで確認した。
「おー、こわ」
リョウキが笑う。笑ったのはチャンスが来たと思ったから。
向こうからこちらに攻撃が当たるなら、逆も然りなはずだと。
ならば間髪を許さず、リョウキはカオルの顎をかち上げる。彼の拳は実体のある肉体を捉えていた。
「うぐっ……」
アッパーは脳を直接揺らす。よろけるカオルは、指を鳴らそうとする仕草を見せた。
だが既に地面を蹴っていたリョウキの跳び蹴りの方が早いか!
また虚数化で仕切り直されるより前に決着をつけようと、早々にけりをつけに来たリョウキのペースには追いつけない。
勝負は決まった……。
しかしリョウキがそう思った時、カオルの顔は笑みを隠していた。
ザシュッッッ!!
と、しばらくして発されたのは、肉を切る音。
そして、崩れ落ちるリョウキ。背中から胸を貫く剣を伝っておびただしい量の鮮血が溢れ、滴り落ちる。
それは全く、カオルが見た夢の通りの光景だった。
「残念だったな、リョウキ。俺の勝ちだ」
さらに剣を押し込んでやると、リョウキは苦しみながら血の塊を噴き出した。
「あ、あれぇ……おっかしいなぁ……」
と、膝を着いたリョウキが振り向く。その顔には混乱がありありと見て取れて、カオルはしてやったりだった。
「た、たしかにわたしは……あな……たが、実体化した……タイミングで………」
先手を取っていたのは間違いなくリョウキだった。だからカオルが実体化さえしていれば、トドメはリョウキが刺す。そしてリョウキはそのタイミングを突いたつもりでいる。だが実際には、その『さえ』が満たされていなかったのがこのザマだ。
しかしリョウキには分からない。なぜカオルが実体化していないのか。その謎は胸の痛みよりも遙かに問題で、興味があった。
「どういうことか、教えておくれよ……最後に……手土産に…………」
「……そうだな。虚数化は確かに無敵だが、反対に俺からも一切手出しできないからな。だから攻撃するにはどこかで実体に切り替えなければならないわけだが、お前なら、俺がお前に攻撃するために実体化するタイミングを狙って来るだろうと踏んでいた。悔しいが、お前が誰より強いことは知っているからな。だが……」
あえてもったいぶるようカオルは言う。
「どうやって俺が実体化しているかどうか判別した?」
「…………?!」
言われてハッとしたリョウキは、衝撃で血反吐を吐く。
「気づいたようだな」
カオルは咳き込むリョウキに見せびらかすよう、仰々しく指を鳴らした。
「そう。別に実体化と虚数化を切り替えるのに、わざわざ指パッチンする必要なんてないんだ。そんなバレバレのフェーズを取らなくとも、状態は切り替えられる。つまりこれは、お前の誤認を狙うためのミスリードに過ぎなかった」
「……なるほど……あんたが仕掛けた罠は昨日今日じゃない…………ずっと前から……わたしを。まんまとわたしはダマされていたってわけね」
リョウキは肩を落とし小さく笑う。
「そしてお前は俺の目論見通り、状況を見誤った。まぁ悠長なことはできなかっただろう? グズグズしていたら、せっかくの殺せる機会を損ねるからな」
「最初っから……あなたにはこうなることが見えてたのか?」
「いや、仕掛けはしたが、使うつもり自体は無かった。もっと前にお前を殺せていたら、これはお蔵入りだった。だがここまで誘導した時点で、決まっていたのかもな」
「ヒャハハ、つまりこれはある意味で、あなたの切り札だったってわけね」
と、リョウキは不意に、自身の胸を貫いている剣身を両手で握る。
「切り札にしては、些か地味じゃあないか?」
「いや……切り札において重要なのは派手とか地味とか、そんなところじゃない。切り札に最も求められるのは、ただ1度で……確実に相手を仕留める鋭さ。切ったら最後、勝負を決めることさ」
「? おいなんのマネだ?」
カオルは突き刺した剣を抜こうとしたが、どんなに引っ張ろうが根が張ったようにビクともしない。
リョウキは硬く握りしめた剣を、決して離そうとはしなかった。
「その点で言うと……あなたの切り札は……惜しかった」
「何?」
振り返ったリョウキの顔を見た時、カオルにはザザザザと風の音が聞こえた。しかしビルに囲まれたこの場所に風が吹き渡ることは無い。それが血の気が引く音だったとカオルが気づく頃にはもう、時既に遅し……だ。
背後に気配を感じ、カオルは顔を向けた。千里眼を使うなどという発想は出なかった。
ゴシュッッッッッ!!
強い衝撃を受け、カオルの身体がくの字に曲がった。骨はバキバキと粉砕され、腰は折りたたみそうな角度まで曲がり、そうして地面を跳ね、仕舞いに壁を砕いてめり込んだ……ところでやっと勢いは死んだ。
しかし一転して瀕死のカオルは息も絶え絶えで、頭は10メートル下の地面に晒している。
「ぐ……あ…………は……」
呻く懐から長方形のコンパクトが落ちた。カオルが負ったダメージの重さ故か、震えるコンパクトは鏡のように粉々に砕けてしまった。そしてカオルが持つ魔女の力も全て消失し、元の彼の姿へと戻った。
「あーあ……痛か……った…………」
リョウキの胸を突き刺していた剣も同じく消えたが、今更消えたところでリョウキは背中から崩れ落ち、そして死ぬ。しかしその傍らには……もう1人のリョウキが立っていた。
「お疲れわたし」
未だピンピンして元気な方のリョウキは、死にゆく自分を笑顔で見送っていた。
「お……お前…………」
激痛の中に怒りを覗かせるカオルは手を伸ばしていた。
「なに? なにか文句でもあんの?」
軽やかなステップで歩み寄って、リョウキはカオルの前髪を掴んで詰め寄る。
「わかったかい。これが正しい切り札の使い方。それと、わたしの本気だよ……」
凄むリョウキに対し、もはやカオルには虚勢を繕う力さえ無い。
「い、今まで……お前はずっと、能力を隠していたのか……」
「そうだよ。初めて使った」
事も無げに言ったその一言がカオルを絶望させた。
「そ……そん、な…………」
ならば自分との間にあった力の差なんて覆しようのない差だ。人一人の努力や、知恵や工夫なんかの小手先じゃどうしようもない大差、圧差、超差。
それなのに自らの力を過信し、現実を見誤って、破滅の道を気づかず進んでいた。
その事実は彼の荒んだ心を折るには十分過ぎた。だってそんな生き方はまるで、まるで……
「と……さん…………」
飛散する意識の中でカオルには浮遊感があった。けれど昇っているのではない……落ちているのだ。手に入れたくて、目指して、張り詰めて飛んだ空がどんどん遠ざかっていく。けれどゴミの山から見る空も、ビルの屋上から見る空も、そう変わりはなかったと気づく。等しく、到底、手は届かない。