第五編・その2 目覚めた世界
黒い手に強引に誘われたツバサは意識を保っていられず、いつの間にか気絶してしまったらしい。
目を覚ました時にはもはや自分の居場所の見当もつかず、ツバサは開口一番にありきたりな感想を口にした。
「……ここは」
少なからず、さっきまでいた病院でないことは疑いようのない確かであった。
頭上には蔦の葉の屋根が生い茂っていて、影から出て見上げる空は手をかざすほどに青く晴れ晴れとしていた。そして、そう遠くないどこかから楽しげな喧噪が聞こえてきている。
しかし照りつける太陽に、蝉たちの鳴き声と、時間さえもさっきまで流れていたものと違っている。ふとツバサが気づいた自身の服装も完全に夏仕様であった。上下とも黒系なのは相変わらずだが肌が見える。もちろん着替えた覚えはない。
「俺に、何が起きたんだ……。さっきの黒い手……あれは確かに……」
まだ掴まれた感触が残っていて、ツバサは痺れる手で二の腕を撫でた。
病室での最後の光景は決して幻なんかではない。あれは非現実的な現実だった。
だとしたら……あの黒い手は何だったのか?
あれも何かしらの能力なのか? だとして何がしたい? そもそもここはどこだ? 流石に死んではいないよな?
心の中で自分が置かれる状況を整理しようとツバサが考えあぐんでいる時だ。
「あ、お兄ちゃーん!!」
懐かしくも聞き慣れた、朗らかに澄んだ声が呼んだ。
けれどツバサは、それが自分を呼ぶ声だとすぐには分からなかった。聞き間違えるはずなんて絶対ないが、聞こえてくるはずがないという先入観があったのだ。
「あ……」
だが手を振りながら、走り寄ってくる笑顔があった。
信じられなかった。
ツバサにはそこだけ、世界が華やいで見えた……は少々大袈裟な表現だが、視線は釘付けになった。
「ごめーん、なかなか自販機が見つかんなくて」
そんな馬鹿な、どうしてと、ツバサは息も止まり立ち尽くした。
けれど彼女はずっと何事もなかったかのように振る舞って、汗ばんだ髪をかき上げると「はいこれ」と買ってきたスポーツドリンクを突き出した。
「……? どうしたの、これじゃないのが良かった?」
そしてツバサが眺めるばかりで受け取らないので、彼女は首を傾げた。
しかし息が出来なくなるほどの衝撃に見舞われたツバサに、リアクションを求めるのが酷だったのだ。無防備に固まっていて、今なら背後から刃物で刺されそうになっても気づけなかっただろう。
「せっかく買ってきたんだし受け取ってよ。私のおごりだよ」
彼女がペットボトルを顔の前で振ったので、ようやくツバサは体の自由を取り戻した。
「ええ、あぁ……ありが……とう」
しどろもどろのお礼で受け取ると、ツバサは物珍しそうにありきたりなスポーツドリンクを眺め、そして……妹と瓜二つの姿と声をした存在に目をやった。
「お前……アオイか?」
たった今最大級の爆弾も投下され、混迷を深めたツバサが尋ねると、目の前の可愛らしい存在は「あん?」と疑問符のついた顔をした。
「どったのお兄ちゃん、そんな当たり前のこと聞いて。体大丈夫?」
「それはこっちのセリフだ!! お前、ずっと意識不明で……」
「? いつの話してんの」
「は?」
聞けば聞くほどかえって訳が分からなくなるツバサが顔をしかめると、彼女はやれやれと肩をすくめた。
「こりゃ重症な熱中症だったか。私が寝たきりになってたのはもう3ヶ月は前だよ」
「?! 嘘だろ」
だがその言葉が出る時、大抵それは否定される。今回もそうだった。
彼女曰く、嘘じゃない。確かに5年もの間、寝たきりになっていたのは紛れもない事実である。しかし、既に言った通りそれは3ヶ月前までのことで、過去となった。今はこのように病気とは一切無縁でピンピンしている、と彼女は跳びはねたり、クルクル回って見せた。
「でもさっきまで……」
しかしにわかには信じられず、ツバサは手を口元にやった。
絶対おかしいのは向こうで、自分の認識が正しいとツバサは思っていたのに、彼女の揺るぎない態度は、持っている観念をひっくり返さざるを得ないような態度だった。
「じゃあ待て……俺、今日何してた?」
「保護者」
彼女の答えは兄に似たのかいとも簡潔だ。
「保護者? それはどういうことだ」
簡潔すぎて本家本元にすら説明には不十分過ぎだったが、彼女が付け加えることはなかった。代わりに
「いつも本当にありがとね。あと、今日は滅多にない休みに車出してくれて」
感謝を口にして、ツバサの手首を掴んだ。
「さ、行こ。時間は限られてるよ」
浮き足立つ妹は兄を引っ張って、指さす方へ進む。
どこに連れて行かれるかも分からなかったが、この感覚はツバサにとってデジャブだった。
まだ2人が小さかった頃、アオイは面白いもの、楽しそうなことがあったら、必ずツバサの手を引いた。
それはキラキラした瓶の欠片だったり、大きな大きな砂の山だったり、陰りのない黄色い満月だったり、たわいもなくて全てを記録しきれてはいない。が、ツバサは一つだけ忘れなかった。
それは三歩後ろから眺める、嬉しさで上気した妹の横顔だ。待てが利かないその顔の雰囲気は、今と昔でさほど変わっていない。
しかしまだツバサは疑心で一杯だった。まだ何も、何を信じるかも分からない。
この今いる"妹"と、自分が知る"妹"が同じかどうかも……。だから思い出から覚めて怖くなったツバサは引く手を振りほどいた。
突然、慕っている兄に乱暴に手を振りほどかれた彼女はビックリして口も利けずにいたようだった。彼女からしたら、何が原因でそんな態度を取られたかも分からないから、その驚きはなおさら大きかっただろう。
そして妹の顔でそんな表情されるのはバツが悪く、ツバサは言い訳した。
「いや……すまん、ちょっと頭が」
「あそっか、ごめーん無理させて」
納得したようで、彼女は手を頭の裏にやって、媚びた感じに笑った。
それを見てツバサはホッとした。
「動物園なんて久しぶりだからつい、ね」
動物園――その言葉で、ツバサは改めてあたりを見渡した。
言われるまでなんで気づけなかったのか。
ちょっと左側の奥を目をこらして見てみれば、キリンが柵の向こうから首を伸ばして、ギャラリーの1人である親に抱えられた男の子からエサを食べようとしているし、振り返って右を見てみれば、水浴びするカバが大口を広げ、暇そうにしていた。キリンにカバに、サイにシマウマにカンガルーにフラミンゴに……、あたりの動物密度はたじろぐほど高かった。
「……何で動物園なんかに」
困惑の連続である。
まぁアオイと来る場所として、しっくりとはくる。だがそのアオイにも謎が多い。本来なら、アオイが目覚めたならこれ以上喜ばしいことはないのに、素直に喜べない――
目覚めた世界は、果たして夢か幻か。それとも忘れてしまった現実なのか……。
「お兄ちゃん早く早く!」
何も分からないツバサが目を離したうちに、先に行くアオイは無邪気に手招きする。
ただこの瞬間、そして笑顔は、ずっと夢見続けていた光景その物だ。
⭐︎
次は最近一般公開が始まったホッキョクグマの赤ちゃんが見たいとアオイが言ったので、2人は海の動物が展示されているエリアを目指した。
動物園だから当たり前だが、道中にもウサギみたいに可愛らしい動物や、童謡では有名だが案外飼育数の少ないアイアイみたいに珍しい動物が暮らしている。
動物好きのアオイとしては、こうなると真っ直ぐには歩けない。
「あー待ってお兄ちゃん、写真撮るから」
気になる動物に出会う度にアオイは立ち止まり、ハンドバッグから自撮り棒を取り出す。今時の若者らしい姿である。
「ほら、撮るからこっち来て」
「また俺も写るのか?」
「何でそんなこと言うの! 当然でしょ!」
「……仕方ないな」
気は進まなかったが誘いを無下にも出来ず、ツバサは横に立つだけ立ってやった。アオイはピースして、そしてシャッター音を響かせた。
「撮れたか?」
「へへ、撮れたかマル」
「……結構撮ったんだな」
横から覗き込んでみれば、スマホのアルバムは今日撮った写真が一画面で収まらないほどにあふれかえっていた。
その写真だけで、ツバサにははしゃぎっぷりがその場で見たかのように分かった。
記憶はないが、どうやら随分と楽しんでいるらしい、アオイも、自分も……。記録がそう示している。
しかしもし、この世界が現実でないのならば、全て虚構になる思い出である。
「…………これも嘘っぱちなのか……」
写真を整理するアオイを見下ろしながら、ツバサは心の中で呟いた。
そして嘘であることを疑いつつ、これが現実なら良いのにと少しは思い始めている気持ちには、ようやく気づきかけていた。
しかしまだ、考えても考えても何一つ分からないでいた。場所も時間も、己の認識の何が正しくて何が間違っているかも。そして……これからどうすれば良いのかも……。
「お兄ちゃん?」
「! 何だ」
「いや、お兄ちゃんは自分で撮らないのって、聞いたんだけど」
「そ、そうか」
上の空で完全に聞き漏らしてたらしい。ツバサは重ねるように「悪い」と一言謝罪した。
「大丈夫? ボンヤリしちゃって」
「……ちょっと、分からんな」
心配してきた妹の問いに、ツバサは大丈夫とは答えられなかった。
今、何となく危うい気がしていた。
段々と知の中心、自分の核が、崩れて来ているような、そんな感覚があったのだ。
「楽しんでる?」
その問いにも、口だけでなら何とでも美辞麗句が言えた。けど本心はと言うと……
分からない――
その一言が正解であり、事実であり、真理であった。
⭐︎
「見てお兄ちゃん。綿菓子みたいじゃね!」
展示場のガラスの前に立つアオイは、ぬいぐるみのようにモコモコした可愛らしいホッキョクグマの子に、目を輝かしていた。しかしそんな彼女も、ふと横にいる兄が目線を伏せがちにどこか浮かない表情をしているのに気づくと、つい脇を貫手で小突いてやった。
「あたっ!!」
ツバサが突かれた脇を抑えてなお、彼女はムッとしていた。
「さっきからよく、そんなつまんなそうな顔できるね。何がお気に召さない? せっかく楽しんでるのに」
「いや……そういうわけじゃない。つまんなくなんかない。俺は元々こういう顔だ」
事実を言ったところでどうにもならないのが分かりきっているから、ツバサは適当にごまかそうとした。
「そうだっけ? 私のイメージとは違うかな」
「そうか?」
「うん。昔から小難しい顔はしてたけど、もっと笑ってたような」
「……ま、5年も経ったからな。5年もあれば、色々変わるんだよ」
ガラスに映る、鏡映しの自分に向けてツバサは言った。
「……そうだね、5年だもんね。言葉だと一言だけど、長かったよね。私なんて目が覚めたら大人だしなー」
アオイもまた、鏡像の自分に向けて言った。
ちなみにこの展示されているホッキョクグマの母グマもちょうど5歳であった。彼女が眠る間には、ぬいぐるみのような小熊が巨漢になる年月が流れていた。
「……いやそう言うなら、お前は何も変わっていない。そっくり俺の記憶のままだ」
と、ツバサは笑顔で目をつむってみせた。
「えーそうかなぁ? 大人っぽく……」
「なってない」
「なってないのか」
兄の食い気味の否定に、妹はため息をつき、肩を落とす。足下への視界は非常に良好であった。けどツバサが言いたいのはそういうことじゃない。
「単純に、5年遅れを取ってるからそうなのかもしれないし、あるいは俺の意識の問題……かもしれない」
「……どんな意識?」
「お前は知らないだろうが、俺はずっと側で見てきたからな。毎日毎日、変わりないお前に……嘆きたいと思うこともあった。いや……現在進行形で思っている」
言い直させたのは、世界への疑心だ。ただ、疑心は当初よりすり減っていた。
短時間だが歩いてみて、今いる世界とずっと生きてきた世界の違いなんて無いと分かった。
相変わらず太陽は明るく熱いし、草花は風に香るし、そして生命は確かに生きている。この世界におかしなところなんて無い、前と同じだ。
だからツバサは、気付かぬうちにこの世界を認め、迎合しかけていた。
だが、何せ正体不明の"黒い手"だ。それがツバサを惑わせる。今見ているこの世界が本当に本物なのか。
黒い手と迷い言、最後の記憶がこの世界の純度を濁らせる。あと、残念ながらもう1つ……。
「ああだからか。いつも側にいてくれたから、お兄ちゃんの声は、寝てた間も時々聞こえた気がしたんだね」
絵に描いたような奇跡が、リアリティを損ねていた。
「だったらもっと早く起きてくれよ」
「それは不可抗力って言うか。返事はしてたんだけど……」
兄の皮肉りに、アオイは横目を向けた。
「……まぁいい、本物だろうが偽物だろうが、こんなのお前に話したところでどうにもならん」
ならなんで話したのか。
半ば自嘲気味に笑ったツバサは小さく何度も頷いた。そして妹に背を向けた。
「どこ行くの?」
「ちょっとトイレだ。大丈夫、すぐ戻る」
振り返ったツバサの、穏やかな笑顔。だがその眉には、複雑な兄の思いが見え隠れしていた。