第二編・その4 ありがとうはまだ遠く
「いやぁ、一時はどうなるかと思ったけど、無事に済んでよかったなぁ」
空はすっかり綺麗な夕焼け色に染まっていた。今回現れた全ての霊獣を退治し終えたヒカルは、両手を頭の後ろで組んで、今は交通量の少ない通りを意気揚々と歩いている。
その横にはテツリとカオルはいるが、2人と同じく共に戦っていたツバサの姿はない。彼は事が片付くと、「もう用はない」と言い残し、傷だらけの体で颯爽とどこかへ去ってしまった。
もうどこにいるかも分からない。しかしまた近いうちに会うことになるだろうと、ヒカルは予感している。
「本当に無事なんですかね……」
「痛って!」
そしてヒカルもまた、ツバサと同じように傷だらけであった。
テツリが指先で軽く脇腹をつつくと、ヒカルは驚いた猫のように跳び上がる。ついでに目にはパンダのような青アザがくっきりとついていて、申し訳ないがちょっと笑える。
「あ、ゴメン」
「迂闊に触るな、どうなっても知らないぞ……俺が」
ヒカルがおどけて言うと、テツリは苦笑いする。そんな彼も、目立たないが目を凝らせば、各所に細かな切り傷とかアザがついている。
「全く、随分無茶をしたもんだな」
そう言ったのはカオルだった。彼には傷1つない。
「もしあのまま俺たちが来なかったら、お前はどうしてたんだ?」
「あー……考えてなかったな」
「ホント、運が良いなお前は」
カオルの口元にはうっすら笑顔が浮かんでいたが、口調は完全に呆れていた。
まぁ後先考えないで命を張ったんだからそれも仕方がない。
「でも考えてたとしても、あそこで逃げるなんて非情な選択取れませんよね」
「そりゃあな!」
テツリが言うと、ヒカルもそれに同調し、それを聞いて、カオルの呆れはさらに加速する。
「毒されてるな……」
しかしそのカオルの呟きは、突如吹いた風の音にかき消されて2人には届かなかった。
「……」
「ん? なんか言ったか?」
「いや、言っても意味がないと知ってる」
何も知らないヒカルの様子に、カオルは苦笑した。
「そうなのか?」
カオルの胸中を知らないヒカルは能天気だ。
「ただ、少しは……後先も考えてくれ」
トンネルの前で立ち止まると、カオルは真剣な眼差しでヒカルを見つめて言った。
「俺たちはチームだ。お前がする無茶は、俺たちの無茶だ。お前が負う傷は、俺たちの傷だ。お前が死ねば……俺たちも困る」
カオルのその冷めた声に、ヒカルは背筋に嫌な震えを覚えた。さっきの痛みに勝るとも劣らない、嫌な感覚だ。
なおも目を見張り、カオルは続ける。
「チームを組んだ時から、俺たちの3つの命は俺たち全員の物だ。決して軽んじるな。それだけは肝に銘じておいてくれ」
言われなくても分かってる。ヒカルは黙ってカオルの説教を聞いていた。
それに元よりヒカルの命はヒカルだけのものじゃない。自分が死ねば、自分以上に悲しむ人もいることをヒカルは知っている……。だから自分の命を軽んじる気はない。
「でも、手を伸ばすのをやめる事は出来ない、どうやったって……」
ただそれが他人の命を軽んじていい理由にならないと、ヒカルは考えて……いや、考えていると言うか、本能にそう刻まれている、これまでの歩みから。
だからきっとまた同じ状況になったら、また同じようにするだろう。死ぬまでそれは変わらない、死んでも変わらなかったのだから。
「知ってるさ、それがお前という人間だからな。だから組んだ」
カオルは瞬きして、顔を傾けると言った。
「こうなる未来も……視えていた」
そう、カオルにも分かりきっていたことだった。能力を使わなくても分かる、たとえ他人でも、ヒカルが見捨てることが出来ないこのくらい。
だから組んだ、まさにその通りだ。
「ただ、無茶は俺の目が届く範囲でやってくれ」
バツが悪くてしょげているヒカルに、カオルは言った。
それを聞いたヒカルは、思わずカオルの顔を見上げる。
「それって……」
「よろしくな」
カオルは口を結んだままニヤリと笑い、再び歩き出した。
その姿がトンネルの闇へと消えても、ヒカルは立ち止まったままだった。カオルの言わんとすることと、それに対する自分の解釈とを整理していた。
その時、肩をポンと叩く手。傍らで話を聞いていたテツリだ。
おそらく、ヒカルと同じ解釈をしたのだろう、優しい微笑みを浮かべていた。ヒカルもそれにつられて笑みを溢れさせ、うなずいた。
「はぁ〜、それにしてもアイツ、本当になんなんですかね」
わざとらしくため息を重々しくつくと、テツリは唐突に話題を変えた。
「アイツ? アイツってツバサのことか?」
再び歩き出したヒカルが尋ねると、テツリは若干食い気味に、一息で「それ以外誰がいるんですか!」と答える。
「……なんか怒ってない?」
「ええ! 怒ってますとも」
誰でも分かるくらい、それは露骨だった。
しかし理由を考えても、思い当たる節がありすぎてどれがテツリの気に障っているのか分からない。
教えてくれの意も込めて、ヒカルは「なんで?」と言った。
「だって、助けられたくせにありがとうの一言もないし、あげくに『次会ったら蹴落とす』とか宣うなんて、無礼極まりないでしょ!?」
なるほど、テツリは感謝の言葉がないことに不愉快を感じたのか。ヒカルは理解し、そういえば自分もお礼は言われてないことに気づいた。
けれど、不思議と怒りとか負の感情は全く沸いてこなかった。
が、テツリは違うようで唇を尖らせている。
「そりゃあ僕は正直あんまし役に立ってなかったかもだけど……、それでもせめて一言ありがとうでもあれば心証も変わるのに」
お前を助けるために命を張ったところもあるんだから、それに対する礼くらいあってもいいだろ、というテツリの意見は間違ってないだろう、むしろ普通の感覚だ。
「まぁ仕方ないよ、アイツは素直じゃないから」
「でも素直じゃないにしたって……」
「アイツが心証なんて気にしてる訳ないんだから、期待したって外れるだけさ、するだけ無駄無駄。疲れるだけ」
多分少し前のヒカルだったら、テツリと同じように憤っていたかもしれない。
でもここに至って、ツバサに関してはそんな一般論を期待するだけ無駄だとようやく悟ったので、ヒカルはおおらかな気持ちでいた。
だから憤らない理由の半分は諦念であった。がもう半分の方はもっと別な理由であった。
「それにさ……」
「それに?」
「アイツも意外と優しいところあるぜ」
今回の件でヒカルは垣間見た、ツバサの優しさを。あのおばあちゃんが言ったように、なんだかんだでアイツにも優しいところがあると。
「口と態度と機嫌が悪いだけで、案外良い奴かもしれないな」
それ大概悪いじゃないですか……。というテツリのツッコミに、でも「極悪じゃないから」と答えると、ヒカルは歩きながら顔ごとトンネルの天井を見上げた。暗くて電灯の光だけでは、それは灰色にしか見えない。
「本当は白色なんだろうな」
ヒカルはずっと考えていた。
ツバサが戦っている理由は、十中八九誰かのためだと、ヒカルは察している。
そんな、他人のために命を張れる人間が、悪い奴なはずがない。ツバサの心の深淵にあるものは、今の彼を強烈に突き動かすものは、紛れもない純粋な優しさだということも、薄々ヒカルも気付いている。
「ただ……勝つことにこだわり過ぎてるけどな」
しかしその優しさが暴走している結果が、現状の刺々しいツバサという人間を形作っているのだろう。
優しさを否定することなんて出来やしないが、それでもこの他者を傷つけることを厭わない皮肉な優しさの果てに待つものが何なのか? その結末がどうなるのかを、あまり想像したくはない。