第五編・その2 Where are you ?
5時間後、仕事に一区切りつけたカオルが足取り軽く自室からリビングへ舞い戻ると、床に寝そべったテツリが腰回りのストレッチをしている光景が出迎えた。
そしてドアが開いたことに気づいたテツリは頭を上げた。
「あ、仕事終わったんですか」
「ふふ、まぁな」
「お疲れ様です」
「ありがとう」
カオルはいつもより上機嫌に応対すると、一服するための冷えたお茶を冷蔵庫から取り出してコップに注いだ。
「そうそう、こっちも何か出来ることないかなぁって思って、洗濯と掃除を終わらせておきましたよ」
「え?」
テツリはにこやかな表情で、埃1つ無いフローリングの上に並ぶ、畳まれた洗濯物を指さしていた。
「何もしないでいるのはちょっと気持ち悪かったので、勝手にやったんですけど」
言外に「良かったですか?」と不安げな疑問符がついていたが、カオルに「へぇ、助かるよ」と感謝を述べられるとそれはたちまち曇りの無い笑顔となった。
「じゃ、お前も飲むか?」
「そうですね、いただきます」
カオルの小さなご厚意に、テツリは起き上がってペコリと頭を下げた。
「フフフ」
カオルはテツリにカップを渡すと、自分はシンクの前に陣取って、注がれたお茶をやけにうまそうに飲む。別にこのお茶に特にこだわりは無い、誰でも買える、2リットル128円の普通のお茶だ。それを金持ちのカオルはうまそうに飲む。
「勝ったんですね」
カオルの態度からそう確信したテツリが尋ねると、カオルは噛み締めるように笑った。
「ボロ勝ちだよ」
「それは良かったですねぇ」
それを聞いたテツリも笑った。トレードの詳しいことは知らないが、何にせよ友達が勝ったことは嬉しいことに変わりない。
すると、気をよくしたカオルは饒舌になって続けた。
「ここ最近は連戦大勝だ、全てが上手くいっている。全く負ける気がしない」
「へぇ」
「まぁある意味当然だがな、俺は未来が視えるんだから。他の奴らは暗闇の中の金塊を手探りで探り当てようとしているのに、俺だけライトを持ってるんだ。それで負けるわけ無い」
「まぁそれは」
「もっとも、手探りでも負けんがな」
まるで王様のように自信に満ちた口ぶりに、テツリは「流石勝ち組だなぁ」と思わず尊敬した。
だが同時に、これ以上この話をしていると、喜びを差し置いて卑屈な自分が生まれてしまいそうに思えたので、そうなる前にテツリは何か話題を変えた。
ライト……ライトと言えば「光」、光と言えば――
「ところで、ヒカル君はどうしたんですかね」
「ヒカルか? 会ってないのか」
「ええ、今日は1回も」
今日は朝からずっとヒカルの姿が見えない。
ここ最近はもはや当たり前のように行動を共にしているので、いないと何となく違和感を感じる。なんとなく収まりが悪い感覚だ。
「どうしたんでしょうね?」
「……さぁ、俺は何も聞いてないし、何も知らない」
つっけんどんにカオルが返すと、テツリは「そうですか」と答え、腕を組んだ。
果たしてヒカルはどこで何をしているのか?
最後に会ったのは昨日の夜。
焼けた服から着替えるため、ヒカルが婚約者のナルミの家に替えの服を取りに行くと言って別れて以降、会えていない。
それからの動向はお互いに連絡手段も無いので全く不明だ。
「そんなに心配するようなことか?」
真剣に考え込むテツリに、カオルは半ば呆れ顔を向けた。
「アイツのことだし、何か面倒なことに首を突っ込んでるんだろう」
「……」
まぁきっとそうなんだろうなと、テツリは納得した。
何しろ、ヒカルという人間は超がつくほどお人好しで、困った人がいたら見過ごせない男だ。
まだ決して長くはない付合いの中でも、幾度となくそういう場面を見てきた。それをテツリが見れたのも、元をたどれば初めて会った時、ヒカルに救われたからだ。
「でも……」
でも、だからこそ心配でもある。それで無茶しやしないか。
⭐︎
「くっそー、やっぱ無茶だったか。こうも人が多いとどうにもなんねぇよ」
佐野ヒカルは小洒落たフレンチ酒場の前で立ちすくみ、後ろ髪をかきながら愚痴った。
彼が言ったとおり、平日の昼にもかかわらず商店街は賑わいを見せていた。意外とサボり上手さんが多いのか、それとも変則休なのだろうか、どの店もあなた絶対今働いてないとダメですよねと、ツッコミを入れたくなる人たちがソフトドリンクで一杯ひっかけていた。
その一方でヒカルは堅実だ。優雅にひと時を過ごす彼らを見るたびに思わず乾いた喉が鳴るが、その度に自分はやることをやるんだと言い聞かせ、おろしたてのスニーカーの靴底をすり減らす。
そしてそのやること、つまりは目的のために、ヒカルはお金を持ってないのにこの近辺に立地する店に飛び込んでいく。
店員に「いらっしゃいませ」と言われるたびに、「ちょっとトイレを借りたい」とごまかし、時には「待ち合わせをしている友達を探している」とごまかし、中をぐるっと回りながらさりげなく人の顔を確認し、そして次の店でもそれと同じことをする。
目的はとある男を見つけ出すため。だが、顔色は冴えない。
「また空振りか。空振り、空振り、空振り、もう野球だったら三振だけで完全試合だぞ」
探す男には擦りすらしない。今朝からやっているというのに、これじゃ何もしないのと変わりない。
まぁ野球と違って、ヒカルが諦めるまで試合終了にはならないのだが、ここまで空振り続きだともはや終わりがあったほうが良いまである。が……
「絶対見つけ出してやる!」
諦めるという言葉が記憶の海溝に埋蔵されているらしく、ヒカルはせかせかと歩き続ける。
「イラッサイマセ、オヒトリデスカ?」
「友達を探してるんです!」
そんなやりとりを交わし、また別の店に入る。今度はスパイシーな香り漂うインド料理店。
だが入った瞬間分かる、申し訳ないが色々な意味でハズレだと。
「キャク、イマセン」
ターバン巻いた店主が片言の日本語でそう言ったので、ヒカルは「失礼しました!」と元気よく敬礼し、瞬時に店を後にする。なんとなく背後から視線を感じられるが、それは気のせいだと言うことにする。
「くっそー、どこ探しゃ良いんだ!?」
このままだと近くの施設を踏破する勢いだ、無駄に。
そもそも何故ヒカルが人探しをしているのかというと、早朝ナルミから聞いたある話が原因である。
ヒカルはその話を、あたったたりさわったりした果ての布団の中で聞いた。
「ヒカル君、悪魔って信じる?」
その一言から話は始まった。そしてこれが、ヒカルに5時間も街を徘徊させることになる元凶である。
もっとも、この話を始めた吾妻ナルミにそんな気は無かった。
「幽霊が終わったら今度は悪魔なの……」
つい呆れの極地の表情が自然に浮かんでしまう。しかしヒカルがそういうリアクションをとってしまうのは致し方ないこと。
何しろ、まだあの廃病院の人魂騒動から3日も経ってないのだ。舌の根も乾かないうちとはまさにこのことであった。
「いるわけないじゃん……悪魔なんて」
結局あの人魂も、騒ぐだけ騒いで人魂じゃなかったのだから、オカルトなんてそんなもんなのである。
そう話を断ち切って、大きなあくびをひとつするとヒカルは就寝しに布団をかぶった。
だが、耳元で話は続いていた。
「それが今度はそうでもないかもよ」
ナルミはイタズラっぽい笑みを浮かべ、それは無性に引きつけられる表情だった。同時に話の方にも、なし崩し的に引きつけられる。
「今回は実際に見たって人が何人もいるんだって」
「え、悪魔をか?」
「うん」
「……ホントに?」
「ホントだよ。イェイ!」
「……」
ヒカルは黙り込んだ。「いや、でもだからって流石にいるわけないだろ……」と胸中に抱く。
決してナルミが嘘をついているわけではないことは分かるのだが、多分どこかに間違いがあるのだろうと思わずにはいられない。
なので話のほころびを探し出すためにヒカルは質問した。
「その見たって人はどこで見たの?」
「色々だね。大体は街灯も無い路地だけど……」
「わざわざ外灯を強調するってことは、その見たって人が見たのは夜なんだな」
「う……」
そう問われると、ナルミは苦い顔をした。どうやら当たってるらしい。
「じゃあホントかどうか相当怪しいな。暗い中、遠目で不審な人を見ただけかもしれん……どした?」
話すにつれてニヤニヤを深めるナルミの様子が気にかかったヒカルが尋ねると、ナルミは得意げに言い放った。
「フッフッフ、そう言うと思ってました!」
当然ヒカルが言うことなんてお見通しのナルミには、ちゃんと反論する材料があった。
「残念ながらヒカル君の理論はハズレです。何でだと思いますか?」
「分からないので教えてください」
「それはですねぇ……」
ドゥルルルルと、何か飛び出してきそうな音楽で散々もったいぶった後に、ナルミはある事実を突きつけた。
「なんと! 話をした人がいるんだって」
「……はあ? 話した? 誰と?」
「だから、その悪魔と話した人がいるんだって」
「話した!?」
「うん、普通に今の私たちくらいの距離で」
「そんな近く!?」
今の2人の距離は肌と肌が触れ合うほどの近さ。普通の人同士だってこんな距離では話さない。
「この距離で見間違いはないよね」
「そりゃあ……まぁ」
この距離で見間違いをしようものなら、その人は直ちにメガネかコンタクトで視力を矯正する必要がある。
流石に悪魔を見た人全員が全員、そんなはずないだろうし、そうなると残念ながら?見間違いのセンは消えるのか。
「ちなみに見たって人は悪魔の姿についても詳細に、事細かに話してるんだって。なんでもその悪魔はね、目がギラギラに光ってて、背中に鳥みたいな翼が生えてて、腕っ節がすごく強いんだって」
「……詳細じゃなくね?」
詳細とか言っておきながら3つしか言ってないし、しかも挙げた特徴もかなりザックリだしで、これじゃなんとも……。
「他に特徴は?」
尋ねられるとナルミは「ん〜」と唸りながら記憶を喚起した。そして唐突に「あ!」と声を漏らした。
「裸じゃなくって服は着てたんだって」
「……ん?」
その情報にはヒカルも目を丸くした、どうでも良さ過ぎて。
「あれ? そんな反応なの」
「だって、どうでも良いし」
口に出すほどのどうでも良さ。
あんな「あ!」なんて言っておいて、言うことがこれとは拍子抜けしてしまう。
が、納得しない者が1人。
「でも! 普通悪魔って服着ないでしょ?」
「いや……着てるやつは着てるだろ」
むしろ着てるやつの方が多い気さえする。
ネウ○とか、メリ○ダスとか、デモ○ンとか……。
着てないのってドラ○エくらいじゃ……。
ヒカルはそう思っているので別に驚かない。
「……むう」
しかしナルミはそうでなかったので、ヒカルの薄い薄いリアクションにすっかりむくれてしまった。
「悪魔は普通、服着ない」
「まぁまぁ……多分お前が言ってるのは童話とかに出るコッテコテの悪魔だろ?」
あやすように尋ねると、無愛想にナルミはうなずいた
「それならまぁ服は着ないよな?」
これでどうか機嫌を直してくれという願いと共に、その同意を求める問いは発された。
「…………だよね」
ああ、良かった。なんとか立て直した。
素直にナルミが返事を返してくれた事実に、ヒカルも一安心だ。
そして、そのまま機嫌を悪くしたことをナルミに忘れさせるため、ヒカルは間髪入れず尋ねた。
「他に特徴はないの?」
「特徴ねぇ……」
大体の情報は絞り出したらしく、ナルミの顔は機嫌を悪くしたさっきよりも険しかった。
というか、さっきも特徴を尋ねて機嫌を悪くさせたことをヒカルは今更になって気づいた。
だから今度は、たとえどんな(つまらない)情報でも驚くことに決めていた。
「服の特徴くらいなら」
「おお、どんな服?」
本当ならナルミが質問の答えを言った後に、「へぇ、そうなの!」と答えるはずだった。だが、実際にヒカルが浮かべた表情は違うものになる。
「全身黒一色、それでロングコートを着てたって」
ナルミの返答はそうだった。
別にほとんど多くの人は、その返答を聞いたってどうもしない。せいぜい悪魔っぽい格好だねと思う程度だろう。
だが、ことヒカルに関しては違った。まるでピストルで撃たれたかのようなショック。そして、本当に驚いた時に声なんて出ない。
「ヒカル君、どうしたの?」
「い、いや、別に」
その呼びかけでようやく気を取り戻した。
「……他なんかないの?」
いや、まだそうと決まったわけじゃない。ヒカルは浮かんだ考えを振り払うよう尋ねた。
「ああ、あとどうでもいいけど、現場にフクロウの羽が散乱してたんだって、本物の」
「フクロウ……」
「多分シマフクロウのらしいよ。最近は街にも出るんだね、温暖化のせいかねぇ」
「……いや」
ちょっと前に東京にフクロウが出て大騒ぎになったくらいだから、普通は出ないだろう……。
となると、普通じゃ無い事態が起きているか、あるいはそのフクロウの正体は……
大体確信に至ったヒカルは、低い声でナルミに尋ねた。
「……今回も探すのか?」
たとえ「イエス」と答えられても、今回ばかりは絶対「ノー」を突きつけるつもりだった。
が、結果としてその決意は無為に終わった。
「ううん、今回はパス」
はなからナルミがノーだったので、わざわざ止める必要も無かった。
ただ長年の経験から、ナルミがノーと答えることがどういう意味なのか、ヒカルは知っている。
「お前が退くってことは、ヤバイんだな」
ナルミが退くのは、決まって本当に危険が差し迫っている時。
例えば近所で火事が起きた時、ナルミは絶対にそこには近寄らない。
なぜならそれは目に見えた危険であり、それに関わっても何も得るものがないから。
そしてそれは今回も違わない。
「見た人は例外なく『殺されるかと思った』って言ってるらしいよ。本当に殴られた人もいるみたいだし。幸い大したことは無かったみたいけど」
「うん……想像につくよ」
ヒカルは小声で言った。
きっと、仮説があたっているんだろうなと思う。
その後、ヒカルはナルミからその悪魔に関する情報を聞けるだけ聞き出した後、こう決意した。
「俺が止めなければ……」
それが早朝の出来事。
そして今に至るまで、ヒカルはナルミから聞いた情報を基に、事件現場近くの、若者が訪れそうな店をしらみつぶしに捜査して回っている。この事件で、悪魔と呼ばれている男を探し出すために。
もう、ヒカルの中で正体の目星はついている。いや、もはや確信といってもいい。それほど色濃く1人の男の姿がヒカルの中には浮かび上がっていた。
暗闇の中で輝かく目と、腕っ節の強さと、空を舞うための翼を持つ者。そして、容赦の無さの中に垣間見える、ほんのかすかな情け――
全ての条件を満たした者は、ヒカルが知りうる中で1人しかいない。
「ツバサ、どこにいる」