第五編 その4 欺く神
兄妹は身を寄せ合い、時折突風を発しながら降下してくる暗雲を見つめていた。
その暗雲が降り立つと、もはや突風の域に収まらない、神風と呼べる災害級の衝撃波が襲った。木々は圧されお辞儀し、抗えなかった無数の塵芥が大小有機無機に関係なく宙をうごめく。
人の身一つではとても耐えられない……けれど2人でなら、力を合わせれば何とか堪えられなくもない。
アオイはツバサの肩をがっしり掴み、ツバサはアオイを庇うように抱き返した。そうして身を低く小さくして、兄妹は飛ばされることなく堪えた。
「し……死ぬかと思った」
風が止んでアオイは安堵した、殺伐をよく知らないから。だがツバサは、これから始まるであろう不吉を思い冷や汗かいた。
「どうもトンデモないのが、来たらしいな」
すぐそこにいるのは敵だ。
静かになったのがかえって不気味な暗雲からツバサが目を逸らさずにいると、くすんだピンク色の触手がウヨウヨと湧いて出た。恥ずかしがり屋なのか、中々姿を露わにはしなかったが
「さぁ出て来い。私の忠実な下僕よ」
使役者の命令に呼応して暗雲が剥がれ、そして不幸の種は萌芽した。
「うぇ……何コイツ、全然可愛くない」
アオイが思ったのと大体同じ事をツバサも思っていた。
何しろ、お目見えした神の下僕は3メートルは下らない巨躯を誇り、なにより気色悪いのがゴム鞠のようにずんぐりとした全身の、腹や膝に触手まで、至る器官、部位にヌメヌメした体液で糸を引く口を備えていた。
同じ化け物である霊獣にはまだ生物らしさがあるが、これには無い。ひたすらにおぞましい姿だ。
「ああそうそう。見ての通り、口がいっぱいあるし大きいだろう。コイツは喰のdistracterだ。食わず嫌いもしないし、私が出したものは何でも食べてくれる、とってもいい子だよ」
「……俺たちを食わせる気だな」
冷静に察するツバサに「ああ、やっぱそうなんだ……」とアオイは引きつった表情で返す。
「察しがいいね、話が早くて助かるよ。ではでは、君たちはどこまで食い下がれるかな?」
唯一この場を楽しんでいる神が2人に手のひらを向けてやると、ピンク色のウニみたいな化け物は進撃を開始した。亀のようなスピードで、けれど地面を揺らしながら。
「……戦うしか……ないか」
「そんな無理だよ! その体じゃ」
フラフラと立ち上がる兄を見て、アオイは言った。しかし兄は退こうとはせず、
「俺が帰るためにも……お前を守るためにも……今、ここで退くわけにいかない」
決意の名を借りた強がりは頑なだった。
だがあいにくに、決意を支えるには体の方が消耗しきっている。
そんな今の状態を示すようにツバサの足はもつれ、転びかけたところをアオイに肩で支えられる始末である。
言わんこっちゃないとアオイはツバサも連れて逃げだそうとしたが、ツバサはなおも足を前に踏み出そうとしていた。
その光景はちょうど、兄を思う妹の気持ちと、妹を思う兄の気持ちの対立であった。
「そうだ。忘れていた」
そんなやりとりを傍観していた神は進撃に先んじて息吹を送る。
するとツバサには優しく温かい風に包まれる感覚が……。
「……力が戻った」
その風が、傷とダメージを一瞬のうちに癒やす、全て。
「……」
神の仕業だと察したツバサは、結果的に傷を癒やしては貰ったが、神のことを恨みがましい目で見つめた。そう言う目をすると、神は喜ぶのを知っていたが。
「頑張ってくれたまえ、私も応援しているよ」
「……いつまでも、お前の手のひらの上で事が動くと思うなよ」
「良い意気込みだ。これは面白くなりそうだなぁ……やれ」
神の思惑にリンクして制止していた化け物が再び動き出す。
「お前は離れてろ」
そう言うと、ツバサは右腕から生やした鋭利な角を向け、足に力を込めて地面を蹴った。そうして間合いを詰め、鈍重な化け物に対して右腕を水平に振る。
斬撃を喰らった箇所から火花が散った。だが化け物は悠然としている。
それでも怯むことなく、ツバサは流れるように回し蹴りし、前蹴りから右腕を振り下ろす。
しかし能力に依らない素の打撃だと火花すら散らない。
と、一旦ツバサは間合いを取り、攻撃をベアクローに切り替え……ようとした矢先
「!?」
地に潜んでいた1本の触手が突如背後から襲いかかる。
間一髪、気がついたツバサは両手で払いのけて掴むも、活きの良いウナギのようにうごめく触手が先端にある口で噛みつこうと……。
しかも貪食なただ一つの触手との攻防を強いられているうちに、ツバサは別の触手の口によって膝裏を噛みつかれ、そして引き倒された。
膝裏に噛みついてきた触手は硬質な爪で三条に切り裂いてやり返すも、立ち上がろうと地面に手をついた瞬間、今度は両手首を噛みつかれ、ツバサは磔のようにされる。
そんな命と、ツバサにとっては誇りもかけた戦いを祈るように見ていたアオイの背後に、声をかける者が現れた。
「勝てると思うかい? 君のお兄ちゃんは」
突然の声にアオイが驚き振り向けば、目の前には神が立っていた。
「もし君が、苦しむ兄を救いたいなら、1つだけ方法があるよ」
「……その方法は飲まない」
神が兄に提示した条件から逆算すれば、アオイにも神が言う救うための方法は分かった。
遠回しに言われた「死ね」は確かに正論である。だが無粋であった。
アオイは囚われの身の兄を見やる。
「お兄ちゃんは、私のために戦ってくれてる……私が妹だからって、必死に守ろうとしてくれてる。それを私が台無しにするなんて、そんな冷たいことしない」
「ならば信じられるのかい!?」
声を荒らげ、食い入るように言った神が、アオイの視界に割り込む。
「このまま続けても、理解しているだろう。お前たちに勝ち目なんてない」
ツバサの呻き声を背後に、神はそう断じた。
「……負けない。お兄ちゃんは負けやしない」
けれどアオイは、その呻き声が諦めない兄の声だと分かっているから、そう断じた。
「くッ!! う……うぉぉおおッッッ!!」
直後、思いが届いたかなんてこの世界でも見えやしないが、ツバサは縛り上げていた触手を剛力無双で引きちぎる。
「やった」
「……へぇ」
小さく跳ねたアオイと、首を鳴らした神。2人を背にツバサは飛んだ。
次々に補足しようと迫る触手の合間をアクロバティック飛行し、足の爪で化け物の丸い体を蹴ると真一文字の傷が刻まれた。
「いいぞお兄ちゃん! そのまま行けー!!」
一転攻勢に興奮し、アオイは拳を突き出した。だがその背後で、神が不穏に肩を震わせていた。
「アッハッハッハッ! いいねぇ……でもまだまだ手のひらの上だぞ?」
その手のひらを握りしめると、化け物が奇怪にグチャグチャと吠えた。
「何だコイツ?! いきなりさっきまでとッ……」
咆哮は100%の本気を出す合図であった。
手数も速度も比べものにならない。飛び立つ隙すらなく、一瞬のうちに四肢の自由が奪われてしまった。
「もう分かったろう。君に選択肢以外から選ぶ権利なんて無かったんだよ」
無力化されたツバサの前に現れた神は、見かけ上は哀れんでいるようだった。
「いつまでも強情を張ってはいけない。貴重な神の進言にもっとちゃあんと耳を傾けるべきだよ。どうせロクに考えられやしないんだから」
「くっ……」
このままでは終われない……。
ツバサは脳内でこの危機から脱する方法を探した。
さっきやったみたいに強引にいけないかと試してみるも、もがけばもがくほど拘束は緩むどころか余計に咬合される。
ならばコウモリに変身して、お得意の超音波攻撃でこのまま反撃するかと思ったものの、まず間違いなく超音波で致命傷を与えるよりも、身体を引きちぎるなり、頸を噛み切るなりされるのが先なのは目に見えている。
多分もう、自力突破する手段なんて無かったのだ。独りの限界という奴だ。
かといって、今の状況での味方なんて、戦えないし戦わせたくもないアオイしかいない。そもそも例え元の世界にいたとして、人付き合いを避けてきたツケも回って、危機的状況で命を捨てるような真似までして助け出してくれる人を、ツバサは…………たった1人、思い浮かべた。
「フフッ……」
思わず笑ってしまう。散々、"甘ちゃん"だなんだ言っておきながら、ピンチの時に思い浮かぶ顔がそれしかないのだから。
……もし、ヒカルがこの現場に居合わせたなら、きっと「誰も死なせたくない」とか何とか言って、俺のことも助けるだろうとツバサは想像した。
もしヒカルがいたなら……。そう軽い気持ちで思っていると、辺りが朧に明るくなって、段々と輝きを増していき、最高に達するとフラッシュした。
パリンッッ!!
ガラスが割れるような音で何もない空間が割れると、光が地を這う流れ星のように駆けた。
ズバババッッ!!
神すら眩しさに顔をしかめるうちに光は触手を一閃し、窮地のツバサを救い出した。
「ツバサ! 大丈夫か」
光は、ツバサも知る光闘士ブリリアンの姿となって駆け寄ってくる。顔は覆われてるが、見るまでもない。
「?! ヒカルどうしてお前が!!」
けれど本当に来るなんて思ってもいないから、ツバサは驚き隠せなかった。
「理由なんて必要ないだろ! ヒーローが困った人を助けに現れる理由なんて!」
「意味が分からん……」
ツバサは全くもって釈然としなかったが、今は状況が状況なだけに結果こそが重要視される。
助かった。それだけあれば十分だ。
「さぁ立てツバサ! 俺たち2人で……人の底力を見せてやろうぜ!」
「言われなくてもそのつもりだ」
反骨心でツバサが立ち上がり、2人が化け物と向かい合い並び立つ。
役者が揃い、これで舞台はようやく整えられた。
「よっしゃいくぞッッッ!!」
「黙って走れ……」
歩幅は違えど、同じスピードで駆けていく。もはやどんな邪魔が入ろうが……
ズバズバズバッッッ!!
お互いが助け合い止まることはない。触手なんかでこの2人は止められない。
「いっけーーッッッ!! 2人とも!!」
快進撃を見守るアオイの黄色い声援が飛ぶ。
「さぁあの声に応えるぞ!」
「そんなの分かり切ってる。……お前に言われるまでもなくな」
コンビネーションの息は合っていた。光と影のように。
「ギィィヤァァァ!!」
化け物の悲鳴に似た咆哮が轟く。
「……」
その声に、神が顔をしかめた。彼の描いたシナリオを超えた結末が、いよいよ現実味を帯びてきていたのだ。
下等な人間が自身の手のひらの上で死力を尽くし、どうあがいても悲劇から逃れられない。そんな結末を待ち望んでいたのに、今のままの結末では神としては面白くない。
けれども、もう結末を変えることは出来なかった。
「でぇぇりゃぁッ!!」
2人の力合わせた回し蹴りで3メートルの巨躯を押し倒すと、空を飛ぶツバサと地を駆けるヒカルの、メビウスの輪を引く、目で追えない連撃が炸裂する。
「ツバサ、合わせるぞ!!」
空と地から視線を交わすと、ヒカルも跳んだ。トドメを刺す、2人での一撃を。
「フン……ちゃんとついてこいよ」
滑空し、渦巻き加速していく2つの軌跡。追い抜き、追い越される2つの軌跡は最後には同じところへ。そして化け物と、不幸を望む陰湿な神の野望を貫いた、爆炎で悲鳴をかき消して。
「へへっ、決まったな。なぁ?」
「……」
ヒカルが満足気に言うとツバサはしれっと顔を逸らした。
「なんだよその態度ぉ。俺が来なきゃヤバかったよな。うりうり」
「おいやめろ。じゃれるな」
くすぐったくて、ツバサは絡んでくるヒカルを押しのけた。
「あー、なんにせよ良かった良かった」
遠目で見る2人の悶着が仲良さそうに見えたので、アオイは両手を腰に当て無い胸を張った。
そんな流れる、目下の敵を討ったことによる弛緩した空気……。それを雷撃が切り裂く。
「ヒカル?!」
雷撃に襲われ悲鳴上げたヒカルが両膝をついた時、変身は解かされていた。ツバサは一瞬ヒカルに手を伸ばしかけたが、雷撃が飛んできた方向を向くと案の定神がいた。
「やれやれ……絆の力で勝利してハッピーエンドか。まったく素晴らしいね君たちは」
「にしてはお前、全然面白そうじゃないな」
そう言われ、神は親指の爪で人差し指の爪を削るのを止めた。
「とんだ茶番を見せられて正直興醒めした。君にはとんだ肩透かしを喰らったよ、もっと面白いモノを見せて貰えると期待していたのに、実にもったいない時間の使い方だった」
「俺のためにやったんじゃなかったのか。結局は全部、お前の気晴らしのためだったんだな」
「……ああ、そうさ。私は君を使って遊んでいた」
悪びれることなく神は答えた。
「最初は君に現実の夢を捨てさせ、一生この都合の良い夢の世界に堕として心を屈服させる遊び。次はこの夢の世界ですら君の夢を破れさせ、心を壊す遊び。どっちのルートもエンディングはそれなりに面白さが保障されていたのだがね」
「……そうか、それは残念だったな」
ツバサはもはや怒りがスッと薄れていった、一周回ってこの捻くれた神を、哀れな奴だと思って。
「と言うわけで、この世界に代わる面白い世界を探しに、私はここら辺でお暇させていただくとするよ。じゃあね人間君、……君達のことは忘れない」
黒い左手で空間を破いて穴を開けると、最後までその左を振りながら、神は消えた。
「逃げた?」
アオイが横からひょっこりと、穴が閉じて元通りになった空間を眺めて聞いた。
その声はツバサには届いていなかった。
「神の力を使ってまでやることが、ただの嫌がらせか……」
と、神の所業に関して感想を呟いていた。
「オニイちゃんっ!!」
「ん? アオイ……何だ?」
向けられた手のひらの意味が分からず、ツバサはアオイの目を見返す。すると彼女は「イェイ!」と掛け声をかけた。
「……なるほど」
その期待に応えて小気味良い音を鳴らすと、アオイは鼻を鳴らした。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
正面からその言葉を告げた彼女は、不意にターンする。
「ホント……お兄ちゃんにはありがとうって、何回言っても足りないよ」
「……アオイ」
そう言って、ツバサが妹の頭に手を伸ばそうした時、視界が一瞬白く光った。
思わず手を止めてしまったが、アオイは震え声で続ける。
「いつでも、どこでも、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんだって分かったよ」
段々と、世界が白く光る間隔は短くなって、それに呼応するようにツバサの意識も眠りかけのようにぼやけていって、段々と、不自由になった。
もうすぐ終わるのだと理解して、ツバサは立っている妹の姿を目に焼け付けようと瞬きを捨て、声を聞くために息を捨てた。
「これからもずっと、私を妹でいさせてくれる……」
「……」
ツバサは黙ってただ頷く。背中越し見えていないのだが、アオイは笑う。表情が緩んだおかげで頬には涙が。
「またねお兄ちゃん、会えて嬉しかった。今度は会う時は……元いた世界でがいいな」
「…………お前……」
しかし、ツバサの意識はここで途切れる。この世界でツバサが刻んだ最後の景色は、純白の中で穏やかにこちらを振り返り笑いかけるアオイであった。
⭐︎
「……ここは」
デジャヴだ。目を覚ましたら、さっきまでと違う世界へ。しかし、今度の世界に迷うことない。
無機質な心電図の音が響く、仄暗い部屋、うんざりするほど生きてきたが、なんやかんや捨て置けない世界だ。
「帰ってきたのか……それとも」
右手が握っているものをツバサは目で追う。握っていたのは妹の左手、その妹はさっきまでと違って物言わない。
「全部……夢だったのか?」
どことなくスッキリした感もあった。寝不足でモヤモヤしていた頭がクリアになったような気が。
「…………」
それと吹っ切れたというか。いつまでも物言わない妹に抱いてしまった嫌悪感が、きれいさっぱり消えて無くなっていた。
「アオイ、お兄ちゃんの声……聞こえるか?」
さっきまでと同じように話しかけても、何ら返事は返ってこない。ただ、心電図の音が響くだけだ。けれど今のツバサは、それで十分であった。手を握って伝わってくる温かさだけで、命を張って戦える。
「俺は当然、いつまでも、何があろうと、お前のお兄ちゃんだからな。だから信じることにする、たとえ僅かな可能性でも」
決意を新たに笑えたツバサの胸元で、ペンギンのペンダントは誇らしげに輝いていた。
その時、病室のドアが開かれた。そしてドアの向こうに馴染みの顔があることを仄かに期待しているツバサがそこにあった。