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亡者よ、明日をつかめ  作者: イシハラブルー
3章 揺れる絆と変わらない思い
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第七編・その1 夢




 ウチのパンこそ日本一だ。

 かつてそう誇らしげに語ったのは、妻と一人息子をその腕で養う、夢見がちな父親であった。されどこの言葉はまるっきり誇張という訳ではない。

 子供の頃に掲げた夢を、時代を経ても曲げることなく貫き通した男のパン屋は、決して人通りは多くない小さな街の商店街に小麦の香りを漂わせ、商店街を訪れる人たちの間で徐々にだが評判となった。

 10年もの間、1度だって不渡りを出すこともなく、もはや店が軌道に乗ったことは疑いようのない事実――なはずだった。




⭐︎




 オレンジ色の夕陽の影が落ちて、カラスたちも寝床に帰っていく。電灯には弱々しくて目障りな明かりが点々と灯り出すが、それだけでは閑散とした商店街はどこか薄暗い。夕飯前のかき入れ時だというのに、シャッターすら降ろした店ばかりで街は淀んでいた。

 そして、このところ生まれ育った街の淀んだ景色ばかりを見続けてきた彼の心は憂鬱であった。


「ただいまー……」


 真っ黒い学ランを着た少年が帰路を経て、まだ幼さが残るハスキーな声で言った。

 だが静まりかえった廊下から玄関への返事はない。廊下を軋ませ、荷物も置かずにリビングにつなぐ建て付け悪い引き戸を開けると、彼の母親はソファには座らず、カーペットに正座して机に向け合っていた。

 その母は何やら難しい顔で帳簿とにらめっこしており、その背後から中身を覗き見てみると、彼もおそらく同じ気持ちで、ため息をつく。


「……また赤字」


 母が睨んでいたのは店の帳簿。複雑な内訳は分からなくても、中学生である彼でさえ内実が理解できた。三角形を頭に置いた赤文字で書かれた数字が、月を追うごとに膨らんでいた。つまり業績は右肩下がりである。


「うわぁビックリした! ちょっとカオル、帰ったんならただいまくらい言いなさい」


 気づかぬうちに帰宅して、肩から生えるようにしていた息子に驚いた母は、心臓を抑えるリアクションをとってみせた。


「……」


 ちゃんと聞こえるように言ったのにと、カオルは理不尽を感じたが、気づけなかった母の心情を思うと文句も言えず黙った。

 それほどまでに事態が深刻なのか、それとも単に母が歳を取ったのか。最近、カオルは母がやけに歳を取ったような気がしている。

 どちらにせよ、やるせないばかりであった。もっともこの感情を持つ人は、この街では何も特別ではない。


「……向かいの魚屋の権堂さんとこ、今度店閉めるんだって」


「え、ウッソ! ホントに?」


 続け様に驚かされた母であったが、一方カオルは最近身につけた達観した境地で、亀裂まみれの黄色いソファに横たわって言う。


「ホント、ホント。ケンスケ本人から聞いたんだ。駅前のスーパーに取られた客を、もう取り戻せる見込みも無いんだと。これ以上傷口広げる前に畳むんだって」


 1年前、この商店街の最寄り駅前の反対口に、全国展開がなされるスーパーの1店舗が完成した。大きくて、綺麗で、色々な商品を安価で揃える、時代の先端を走るスーパーは、利用客たちに便利さを提供した。だが光あるところに影が生まれるように、便利さがウリのスーパーは、古くさい情緒が取り柄の商店街から根こそぎ客を奪い取った。決して悪者がいる訳ではなく、ただ時代と法律が変わったからであるが、それがどうあれ商店街は確実に致命傷を受けた。

 現に今、この商店街にある店は2種類しかない。お客を失い、潔くシャッターを下ろした店か、青息吐息で死にかけの店、全てがどちらかに分類される。


「せめて最後にいっぱい買ってあげようか」


 カオルの母は見知った魚屋の顛末を他人事のように言ったが、カオルにはそれが(しゃく)に障ってしまった。


「……そんなこと呑気に言える立場なの? 俺たちだって明日は我が身だろ」


 その口調は北風よりも冷たく、カオルは体を起こす。

 例外なんてなかった。一家で営むパン屋も後者である。今までの貯蓄があったおかげで他より長く延命できているが、本当にただそれだけ……。都合の良い特効薬なんてなく、このままでは他と同じく息絶えるのを待つだけであった。


「いつまで続ける気だよ。こんな、借金産んでばかりで儲かる見込みもない店。ウチもみんなみたいに、さっさと潰した方が良いんじゃない」


「……はぁ」


 息子の心ない言葉が痛烈に身に染みたらしく、母はため息つく。けれど帳簿のページを前にめくって閉じて、息子の方に向き直っては仕方なさ気に言う。


「もしそれが正しいとしても……父さんが諦めないだもの。この店はまだまだ終わらないわ」


 それはずっと夢を追って働き続けてきた夫を見守って、共に生きてきた妻の立場からの言葉であった。

 この店の存在が、夫にとってどれほど大きいか知らしめられているからこそ、終わらせることはできないと……。


「でも母さんはもう諦めてるんだろ」


 その残酷な問いをカオルの母は否定しない。そんな母は息だけを発し、言葉はいつまでも発さず、その沈黙がなおさらカオルをイラつかせた。


「だったら止めてくれよ!」


 飛び起きたカオルは掴みかかる勢いで詰め寄った。


「このままで3人とも……どう生活する気だよ! 母さんはちゃんと分かってる。今どうするべきか! このまま店を続けたって、未来なんて見えないって!!」


「カオル!!」


 だが母の金切り声が息子を突き放し、不満を封殺した。


「俺、何か間違ってる? 間違ってるのはあの分からずやだろ」


「……やめなさい、お父さんを悪く言わないで。お父さんだって頑張ってるんだから」


「パン作りを? それでこの状況がどうにかなるわけ?」


「……」


 母が沈黙すると、カオルはため息ついた。


「分かってないんだよ父さんは。いくら頑張ったって、現実見えてないなら意味ないよ……」


 そう言うとカオルは抗議のため厨房へと向かおうと、戸を引いた。


「何言ったって無駄よ……。説得で止められるなら、この店はこんなに続いてないわ」


 背中にのしかかった母の言葉に、カオルは廊下で足を止める。

 もちろん彼だって知っていた。父がこの店を持てるようになるまでに、この店を維持するために、どれだけの努力と苦労を重ねたかなんて。物心ついた時の記憶に、パンをこねる父の姿があるのだから。

 知った上で止めようとしている。このまま店を維持しようとする行為が、どれほど無謀で逆行しているか知っていたから。

 だから躊躇は一瞬で、カオルは窓から煌々とした光が漏れる扉の前に立っていた。店舗と自宅を隔てる扉だ。

 小さい頃のように向こう側で父と一緒にパンを作ったりなんてしなくなり、数年前までのように接客の人手が必要なことも無くなって、この境界を超えることも無くなった。

 けれど扉を開いた時、鼻に飛び込んできた香ばしい小麦の香りは変わっていないと言えた。

 もっとも今は、それでノスタルジーに浸れる安易な心情ではない。それにしても清廉潔白の厨房で、黒いカオルは浮いていた。


「おい、父さん」


「……」


 衛生さが求められる場所ゆえに潜めた声では、集中していた父を振り向かせることなんてできなくて、カオルは鬱憤晴らしにドカドカと足を踏み鳴らし寄って、父をつま先で小突いた。


「イテッ! おうカオル、どうした」


 ようやくカオルの存在に気付いた父が、驚きながらも一瞬で子供のような屈託ない笑顔になって振り向いた。


「珍しいなお前がここに来るなんて」


「……」


 いざこの屈託ない笑顔でいられると、言いたいことも言えないものでカオルは目を伏せるばかりであった。そうこうして出鼻をくじかれているうちに、父はカオルの内心なんて知る由もなく、ちょうどできあがった試作品を食べて欲しいと嬉しそうに言った。


「これはなー、キノコグラタンパン包みだ」


 父がオーブンから持ってきたパンは、やや厚みのある長方形の生地に注がれたキノコのグラタンを、格子状に閉じて焦げ目をつけたものであった。

 だがカオルはそれを大して興味の無い玩具を見るような目で見下ろす。

 父の得意げな語り口もその一切を聞き流しつつ、とは言えとりあえずは焼きあがったパンを一口ほおばった。


「どうだ?」


 感想に期待を膨らませる父に対して、カオルは飲み込んでから端的に感想を述べる。


「味はまぁ……まぁまぁ美味しいけど、せっかくのキノコが存在感薄い、風味も香りも小麦に負けてる。正直全体のバランスが悪いんじゃない」


 少なくとも見立てでは、このキノコグラタンパン包みは"可もなく不可もなく"だった。遠慮なく思ったことをカオルは言ってのけたが、評価に関しては正当だったようで、食べかけの同じ試作品を食べてみた父も、息子と同じような感想を抱いた。


「流石お前の意見は参考になるなー。よし! じゃあその点を意識して、再改善だな」


 そう言ってカオルの父は残り半分を一口で平らげると、また一からやり直すためにパンのタネ作りに取りかかろうと。

 そんな熱心な父の姿にヤレヤレと思いつつ、カオルはハッとした。何のために自分が厨房(ここ)に来た理由を思い出して……。そしてカオルの目はその色を変えた。


「……いつまでこんなことやるの」


 カオルは小さく呟いた。


「そりゃあ納得いく味になるまで」


「そんなこと聞いてない!!」


 認識の差から来る的外れな回答にカオルのボルテージは上がり、父はその圧に驚きのけ反った。


「いつまでこんな店続けるんだって聞いてるんだ!!」


 察してくれないんだから仕方ないと、カオルはギュッと目をつぶって言った。そして押し寄せる不満が堤防を決壊させてしまえば、もう止まらない。


「こんなことしたって無駄なんだよ! この店も、この商店街も、もう終わったんだ。気づいてないのは父さんだけだ、現実見てみろよ! お客さんはみんなスーパーの方に行くようなったし、商店街の店はどんどん潰れていってる。ちょっと美味しいパン作れたぐらいで、夢見てんじゃねぇよ!!」


「……お、おぅ、久しぶりに厨房(ここ)に来たと思えば、そんな文句を言いにきたのか?」


 息子の紛糾に、父もたじろぐばかりである。


「良いかカオル、物事ってのは……」


「諦めないのが大事……」


「そう、分かってるじゃないか」


 先読みしたカオルの言葉に父は指を鳴らした。

 だが、お互いの現状理解に関する溝は深かった。


「でも、今のこの状況を諦めないだけでどうにかできると思うの?」


 懐疑的で諦念的なカオルに対し、


「……もちろんだとも、父さんを信じろ!」


 父はどこまでも強くて、絶望的な現状を前にしても前向きであった。


「諦めないって、現状を無視してがむしゃらにやるって意味? 違うだろ」


 しかしカオルはそんな父の考えを受け入れられやしない。


「もう終わったんだ……、もうどうにもならないんだよ父さん……。これからは現実を見よう。分かってるでしょ……」


「……大丈夫だって」


 父はこの世の終わりだと言わんばかりのカオルの様相に苦笑いしながら、


「俺はずっとこの店を守ってきたんだぞ。どうせ1年も持たないってバカにされて、それがどうだ。10年も持たせたんだ」


 と強気だった。今までずっと、自分の腕で店を守ってきた、その自信が絶対な支えとなっていたのだ。


「諦めなきゃ、きっと今度だって乗り越えられるさ。お前は何も心配いらないよ」


 優しい声色で父は語りかけた。パンをこねて、手が小麦にまみれていなければ、きっとカオルの頭を撫でていた。


「……でも、そもそも人がいないんだよ。いくら今まで上手くいったからって。今度も上手くいく保証がどこにあるのさ?!」


 どうにかできる画期的な方法があるなら話してみろと、そんなつもりでカオルは詰問する。しかし父はカオルがどう問いただしても、「大丈夫だ」と以上は答えなかった……。

 その様子にこの店の未来が見えてしまい、カオルは頭が痛かった。

 この時からだった。家族を憂いた少年が、その一員を目障りに思うようなったのは。




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