第三編・その2 おばけなんてないさ
三丁目の廃病院について、ヒカルとナルミが知っていることはあまり多くない。なんたって廃病院の事情なんて、気にかけない人は一生気にかけることもないだろうし、この2人もどちらかと言えばそういうタイプの人だ。
だからせいぜい知っていることと言えば、2人が3年前にこの街に来た時にはすでに今のようになっていたこと、元々の病院名が藪田医院だったこと(看板にそう書いてあった跡がある)、三階建てで元はそこそこな病院であったこと、これくらいだ。
いつ潰れたのかは分からないが、その外観は多少ボロこそ出ているが、まだまだ現役の病院と見比べてもそこまで遜色ないレベルには整っている。
なので今まで誰も、当たり前だが積極的に近寄りこそしなかったものの、反対に心霊的な噂をされることもなかった。
しかしそれが最近になって注目を浴びたのは、どうも妙なことが起きたかららしい。
「人魂?」
「うん、そんな噂が立ってるの」
定かではないが、最初に異変に気付いたのはナルミが勤める幼稚園に通う園児の父親で、彼が噂の元凶らしい。
何でもその父親は仕事場からの帰宅ルートとして、毎晩その廃病院の前を車で通っているのだが、つい5日ほど前、ふとそこに目を向けてみると、3階の左側にある窓ガラスをポウッと明かりが横切ったらしい。
その父親は、それを疲れが引き起こした単なる見間違いと思い、特に気にも留めなかった。だがそのことを聞いた子供が、幼稚園でそのことを他のみんなにあちこちで伝えたため、あっという間に廃病院の謎の明かりは、人魂の噂として幼稚園を席巻したとのことだ。
ちなみにみんなが人魂にビビる中、「おれたちはちがうっ」と言わんばかりに人魂を見つけ、そして捕まえようと、虫取り網、おもちゃの掃除機、水鉄砲を装備して廃病院に乗り込もうとしたのをナルミに目撃され、あえなく阻止されたのが、年長ゆり組のマーボー、たーちゃん、山田のさくちゃんのわんぱく3人組なのである。
「でも、2020年の世に人魂か」
科学の発展したこのご時世に、しかも怪談の中ですら原始的な人魂でひと騒動起こるなんてにわかに信じ難い。
そして、今時の子供たちが人魂を知っていることもよくよく考えると不思議だ。まぁ、歴史は受け継がれるというか、子供はいつの世も変わらないということだろう。
廃病院への道を歩きながら、ヒカルはそんなようなことを考えていた。
「なんか風情あるよね」
「……風情か?」
人魂が風情? その感覚はヒカルにはちょっと分からない。
「いや風情って言うか、様式美かな?」
「それも違う気がする……」
「違うかぁ」
ナルミがう〜んと首を傾げる。
2020年に人魂の噂が立ったことを適切に表す言葉を探し、頭の中の引き出しを開けていたナルミだったが、それにふさわしい言葉は少なくとも彼女の中には無かったようで、「まぁいいや」と言って結局思考は放棄された。
「徒労……」
一連の思考をその一言でヒカルは表した。
その呟きは幸いにもナルミの耳に入らなかったようで、そんな彼女はヒカルの方を向いてこう言った。
「でも、何が出てくると思う?」
「何が?」
思わずヒカルは聞き返した。
「いや、流石に私でも、マジモンの人魂が出て来るなんて思ってないよ、流石に」
「……まぁ流石にな」
ホントにそう思ってるかはちょっと審議が必要なので、ヒカルの返事は曖昧でちょっと弱い。
「まぁきっと見間違いなんだろうけど。もしそのお父さんが見た明かりが、見間違いじゃないとしたら、そこに人魂に見えた何かがいたってことだよね……」
そう言うとナルミはヒカルのことを見た。どうやらヒカルに意見を求めているようだ。
だからヒカルは答えた。
「まぁパッと思いつくのは、不法侵入者……かな」
誰もハッキリと人魂を目撃したわけではない。ただ外から、その廃病院の窓にボウッと浮かんだ明かりを見ただけだ。
だから勝手に入り込んだ不届き者が、懐中電灯とか、携帯電話を使った時の明かりが、人魂の正体としては現実的で妥当だろうとヒカルはふんでいた。
「てゆうことは、実はあそこに住んでいる人がいるかも、ってことだね」
「可能性はある」
「怖くないのかな」
「怖いだろうさ。俺だって廃病院に寝泊りなんて無理さ」
「でもベットはあるよね」
急に思いついたようにナルミが言ったが、それに対してヒカルは
「ベットのためだけにわざわざ廃病院泊まるくらいだったら俺はアスファルトに石の枕で寝る」
と返した。
そしてナルミは笑いながら言った。
「まぁ誰がどんな使い方したかも分かんないベットだもんね。お医者さんごっこした人いるかもだし」
「なんでそっち方面なんだよ!」
まさかのエロ方面の発想に、夜中にもかかわらずヒカルの絶叫がこだました。
「普通、使ってた人が亡くなったとか、そっちだろ」
「だって、あんまり病人さんのことを悪く言うのはアレだし」
「いや……だからってお前が変態になってどうする」
「変態かな? むしろ健全じゃない」
「人間としては健全だけど大人しては健全じゃない! 中学生じゃないんだから」
「いいじゃない。変わらない人間って」
「やかましいわ」
確かに変わらないことは良いことかもしれない。けど、中学時代からマジに一切変わってないのは流石にちょっと問題だと思う。
せめてその体の成熟の半分でいいから、精神も成熟させてくれればどれだけ良かったか……、ヒカルは神の不条理を嘆いた。
「とにかく……。わざわざ廃病院に身を隠すなんて、よっぽどの理由があるだろ」
「マニア?」
「……そんなわけあるか」
「うん。ジョークだよ、ジョーク」
「……分かりづらいボケだなぁ」
特にナルミ相手だと輪をかけて分かりづらい、ぶっちゃけいつもの言動と大差ないし、トーンも普段と変わってない。いくら扱いに慣れてるヒカルでも、これを冗談と取るのは無理であった。
「多分普通のやり方だと家に住めないヤベェ人が住んでるんでしょ?」
「まぁいるとしたらそうだろうよ」
度重なるツッコミで早くも疲れたヒカルは無愛想にそう言った。
「…………」
「……どした?」
するとどうだろう、ナルミは急に不自然に黙り込んだ。
ちょっと冷た過ぎたかなと、ヒカルが心配になって尋ねると、彼女は上目遣いでこう言った。
「そばにいてね、絶対ね」
「! ……分かっている」
その目に恐怖の色を感じ取ったヒカルは、優しい声と微笑みで答えた。
「イタズラで置いてっちゃダメだかんね。ヒカル君に限ってそんなことしないと思うけど」
「そんなシャレにならないことしないよ」
「ホント? 見捨てない?」
その言葉には恐怖の他にも感情が混じっていた。
いつかヒカルが、自分から離れて—
「な訳ないだろ。その……ほら、お前は俺にとって、大切な人なんだから!」
その感情を察したヒカルはいつになく強い口調で言った。
「見捨てたりなんかしない、側にいる、絶対に」
それを聞いて少しは安心したのか、ナルミはホッと息をついた。
「へへ、ゴメンね。うるさくして」
「別に、気にしてないよ」
「でもこうでもしないと、怖くてどうにかなっちゃいそうで、それで」
「そんな怖いならやめときゃいいのに。そこまでしてやる必要はないだろ」
「うん。まぁそうなんだけどさ……」
ナルミは口ごもった。
「どうしても怖いから無理だったって言えば、子供たちだって分かってくれるさ」
「いや、それはそうなんだけど……。けど……」
「嘘はつけない?」
「うん。そんな感じ」
なんとも曖昧な返事であった。
「まぁつかないに越したことはないけどな、嘘は」
「……」
「絶対ついちゃいけないとも言えないけどな。俺たちももう大人だし」
「……だよね」
「で、どうする?」
俯いていたナルミが、その声に反応して顔を上げた。
「何を?」
「何をって……、着いちゃったけど」
そう言いながら、ヒカルは路の向かい側に建つ3階建ての建物を指差した。
その建物への道は、草が割れたアスファルトから無遠慮に生え、荒れ果てていた。外壁とかはそこまで劣化していなくて比較的整然としているが、暗い街灯しかない路の脇に建つ、明かりのない建物の見た目は露骨に不気味さを感じさせる。もう間違いなく施設として稼働はしていないようで、本来あるはずの案内看板の文字も全て剥がされており、唯一分かるのはこの建物が『藪田医院』だったということだけだ。
そしてここが2人が目指していた場所だ。
「うぅ、やっぱり夜だと不気味だね」
ナルミが正直な感想を口にする。
「見た感じ、誰かいそうには見えない……けど」
そこまで言って、ヒカルは手で口を覆った。考え事をする時のポーズだ。そして鋭い目つきで廃病院を見つめた。
「ヒカル君?」
「なんかザワザワする……」
「ザワザワ?」
ザワザワ、何というか本能的に心が落ち着かない。形容し難い嫌悪感。ヒカルにあるのはそんな感覚だった。
「……なぁ」
「!」
鋭い目つきのままのヒカルの様子に、ナルミはまるで胸を刺されるような思いだった。
「……なに?」
「……お前、やっぱ帰らないか?」
「え?」
「別に写真なら俺が撮ってきてやるから、お前は家に帰らないか? なんか……嫌な予感がするんだ」
それもとびっきりの。
改めて、鋭い警戒心の塊と言える目を、ヒカルは廃病院に向ける。最初よりもおどろおどろしく見えるのは、そして自分たちへ視線を感じるのは、ただの気にしすぎだろうか……。
「……どうしても、行きたいって顔だな」
一瞬チラッとナルミの方を見たヒカルは言った。
「やめといたほうがいいと思うけどな、俺は」
身の危険を案じるヒカルは、自分1人で入るのはともかく、やはりどうしてもナルミが付いてくるのは気乗りしない。
万が一暴漢に出くわしたとして、自分にはそれを返り討ちに出来るだけの技量があるが、ナルミはそうはいかない。全くの非力、抵抗出来ない。
そうヒカルが考えれば、大切な人であるナルミを連れて行きたくなくなるのはごく自然の流れだ。
が、事ここに至ってナルミは身を引きたがらなかった。
「やだ。ヒカル君を1人にしたくないし、私が1人にもなりたくない、だから付いてく」
そう言って、ナルミはヒカルの服の袖を掴んで離さなかった。ヒカルと目が合うと、ナルミはさらに言う。
「だって心配なんだもん。ヒカル君、すぐ無茶するし。それに危険な目に遭ったら私のせいなのに、その私が安全なところでぬくぬくしてるなんてヤダ!」
「……」
ナルミの真剣な眼差しから、ヒカルは目を逸らした。
目を見ていたら、とてもNoとは言えそうになかったからだ。ヒカルの思いとしては、何としてもナルミを連れて行きたくは無かった。彼女を少しでも危険な目に合わせたくないから。
「大丈夫、絶対にそばを離れないから」
「そばにいても、守り切れる保証はないんだよ……」
しかしナルミは首を振った。
「大丈夫、ヒカルなら大丈夫、信じてる」
「どこから来るんだその自信は」
自分以上に自分のことを信じるナルミに、ヒカルは苦笑いする。
「経験と思い出」
そうナルミは即答した。
「過去のことじゃんか、これからどうなるかなんて—」
「分かる! 過去も未来も一緒。2人なら大丈夫って、そう決まってる」
その目は輝いていた。
「……はぁ、そうか」
そしてヒカルは思った。やっぱり俺はアイツの言う通り、甘ちゃんだなと。ここでNoと言える奴が、きっと現実主義者で正しいんだろうと。けれど、自分はそうはなれないと。
だから……
「ふぅ……その代わり騒ぐなよ。声を立てないで、そっと静かにな」
寄り添うしかないと。
そして、自分も連れて行ってもらえることを理解したナルミは、イタズラっぽく口を三日月にして笑った。
「はいはーい」
「……はぁ」
ため息が止まらない。ヒカルは一杯食わされた気分だった。けれどもう腹を括るしかないだろう。
ナルミが伸ばした手をギュッと握りしめると、ヒカルはあたりに目配せしながら廃病院の扉の前に立ち、それを一切の音を立てずに押し開けた。
「……行くぞ」