第二編・その1 先生と生徒だった者
黒い影が晴れて、開けた視界に飛び込んできたのは、一面に広がる無垢な白い雲だった。のんびりと流れていく雲を上里テツリが眺めていると、
「おっ、目ぇ覚めたか」
視界の外からは聞き慣れた友の声――佐野ヒカルの声がした。
「……ここは?」
太い木の棒を貼り合わせたベンチの上で横になっていたところから腹筋で起き上がったテツリは、座ったままあたりを見渡してから彼にそう尋ねた。
目を引くのは大理石風味の石で造形された噴水池に、タイルで舗装された小道に沿うように生える木々、ありきたりな都会の中の自然といった感じではあるが、見たことはありそうでないところだった。
尋ねておきながら、景観よりも無性に全身が凝っていたことの方が気になって、テツリは肩を揉んだ。それとやけにスースーすると思っていると、着ていたジャージのあちこちが破れていたことに気づく。幸い服としての体裁はまだまだ整っている。
「近くにあった公園だ」
隣の、同じように背もたれのないベンチに、脚を組んで腰掛けていたヒカルが曖昧に場所を答えた。
「雨が降んなくて良かった。雨ざらしは気持ちのいいもんじゃないからな」
「…………今って……いつです?」
「3月16日、ゲーム開始から数えて24日目だ」
「ということは一日経ったのか……」
なんとなくそんな気はしていたが、やはり眠っている間に日を跨いでいた。
テツリは視線を下に向けると、心ここにあらずといった様子で物思いにふけりだした。
何故見知らぬ公園に寝ているのか、何故ヒカル君が横にいるのか、昨日は何があったっけか……。
思考の果てに、雷に打たれたような衝撃が駆け巡り、テツリはハッとした。
「フラムさんは!? フラムさんたちはどうなりました!?」
テツリは早口でまくし立てると、ヒカルが腰掛けるベンチに手をつき身を乗り出した。
そうだ昨日は、自分はフラムさんを魔法少女の呪縛から救おうと苦心していた。彼女の心へ訴えを続け、覚えている最後の記憶は、閃光と共に遠ざかっていく彼女の顔であった。
そこから記憶は飛んで、今に至るわけである。この一連の記憶が何を示唆するか分からないわけではなかった。だがもしかしたら……そう思ってテツリは可能性にすがった。報われて欲しかった。
「……分からない、俺には……」
一瞬の間を置いてから、ヒカルが明らかに浮かない様子で答えることに、テツリは正解を知った。いや、確信させられた。
「……ですよね。知ってました……駄目だったことは。僕の思いは……届かなかった……」
すなわち救えなかった。
ねじ曲げられた彼女の人間としての尊厳を、取り戻してやれなかった。
そのことを分からせられたテツリは、体を震わせた。
それは悔しさと、自分を刺す憎悪。
「結局その程度なんだ、僕なんか……」
「よせ……。自分を責めるなよテツリ」
ゴツゴツとして大きな手を震えるテツリの肩に置いて、ヒカルは手にグッと力を込めると、テツリの切なる思いを労う言葉をかけた。
「むしろ、"お前は"よくやったよ……」
言い終えるとヒカルは小さく息をつく。
「俺は、何も出来なかった。あの子たちを助けるのを諦めないのも、お前のあの子を救いたい気持ちを守ってやることも、何も出来なかった……」
思い返すと、不甲斐なさと申し訳なさがぶり返してヒカルは目を伏せた。
「でもお前は立派だったよ。最後まで立派に戦ったんだ。だから自分を責めるな」
「…………」
テツリはずうっとうつむいたまま、黙ってヒカルの言葉に耳を傾けていた。
嘘じゃないことは分かっている。本心で自分の事を慰めようとしてくれていることも、けれどテツリはポツリ言う。
「でも、救えなかったことに変わりないじゃないですか……」
「……いや」
「だってそうでしょう!!」
顔を上げたテツリは声を荒らげた。今までの人生の中で最も大きい声だった。そしてまくし立てる。
「フラムさんは! フラムさんだけじゃない他の魔法少女たちだって! 今もどこかで苦しんでるじゃないですか!!」
テツリのタガが外れた。
マズいと思っても、もう止まれなかった。
「それなのに……どこが立派なんだよッ!!」
昂ぶった感情が息を荒くする。
だが急激に燃え上がった炎がすぐ燃え尽きてしまうように、テツリの感情もすぐに冷えた。
けれども後には後ろめたさという名の灰が残り……。
気づけば衝動に突き動かされるように、テツリは駆けだしていた。
「待て! テツリ!」
背後からヒカルが呼んだが、テツリは決して振り返らなかった。
心を反映したかのように青葉がざわめく中、思いやりは振り切られた。
⭐︎
「最低だ……僕」
紫のツツジが植えられた、煉瓦造りの花壇に腰掛けるテツリは力無く呟く。まるでリストラにあって、この世の全てに絶望したような姿だ。
走り出しても行き先なんて分からなかった。落ち着けず、当てもなく彷徨った末に、テツリは自分でも気付かないうちに遠くへと来ていた。
けれど今、自分の居場所なんてさしたる問題ではない。沈みきった心では景観もどうでもよくて真っ白に見える。
……自分の弱さにイラついて、そのイライラをこともあろうに友達にぶつけてしまった。自分のことを思いやってくれる親友に。
テツリは顔を覆った。
覆水が盆に返らないのならせめて時間を戻して欲しいと、友情のためにそう思った。けれどもそうして思う時、大抵その思いは叶わないものだ。
「…………」
と、昼下がりの街をまばらに行き交う人々はそんなテツリのことを気に留めはしても、見るからに面倒ごとを抱えてそうなテツリには関わるまいとしていた。
しかし1人……。俯くテツリの姿を見とめると足を止めて、不思議そうな表情を浮かべて寄っていった。
「……先生?」
突然の頭上からの声に、テツリはなんとなく顔を上げた。見ればカジュアルなパンツスタイルの格好をした若い女性が立っている。
自然に目と目が合う。
すると近寄ってきた、まだ成人してるか断定できないほど若い女性が、パァッと明るい顔をした。
「やっぱり、上里先生だ!」
はて自分のことを知っているこの子は誰か?
テツリは彼女の顔から記憶を辿る。
切長の目に、程よく日焼けした小麦色の肌、そして人懐っこそうな笑顔と、それを引き立てるえくぼ。
さして難問でもなく、すぐにピンときた。
「君は……筒井ナギサさん!?」
「はい!」
髪色がブラウンになったのと、髪の長さがベリーショートからボブへとちょっと伸びた以外には、ほとんど変わらない面影では間違えるはずもない。
テツリが名前を呼ぶと、その女性――筒井ナギサは元気な返事をした。
「お久しぶりです、先生!」
「ああ、久しぶりだね」
彼女は、テツリが生前高校教師を務めていた時代の生徒である。
担任を受け持った時は2年3組。出席番号24番。
天真爛漫、活発な子で、誰とでも分け隔てなく仲良く出来るタイプの、万人から好かれる希有な人物だった。
部活動はバスケットボール部に所属していて、3年時はSFとして当時のチームを地区準優勝へと導いた実力を持つ。
反面、勉強の方はハッキリと苦手で、特に社会科目は本人も目を覆いたくなるザマ、補習の常連であった。
そのため、政経を除く社会科目の担当教員だったテツリとは、2年時に担任を受け持つ以前からお互いのことをよく知っていて、そして誰よりも教壇を挟んで向き合った仲だ。
「……懐かしいなぁ」
急速にあの頃の光景が甦ってきた。
まだ教師として、活力と希望満ち溢れていたあの頃の思い出に浸り、テツリは微笑した。そして流れで尋ねる。
「どうしてここに」
「春からこの近くに住んでるんです。1人暮らしですよ」
「そっか、もう大学生か。立派になったねぇ……」
大人からしたら、高校生なんてまだお子様である。しかしどういうわけか、大学生になると途端に垢抜けて大人らしくなる。
ナギサもその例外では無かった。あの部活少女が、今や少なくとも格好は大学生大学生していることを、テツリはしみじみ感慨に思う。
「先生こそどうしてここに? あっ、もしかして先生もこの辺にお住まいに?」
「……まぁそんなとこ、かな」
「……ダウトですね?」
流石、筆頭教え子だったかつての少女は、恩師の嘘をたやすく見破る。
「うん、ごめん。先生嘘ついた」
「全くもー、私相手に嘘をつき通せるとでも?」
ナギサは腰に両手を当てて、頬を膨らませて不満を露わにした。
「で、ホントのところは何があったんです? もしかして、彼女に愛想尽かされたとか?」
「いや、そんなんじゃないよ。彼女なんて出来てすらないし……」
「へー相変わらず~」
感情のない棒読みでそう言うと、ナギサは手で口元を隠して密かにニヤついた。
「ん~じゃあなにか、生活苦?」
みすぼらしい格好からそう推測したのだろうが、テツリは「違う」と一言否定した。そして答えを口にする。
「実は友達とね、喧嘩しちゃったんだ……」
「珍しい! 先生が喧嘩するなんて」
「しかもさ。ちゃんと言うと喧嘩ですらない……かな。僕が一方的に色々不満をぶちまけただけだから」
「それはよっぽどですね……聞いたことない……先生が理不尽にキレるなんて」
「でもしちゃったんだ……。本当……なんであんなこと言っちゃったのかな……ハァ」
ため息をつくとテツリはうなだれる。そんなやけにこじんまりとして哀れを誘う先生のことを、ナギサは顔をしかめてジッと見つめていた。
……と、突如思いついたように言う。
「先生、良かったらウチに来ません?」
「え?」
あまりの脈絡の無さに、テツリが目を丸くする。
その表情が言葉の代わりを果たしたようで、ナギサは彼女の恩師が聞くより先に答える。
「だって先生、どう考えても重症でしょ? それなりの理由で人に当たる先生じゃないのはよく知ってるし、それって要は凄い理由抱えてるってことだよね。だったら私、先生の力になりたい。だから相談に乗ってあげる」
「筒井さん……」
感無量だった。教え子から心配されて、思いやりをかけられて、何も思わない教師なんていない。もしもいたなら教師ではない。
ただ、テツリは感動に身を委ねられなかった。死人である自分が置かれている特殊な状況をあまり知られたくなくて、近づけたくなくて、だから教え子だとしても距離は取って起きたかった。大切であるからこそ、その方が良いと思ったのだ。
「いやでも、一応世間体的に……」
「? 大丈夫ですって。もう学校は卒業したんですから」
「それはまぁそうだけど……まだ未成年の枷が」
「そもそも変な気もないでしょう」
「もちろん無いけど」
「……即答するんだ」
それはそれで思うところがあると、ナギサは聞こえないよう小声で、おかげでテツリは反応しなかった。
「教え子の部屋行くのは緊張しちゃうから。家庭訪問ともちょっと違うし」
「……はぁーしょうがないなぁ」
と、テツリがそれとなく招かれまいとしていると、その内心を感じ取ったナギサは諦めの息をつく。が……
「じゃ、その辺でもいいから」
諦めたのは自分の部屋に招くことだけで、話すこと自体は諦めていない。
「それなら文句ないでしょ。私だって先生に話したいことあるし」
一番は、おそらく深刻な先生の悩みを聞いてあげたかったからだが、彼女自身も過去から現在にかけて、積もる話はいくつもあった。
せっかく会えたのだから、家族ほど近過ぎることはなく、他人ほど遠くない関係を持つテツリだからこそ話せる、聞いて欲しいことがあったのだ。
「で、でも僕、今お金1円も持ってないんだ」
「え?」
「そ……財布落としちゃって。い、一応もうさっき交番には行ったからもう大丈夫だけど」
「じゃあ公園とかでも良いです」
「それは……寒いんじゃない?」
「私寒いの平気」
「いやぁ……1人暮らしに風邪引かせたくないなぁ……」
と、テツリは言い連ねて、これで自然を装いつつ頑なに彼女から離れようとした。
しかし知る人が見れば明らかにテツリの言動はおかしいもので、そんな先生の様子を見てナギサは眉をひそめた。
「……イヤですか、私の話すのは。その……」
「! そんなことない!!」
教え子が発した、感情を押し殺した冷めた声。ハッとしたテツリは食い気味に強く否定した。
「ただ…………いやごめんッ! ……君は、本当に優しい子だね、ずっと」
そんな子を手前勝手な理由で傷つけようとしている自分に嫌気が差し、頭を下げたテツリは自分に向かう怒りを沈めようと静かに息をついた。
「先生のおかげです」
「ううん、それは違う」
テツリは座る自分を見下ろすナギサの鋭い目を見て、首を横に振った。
「君は会った時から変わることなくずっと優しかった。僕はそんな優しさを、大人としてただ守ってやりたかっただけ……それだけのことだったんだ……」
そしてそれだけのことすら……今もまだ……。そう思うと心痛で、テツリの視線は徐々に落ちていき、そして下げた頭を上げることが出来ずにいた。
と、何か温かい物がテツリの手に触れる。ナギサの手だった。
「わっ、先生の手冷たい……。いつからここにいたの。あ、そうだ」
おもむろに、彼女は身につけていたウエストポーチをガサゴソ漁ると、「はいこれ」とテツリに取り出した物を差し出した。
「手袋?」
ねずみ色の手袋が、ナギサの手には握られている。
「うん。つけていいよ、寒いでしょ」
「……ありがとう」
受け取ったねずみ色の手袋は割と使い込まれていて、毛羽立っていた。
「備えあれば憂いなしだね。何事もきちんと準備することが成功の素、先生言ってたよね」
「うん……。言ったね……」
部活で思うようなプレイが出来ないと思い悩んでいた彼女に、バスケに限らず物事への心構えとしてテツリが教えた在り方だ。言った当人は、言われれば思い出せるが常に覚えてはいなかった言葉、けれど彼女は今も覚えててくれていた。
「そんなことまで覚えてるんだ」
テツリは教師という人間が持つ力を、改めて実感する。
「……でもこの手袋は、バックの底にしまったままにしてただけだよね」
「あっバレた」
「整理整頓はちゃんとやろうね……」
やっぱり中身はあんまり変わってないんだなと、テツリは苦笑いしながらそう苦言を呈す。けれどそれで良かったと思う。
優しいという何よりの長所は、あの頃から変わることなく今も筒井ナギサという人間の幹となっているのだから。
「でも、ありがとうね、温かいよ」
そう言って腰を上げたテツリは、手袋をはめた手を握ったり開いたりして、どこか誇らしげだった。
「じゃあ行こうか?」
返答に言葉はない、目を丸くしたナギサはすぐ笑顔を返す。
そしてかつての教師と生徒は肩を並べて歩いて行く。
上里テツリ……25歳
筒井ナギサ……19歳
そこまで歳は変わらなかったりする。