第六編・その2 気配
翌朝、ヒカルは目を覚ました。起きて早々、その顔は暗い。
朝までカオルの帰りを待っていたものの、何の音沙汰も無かった。そしていつの間にか寝落ちしたらしく時間感覚が飛んでいた。
「ふぁわぁあ……」
大きなあくびを1つすると、ヒカルは寝癖のついた頭をかきながら時計を探した。
午前10時、なんだかんだ結構寝たようだ。
そして同じくテツリもすやすやと眠りこけている。ちなみに昨日寝たのはテツリの方が後だった。
ヒカルはテツリを起こさないように立ち上がると、トイレへと向かった。便座に腰掛けながら、ヒカルは考える。
これで丸二日、カオルは家を空けたことになる。こうなると昨日の懸案は時が経つにつれて現実味を増してくる。
つまり……こうだ。
「カオルはツバサに敗れ、死んだ……」
色々な意味で信じたくないが、もうそうとしか思えなくなってくる……。
手を洗い、顔を洗った後も、ヒカルの気が晴れる気配は無かった。格子状の窓の外に見える空はこんなに青いのに……。
「ハァ……」
ため息をつきながら、ヒカルはリビングへと戻る。テツリはまだ寝ているようだ。
ヒカルはもう完全に起きた。スイッチが入った時の伸びの動作が自然ととられているのが証である。
「……水でも飲むか」
ヒカルは無性に喉が渇いていた。
出来ればコーヒーでも飲みたい気分だが、他人の家なので水で妥協する。
レバーを押すと蛇口から水が出てくる。ヒカルはその水を手に溜め、飲み干した。
「ふぅ……」
ヒカルは背筋を伸ばし、首を鳴らした。
フローリングに直に寝るのは、やはり体がバキバキに……
「…………ん?」
するとヒカル、ふと何か見つけた。
そのキッチンの流し台からはダイニングテーブルが見えるのだが、その上に何やらメモ用紙のような紙が見えた。
手を振って水気を切ると、ヒカルはそのテーブルの側に行った。置いてあったのは、すべすべとしたメモ用紙であった。
「こんなんあったっけ?」
少なくともヒカルの記憶にはない。
不思議に思いながらそれを手に取った。
「…………」
そしてそれを裏返してみた。
「あ…………!?」
メモ用紙にはきちんと意味のある文字列が書かれていた。
それを読んだ瞬間、ヒカルは雷に打たれたようなショックに襲われた。そしてその場でメモ用紙を持ったまま固まった。
「……ん、あれ……。僕、寝ちゃってたんですね」
テツリが起きたのは、ちょうどその時だった。
起きて目をこすり、部屋の中を見回すと、テツリはすぐにダイニングで固まるヒカルの姿に気づいた。
「ヒカル君も起きたんですか」
「……」
「? どうしましたヒカル君?」
返答をしないヒカルに、テツリは近づいた。すると、ヒカルはただならぬ表情を、ゆっくりと振り向いた。
「見ろよ、このメモ」
言葉少なめに、ヒカルはテツリにメモ用紙を突き出した。
「メモ?」
疑問を口にしつつ、テツリが手を伸ばす。
そしてテツリの手にメモ用紙が渡ると、ヒカルは腕をダラリと垂らした。
「起きたらあったんだ……」
「…………!!」
目を通すなり、テツリは目を丸くした。
やはり驚くようで、ヒカルの方へ向き直る。
「なんてこと……」
テツリは口を手で覆った。そしてもう一度メモ用紙に目を落とす。
衝撃的だ。メモ用紙に書いてあったのは、以下の文だった。
『カオルは預かった、無事に返して欲しければ、今日の正午までに晴海埠頭まで来い。ツバサ』
「……じゃあカオル君は、ツバサ君の人質に!?」
テツリがヒカルの方を向くと、ヒカルは体ごと目線を逸らす。
「……らしいな」
そう一言だけ、つぶやく。
「と言うことは……あの戦いでカオル君が負けて、それからずっと捕まってた……」
テツリはメモを落とし、テーブルに手をつくと震えた。
「そんな……まさかそんなことになってるなんて」
「……」
ヒカルはもう一度、落とされたメモ用紙を手に取り、まじまじと見つめる。
その横から、テツリは声高に言った。
「こうしちゃいられない……すぐ助けに行きましょう!」
約束の正午まではすでに2時間を切っている。
急がなくては、約束を破ればカオルの安全は保証できない。
「くっそー、あのやろうよくも……ヒカル君?」
テツリはさっきからメモを見て黙り込んでいるヒカルの方を見た。
「ヒカル君!!」
「!? あ……あぁ悪い」
「寝ぼけてるんですか?」
「いやそんなことないけど……」
「じゃあ急ぎましょう、カオル君を助けるんです!」
「おう」
返事をすると、ヒカルはメモ用紙を折りたたんでポケットにしまい込んだ。
「…………なんだろう。なんか引っかかる」
そう、このメモには何か引っかかるところがあるのだが、それが何か考えている時間はあいにく無かった。
⭐︎
「さあ急ぎましょう!」
「ああ」
数分後、2人は下町の町並の中を、出せる限りの力で疾走していた。
どちらかが行ったことさえあったなら、一気に晴海埠頭へ飛んでいけたのだが、2人とも晴海は未経験。なのでヒカルが行ったことのあった月島で妥協、そこから勝ち鬨を経由して、カオルの待つ晴海埠頭を目指す。
「12時まであと1時間半くらいだ!」
電器屋のテレビの時刻を見たヒカルが叫ぶ。
「了解!」
このままのペースで行けば、晴海埠頭自体には約束の時間よりも前に着くだろう。
ただ、あのメモ帳には"埠頭"としか書かれておらず、"埠頭"のどこが待ち合わせ場所かは分からない。
だから探す時間も確保するため、2人には余裕がない。だがその道中、片側2車線の大通りに面した歩道を走っていると、行手を遮るように人だかりが出来ていた。
「なんだなんだ?」
あたりには別に、行列が出来るほど人気のお店があるわけでもない。
そして、そこにいる人たちはミーアキャットのようにみな、同じ方向を向いており、心なしか女性比率と、年齢層が高かった。
「すいません! ちょっと、通してください、急いでるんです」
テツリは人混みを強引にかき分け進む。一方ヒカルは違った。
「……何があったんですか?」
かき分けている途中、こんなにも人々の興味を惹く物がなんなのか気になったヒカルは、1人のおばさんの肩を叩き、何があったか尋ねた。
すると、おばさんは一瞬ヒカルの方を振り返ったのち、道路の向かい側を指差して答えた。
「バスが信号待ちの車の列に突っ込んだのよ!」
ヒカルが見ると、向かいの道路では緑のバスが、軽トラック含む4台の自動車を巻き込んで玉突き事故を起こしていた。
事故から経っているのか、すでに警察官が現場に駆けつけ、規制線が張られる中で現場検証をしている。
「私たちがお茶してたら、突然ドーンって爆弾みたいな音がして、表に出てみたらこの有様だったのよ。ねぇ?」
さらに当時の状況を説明したおばさんはすぐ横にいた友達に同意を求めた。
「ええ、そうなの」
「事故原因までは、流石に知らないですよね?」
ヒカルがニコニコしながら尋ねると、おばさんたちは顔を見合わせた。
「知ってる?」
最初にヒカルが尋ねたおばさんがもう1人に尋ねると、もう1人の方は首を振った。
「ごめんなさい。知らないわ」
「はは、いいんですよ。知らなくて当然ですから」
「でもね。多分だけど死人が出てるわね、気の毒だけど」
「死人?」
そう言ったヒカルの顔には、何故そう思った?と書いてあったようで、おばさんは答えた。
「さっき血まみれのブルーシートが救急車で運ばれていったの」
「それも2つよ、2つ」
おばさんたちが口々に言った。
「……」
おばさんたちに言われた情報を、ヒカルは頭の中で整理する。
「それは……」
が、その時肩をポンポンと叩かれた。振り向くと、テツリが真顔でこっちを見ていた。
「何をしてるんですか?」
「……事故について聞いてた」
「それ、今するべきこと? あとでニュースなりなんなりで調べればいいでしょ?」
「まぁそれはそうだな」
テツリにそう言われたヒカルは、おばさんたちの方を向くと軽く頭を下げた。そして現場を後にし、また走り出す。そして走り出して早速、テツリによる小言が始まった。
「全く、はぐれたと思ったらあんなとこで油売ってるんだから」
テツリは眉の角度を上げていた。怒りまではしてないが、ピリピリとしている。
「悪い、何があったか気になってさ」
怒らせないよう、ヒカルは正直に事情を話した。すると、その事故についてテツリが尋ねた。
「で、何があったんですか?」
「バス事故だ」
「バス事故?」
「あぁ見事に追突したらしい。結構酷いことになってそうだな」
おばさんたちの言っていた『救急車に運ばれたブルーシート』とは、おそらく負傷者のことだ。
しかも、ブルーシートを被せる場合、その負傷者は重傷、重体、あるいは負傷の段階を超えて、あのおばさんと言った通り死んでしまった場合が多い。
あの事故で2名がその通りになってしまったとしたら、結構な衝撃である。
「……気になりますか?」
「……そりゃあな。こんな昼時の見通しの良い通りで、バスが追突事故を起こしたなんて、何か裏がありそうじゃんか」
時間的にも、場所からしても、今回の事故は普通からは外れている。
ヒカルにはそのことが疑問であった。
原因はなんだ?
運転手の居眠りか? 機器の不調か? 慢心か? あるいはもっと別の何かか……?
可能性は広がっており、解明は一筋縄ではいかないだろうとヒカルは踏んでいる。もっとも、それを解明するのは自分たちの仕事ではないが。
「色々起きる日だな、今日は」
半日ならないうちに、色々と問題が次から次へと出てくる。
そういえばもう記憶の彼方に消えかけた、メモ用紙の違和感の正体も不明なままだ。
胸に手を当てながら、ヒカルは考える。
「ヒカル君! どこまで行くんです、こっちですよ!」
「あ、しまった……」
ボーッと考えているうちに、左に行くはずの交差点を間違えて行き過ぎてしまった。おまけにちょうど信号が変わって、少しだが時間を無駄にすることが決定した。
「ダメだ。目の前のことに集中しなきゃ!」
そう自分に言い聞かせ、ヒカルは深呼吸する。
「悪いテツリ」
信号の先で待っていたテツリは息を切らしていた。
「いえ、むしろ良い休憩です。ここからが本番なんですから」
「……そうだな」
真っ直ぐ先に進めば橋があり、それを超えたら晴海埠頭はもうまもなくだ。
「じゃあここからは、お互い気を引き締めていこう」
太陽が昇り、だんだんと落ちる影が短くなっていく。約束の時間が刻一刻と近づくのと、海の香りをほのかに感じながら、ヒカルとテツリはひた走る。
⭐︎
「仕方ないとは言え、立ち入り禁止のところに入るのは抵抗がありますね」
立ち入り禁止の注意書きが張られたフェンスの前に立つテツリは素朴な感想を口にする。
「今更立ち入り禁止気にしても遅いだろ。今までだって散々不法侵入したんだし」
そう言ったのは、すでにフェンスの向こう側の立ち入り禁止地帯にいるヒカルだ。
2人が晴海埠頭に着いたのは、約束の正午になる30分前だった。もっとも、正確に言うとたどり着いたのは埠頭ではなく、その近辺にある廃倉庫群である。
鉄の門とフェンスで二重に封鎖された敷地の中にある、一見すると団地のような巨大な2つ倉庫、ヒカルとテツリは共に特有の直感から、その付近に何者かが潜んでいると感じ取った。
そしてちょうど今、乗り込もうとしていた。
「ほら、急ごう。誰かに見られたら面倒だぞ」
「分かってますよ……」
そう言われ、テツリもしょうがなしにフェンスをよじ登り出す。
「これもカオル君を助けるためです」
「……」
菱形のフェンスのマス目に足をかけて必死によじ登るテツリの姿を見て、ヒカルはつい思った。
変身すりゃ良いのに……
どうせデメリットなんて無いし、そしたらこんなフェンスもひとっ跳び出来る。
けれどテツリはそれをしなかった。
「よっと……お待たせしました」
「融通利かないよな、テツリって」
「はぁ?」
「何でもない」
テツリは不思議な顔でヒカルを見たが、ヒカルはテツリに背を向けた。
そして2人はさらに2つの倉庫の合間へと歩みを進める。
何者かがいる気配が感じられる。それも結構強く。
「いつ何が起きてもおかしくないんだ。改めて気を抜くなよ」
ヒカルが前方に注意を払いながら言うと、テツリは真剣な顔でうなずいた。
ここは建物が太陽の光を遮るせいで薄暗く、物陰も多い。予測の出来ない、突然の襲撃もあり得る。
「……誰も居ませんね」
「まだ分かんないだろ。にしても広い倉庫だな」
「1つ調べるだけでも時間かかりそうですね」
「そうだなぁ。こりゃ骨が折れるよ」
「ツバサ君も、どうせ呼び出すならせめてしっかり場所を指定してくれたら良かったのに。そしたら探す手間も省けるのに、性格悪い」
「……手間…………」
つぶやくと、ヒカルは考え込んでその場に足を止めた。
手間――その一言をきっかけに、ヒカルの脳内で思考のパズルが次々にはまっていった。
「どうかしましたか?」
「そうか……そういうことか」
「……何がそういうことなんでしょうか?」
「今分かったよ。あのメモの違和感の正体」
「はぁ?」
全く話が見えてこないことにテツリはため息をつき、「僕にも分かるように説明してください」と頼んだ。
「勝手に納得されても困るんですが……」
「ホラ、このメモ、覚えているだろ」
ヒカルは懐から、今朝テーブルの上に置いてあったメモを取り出した。
「それは覚えてますけど、それのどこがおかしいんですか」
テツリはメモ用紙を注視しながら、おかしなところを探したが見つからなかった。それもそのはず……
「おかしいのはこのメモじゃない」
「…………へ?」
ますます訳が分からない、とテツリは思った。
「どういう意味?」
「このメモがあることがおかしいんだ」
そう言うと、ヒカルは目を瞬かせるテツリに順を追って説明し始める。
「まず、ツバサはこのメモを何のために書いた」
「それは僕たちをおびき寄せるためですよ」
至極当然と言った感じにテツリが言う。
「じゃあ何でおびき寄せるんだ」
「それは……殺すためです」
「多分そうだな」
「……あれ?」
テツリが首をかしげる。ようやく違和感に気づいたようだ。
「ツバサ君はカオル君を捕まえて、それを人質に僕たちをおびき寄せるために、メモを届けた……」
一連の流れを整理するとそういうことだ。
「横で寝入る俺たちに気づかれないようにな」
ヒカルが付け加えた。
そしてテツリは探偵のようにうつむいて考える。その後、氷解した。
「…………あ! 確かにおかしい」
「だろ」
「ええ、だってこのメモをツバサ君が届けたとしたら、寝てた僕たちには何もしないでおいて、わざわざ呼び寄せようとしてるって事ですよね。そんな回りくどいことするくらいだったら、いっそその場で……」
「うん。俺も同意見だ」
ヒカルが気づいたことも、テツリの言った事と同様だ。
一連の行動は明らかに一貫しておらず、なおかつ無駄に手間がかかっている。
それに、そもそも人質を取るという発想がツバサらしくないともヒカルは思っていた。
「なんで気づかなかったんだろう」
テツリが拳で手のひらを叩き、悔しさをあらわにする。
「仕方ないさ。不安が積もってたところで、こんなの届いたら冷静でいるなんてできっこない」
そしてまた新たな疑問が浮かび上がる。
「え? だとするとこのメモは一体何なんですか……」
「まぁ俺たちをおびき寄せてなんか企んでるんだろ」
「何のためにです?」
「それはなんとも、ただ――」
と、そこまで言ったところでヒカルは空を見上げた。そしてソレを見つけた瞬間、パァーッっと顔をほころばせた。
「おお! なんていいタイミングだ。もう直接聞いちゃおう」
その時、空にはもはや2人にとって見慣れた、巨大な1人の怪鳥が悠然とはためいていた。