第九篇・その1 再上場
墨田区の住宅街に位置する貸倉庫。
無駄に高く積まれたパレットが不規則に鎮座するばかりで、せっかくの広さを持て余す殺風景な倉庫の中にも、開け放たれた扉から確かに春風は吹き渡る。
しかし、春の来訪を感じる穏やかな精神でいる者は、そこにはいなかった。
「うぉりゃぁぁああ!!」
「はぁーーーッ!」
2人の男、佐野ヒカルと藤川ツバサは気合いのこもった、それでいてどこか悲痛で、悲壮感を感じさせる掛け声を上げた。
ヒカルはヒーロー――ブリリアンに変身しており、ツバサは腕をゴリラに変形していた。
今まで何度も対立してきた2人だが、今この瞬間だけは、振りかぶった2つの拳は交差せず、同じものを狙っていた。
「フヒャヒャヒャ! まだ立つの」
1度聞いたら忘れられなくなる強烈な引き笑いを上げながら、2人の拳に狙われる男――リョウキは軽やかに動く。
まずヒカルのパンチは回し蹴りで払い、肘打ちを脇腹に入れてフィニッシュ、ツバサの方のパンチは流体のような体裁きでかわしてから、肩関節を力尽くで外して背中を蹴り飛ばす。
ガッッ!! ドンッ!! ゴギッ!!
背格好は女の子と見紛うほどの可愛さと華奢さなのに、やっていることは一般男性にも出来ないほど荒々しく残虐、それでいて余所から見る分には惚れ惚れするほどスマートだ。
「頑張ったところで、そんなんじゃわたしには勝てないけど」
その蔑みに一切の苛立ちも覚えないほど、両者の差は歴然だった。故に返す言葉も無い。
ヒカルとツバサはここに至るまでで既にボロボロで、呼吸の度に肩を揺らし、膝をついているというのに、対するリョウキは傷一つ無くピンピンして、苦痛にあえぐ2人を同時に涼しい顔で見下ろしている。
それもそのはずで、2人はリョウキに対してただの1発でも暴力をたたき込めていない。つまりリョウキからしたら、サンドバッグを相手にしているのと何ら変わりなかったのだ。
「つまらない。弱すぎて……」
言いかけたところでリョウキは腰に片手を開け、大胆に大口を開いた。
「あくびが出ちゃう」
目の保湿機能として流れた涙を、リョウキは擦った。本人曰くここ数日寝不足らしく、目の下にはその証であるクマが見てとれる。ちょっとは体調も良くないらしいが、それでこの過剰なまでの強さである。
「化け物め……」
ツバサが恨めしそうに呟けば、ヒカルは「流石のお前も……思い知ったか」と苦笑いし
「コイツは狂ってるんだよ。だから触れるべきじゃないのに……」
と、恨み言を口にした。
元警官のヒカルは、目の前のリョウキの恐ろしさをかねてから良く知っていた。彼が暴れ倒した現場を、当時、生で見たこともある。
だから当然、その強さに自分じゃ太刀打ち出来ないこともあらかじめ分かっていた。もちろん2人がかりだろうと、10人がかりだろうと、結果は1人を除く死体の数が増える以外に変わらないだろうと……。
だから当然、ヒカルがこの戦いを望むことは無かった。
しかし、ヒカルだけでなくツバサでさえ、つい最近リョウキの恐ろしさを眼前で見たから、この分が悪過ぎる戦いに関しては始める気概も、意欲も無かった。
だが……
「泣き言を……言ってる場合か……」
ツバサが鼻を鳴らし、震える脚で大地を踏み締め立ち上がれば
「ハハ……その通りだ」
負けじとヒカルも拳をついて立ち上がる。そしてツバサの方を見た。
「こんなところで終われない……。そうだろ!」
「……そうやすやすと、思い通りにしてたまるか」
「へへ、行くぞツバサ……」
「俺に指図するな」
そして2人は気力で走る、不整脈のように不規則な足音を響かせ。
そんな走り迫る2人を間近に捉え、リョウキは腕組みし、首を傾けた。その心はすなわち
「……なんでそんな頑張るのかねぇ」
その疑問の答えを知るには、5時間ほど時を遡る必要がある。
この戦いのきっかけは憎悪と悪意、根底にあるのは優しさだ。
⭐︎
ヒカルが病院のエントランスにいたのは5時間前、医者から完治のお墨付きを頂き、短かった入院生活を終えたのはそれよりも前だった。本来ならば退院するのは、運命と言うには殺伐とし過ぎた入院生活を共にしたツバサと同じく昨日であったのだが、ヒカルは無断外出で重要な検査をすっぽかしてしまったがために今日にまで延びた。
しかしすっぽかし以外には特段問題は無く、手続きを終えたヒカルは自動ドアの外に広がる、陽の光が照る世界へと堂々舞い戻った。が、出た途端、暗雲が襲来した。
「やあ、退院おめでとう」
聞き覚えのある声を耳にした瞬間、ヒカルは目を丸くして顔を右へ向けた。
この男が待ち構えていたのは、ヒカルにとって予想外のことであった。そして、色々考えさせられた。
「カオル!?」
視線の先にいたのはカオルだった。壁にもたれていたカオルは、ヒカルの顔を見るなり満足げに鼻で笑う。
ヒカルは口を金魚のようにパクパクと動かしていた。言いたいことは山ほどあったが、どれから言えば良いのか分からなかった。そんな中、先にカオルが言った。
「元気そうだな、何よりだ」
「どの口で言ってんだ……」
このツッコミの名を借りた非難に関しては瞬発的だった。
そもそもヒカルが病院送りになった元凶はカオルの策略のせいだから、その仕向けた本人に退院を祝われたところでただのマッチポンプでしかなく、ヒカルが喜ぶはずがなかった。
だがカオルは非難も意に介さず独りでに直立すると、ヒカルの方へ歩みを進めた。
「な、なんだよ、やる気か」
危険を感じ、ヒカルは間合いを詰められないよう一歩下がる。
「流石にここで戦いたくはないな。少々目立ち過ぎる」
辺りを行き交う人たちを見回してから、カオルはやれやれと両手を広げておどけてみせた。
「今日はな……ちょっと急ぎの話があるんだが」
そう言ってカオルは意味深な笑みを浮かべる。
その笑みは、カオルが裏切りを明かしてから何度か見せたそれと同じだった。当然良い思い出もなく、だからヒカルは既になんとなく嫌な予感を感じ取り、緊張で唾を飲み込んだ。
緊迫していた。明らかにそこだけ温度が違った。
それはその時、たまたま中から出てきた全く無関係のおじいちゃんでさえ、2人の醸し出す雰囲気には元々生物に備わている危機管理能力で恐怖を感じ、立ち止まるほどだった。
「フッ、ここで話していたら通る人たちの邪魔だな。場所を変えよう」
カオルはヒカルの肩を叩いた。
「付いてこい」
言うことはそれだけで、カオルは先を歩いて行く。
「……何だよ一体」
ヒカルは心中穏やかではなかったが、この雰囲気だとどうも付いていく他なく、渋々お互いが手を伸ばしても届かない距離を一定に保ち、カオルの後ろについて回った。
まだカオルに対する接し方、気持ちの整理はついていなかった。
⭐︎
カオルがヒカルを引き連れやって来たのは、病院から徒歩5分も経たないところにある公園だった。
サッカーも出来る広い天然芝のグラウンドが魅力的だが、このご時世人気はない。
「さ、座れよ」
芝生のグラウンドを囲むように舗装された道の脇にいくつかある、年季の入ったテーブル併設のベンチに腰掛けるカオルがそう言うので、ヒカルは無意識のうちにテーブルを挟んで向かい側を選んで座った。
「で、話って何だよ……」
この二人きりの空間に長居したくない気持ちが強いヒカルは、さっさと用事を済ませようと急かした。だが、カオルは呑気なものだった。
「まぁそう急ぐな。その前にホラ」
着ていたグレーのトレンチコートのポケットから、カオルはおもむろに何か取り出しテーブルに置いた。
「……へ?」
ヒカルは置かれた2つの円筒系の物と、カオルの顔を何度も見比べた。
置かれた物は、良く自販機でも売っているブドウとオレンジの炭酸系飲料の缶ジュースだったのだが、それを置いた意図が分からなかったヒカルは、カオルのことを見つめていた。
「どうした?」
「このジュースは……?」
「ハハ、俺からのささやかな退院祝いだ」
ヒカルが事態を飲み込めていないまま、カオルはオレンジの方をヒカルの方にやると、ブドウの方は自分が手にして、プルタブを起こした。パシュッと炭酸の弾ける音がして、ほのかに甘い香りは……開放的な外では分かりづらい。
「ジュースだが、久しぶりに乾杯といこうか」
「待てよ……」
カオルに突き出された缶に、ヒカルは缶を合わせようとはしなかった。そもそも渡された方の缶を持とうともしない。
「俺そっちが良い……」
ヒカルが指さしたのはカオルが持っている、ブドウの方の缶。
別にオレンジが嫌いなわけでも、ブドウが特段好きなわけもない。ただ、カオルに渡された方だから嫌なのだ。何か仕込まれていそうで。
「どうぞ」
間髪入れずにカオルは答えた。
その間の無さは、かえって不気味であったので
「……やっぱこっちでいいや」
そう言って、結局ヒカルは最初の渡されたオレンジの方の缶を手持つと、一応乾杯の音頭には応じた。しかし、決して顔色は明るくない。疑心暗鬼ここに極めり、といった表情であった。
「断っておくが、毒とかは入れてないからな」
「どうだろうな……」
一度手酷く裏切られた以上、おいそれとその言葉を信じることは出来ない。
受け取った缶ジュースは開けられた痕跡や、注射器が通るような小さい穴が無いかを確認した後、プルタブから縁はもちろん、隅から隅まで念入りに拭かれた上で、ようやく開けられた。だが、それでも口にするのははばかられた。最終確認だった匂いの嗅ぎ方も、薬品を扱うかのようだった。
そこまでしてようやく、ヒカルは中身に口を付けた。入っていたのは何の変哲も無い、パッケージに書いてある通りのジュースだったが、ヒカルはその味が分からなかった。
「…………お疲れさん」
「ブッッ!!!?」
思わずヒカルは口から、ジュースを霧のように吹き出した。
「汚いな。高いコートにオレンジのシミが付くところだったじゃないか」
ヒカルが吹いたジュースをかわしたカオルは、テーブルの下から顔をひょっこり戻して言った。
むせかえっていたヒカルは、呼吸を整えてから剣幕を変えた。
「変なこと言うなよ!」
「別に。たかがジュース飲むだけでそんな気を遣ってるのを見たら、お疲れさんの一つ出るさ」
「こっちの気にもなれよ! ジュース飲んで突然『お疲れさん』なんて言われたら、捨て台詞かとも思うわ!」
憤りからテーブルに身を乗り出すも、カオルはどこ吹く風でジュースを飲んでいた。
それを見ていると、ヒカルの中からこみ上げてくる思いがあった。
「……カオル、俺は悲しい。前までは一緒に酒だって飲めたのに、今はもう出来ない。この差し入れだって、こんなに気を遣って毒が入ってないか確認しないと飲めない」
声色も悲しかった。裏切りに対する怒りが、ほとぼりも冷めてすっかり悲しみへと変わった瞬間だった。
「そうは言うが、それが普通の反応だ。殺し合いもあるゲームの途中で、和気藹々とお酒なんてよろしく楽しんでた以前の方がよっぽど異常だと、俺は思うがな」
「……」
ヒカルはカオルのことをにらみつけた。この目力が物理的干渉できたなら、カオルは一突きだった。
「凄い顔だな。別にお前の考えをことさら否定する気は無い。理想論を掲げるのも全く結構、だが考えは人それぞれだ。お前の方もそう理解してくれると、ありがたいな」
「……やっぱりお前は、俺やテツリとは違う種類の人間だ」
「当然だな。1人として同じ種類の人間はいないんだから」
カオルはどこか遠くを見るように目を細め、すっかり飲み干した缶を握りしめる。
「それで、何を企んでる」
「ん?」
「俺と雑談するために、わざわざ来たんじゃないんだろ」
「まぁな」
カオルはひしゃげた缶を置いて、両手を絡めた。そして左上に視線をやって
「あの男、覚えているだろう?」
と、まず切り出した。
「……誰のことだよ」
「言わなくても分かってるんじゃないか」
その通り、『あの男』という代名詞で、ヒカルはそれが誰を指すのかはすぐに察しがついた。
けれどその名を口に出すことはしなかった。名前を出したら、あの男が誰か確定してしまうから。出来ればカオルが言うあの男と、自分が思うあの男が一致して欲しくないヒカルは黙った。
だが、残念ながら『あの男』の認識は一致していたらしい。
「……俺の計画を邪魔したあの男、リョウキとか言う奴のことだ」
やっぱりそうか……。
ヒカルはため息をついた。
「アイツを……消そうと思っていてな」
カオルは邪悪な笑みを浮かべた。
「悪いことは言わない、やめておけ……アイツは危険過ぎる……」
「もちろんそれは承知しているさ」
カオルはヒカルの忠告を理解しつつ、されど手を引く気はなかった。
「実はこの数日、あの男のことを監視して、色々と工作してみたんだが駄目だ……。結局こっちが何人か潰しただけだった」
「潰した?」
「警察が彼を追っていることに気づいてね。だから逐一居場所を教えてあげた」
「お前……ホント最低だな」
そんなことをしたらどうなるか……。
警察はリョウキを追う、追わざるを得ない。そして必ず返り討ちに遭い、イタズラに犠牲を重ねる。
結果は火を見るより明らかだ。仮にも未来視が出来る者が、取る所業ではない。
ヒカルはそう思って軽蔑した。
しかしカオルは悪びれることなく
「別にどうこうしろとまでは言ってないからな。あくまで警察が探してる奴の居場所を教えただけだ。親切にな」
そう言ってのけた。
「けどな……それで正直な感想、もはや警察なんかじゃあの男をどうにも出来そうにないんでな。これ以上通報を続けたところでただの嫌がらせだ。別にそれでも後々効いてくるだろうが、とりあえず見切りをつけることにした」
「そうか……」
少しヒカルはホッとした。
これで少なくない命が無駄に失われることなく、守られる。
しかし、問題がここからなのは予想つく。
「で、その代わりに目星をつけたのが俺と?」
「察しがいいね。流石、元は仲間だったな」
「!?」
その言葉は流石に逆鱗に触れ、ヒカルも思わず立ち上がって、胸ぐらを掴みそうになった。
けれど自分が選んだ席のせいで、ヒカルはテーブルの向こうにいるカオルまで手が伸びない。
「どうした、急に立ち上がって」
それが分かっているのか、カオルは小悪魔のような笑みを見せていて、余計にヒカルの不機嫌のボルテージを高めた。
「言っておくが……リョウキは俺一人手を貸したところでどうこう出来るような奴じゃない……」
ヒカルは乱暴に、ベンチに座る。文字通りの意味で、カオルに対して斜に構えていた。
「それに関しては策を練ってある、何一つ問題ない」
と、カオルは自信たっぷりに言う。
「どんな策だよ?」
「それはその時までのお楽しみだ」
「……はぁ!? 仮にも協力してもらうんなら、全部話せよ!」
「悪いがそれは無理なんだ」
「何だよそれ」
「とにかく教えられない。本当に悪いな、申し訳ない」
……本当に悪いと思うなら今言えよ!
出来ることならそう言いたかったが、例えそう言ったところでまともに取り合ってくれないだろうとヒカルは知っている。だから代わりに、一矢報いようと今カオルが1番言われたくないだろう言葉を選んだ。
「手を貸すのを嫌だと言ったら?」
元仲間に手を貸す義理なんてない。だったらこんな協力要請突っぱねれば良い!
とか考えていたヒカルだったが、すぐにその浅薄さを思い知らされる。
「そうだな……」
だがカオルはわざとらしく、大げさに考える演技をした後に……こう告げた。
「……東京都、豊島区翁賀2丁目、深山ラビットハイツ206……」
地図上の円がだんだんと狭まり、地点になっていく。それにつれてヒカルの顔はみるみるうちに青ざめていった。
「嫌だというならここに行くつもりだ。予定が無くなって暇になるなら、代わりに可愛い女の子に会って遊ぶこととしよう」
「ふざけんな……」
怒りの口調だが、それは内心の動揺を隠そうとする虚勢だった。当然、カオルには見透かされており、彼はそっと囁いた。
「安心しろ。君が要求を飲んで、協力してくれるなら行く必要はなくなる。……どうだろう? 飲んでくれるかな?」
悪魔の囁きだった。
そして恐ろしい謀略の根だ。気づかないうちに、それはいつの間にかヒカルの周りに張り巡らされ、彼が最も大切にする者を搦め捕ろうとしていた。そう……ナルミを――
「……くッ」
いつナルミの居場所がバレたのか……? 思い当たるのは、あの廃病院の時に感じた視線――
いや、元からカオルが裏切ることを前提に近づいてきたのだったら、常日頃から今回の時みたいな脅しに利用出来るものを探るため、あれこれ監視していたのだろうということは、ヒカルにも容易に想像がついた。
そもそも問題はどうやって知られたとか、いつ知られたかでない。今この瞬間、ナルミの居場所がカオルという、勝つためなら仲間を裏切るような人間性を持つ敵に透けていることこそが、のっぴきならない問題である。
「どうする? 別に断ってくれても構わない」
「飲みゃいいんだろ! 飲みゃ!」
そして、そうと知っては、もはやヒカルに選択肢を選ぶ権利はない。
「ありがとう。それじゃ計画について、君の分を説明しておこうか。くれぐれも、言う通りに動いてくれよ」
例えどんな無茶なものでも、金輪際カオルの要求を飲み続け、ナルミに危害が及ぶのを防ぐ道しかなかった……。
そしてヒカルは、死にゆく戦いを承諾した。