第五編・その1 誘う手
昼下がりの病院、冷え切った廊下を行き来する医療関係者たちは皆それはそれは忙しそうにしていたが、もし待合所に居合わせた人たちに、誰が最も逼迫した状況にいるか順位をつけさせたとしたら、真っ黒いロングコートにインナーまで黒で揃えた年若い男は彼らをも抑えてかなり上位に食い込んだであろう。
その男――藤川ツバサは猫背で、静かに歩くことさえ疎かになって、踏み出す度に自分の居場所を足音で示していた。それでなくても、目の下にある水墨で塗ったようなクマが彼の置かれている状態を教えてくれる。
しかし遠巻きに目配りしてくれる人はいたが、元から近寄り難いオーラが発されている上、今は寝不足で鋭い眼力まで備えているせいで、気遣う声でもおいそれとかけられる人はいなかった。
そんなツバサに恐れること無く近づいていけたのは彼の知り合いの、杖をつく灰色の髪のおばあさんであった。
「ツバサ君……大丈夫かい?」
ツバサが春の太陽のような尋ね人の方を向いたのは、紙コップに注がれた水を飲み干してからだった。
「……レンばあ、か」
声色だけで分かっていたが、ツバサが目を擦れば確かにレンばあが、世界中の誰が見ても心配していると分かる顔でいた。
「何か用か……。無駄話なら勘弁してくれ」
つっけんどんと言ったツバサだったが、レンばあは慣れっこで気にも留めない。
「ずいぶんと疲れてるみたいだけど、どうしたの? ちゃんと休みはとってる? 顔色凄いわよ」
「心配されるほど、俺はヤワじゃない。……無駄話は勘弁しろと言ったが」
「またそんなこと言って、前もそんな風に無茶して担ぎ込まれたんでしょ。知ってるのよ」
「……」
一体どこで聞いたのか。しかし倒れたのは本当だし、なんならそのせいで死んだ。
指摘が図星以上だったゆえに流石のツバサも決まり悪く、「別に」とか細い声で答えるのがせめてもの強がりだった。おかげでレンばあは心配から呆れたようになって、長い息をついた。
「悪いこと言わないから、少しは気を抜いてみたら? 頑張り過ぎても毒よ。ツバサ君はもうずぅぅっと頑張ってきたんだし、そろそろ一休みいれても良いんじゃない」
しかしツバサは気遣いを鼻で笑うと、
「俺はそんなこと望んでいない」
と、そう言ってのけた。
「ありゃもう強がってばかりで……。アオイちゃんだってそんなこと望んでないわ。自分のせいでお兄ちゃんがまた倒れたら、彼女きっと悲しむに決まってる」
「そんなもん……」
言いかけて、ツバサは続く言葉を封じた。
今自分が言おうとしたことが、例えその場しのぎのでまかせだとしても安易に口に出来ない、おぞましい未来だと気づいたのだ。ただ頭をよぎっただけでも十二分に不愉快であった。
そんなツバサの額然による沈黙を、返す言葉も無いと解釈したのか、レンばあは諭すように言う。
「もっと自分を大切になさい。1人きりの世界なんかじゃないのよ」
「……」
何も言わず、ツバサは水をもう1杯一気飲みすると紙コップを握り潰してゴミ箱に放った。
言葉を押し流し、意思を告げたのは去り際、背を向けてであった。
「……俺は、アオイを守る。いつか帰ってくる時まで……。これが俺の意思だ。誰の意思も関係ない」
再確認するかのように、顎を上げて言ったツバサは足早に……。早くアオイの下に向かいたかったのだ。
その背中をレンばあは憂い気に、見えなくなるまで見送っていた。
⭐︎
「戻ったぞ、アオイ」
その声色はいつになく優しかった。ツバサの柔らかな声を聞ける人間は世界にたった1人、妹の藤川アオイしかいない。
「…………」
しかしその唯一であるアオイが、かけた声に何かを返すことは無い。彼女の全ては、この病室に来た5年前のあの日から閉ざされた。
けれど世の中に存在する兄貴がそうであるように、ツバサはアオイが無事に、ただ生きていてくれさえいれば、文句も何も言うことはなかった……はずだった。
「やれやれ、レンばあの節介にも困ったもんだ。良い人はこれだから面倒くさい」
おかげで余計に時間を食った。今は1分だって、そばにいないわけにはいかないのに……。
画に描いたようなありがた迷惑に、ツバサは失笑を禁じ得なかった。けれど例え失笑だとしても、笑うのは滅多に無いことだ。
「……無事で何よりだ」
丸椅子に座ったツバサは、眠ったきりの妹を冷たい指でそっと撫でてやった。
温もりは数少ない、感じ取れる生の証明。数値なんかよりよっぽど、ホッとさせてくれる。
こめかみを撫でると、チクチクと指に伸びた毛先が刺さる。前髪をかきあげてやるとようやく、整った眉が閉じた目の上でじっとしていた。
「そろそろ、また髪切らないとな……。今度はどんな髪型がいい……て言って、ずっと同じ髪型だな。試しにもっと伸ばしてみるか?」
ツバサの思い出の中のアオイは、いっつもキノコみたいな頭をしている。髪を結んだところなんて、彼女が幼稚園に入る前とかの記憶で、ついぞ見た覚えがない。
今ならあともう少し待ってみれば、一つ結びくらいは出来るだろう。
「でもお前は短い方が好き……、そうだったよな?」
けれどそれはきっとアオイの好みとは違ったはずだと、ツバサは思い直した。
「長いとケアするの面倒なんだっけ。……だったら今は伸ばしても構わないのか。なぁ!」
「……」
細く白い、ややもすれば折れてしまいそうな妹の手を両手で握りながらツバサは自虐的に聞いた。
意味の無い行為だと分かっていながら、ツバサはいつもアオイとお話している。医者にも勧められているし、何よりこうして話しかけていると、アオイも話したくなって、つい飛び起きてきそうな気がしていた。
けれど今日は何でか、いつもやっていることなのに……いや、いつもやっているからこそ、それが無性に虚しく響いた。
いつもと変わらない暗く白い部屋、いつもと変わらない無機質に生の温かさ伝える心電図の音、いつもと変わらない景色、走り回らない妹、喋らない妹、笑わない妹。コピペみたいな日常が、ツバサには虚しかった。しかもそれがいつまでも続いてしまうのではないかと思ってしまう心もまた、虚しさをいっそう煽る。
「……あと、どれだけ寝たら、お前は目覚めてくれるんだ」
言葉が返ってこないのは言わずもがな。それに答えは本人だって知ってるはずない。そもそも質問でもない。もっと別の純粋な物である。
「いい加減、戻ってこいよ。夢の世界もそろそろ飽きただろ」
妹の手にすがりながら懇願するツバサの姿に、いつもの高圧的なクールさは見えない。見えるのは悲痛な1人の兄貴、家族の姿……。
「早くしないと2人とも……笑顔が見れないだろ……」
待ちくたびれていた。
いつかまた、アオイが目を覚まして笑ってくれる日は5年前からずっと待ち続けていた。
しかし、気づけばもう待てるのは1ヶ月足らず。それが仮初めの命のタイムリミット……。
もし勝って……勝って願いを1つ叶えられるなら、迷うこと無くツバサはアオイを目覚めさせる。けれどたった1つの願いでは限界がある。
ツバサの願いが叶い、アオイが目覚める時、ツバサはこの世にはいない。
「……」
だとしても、ツバサの願いがブレたことは一度も、一瞬も無い。
ただやはり、欲はどうしても存在するわけだ。自分の目でアオイの笑っているところを見たいと、また一緒に生きたいと――
だが、もうすぐ叶わなくなる……。
そんなことを思いながら、握ったその手を離せなかった。……と、その時だ。
窓は閉め切られているはずなのにカーテンが風で舞って、その風は潤んだツバサの目も乾かした。
奇怪である。誰か、何か来たのかと。ツバサは感傷めいた感情は捨て、あたりに細心を配った。
『あぁなんて可哀想な世界の犠牲者よ』
「?! 誰だ」
どこから聞こえているか分からない声に反応し、ツバサは椅子を倒して立ち上がった。
しかし首を回しても自分たち以外に誰も見えない。
『この世界は壊れている。そして、壊れた世界に存在する全ての物事も、支配する世界が壊れている以上壊れた不完全なものにしかなりようがない。だからこそ人は不幸だ。君を含めて人が不幸なのは、壊れた世界に支配されるせい。だからこの世界から脱せば、誰もが皆、不幸から逃れ完全、すなわち幸せになることが出来るのさ』
声の主は一方的に説き続けた。優しくも非情、爽快で陰湿、遜りながら傲慢、矛盾だらけの、つまり極めて人間的な声で。
「どこにいる隠れてないで出てこいッ」
ツバサは耳を傾けることなく、この奇怪の正体を探した。
『それを君にも今から教えてあげる。この私がね』
最後の声は機械的であった。無線越しに聞こえるようなノイズ混じりの声。
そしてツバサは自然と、心電図のモニターに視線を引き込まれた。
モニターに映っていたのはバイタルではなく、弄ぶ大きな黒い左手だった。骨に皮を貼っただけの細長い長い指と、赤い鋭爪の左手だ。
ツバサは嫌な予感がして、それはすぐに的中する。
手のひらが画面から飛び出して来た。
「ぐぁっ!」
狭い病室には逃げ場なく、ツバサは呆気なく捕まってしまった。
黒い手の中に収められてしまい、足を空中でバタつかせるのが、みっともないが唯一の悪あがきである。
『さぁおいで……』
「は……離せっ……」
骨も潰されそうな力にもがくツバサだったが、結局最後は抵抗虚しく、黒い手に引きずり込まれた。