第二編・その2 絶望は死の病
最寄り駅から見て東の方面には、都会の森園と呼ばれる広大な公園がある。入園料を取れるような洒落っ気こそ無いが、それ故にテツリの無い袖もそこが良いと言ったため、その点ではかつての先生と教え子の会談の場としてはうってつけだ。
行き着く道中は和やかな雑談が弾み、テツリは矢継ぎ早に語られる、自分が知らないナギサの新たな姿と思い出に目を細めていた。
高校3年生の最後の大会、気が遠くなりそうだった受験勉強、案外つつがなかった涙の卒業式、初めての1人暮らしに、1年目を終えた花の大学生活、自分が稼いだお金で服を買った話、最近になって始めた自炊は食費を抑えるのに大いに貢献しているらしい。
楽しげに話すナギサの姿は、テツリにまるで彼女の担任をしていた頃まで時間が巻き戻ったような、そんな懐かしい気持ちを思い起こさせてくれるものだった。
けれどあったのは楽しい気持ちだけじゃ無い。
昔と違って、お互い話しながらどこか探り探りで用心するところが覗えたのは、ひとえに2人が共にうかつに触ることの出来ない、共通の地雷を抱えていたことが原因だった……。
踏まないよう話題は気楽な脇道に逸れながら、されど公園には一直線にたどり着いていた。
なだらかな丘を削ったような造りをしたその公園には、子供向けのアスレチックはもちろん、2つの野球場まで設けられていた。普段ならば休日には、黄色い帽子をかぶった小学生から草野球にいそしむ仕事休みのおじさんたちまで、運動好きの地元住民が憩う場だ。しかし今日は平日、それに最近のうかつに出歩いただけで死と隣り合わせな時勢も相まって人影はどこにも皆無である。テツリとナギサがやって来た時、公園は実質2人の貸し切り状態であり、そんな有様をまるで「知らない世界に迷い込んだみたい」だと、ナギサは人気の無く、木々の影が落ちるばかりの不気味な静けさ表した。
しかしおかげで誰にも邪魔される心配は無い。身を落ち着かせて話せるところを探していた2人は、野球場の脇にあるシンプルなベンチを見つけた。
「はぁ~よっこいしょっと」
ナギサが真っ先に端を陣取ると、テツリは無意識に反対の端に座る。3人掛けのベンチに1人分の間隔を取った形だ。
真っ直ぐ前を向くと、格子状の柵があって、その向こうには黒土のグラウンドと、緑の芝生が広がっていた。日当たり格差のせいで、柵を挟んだ手前と向こうで、世界が陰と陽で分断されているようだった。
「……ねぇ先生……先生は今も、先生やってますか?」
座って開口一番……もっとも座ってから少しの間、風に木の葉が舞う静かな時がしばし流れた後に、ナギサから切り出される。心のつかえ。
その答えを教えてと言わんばかりに、されど同時に不安げにそっと、ナギサは先生の横顔を見やる。
恐れながらも勇気を持ち、過去に置いてきた地雷の外蓋に手を触れた瞬間だ。
爆発はしない。
けれどテツリは顔をそちらには向けられず、言葉少なげに答える。
「いや、今はもう僕は……先生じゃない」
「……辞めちゃったんですか……あのまま」
「うん……」
重々しい口から発されるたった2文字が、心優しき若者の眉を下げた。
「そうだったんだ。正直……こんなこと想像はしたくなかったですけど、先生が療養に入った時にはそんな気はなんとなくしてました。もう二度と、戻ってこないかも……って」
思ってしまったのは2年半前。
それから1週、1月、1年…………時間が流れる度に彼女の中で、『テツリに会えないかも』という外れて欲しい予想は的中率の高いものになってしまって、卒業の日を迎えた時、ついに予想は純然たる事実と成り果てた。
「もう一度、教壇に戻りたい気持ちも少なくなかった。辛いのは僕だけじゃない、筒井さんも、みんなも……。僕がクラスの誰よりも大人なんだから、一番歯を食いしばるべきなんだって鼓舞する自分もいた。でも駄目だった……」
それからもう二度と、テツリはみんなの教室に戻ることも、あらゆる形で言葉を交わすことも無かった……。
時は止まらず流れ続け、みんなは卒業、テツリは……みんなに黙って1人命を落とした……。
「あの時にはもう、戻ろうにも教師としての僕は死んでた。どうしようもなかった」
別に死んだから辞めたのではない。
もし仮に、仮に体が治っていたとしても、それでどんなに戻りたいと思えたとしても、きっと教師には戻れなかったとテツリは思う。
何気なしにこなせるほど、人としても教師としても浅はかではなかった。
妥協、折り合い、迷い……そんな邪の類いを混入させたくない。生徒たちを教え、導き、守る立場として。
思いだけは誰より強かった。
それ故に、生徒が何より大事で、生徒が健やかに育ってくれることを何より願っていたテツリにとって――
生徒を死なせたことはたとえを知らない衝撃だった。
精神も肉体も、教師としての矜持も、根こそぎ抉られて……、欠損は死してなお治りはしなかった。
眠れない夜は数知れず、眠れた夜は夢の中で責め立てられた。
深く深く残された醜い傷跡は、最近になってより一層うずいている。止まっていた心臓を動かすほどに。
「でもあれは……先生は悪くない……、悪くないよ」
ナギサの口をついた心からの言葉、慰め、だがテツリは「前にも同じようなことを聞いた」と、自嘲と共に吐き捨てる。
そんな過去に病まされる先生にナギサは「だって!」と否定の語気を強め、反射的に立ち上がった。
「それだけは確かだって言える。先生は悪くない。それにマサだって、先生に先生を辞めて欲しくなんて無かったと思う……」
「そんなの分からない。それにもしマサに会えて、マサが許すよって言ったとしても……僕が僕を許せないんだ」
頭上からの声に、テツリは視線を膝に置く拳へと落とす。
この手だ、震えるばかりのこの手で……掴めていたなら……。まだ教師であり得た。
けれど現実は、その手を伸ばしてあげることすら出来なかった。
生徒の危機に気づいてやれず、思うばかりで何もしてやれない自分には、教師として生きる資格が無いと、テツリはもう何度も何度も、出口の無い迷路のように思い至ったのだった。
「そんな心持ちで教師なんて出来ない、終わってたんだよ」
「そう……。私は先生にまだまだ教わりたいことがいっぱいあったのに……」
ハッとしてテツリはナギサの顔を見上げた。暗い暗い……寂しさに溢れた表情だった。
「最後の大会は先生にも応援して貰いたかった、受験勉強も辛いとき励まして欲しかった、卒業式も……先生と一緒に泣きたかった……」
「……ごめんなさい。……今になってやっと分かったつもりだよ。僕はみんなを残して勝手に去った。1つのために全部を投げ捨てたんだって……」
なんとかしなきゃと思っても、今更テツリに出来ることは頭を下げるくらいだった。それも何一つ解決にならない。
「僕は自分勝手だ。自分のわがままで……いたずらにみんなの心を傷つけてばかりだ」
濁った声で発したテツリはうなだれる。
「僕は……僕は弱い人間だ。その弱さを、絶対許さないで欲しい……」
「…………弱い……」
ナギサが反芻する。
「情けない話だけど、弱すぎて、思いばっかり先走って、体がついていかないんだ。今日、喧嘩したのもそれが原因。友達は『頑張った』って慰めてくれたけど、僕は自分のふがいなさを責めて欲しかった。我ながらひっどい自分勝手だよ」
ため息ついたテツリは頭を上げた。表情は笑っていた。
テツリ自身ですら、自分が笑っている理由は分からなかった。けれどきっと情けなさが突き抜けて、感情の起伏がおかしくなってしまったのだろうと、テツリはその笑みに嘲笑の意を与えた。
「……責めたら先生の気も、少しは和らぎますか」
そう言うとナギサは、目を閉じて過去に集中する。
真っ暗な闇に、思い出が次々とスライドショーのように流れては消えていく。2年半の付き合いにしては分厚いフィルムだった。
だが有限な思い出はやがて上映を終え、ナギサは現実で瞬きする。
「でも私、先生に責めるところなんて見つけられない。節穴なんですかね、私の目」
意味深な笑顔でそう言ってのけたナギサに、テツリは誰に向けてか皮肉を込めて、「美化しすぎなんじゃない? 思い出を」と苦笑いする。
⭐︎
あんな陰鬱だったというのに、気心知れた仲で話すという行為自体が楽しかったのか、2人の時間が経つのは早かった。
問題は何1つとして解消されなかったが、それでも吐き出せただけで足取りは気持ち軽いものへ。
電灯に明かりが灯され出した駅前の通りを、2人は歩いていく。
「ごめんね先生、付き合わせちゃって」
「いいのいいの。ちゃんと目的のものは買えた?」
「うん」
ナギサは右手に提げた膨れたエコバッグを掲げて見せた。今日は元々買いだめしておく予定だったのを、テツリとの邂逅で繰り下げたのだ。まぁいつ買おうがシイタケはシイタケだし、ニンジンはニンジンだから関係ない。ちなみに晩ご飯はきつねうどんである。
「あれだね。案外手際いいもんだね」
「そう?」
「いや、女の人の買い物って時間かかるイメージあるから」
"イメージ"でしかないのが、若干悲しくもテツリは思う……。
「うーん、別に何買うかなんて最初から決まってからね。私はいつもこんなもんだよ」
そう言ったナギサは、唐突にテツリの頭の上から足先まで視線を巡らせると、思いついたように言う。
「服買う時とかなら私もかかっちゃうけどさ」
と、服を例に持ち上げる原因を作らせた、テツリのジャージに手が伸びた。
改めて詳しく観察すると、あちこち裂けているのもさるものながら、派手な傷があるから目立たないだけでほつれとか、擦れ跡とかもだいぶ酷かった。これじゃ古着屋すら買い取ってくれないだろう。
「これ着て家から来たんでしょ、よくきたよね」
こんなボロボロの服を着ようと思ったという意味でも、そんな見るに堪えない格好で都心にいれる意味でも、ちょっとダメな方の意味で凄い……とナギサは感じる。幻滅なんて心にもないけれど。
「ま、まぁ格好なんて気にしてないから……」
「そうですかぁ……。流石に気にした方がいいと思うけど……てか寒くないんです?」
「そんなでも……」
「……やっぱ先生、生活苦しんじゃないの? ジャージくらいなら貸そっか?」
「それはいろんな意味で着れないよ。それに大丈夫だよ、気にしなくて」
「……でも先生の大丈夫、全然大丈夫じゃないしなぁ」
「はは……」
嫌疑の目をかけるナギサに、テツリは額に冷や汗をかかされた。
あんまり生活についてツッコまれると、ボロが出てしまいそうで。
「てか何してるんです、仕事?」
この質問を聞いた瞬間、テツリは心臓発作かなと思うほど激しく動揺した。
先に冷や汗かいておいたおかげで、表情の変化は小さかったが、上手いはぐらかし方はそうそう浮かばない。
だが黙っていては不審さが増すというアンラッキー。
猶予の無い中、テツリが何とか絞り出したのは……。
「…………えっと……害虫、駆除……」
ある意味で真実であった。もっとも、報酬の無いボランティアのようなものだが。
「へぇ、シロアリとかスズメバチとか?」
「うん……」
そしてそんな可愛い物が相手では間違いなくないが……。命がけには違いないがリスクが違う。
「先生が……害虫駆除…………」
ナギサは、なんとなく分厚い防護服を身に纏い、殺虫剤片手にハチの大群と格闘するテツリの姿を想像して、つい「似合わない」と感想を口に出していた。
「全然想像できない」
「はは……」
愛想笑いしつつ、テツリは咄嗟の出まかせが上手くいったことに胸をなで下ろす。
「てか先生やってるところ以外、想像できないんですよね」
「……」
「あ、ごめんなさい」
無言の所作がそう言わせた。テツリがあからさまにショックを受けたのを、ナギサは感じ取ったのだ。
「配慮が足りませんでした」
「べ、別に気にしてないよ」
と、ナギサの反対側を向いて言ったテツリの否定は、それはそれは弱々しいものであった。
さて心に槍が刺さっても、歩みは止まらない。
2人は今真っ直ぐ、ナギサが住まうアパートへの帰宅の途を。道のりは駅前から逸れていき、だんだんと静けさを増してくる。電灯が無ければ怖いくらいだ。
そしてもうすぐお別れだ。そんな時、ナギサが重々しく口を開く。
「……私ね今、教員免許取ろうと思ってるの」
「あ、そうなの?」
「うん、来年からそのコースに進むつもり」
最後にこれだけは聞いて欲しかったことだった。自分が同じ道へと進む決意をしていることは。
「一応体育教師を志してまして」
「そうか! まぁ僕から言うことは無いよ」
「アドバイス、下さい」
「アドバイス? まぁ想像してる以上に大変なことだと思う。だいたい現実なんて、想像超えてくるんだからさ」
「はい、気をつけます」
「フフ、頑張れ!! 筒井さんならきっと良い教師になるよ」
エールを送るテツリは、シワシワな満面の笑みを浮かべていた。
しかし、ナギサはどこか儚げで……。そしてポツリと水滴のように呟く。
「もし私が教師になったら、先生も戻ってきてくれませんか。一緒の学校で……」
「…………それは……」
無理な話だ。
だって自分はもう死んでいるのだから……。
いや、ゲームで勝てば叶う話でもある。しかし、テツリの願いは元から決まっている。
その願いには、自分が生き返ることは一切合切含まれていない。だからナギサの誘いには……。
「なーんて! 冗談です! 先生はぞーんぶんに虫と戯れてくださいなッ」
ナギサはテツリの肩をぶっ叩き、そして笑い飛ばす。
テツリは「あぁ……」と息が詰まりそうだった。
必要以上に……不自然なほど誇張した彼女の笑いに、彼女の本心を見てしまったのだ。
まだ僕を待っているのか……。
ナギサが自分がもう一度教壇に立つのを待っていると知り、テツリは何も言えなくなった。
だってそんな希望はどこにも存在しない……。
ナギサの希望と、自らの願いとの間に板挟みにされ、万華鏡のように揺らぐ心でテツリはトボトボと彼女の後ろをついていく。
その時だった――
「…………ッッ!」
まるで足が金縛りに遭ったように固まって、テツリはつんのめった。
「どしたん先生? 立ちくらみ?」
不思議そうにナギサが振り返った、その背後――
「危ない!!」
「え?」
ナギサは呆気にとられた。
見たこともないくらいテツリが機敏に動いたかと思えば、急に自分を抱いて……分かったのはここまで。
重なった2人は天地を目まぐるしく映り変えながら地面を転げる。
「きゃっ!?」
「ごめん大丈夫!?」
「は、はひ……なんとか」
彼女からしたら突然押し倒されて困惑するしかなかったが、何に浸る暇も無く、テツリの視線を追って事態に気づく。
「……う、何アイツ」
薄黒い夜道に、いつのまにか現れた大男。
だが明らかにただ者では無い。
漆を塗ったようにテカテカとした鱗状の肌、それ1つで別の生き物のように動き回る尻尾、切れ長の光る瞳孔……。まるで爬虫類と人間を合成したかのようだ。
それが今、報道されている化け物なのだと気づくのに、ナギサは少々時間を要した。まさか自分が会うとは思っていなかったから。
だが、テツリは瞬時に理解する、気配で。
「霊獣……こんなタイミングで来るなよ」
最悪の急襲を、テツリは恨みがましく呟いた。