第三編・その3 おばけがいた⁉︎
いざヒカルとナルミが廃病院に入ってみると、そこは思った以上の真っ暗闇であった。当たり前のことだが電灯の類は一切点かないし、また仮に点いたとしても2人の立場上使えないので、2人は窓から入る月明かりと、持ってきた懐中電灯を頼りに、注意深く足下とあたりを照らしながら、息を殺して一歩一歩静かに歩みを進めていった。
そして2人はまず最初に、入口から入ってすぐ左にある部屋というかスペースに足を踏み入れた。
そこはどうやら元は待合所だった場所らしく、4人掛けの長椅子が4つ、そのままの姿で放置されており、そこで料金とか処方箋のやり取りをしていたであろう、ガラス仕切りの小部屋も設置されていた。
その脇には奥へと続く細い廊下があり、それはどうやらトイレへと続くらしい。
「お、いいもん見っけ」
その場所で壁に向けて懐中電灯を照らしていたヒカルが声を上げた。
「なにがあったの?」
「見れば分かる」
ヒカルが指差す先には白い木の板が貼ってあって、薄っすら文字と図面が書いてある。各図面の横には、1F、2F、3Fとそれぞれ振られている。
これだけあれば、ナルミにもそれが何なのか容易に分かる。
「ははーん、案内板だ」
「これで迷わずに済みそうだ」
案内板は日光で劣化しているものの、未だ何階に何があるのかを教える役割を健気に果たしてくれる。
ヒカルたちはありがたく、その情報を享受する。
「えぇと、とりあえず3階の行き方はと」
2人が今目指しているのは3階の西側、1番端の部屋。それは案内板によると、以前は入院患者へ提供される病室のうちの1つだったらしい。それが今では人魂が出たとされる現場になっているのは、なんとも皮肉なことだ。
「階段は端と端の2箇所か」
「エレベーターついてないんだね、ここ」
同じく案内板を見ているナルミは言った。
「そういやついてないみたいだな。病院で無いとなると今時珍しいかもな」
「潰れた原因ってそれなのかな?」
「なるほど」
確かに普通の人ならともかく、病院に来る人は少なからずどこか悪いんだから、階段の上り下りも億劫なのかもしれない。
そう考えると、ナルミの指摘はあながち見当はずれではなさそうだなとヒカルは思った。
「まぁそれだけってことはないだろうけど、原因の1つではあるだろうな」
「やっぱり時代はバリアフリーか」
と、ナルミは腕を組んで「うむ」とうなずいた。
なんでも彼女が勤める幼稚園でも、最近至るところに手すりが設置されているらしい。
「優しくないと生きていけないだっけ? 人も物もおんなじなんだね」
「言えてるな。今は色々と殺伐としてるから、みんな優しさが欲しいのかも……」
まさに殺伐としたゲームに身を置くヒカルは、その言葉が身に染みるようだった。
「……何?」
視線を感じてヒカルはナルミのことを見た。
「へへ、たまには良いこと言うでしょ」
絵に描いたようなドヤ顔を自身に向けるナルミに、ヒカルは「それを言わにゃなお良いものを」と心の中で呟いた。
一言余計と言うか、喋りたがりと言うか、ホント、黙ってじっとしてたら、もっとこう正統派な美人なのに、と時々思ってしまう。
もっとも、そういう残念ところが愛おしくはあるんだけど、とヒカルは付け加えた。
「じゃ、早速1枚撮っとくね」
言ったが早いか、ナルミは部屋の全体像をスマホのカメラに収めた。一応アプリで音が出ない設定にしてある。
「うーん、念のため私も入れて1枚お願い」
「はいはい」
ちゃんと廃病院に行ったことを園児たちに示す証拠も欲しいらしい。
言われるがままにスマホを受け取り、ヒカルはスマホのシャッターを押した。
「撮ったぞ」
「うん、ありがと」
「さ、次行くぞ」
写真を撮り終えたらもう用はない。2人はさっさと待合所だった部屋を通り過ぎ、先に進む。
歩きながらあたりを見回すナルミは、潜入当初から思ってたことを口にする。
「廃墟にしてはキレイだね」
「そうだな。蜘蛛の巣とかホコリは酷いけど、あとは普通だな」
明かりのない非常口の案内看板を見上げながら、ヒカルは言った。
「なんかこう……廃墟ってもっとガラクタとか、動物とか虫の死骸とかがゴロゴロしてるイメージだったけど、そうでもないんだね」
「うん。良かったじゃんか、これならあんま怖くないだろ」
自身に密着するナルミを見下ろして、ヒカルは言った。
「そ、そうだねぇ……ちょっとはね」
引き立った笑みを浮かべてナルミはそう答えた。
「ね、ねぇ、写真って全部の部屋で撮らないとダメかなぁ……」
「……さぁ、それはお前次第だろ」
「で、でも、3階まであるし、結構広いし、全部は撮りきれないよねぇ……」
「明日も来れば?」
「え!」
「冗談だよ」
ヒカルはニヤッと笑ったが、ナルミはそのイタズラっぽい笑顔にムッとした。
「もう、冗談キツいよ」
「痛てっ」
ペチッという気の抜けた音と共に、ナルミのデコピンがヒカルの頬にヒットした。実のところ全く痛くないが、ヒカルは反射的に痛いと言ってしまった。
「あんまり怖いこと言わないでよ。人一倍ビビリなんだから」
「悪い悪い」
「廃墟なんて、2度と来たくないんだから」
「ハハハ……あ」
懐中電灯で前方を照らしていたヒカルが、唐突に声を漏らした。
「! なに!」
それに反応してナルミは防御のため、身を縮める。
「人魂!? それとも幽霊!?」
「……ごめん、ポスターだった」
廊下の突き当たりの壁を照らした時、一緒に照らしたポスターに写るナース服の女性が、遠目では階段から降りてくる本物の人に見え、ヒカルに驚きの声を上げさせたのだ。
「お、おどかさないでよ」
「……ごめん」
ヒカルはその照らされたポスターに近づくと、写るナース姿の女性を凝視した。ポスターの内容はがん検診を奨励するものだった。
「なに? タイプなの」
不機嫌さをあらわにしてナルミが横から言うと、ヒカルは「いや、そうじゃない」と答えた。
「誰だっけ、この人?」
「えーと……確か」
「あ、ゴメン、右下に書いてあった」
「なんだ」
「星崎……ミアイ? ミアかな? 知ってる?」
「うーんとね」
ナルミも知らないようだったが、手元にあるスマホでその名前を検索した。結果、その名前で1人はじき出された。
「うん。星崎ミアで合ってる。星崎ミアは日本の女優、グラビアアイドル。出身は—」
「そこはいいや、年齢は?」
「ハタチだね。5個も下だよ、私たちより」
「そっかー、俺たちも歳を取ったなぁ……って違う違う」
ナルミのしみじみとした感想に、思わずヒカルはノリツッコミしてしまった。
「このポスターだといくつに見える?」
「15歳」
ピンポイントに、ナルミはキッパリ言い切った。
「ま、まぁそれくらいだろうな。だとすると、このポスターは5年前のものだ」
「この娘早生まれだよ」
「……じゃ、6年前ね」
ついでに、他の近くに貼ってあるポスターを確認したところ、最も新しい物でも2014年の物で、それ以降の物は1つとしてなかった。
「つまり、潰れてから6年ってことだ」
「6年前って私たち学生だね」
「うん」
「…………それだけ?」
ヒカルのリアクションがあまりにも淡白だったもんで、ナルミはキョトンとした。
「だってなぁ……さっきからあんまりダラダラ話してると、ホントに時間足りなくなるぞ」
時間が無くなる、すなわちそれは廃病院への2度目の来訪を意味する。
「え、ヤダ」
逡巡すらせずナルミは即答した。
「じゃあ…………そろそろ行くぞ、上」
目指すのは3階西側の1番端の病室だ。そこに行くためには、目の前にあるこの真っ暗な階段を上っていかなければならない。
恐怖にナルミの喉は砂漠のように渇く。
「い、いよいよだね」
「足下に気をつけて」
2人は身を寄せ合いながら、一段一段慎重に階段を登っていく。
3階ってこんなに高かったけ、と錯覚するほどの時間を費やし、ヒカルとナルミはやっとの思いで合計52段の階段を上り終えた。
「つ、疲れた」
上り終えた時、ナルミはその場にへたり込み、ヒカルは壁にもたれ掛かりながら周囲に気を配っていた。
2人とも精神をすり減らしていた。しかし本番はここからだ。何しろ、現場に乗り込むのはこれからなのだから。
休憩もそこそこ2人はまた歩み出す。目指す病室はもう目と鼻の先だ。
「……ここだ」
ナルミは誰にも聞こえないよう、蚊の鳴くような声でささやいた。
「どうしよう……」
「俺が開けていい?」
ヒカルが尋ねるとナルミはゆっくりうなずいた。
いよいよ緊張の瞬間だ。果たして、ご対面となるのだろうか。
ゆっくりと、戸が開かれる。最後に隙間から中の様子を確認して、ヒカルは戸を全開にした。
「……………誰かいる?」
「……いや、いない」
見渡してもベットが5つと、それを仕切るカーテンがあるだけで他に家具はなく、中はガランとしていた。
部屋の大きさからして、元は大部屋だったことがうかがえる。だからか戸もこの部屋だけ前と後ろの2箇所ある。
「今のうちに写真撮っとこ」
ナルミはさっさと病室の様子を入口からアングルでカメラに収める。
「じゃ、どうする?」
「……ちょっと待って」
「?」
「……ちょっと調べよう」
ヒカルは部屋の中に入った。
その時、ヒカルには大した考えがあった訳ではなかった。ただちょっとした違和感が、脳裏を掠めたに過ぎなかっただけだ。
「……どうしたの?」
「このベット……」
ヒカルは5つあるベットのうち、入ってきた戸とは反対側の壁際の、真ん中にあるベットに目をつけた。
「このベットだけ、綺麗に掃除されてる」
「え?」
「見てみろよ。埃の積もり方が違う」
言われてナルミが確認してみると、確かに問題のベットだけ他のベットと違って、一切の埃が積もっていない。そのせいで、他のベットと問題のベットは白色の純度が違って違和感がある。
「てか、このシーツ敷き直してない?」
「それどころか」
ヒカルは顔をベットに近づけ、仕舞いには顔をうずめた。
「大丈夫?」
「……ちょっと、洗剤の匂いがする」
「ホントォ?」
「嗅いでみろよ」
仕方なく、ナルミも顔を近づけ息を吸う。
「……ホントだ。シトラスの香りだ」
「あぁ〜、それだ、そんな感じだ」
やはりこのベットからは柑橘系洗剤の香りがする。
比較しようとヒカルは他のベットでも匂いを嗅ごうとしたが、そもそも他のベットは埃をかぶってるせいで咳き込んでしまい、嗅ぐ段階にすら至らない。
「うん、やっぱこのベットだけだ」
その香りを気に入ったのか、ヒカルは比較を終えてもそのベットの香りをやたらに嗅いでいた。
「でも—」
ナルミが指をほおに当てて考える。
「6年前のベットで匂いがするはずないよね?」
「そりゃそうだろ」
「じゃあそのベット、てゆうかシーツを誰か洗ったってことだよね」
「しかもわざわざ持ち出してるからな」
「…………ん?」
分かってないって顔をナルミは浮かべる。
「つまりだな……!」
ヒカルはナルミのことを、ベットと壁の間に空いたスペースに追いやってから説明を始めた。
「ここは廃病院で、知っての通り電気が通っていない」
「ふむふむ」
「でだ。となると洗濯機も当然動かないだろうし、そもそも6年前から使ってない洗濯機なんて、洗濯には使えない。だから、ここで洗濯は出来ない」
「洗濯板って可能性は?」
話の腰がベキリと折れた音がヒカルには聞こえた。その可能性は考えていなかった、考えるまでもなく無いから。
「……水も通ってないから、あと手間を考えて」
「確かにね」
「……うん。だからこのシーツを洗うには、コインランドリーなりなんなり、どう考えても1回外に持って行く必要があるんだよ……」
「はーん、なるほどねぇ」
ナルミの返事はどこか気が抜けていた。
「…………」
「?」
「……どう? 分かる?」
「うん、分かった分かった、言いたいことはね」
説明を聞き終えた時、ナルミは意味深に笑った。
「でもその推理、引っかかる点があるよ!」
ナルミは偉ぶって少し体を反りながら、鼻息を荒くした。
「……言ってみて」
「いいの」
「どうぞ」
「えっとね、それ、めんどくさ過ぎないかな?」
「……」
ヒカルは大きくため息をつき、ナルミに背を向けた。
「え? そんなおかしなこと言ってる? だって、ここから最寄りのコインランドリーって、多分往復だと結構どころじゃない距離になるし、シーツ持ってコインランドリーがある通りを横断したら、誰かしら人目につくし、もし廃病院に入るところ見られたら捕まるかもしれないし……色々めんどくさくない?」
そう、この廃病院と最寄りのコインランドリーには、500メートルほどの距離がある。単純な往復でも約1キロも距離を有し、しかも店が構えられている場所は大通りで、ナルミの言う通り人目にもつきやすい。
そしてこの廃病院の前の路も、そこそこ人目につきやすく、車通りもある。よって誰にもバレずの往復は至難の技だ。
仮にも不法侵入している者が、人目を憚らず、おまけに手間をかけてまで洗濯をするのだろうか、ナルミは疑問だった。
「…………だよなぁ」
「え?」
「やっぱ普通そう思うよな」
「……え? なに? 私の指摘当たってんの?」
「うん、人目は極論どうでもいいけど、俺も欠陥だと思う、面倒くさいは」
「ホント!?」
ナルミは驚いたように大きな声を上げた。
「わざわざシーツを持って洗濯出来る場所まで持って行って、それを洗濯から乾燥までして、それをまたここに持って帰るって、面倒臭くないはずがない」
「あ、でも、近くに自宅があったらどうかな?」
「いや、そもそも自分家が近くにあったらここに住む必要ないだろ」
「……それはまぁ」
至極まっとうな意見だとナルミは思った。
「じゃあさ、やっぱりコインランドリー行くしかないんじゃん」
「うん、無いね」
サラッとヒカルは答えた。
彼の中でも、シーツがコインランドリーに持ってかれたことは事実として固まっている。問題は、その運搬方法だ。
「まぁ実は極力人目を避けられて、面倒くさくない運搬方法っていうか、移動方法が1つだけあるんだ」
「そんなのあるの? 自転車とか車とか?」
ヒカルは首を振って否定した。
「じゃあ何?」
「ワープしたのさ」
「…………うん、何言ってるか分からない」
いきなり真面目なトーンで「ワープした」と言われたので、ナルミは困った顔をするしかない。
が、なおもヒカルはつづけた。
「ワープなら、予備時間に1分ずつ、これなら往復2分で歩かずにも済む。画期的だろ?」
「……ああ、そう言えばヒカル君ってワープ出来るようになったんだっけ。いいなぁ、全人類の夢だよ」
羨ましいという表情を浮かべてナルミは言ったが、ナルミには見えないヒカルの表情は、この時険しさを増していた。
「……ゲーム参加者は、俺含めてみんなワープ出来るようになったんだよ」
「……え? なにそれ、聞いてない」
「だから、もしここに住み着いてるのが俺と同じゲーム参加者だったら……」
「ちょっと待ってよ。いくらなんでも突拍子が—」
すぎると続くはずだった言葉は、ヒカルによって遮られる。
「ここに来た時から……俺は落ち着かなかった。てっきり単純に怖いからだと思ってたけど、どうやら違ったみたいだ」
今になってヒカルは気づいた、あの心のザワつきの正体に。
「あのザワつきは、近くにゲーム参加者がいるのを察知させる力によるもの、間違いなく、ここには俺の他にも参加者がいる」
「それって、まずいよね?」
「まぁ人によるけど、今回はまずいと思う」
「じゃあ早く逃げないと」
しかし前に出ようとしたナルミは、ヒカルが伸ばした腕によって塞がれ、袋小路となった。
「ヒカル君?」
「………ごめん、もっと早くに気づくべきだった」
そう謝罪すると、ヒカルは開け放しにした戸の方へ向けて叫ぶ。
「そこにいるのは分かっている! 姿を見せてくれ」
一瞬静まり返る病室、そののちに廊下で影がゆらり揺らめいた。
そして北風が窓ガラスを吹き鳴らすと共に、若い男がその姿をあらわにした。
黒縁メガネに、第二ボタンまで締められた真っ白なワイシャツ、その男の出で立ちは、いかにも自分は知的ですと言ってるようだった。
ついでに喋り方も、そういう雰囲気を感じさせるものだった。
「やれやれ、こんなとこに入り込んで来る奴なんて、相当な馬鹿だとばかり思ってたけど、意外にキレるじゃないか」
病室に入ってきた見ず知らずのその男は、薄暗い病室の中で傲慢そうに笑う。