第三編・その1 ナルミの誘い
「ねぇ! ヒカル君っておばけ信じてる?」
ただいまの次に発された言葉がそれだった。
仕事帰りのナルミは、まるで今日の晩ご飯を尋ねるかのごとく、1Kの部屋のソファでくつろいでいたヒカルに聞いた。
「え? 何、急に」
唐突にもほどがある発言に、ヒカルは顔を引きつらせ、ふと自分の顔が映る窓の外を見た。
空には分厚くて灰色の雲が立ち込めていて、白い雪が降り続いていた。
この雪は朝から降ったり止んだりと気まぐれだ。道路は安物の白い絨毯のようになり、そのせいで大して新しくもないアパートには黄泉の冷気かよと思いたくなる隙間風が容赦なく吹き込んで来る。
なるほど、そういうことか。
勝手に1人で納得したヒカルは、ため息混じりに部屋に入って来たナルミに顔を向けた。
「コケて頭でも打ったのか?」
滑って転んだんだとヒカルは思ったらしい。
「? 打ってないよ」
違うのか、じゃああれかと、ヒカルは首を傾げた。
「なんか変なもん食ったのか?」
そういや昔、小学校くらいの時には自分も積もった雪を食べていたのを思い出し、ヒカルはしみじみと言った。
「違う」
「えぇー、じゃあ脳が凍った」
「あのさ……大喜利じゃないんだよ」
流石に少しムッときたようで、ナルミはズイッと身を乗り出した。何というか色々迫力と圧がある。
ヒカルは屈して、背中がソファに全部密着するほど反った。
「私は真面目に聞いてるの」
と、本人は至って真面目に質問をしているようだ、お化けを信じてるかどうかを。
「う、う〜ん、お化けねぇ……」
ようやく真面目に考え始めたヒカルは、顔ごと天井を見上げた。考える時の癖だ。
「そうだなぁ……、信じてるかな」
「え、ホント」
自分から質問したくせに、ナルミの中では答えは決まってたらしい。
ヒカルが信じてると言ったことに驚いたように、一瞬目を丸くした。
「ホントに信じてるの?」
「いやだって、実質俺がそうじゃないか」
幽霊の明確は定理は分からないが、大雑把に、死んだはずの人間があり得ない形で現世に留まっている現象を幽霊と称するのなら、今のヒカルもその定理を満たすので、まず間違いなく幽霊だろう。
自分が実質そうなんだから、ヒカルはそう答えるほかない。
が、その回答だとナルミが求めていた回答のニュアンスと違ったらしく、改めて条件を加えた。
「じゃあさ、自分のことを抜きにしたら?」
「……まぁ前までは信じてなかったな」
ヒカルがそう答えるとナルミは「だよねっ」と嬉しそうに言った。
なんでそんなに嬉しそうなのか、ヒカルにもその理由は分からなかったが、「やっぱり、私の見立ては間違ってなかった」と言い残して、部屋着に着替えるため鼻歌交じりで洗面所に入るナルミの姿に、ヒカルは長年の付き合いからこの時点でちょっと嫌な予感がしていた。
そして着替え終わったナルミは、ヒカルが座っているソファの空いたスペースに座り、やけに落ち着いた声で言った。
「覚えてる? 昔、夜の学校に2人で行った時のこと」
覚えている。それは確か中学時代、お互い半袖だったからおそらく7月とかの出来事だ。
「忘れ物を取りに行った時のだよな」
「そうそう、それそれ」
「何忘れたんだっけ?」
「宿題で使う数学ワーク」
「あぁそれだそれだ」
思い出したヒカルの脳裏に、その問題集の表紙に描いてあった電球の写真が浮かび上がった。と同時に、当時は考えもしなかった大人な考えも浮かんでくる。
「今思えば、宿題ごときために夜の学校に忍び込むとかアホみたいだな」
「だって、数学の担当"カマキリ"だったじゃん」
そう返されたヒカルは、考えを改めて「……じゃあ仕方ないか」と静かに言った。
"カマキリ"とは、2人が中学時代、数学の担当教員を務めていた男性教師のことだ。
常時吊り上がった目と、痩せ細って骨張った逆三角形の顔、そして冬なのに日焼けして茶色い姿がコカマキリを連想させることから、そのあだ名が生徒たちによってつけられた。
とは言え、その教師は生徒指導の担当も兼ねていたこともあってかなーり厳しく、まだ芋虫みたいな生徒からしたらコカマキリどころか、オオカマキリくらい強い力を持つ、恐ろしい存在だった。
特に、宿題忘れには厳しい教師だったので、大体の生徒は彼の出す宿題はきちんとこなした。結果、彼が担当するクラスの数学の成績はおおむね良化する傾向にあった。
「でもお前は割と目をかけられてたよな」
「うん。やる気はあったからね」
やる気のある生徒には分かるまで教えるのが、カマキリ先生のモットーであった。厳しいが良い教師である。
ナルミもやる気はあった。やる気はあった。
「でも成績は……」
「3! イェーイ!」
「ピースするなよ……。訳分からん……」
にこやかに言うナルミに、ヒカルは「……流石、ミス・ケアレスミス」と当時のナルミのあだ名を心の中で呟いた。
「で、何で今更その話?」
「うん。なんであの時私がヒカル君を呼んだと思う?」
「怖いからだろ」
ヒカルが即座に答えると、ナルミはそう答えるのが分かっていたかのように「正解!」と答えた。
そしてさらにあの時の心境と経緯について語る。
「本当はね、1人で行くはずだったんだよ」
「……」
「いやホントだよ」
実のところ、途中まではナルミも、ヒカルのことをアテにしようとちょっとは考えても、実際に呼ぶつもりまではなかった。
何しろいくら夜とはいえ学校は学校、1週間に5回も行く場所なんだから暗くたって暗いだけで特に変わりないと、何も知らないナルミはそう楽観していた。
が、実際に夜の学校を目の当たりにするとその考えは吹っ飛んだ。夜の闇に包まれた校舎は、やけに大きく感じられ、その威圧的で荘厳な雰囲気からどうも近寄り難く、得体の知れない虫と鳥の鳴き声は、全くの静かよりも恐ろしい不気味な静けさを奏で、人間の本能に宿る危機感を煽った。
この時ナルミは思った、1人じゃ無理だと。けれどやっぱりワークは取りに行きたい。
最終的に、どうしようかと途方に暮れたナルミの頭に、ヒカルの呆れ顔が浮かび、彼女を公衆電話へと走らせた。
「最初は何事かと思ったぞ、『何があった!』って聞いても、お前『すぐ学校来て! 急いで!』しか言わないから、てっきり何か事件に巻き込まれたのかと思ったし」
当時の心境を思い出したヒカルは呆れて言った。
「まぁ……、私にとっては事件だったから」
「俺もう少しでも寝るとこだったのに」
「そうだったんだ?」
そう言ったナルミは、あの時のヒカルはやけに髪の毛に艶があったことを思い出した。
汗だとばかり思っていたが、今になってあれは風呂上がりだったからかと、ナルミは悟った。
「ゴメンね。呼び出しなんかして」
「まぁ、正直色々思ったけどさ。俺の犠牲のおかげでお前が救われたんならまぁギリギリ良かったよ」
「そ、そうだね」
「……なんで言い淀むの?」
何となく、聞かないほうが幸せなような気がしつつも、ヒカルは聞いてしまった。
すると、ナルミは露骨に目線をヒカルから逸らしながら口を開いた。
「ありませんでした……」
「え?」
「取りに行く必要、ありませんでした……」
「えぇっ!!」
10年越しに明かされた、衝撃事実である。叫び声をあげたあと、ヒカルはしばらくは開いた口を閉じることが出来なかった。
「あ、あのね、あの日は木曜だったの。で、私のクラスって火、木、金で数学あったでしょ?」
「……もう覚えてねぇよ」
10年前の時間割なんて今更覚えていない。それに今の衝撃で少し記憶喪失になった。
ナルミがそれを未だに覚えているのは、罪の意識があったから。
「とにかくそうだったの。で、木曜日に宿題が出たら、金曜に出さなきゃでしょ?」
「そりゃそうだ」
「でもね。次の日は月曜日だったの」
「は?」
木曜日の次が月曜日? もう訳が分からなくなったヒカルだったが、ナルミの次の言葉でハッとした。
「時間割変更で月曜授業でした。だから数学もありませんでした」
「……あっ、そういえばそんな日あったな」
夜の学校に侵入した次の日、ヒカルはやけに教科書の忘れ物が多かった。そしてその原因が、時間割変更だった。当然、変更はナルミのクラスでもあったはずだ。
「えっと……今まで言わなくてゴメンね」
ちゃんとヒカルの目を見て、ナルミは言った、
「…………いいさ、もう10年も前のことさ、もう時効だ……」
今更ナルミを責める気はなんてない、彼女に悪気なんてないし、そもそも彼女のドジをいちいち指摘していたら体がもたない。何しろ彼女はミス・ケアレスミスなのだから。
「……で、今回の要件は?」
「要件?」
「何か頼みたいことがあるんだろ? これに関連することで」
元気ない声でヒカルは諦念の表情を浮かべた。
「えぇっと、実はね」
ナルミはナルミで、ついさっきのカミングアウトのせいでお願いし辛い……、と思ったのは5秒ほどだった。
「私、正直今でもまだおばけとかダメなんだよね」
うん、いつもテレビの心霊特集見て、とても女の子のものとは思えない可憐じゃない悲鳴あげてるもんね、とヒカルは笑った。
「でもこの間ね。私が教えてる幼稚園の子たちが、三丁目の廃病院に入ろうとするところをたまたま見ちゃったの」
「危な」
「でしょ。だからその場で勝手に入っちゃダメだよ、危ないよって注意して阻止したんだけど、その子たちはどうしてもそこにおばけがいるかどうか調べたいって言って聞かなくて、それで……」
「つい、先生が行くと言っちゃったと」
「アハハ、さすが私のこと分かってるね」
「……行ったことにすれば?」
嘘も方便。園児たちには悪いが、これに関しては流石に嘘をついても良いシチュエーションだろう。
が、どうもそうはいかないらしい。
「いやー、それがさ。最初はそのつもりだったんだけど、『ほんとうにいったの?』ってみんな信じてくれなくて」
「よく見てるな、その子たち」
どうやらナルミに対する印象、心証は年代問わずあまり変わらないらしい。
「それで、行った証拠として『しゃしんとってきて』って言われちゃって……」
「行かざるを得なくなったと」
「はい……。それで—」
「1人じゃ行けないから俺を連れて行きたいと……」
言いたいことを先にヒカルが言うと、「うん」とナルミはうなずいた。
「ねぇいいでしょ」
「まぁいいけどさ」
「そこをなんとか」
「いや、だからいいよ」
「……え? いいの? そんなアッサリ……」
「うん、どうせ止めても行くんだろ? だったら俺も行く、お前1人じゃ心配だし」
「ホント? やった、ありがとう!」
満面の笑みで飛び跳ねるナルミの姿に、ヒカルはやれやれと思いながらも少し嬉しかった。
が、さらに続く言葉にヒカルは絶句した。
「じゃ、明日の夜行こうね」
「え?」
「え?」
「なんでわざわざ夜? 1番怖い時に行く必要ないだろ」
「だって、どうせ昼でも怖いもん、あそこ。それに夜の方が子供たちも納得すると思うし……」
「……」
なんだろう。なんか違う気がする。
そう思いつつ、ヒカルは返す言葉もなく黙った。
「大丈夫だって、ヒカル君が来てくれるなら! 2人ならどんなとこでも行けるってば」
ヒカルの心中を察したナルミは鼻息荒く、胸をポヨンと叩いた。
「だから明日の夜ね」
「……んあ」
気のない返事だ。もうこの時点で、ヒカルはすでに確信していた。
「絶対、ロクなことにならないな……」
そしてその予感が外れることを心から願った。