第八編・その1 似たもの同士?
新しい朝が来た。
今日は全国的にみても、肌寒くも暑くもない過ごしやすい日で、ここ聖クラリス病院もすっかり春の陽気に包まれていた。
さりとて藤川ツバサは、小鳥のさえずりが聞こえてきそうな心地良い日差しが窓から差し込む中、過ごしにくさを覚えていた。その理由は明白だった。
「なんでよりによってお前と同室なんだ」
昨日から何度となく言ったセリフを呟く。
「え?」
この定員2名の病室にいるもう1人の患者、暇つぶしの知恵の輪に悪戦苦闘していた佐野ヒカルはその手を止め、振り向いた。
「何か言ったか?」
一応聞き取れていたが念のため……、ヒカルは必要以上にニコニコして聞き返した。
「ああ言ったさ。お前なんかと同室なのは不愉快だってな」
「へーへー、お前まだそんなこと言ってんのか」
やはりというか、残念ながらというか、聞き間違いではなかったようだ。むしろ酷くなっていた罵倒に、ヒカルは肩を落とす。
「いい加減納得しろよ、そんな俺と同部屋じゃ嫌か?」
「嫌じゃない理由があるか」
「ひどい言い草」
ツバサにつっけんどんに返され、ヒカルは尻込みした。
「でもこればっかりはしゃあないだろう。同じタイミングで担ぎ込まれたんだし。俺が決めたわけじゃねぇもん」
ヒカルは口を尖らせた。だがそんな主張もむなしく、ツバサは「やれやれ」といったような、明らかに納得してない表情でそっぽを向いた。
仕方の無いことだ……。この男の人間性を鑑みれば、こういう対応を取られるのは百も承知だ。
だがそうは言っても、ここまで邪険に扱われると、取り繕った温厚な感情も剥がれて、中に封じた不服が漏れ出てしまう。絡まったままの知恵の輪が、ベット脇の白いテーブルに叩き置かれる。
「大体な……、この場合嫌がるのは俺の方だろ。お前のせいで色々……なんかこう酷い目に遭ってるし!」
ヒカルは窓の外を見るツバサに対し語気を少し強めて言った。が、ツバサは背中越しにチラッとヒカルを見ると「知るか」と一言だけ吐き捨てた。
「いや知るかじゃねぇだろ」
もうすっかりムキになったヒカルは、自分のベットから降りてツバサのベットに両手をついた。
お互いの顔の距離が近づく、どう見てもパーソナルスペースは保たれていない。
「なんだ、いちいちうっとうしい奴だな」
ツバサは心底嫌そうな、蚊にまとわりつかれた時のような顔を浮べていた。
「お前がいちいち俺がうっとうしくなるように仕向けてるんだろ」
「別にそんなつもりはない」
「だったら、もっと思いやりをだな」
「思いやり?」
「そうだとも」
ヒカルは直立して腕組みしながら「うんうん」とうなずいた。
しばらく2人は沈黙しながら目を合わせていたが、不意にツバサがフッと鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。なんでお前なんかに思いやりをかける必要がある?」
「何だと!」
無慈悲の極みな一言に、ヒカルは声を荒らげた。次いで前のめりになろうとすると、ツバサはその眼前に指を立てた。これ以上顔を寄せると、額に指が突き刺さる。
「いいか。俺たちは敵同士だ、お前は俺の敵だ。敵にかける思いやりなんて無い」
と、どこを切り取っても敵意しか無い発言をしたツバサを前に、ヒカルは返す言葉を失い立ち尽くした。
「分かったらもう俺に構うな。まぁお前が死んだときには、俺なりに悲しんでやるよ。1マイクログラムくらいはな」
「ミリにも満たないっ!」
そうツッコミを入れた後、ツバサの華麗なスルースキルが発動したので、ヒカルはおとなしく自分のベットに戻った。しかしベットに腰掛け、再び知恵の輪を手に取ってから、ヒカルはふと気づく。
「ていうか『構うな』って最初の絡んできたのお前じゃんか! 俺はおとなしく知恵の輪してただけなのに」
と、事の発端を矢面に立て、異議を申し立てた。それに対するツバサの返しは、
「……うめき声あげながら知恵の輪やってるののどこがおとなしくなんだ」
という、当人からしたら納得しづらいものだった。
「そんな声あげてねぇし!」
「思いっきりあげてたんだよ。うっとうしい」
「……マジで?」
信じられないというヒカルの態度に、ツバサはうっすら頭痛を覚えてため息をついた。
「俺がいちいちこんな下らないことで嘘をつくと思うか?」
「どうだろう……」
まぁつかんだろう……と思いつつ、一応何度か嘘をつかれたことはあるので、ヒカルは頭を悩ませた。
しかしそんな風に馬鹿正直に考え込む姿に、ツバサはさらに深いため息をついた。
「大体いい年した大人が、そんなチャチなおもちゃによくもまぁ執心できるな。頭の中、お星様だな」
「うるさいな! 普通に結構面白いんだよ知恵の輪。……ていうか遠回しに馬鹿って言ったな!」
「よく気づいたな、馬鹿にくせに」
「今度はストレート! 隠そうともしない! こんにゃろ言わせておけば!」
「やめろ触るな! おい馬鹿やめろ!」
口ではどうも勝てそうに無いので、かくなる上で軽い実力行使に打って出たヒカル、その絡みが心底嫌で、振りほどこうとするツバサであったが、背後からの不意打ちチョークスリーパーは簡単には振りほどけなかった。
「嫌がらせだ嫌がらせ! 敵に嫌がらせだ!!」
「てめぇ、この!」
と、優位に立ったことですっかり調子の乗ったヒカルは、まるで遊びに熱中した子供のようで、程度という物はすっかり頭から抜け出ていた。
同時にツバサの方も、すっかりヒカルのペースに乗せられて周りに対して鈍感になっていた。だものだから……
「こら! 病院で騒ぐんじゃない!!」
案の定2人に対してお叱りの言葉が飛んできた。
凄みのある声に伸び上げられたヒカルの口からは反射的に「すいません!」と謝罪の言葉が飛び出し、そこからコンマ1秒で声のした方へターンしながら頭を下げた。
「ドタバタドタバタ、周りの人たちの迷惑ですよ!」
「…………ん?」
あれ、この声は……、そう思ったヒカルは下げていた顔を上げた。
そこにあった顔は予想に違わず。
「あれテツリ」
見慣れた青ジャージを着込んだ上里テツリであった。
「何やってるんですかもう子供みたいに、まだ子供の方がまだしっかりしてますよ」
「いや、ついヒートアップして……その………」
「大方何があったか予想はつきます」
テツリがツバサの方を見ると、ツバサも少しはバツが悪そうに顔を逸らした。
「でも喧嘩両成敗ですよ。下の階まで響いて迷惑です! 返す返す言いますがここは病院なんですよ!」
「はい……ほんとすみませんでした」
素直に謝るしかないヒカルは、ひたすら平謝りだった。やはり、テツリの説教は元教師なだけあって威厳がある。
「……で、どうしたんだ?」
わざわざ自分らの部屋にやってきた理由をヒカルはテツリに尋ねた。
確かテツリの部屋は2階下で、流石に騒いだ音も聞こえないから、訪ねてきた要件はこれとは別件だった。
1つヒントを挙げるなら、テツリが入院着ではなくいつものジャージを着ていることだろう。もうテツリは入院着を着る必要がなくなったのだ。つまり――
「僕、お先に退院することになったので」
「ああそうなの。よかったなぁおめでとう」
「ありがとうございます。その様子だと、そっちも明日にでも出来そうですね」
さっきの騒ぎっぷりと軽快なターンを思い返し、テツリはそう言った。
「まぁ体の方はもうな、この通りさ」
腕を回したり、体をねじったりしてヒカルは回復をアピールした。ついつい跳ねてしまって、またテツリによる注意が入ったが、とりあえず体の方は健在らしい。
「なんにせよ、2人とも無事で良かったですよ。カオル君に嵌められたのはショックですけど……命がつながって本当に良かった」
「今回ばかりはホント……運が良かったとしか言えないな……」
ヒカルは静かに言った。
その頭に思い浮かんでいたのは、たった1人の人間の顔であった。
「……」
ツバサの頭に思い浮かぶものもヒカルと同じ、あの場の空気を無理やり押し返し、単身で並み居る強敵参加者たちを退けた、畏怖を漂わせる人間であった。瀕死時に見たその無双を忘れることは無いだろう。
「……どうしました?」
あの時、気絶していたテツリだけはその男の事を知らない。だから黙り込むヒカルの様子が不思議だった。
「いや、何でも……。これからどうするんだ?」
はぐらかされていることを察しながらも、テツリは疑問に思いつつヒカルの問いに答えた。
「とりあえず新しい拠点を探さなきゃですね。前に使ってたのはカオル君を招いたから、もう使えませんし」
一瞬「どういうことだ?」と疑問符が浮かぶも、少し考えるとヒカルも言わんとするところを理解した。
ゲームの参加者は皆ワープが可能で、その範囲は1度でも行ったことのある範囲だ。そして元仲間のカオルもテツリの拠点に行ったことがあるから、そこにワープを行うことが可能だ。そうするとどうなるかというと、今の拠点に住む続けることは、いつ来るかも分からない敵襲に気を張りながら住むということになる。
「確かにそれは無茶だな」
「ええ、なんだかんだ気に入ってたので残念ですが、こればっかりはね」
テツリは諦念の笑みを浮かべ、フッと息を吹いた。
ゲームが始まってからずっと拠点にしていた廃校、決して住みやすくは無かったが、戦いに疲れた体を休めるには不足ない場所だった。今の自分の状況で見つけるには最高ランクだったろうとさえ、テツリには思えた。
それにあの廃校は……カオルも含めて3人でワイワイやったこともある思い入れのある場所だ。それを捨てなければならないのは少し物寂しい……、その原因を省みるとなおさら。
「となると、俺も別に探した方がいいのか」
「定期的に変える必要もあるでしょうね、カオル君の能力を考慮すると」
「悲しいな、友達だと思ってた奴に苦しめられるなんて」
カオルとの出会いがずっと昔だったかのように感じられる。
ピンチの時には颯爽と駆けつけくれ、チームの頭脳として能力を発揮し、時には楽しく同じ鍋の肉をつまんだ仲だ。体の傷は癒えても、裏切られたショックはまだ癒えていなかった。
「まぁとにかく! 僕は退院するんで、そこんところはよろしく。まぁ明日も来ますけど一応ね」
野暮ったい感傷を打破するかのように、テツリは元気を振り絞った。
「ああ分かったよ」
「そうですね……。じゃあこれで僕は失礼します」
そう言ったテツリは踵を返して、病室の外へと向かおうとした。
だが、ヒカルに「もう行くのか?」と呼びかけられ、ドアの取っ手に触れる前に止まった。
「何か問題でも?」
テツリは振り返った。顔にブラインドの影が落ちているせいで、鼻から上がボケていたが、口元だけ見れば笑っていた。
「いや別に無いけど……ずいぶんと忙しないな」
「そうですかね……。別に普通だと思いますけど」
テツリはそう言ってのけたが、ヒカルは「そうかな?」と小首をかしげる。
「なんかいつもより表情キツい気がするし、何かあったのか?」
「別に何も……。表情がキツく見えるのはこの病室の空気が悪いからじゃないですか」
「それは否定出来ない」
ヒカルがそう答えた後ろでツバサが鼻を鳴らした。
するとテツリはヒカルの元に静かに歩み寄って、ヒカルの耳に手を立ててそっとささやいた。
「仲良くしてくださいよ、大変でしょうけど」
その目には我関せずとするツバサの背中が映っていた。
「ま、なんとかやってくよ。……根は悪い奴じゃないだろうし」
脇目を振ってツバサを見ながらヒカルは言う。なんやかんやで、ツバサに対する心証はギリギリ現状維持していた。
それからまもなくして、テツリは出て行った。出て行くなり、ツバサは待っていたと言わんばかりにヒカルへ嫌みを言った。
「やれやれ、お前のせいで俺までしかられたじゃないか」
当然何か反応が返ってくるだろうと思っていたのだが、予想に反してヒカルから反応は返ってこなかった。
「……」
なんか調子狂うなと思いつつ、半ば無意識の中でじっと見ていると、視線に気づいたヒカルが言った。
「お前、なんか感じなかった?」
「知るか、何をだよ」
「テツリだよ。なんか様子おかしくなかったか?」
「なんで俺に聞くんだよ」
普通に考えて、付き合いが長いのはヒカルの方だから、なぜ自分へ質問を飛ばすのかツバサは分からなかった。そしてそれに対する返答はもっと分からないものだった。
「なんて言うか今日のアイツ、お前みたいだったからさ」
「はぁ? 俺があの軟弱男と同じわけないだろ」
「軟弱男はないだろうよ、可哀想に」
それはあんまりだと、ヒカルは静かにたしなめた。
「…………で?」
「で?」
「なんで俺とアイツが似てると思った……。見た目も、中身も、何一つ似てなんか無いだろう」
珍しくツバサは食いついた。
少なくとも自分では、テツリとの類似点は思い当たらなかったので、その説明を求めた。聞かなきゃ気になってどうしようもないからと、自分に言い聞かせ。
「いや……中身って言うか、表情がさ」
「表情? 別に愛想は良かっただろ」
「なんか余裕が無かったような気がしたんだ。時々そんな顔するんだよ」
初めて会った日の夜から時々覗かせる、温厚で心優しいテツリが浮かべる張り詰めた顔。その表情が、今日も去り際に覗いていた。最近は、それを見る機会も以前より増えていた。
「ちなみにお前はデフォルトでそれだ」
「は!?」
その発言に思わずツバサは顔を手で隠すように覆った。
「何やってんだツバサ」
そのちょっとお茶目な反応を見て、ヒカルは優しい苦笑をした。
「うるさい……」
「……図星なのか?」
「うるさいって言ってるだろ!!」
廊下中にその怒声は響き渡ったが、それをツバサが気にすることは無かった。
心の縄張りを守ろうと、ツバサはヒカルに対する敵意をむき出しにしていた。表情は威嚇する猫のようにつり上がっていた。
「分かった……、黙るよ」
これ以上しゃべることに身の危険を覚えたヒカルは口を結んだ。
もう一歩踏み込めば分かり合える気がしないでも無いが、この狭い病室で、壁を隔てたところに人の目がある中で、お互いが死力尽くす戦いを引き起こす訳にもいかず、不本意ではあるがヒカルは自重した。
「……ちょっとトイレ」
ヒカルはそう言って、ツバサと距離を取るために、一触即発な雰囲気漂う病室から出て行った。ただ1人、病室に残されたツバサは、窓の外をじっと見た。
この病室の窓から見る風景には興味があった。果たしてそれがどんな気持ちにさせてくれるのかを。
「……」
病室から見る外の世界は、やけに広く見えて、こんなにも惨めな気持ちにさせてくれるということを、ツバサは矛盾した怒りを抱える我が身で思い知った。