第四編・その2 我が神よ
ここらだな—
それからしばらく経って、男は1人空を飛んでいた。飛行機で、とかそういうのではなく、自身の体を丸ごと鳥へ変えて肉眼では見えないほどの遥か高空から、霊獣の居場所を探っていた。
こういう時、彼の能力である"体を任意の動物のものに変える"は非常に便利だ。
今やっているように鳥に姿を変えれば、地を這う他の参加者なんか目にならないほどの早さで目的地まで、どんな妨害も受けることなくたどり着くことが出来る。
戦闘においても、選ぶ動物の特性によってパワーとスピードを調節することで、基本的にどんな相手にも優位に立つことが出来る。
まぁ弱点もあるが基本的に使い勝手は悪くない。汎用性の高い能力だ。
実際この能力のおかげで、もう男は人気の無い埠頭に佇む霊獣をターゲットロックした。今回の敵は四足歩行型で朱色の虎だ。大きさは3メートルといったところか。
さて行くか—
男は旋回しながら急降下、さながら本物の鷹のように霊獣に奇襲をかけた。
音のない奇襲だ。気づいたその時にはもう遅い。
捉えた—
そこからの展開は一方的であった。もし正面切って戦ったなら、見た目からしてこの霊獣は相当な難敵になりえたことが予想されただろう。
しかし男の奇襲はこれ以上ない形で見事にはまった。しかも組み付いたのは背中側、四足歩行型の霊獣では攻撃が出来ない場所だ。
振り落とそうと必死になってもがく霊獣、しかし翼で殴られ、嘴で首筋をついばまれているうちに、徐々に暴れ方も控えめになっていった。
楽勝だ—
このままトドメを、そう思っていた矢先、男の肩に焼けるような痛みが走った。
「ぐっ!」
痛みに耐えながら振り向くと、そこには顔まで覆い隠す白装束を着た何者かが、右手を向けたまま立っていた。
「随分と面倒なタイミングで」
そう思ったのも束の間。
白装束がブツブツ何か唱えるたびに、彼の周りの空間から火球が放たれる。
もし彼1人だったならば、たとえ無限に放たれる火球だろうと華麗にかわし、逆に白装束のことを返り討ちにも出来ただろう。
しかし彼のそばには瀕死の霊獣がいる。おそらくこの火球が霊獣に当たれば、それでトドメになるだろう。そうなったら撃破数1は自分ではなく白装束のものになる。
そのことが気に食わない男は、とりあえず霊獣を掴んだまま空へと逃走を試みる。
苦戦は必至かと思われたが驚くことに、霊獣という重りがあるにもかかわらず、男は非常に軽やかな飛行で次々と来る火球をかわしてみるみる高度を上げていき、あっという間に白装束が豆粒にしか見えない高度まで達した。
ここまで来れば火球なんて当たらないだろう……あとは適当な場所でじっくりとトドメを刺せばいい、男がそう思ったその瞬間—
ビュオッッ!!
「! なんだ!」
思わず声に出すような突風。そのままなす術なく男は黒い風の渦に飲み込まれた。
「フフフ……残念だが、空も我々のものだ!」
白装束が両手を地面につけると、男を飲み込んだ竜巻が地面へ打ち付けられた。
「くっ! 貴様ッ」
竜巻と共に打ち付けられた男は地面に這いつくばっていた。
同様に打ち付けられた霊獣は男の遥か後方に落下、しぶとく虫の息ながら生き残っていた。しかし男が胸を撫で下ろすことは出来ない。
「驚くのはまだ早い。我が神の力は、こんなものではない」
「神だと? 一体何を」
「さぁ味わえ!」
男が訳も分からず困惑するまま、白装束は拳を握って足に力を入れる。
するとどうだろうか、彼の周りに落ちていたいくつもの瓦礫が音を立てる。空き缶は潰れ、石は砕け散り、そして地面には亀裂が走る。
「そうだ。地も、天も、海も、全ては我が神の支配下にある。誰も逃れることは出来ない!」
常軌を逸した圧力が男の背中に乗りかかる。立ち上がることは出来ない。
「ッ! これは重力操作かッ。火球に、竜巻……お前の能力は、何だ」
「私の力ではない、これは我が神の力だ。そこをお間違いないように」
胸に手を当てる白装束。顔は見えないが、きっと大層誇らしげな顔をしていることだろうと男は思った。
「神は、神を信じる者に必ず応え、力を授けてくださるのだ。そして神から授かったこの力には、何人たりとて抗うことは出来ない。それがこの世の理だ」
言ってることはよく分からないが、とりあえず白装束の能力がかなり厄介であることを男は十分に理解した。
まずはこの状況から脱することが最優先だ。しかし、重力を振り切る方法なんて1つしか存在しない。
「くッ、うぉおお!」
重力を超えたパワーを出せ!
男は腕をゴリラに変え、その怪力で押し潰されそうになっている体を起こそうとする。
「まだ抗うか? 不遜な男め」
「うぉっ!」
しかしそのパワーを遥かに上回る重力で押さえつけられてはもうその手は無意味だった。
「これで君はもう動けない。この霊獣を倒すのは私だ、それをそこで大人しく見ているがいい」
白装束の勝ち誇った顔がありありと浮かぶ。が、男もまだ諦めていなかった。
「確かにこれでもう俺は動けない……。だが、何も出来ないとは一言も言ってないが」
「? 動かなければ何—」
そう言いかけて、思わず白装束は顔をしかめた。
「むっ、臭ッ! な……なんだこの酷いひおいは!?」
突然、強烈な悪臭が漂い出した。あまりの強烈さに白装束は両手で鼻を覆った。それでもなお臭いは衰えず、体が反射的に涙を流させた。
そしてそれが男を押さえつけていた重力を弱めることになった。
この好機を逃すはずがない。男は一気に白装束に近づくと、ゴリラの腕を用いた強烈なパンチをお見舞いした。
吹っ飛ばされた白装束は放置してあったドラム缶をボウリングのピンのようになぎ倒し、思わず耳を塞ぎたくなるような騒音が奏でられた。
「神様も、臭いには足元をすくわれるんだな」
見下した態度で男は首を鳴らした。
今、あたりを漂う強烈な悪臭は、彼が使用した"スカンク"の能力によるもの、その強烈な臭いは食物連鎖の上位に立つ肉食獣すら怯ませ、臭いの元となる分泌液が目に入れば失明する恐れもある危険な代物。
なお、彼が使ったのはあくまで能力だけで、実際に分泌液を放射出来るわけではない。
これを服が汚れないから便利と取るか、相手を失明されられない弱体化と嘆くかは人の勝手である。
「……全く勘弁してくれ、服に臭いが付くじゃないか」
白装束も意外とタフで、パンチ一発で沈みはしなかった。
ただ相当鼻にきたのか、しきりに手で鼻に触れていた。
「……なるほど、君はなかなかやるようだ。だが強がりはいつまで持つかな?」
「強がり? 俺は至って平常運転だが」
「そうか? ならば我が神は容赦しないぞ!」
「神なんて知ったことか!」
白装束が火球を放つ、しかもその延長線上には霊獣がいる。
「獣は火に弱い! 火を自在に操る私に、君が勝つことは出来ない」
「悪いが俺は人間だ!」
鳥に変身し、男は白装束めがけて飛ぶ。襲い来る火球は適当にかわして無視。
「むっ、風向きが変わったか」
男が風を切って飛んだことによって火球の軌道にズレが生じた。結果、白装束の攻撃は霊獣をわずかに外れ、積んであった瓦礫の山に着弾するだけに終わった。
しかもそれだけではない、その眼前には爪を光らせた猛獣がいる。万事休すか?
「だが私に届きはしない」
しかし白装束が手を下から上へ突き上げると地面に亀裂が入り、そこから水が噴き出した。コンクリートをぶち抜くほど強烈な水流が白装束を守る盾となる。
「くっ!」
一瞬は抗いかけるも、すぐさま新たに生まれたいくつもの水流が男を押し返した。
「さぁ神よ。このまま死の淵まで押し流してしまいましょうか」
さらに生み出されたいくつもの水流が合流し、作り出された巨大な水球が、男を閉じ込める。
「凍りつけ」
さらに白装束が命じると、一瞬のうちに水球は凍りつき、男は氷の球の中に閉じ込められた。
勝利を確信した白装束はフードの下で笑った。
「どうだ、これが神の力だ! 神にかかれば我々のような矮小な存在、取るに足らないのだ」
だがその時、氷は音を立てて震え出した。そして次の瞬間には粉々に砕け散り、中から姿を現したのは—
「く、鯨ァ?」
笛の音に似た鳴き声と共に、白装束の前に巨大な鯨が現れた。これも変身によるもの。
流石に神も物理学には逆らえない。増大した質量が強固な氷による封印を破ったのだ。
「ああ悪い。矮小がなんだって?」
元の姿に戻るなり、煽ることを男は忘れなかった。
「ほう、それを破るとは、意外と知恵が利くんだな」
「まぁ、単純な、仕掛けだったからな。そんな褒めないでくれ」
薄ら笑いを浮かべながら、2人はその場で睨み合った。しかしその内心に驕りはない。
2人とも、自分たちの実力が拮抗していることを知っている。だからお互いが相手の動向に細心の注意を払っていた。
「でも君、君はその背後にいる霊獣、なんとかしなきゃなんじゃないか?」
白装束は男の背後を指差した。そうこの場には2人以外にもう1つ存在がいた。忘れかけていたが、まだ霊獣は倒し切れていない。いつ、また牙を剥いてもおかしくない状況ではあった。
「物音なんてしなかった。俺の後ろにそんなものはいない」
「ほぉう」
しかし実際にはまだ霊獣は瀕死のままで、ましてや人を襲う力などない。
あくまで男の気を逸らすための白装束の真っ赤な嘘だったのだが、男はいとも容易く看破して見せた。
「神に仕えてるとかほざくくせに、セコイやり方だな」
「神は浪費がお嫌いなんでね」
「それにしては時間を浪費してるな。たかが俺1人に、しかも神の力があるって言うのに」
「……ふむ、なるほど。では今片付けてやろうか」
すると今度は無数の火球を生成、それを束ねて1つの巨大な火球を誕生させた。それが白装束のことを赤く染め上げ、地面に陽炎を揺らめかせた。冬なのに真夏のような熱気だった。
「お前、もしかしてキレたか?」
「さぁ、どうだろうな。私はこう見えて慈悲深い男だからな」
「……流石、神に仕える男は違うな」
巨大な火球を目の前にせせら笑う男に、白装束がわずかにピクついた。
「さて、果たしてこれを受けても君は笑ってられるかな?」
「じゃあせいぜいよく狙えよ。じゃなきゃ当たらない」
交錯した視線は激しい火花を散らした。
いよいよ決着か? だがその時—
「やめろ!」
戦場をかける叫び声。それを聞いた瞬間に、男は思わず心の中で舌打ちした。
またアイツか—
このタイミングで、男にとって最も面倒な奴が来た。
「そんな無意味な戦い、今すぐやめるんだ!」
向き合っていた2人は一旦臨戦状態を解き、ついで声の主の方を見た。
相変わらず甘いことを言う、そんなことを思いながら、男は戦いに割り込んできた"甘ちゃん"の名を呼ぶ。
「俺たちになんの用だ? 佐野ヒカル」
淡々と言ったつもりでも、声の調子にはトゲがあった。苛立ちを隠せなくなるほど、男はヒカルが嫌いだった。
「殺し合いなんて許さない。ただそれだけだ」
ハッキリした真っ直ぐな発言。
これだ、この人間性の眩しさこそ、男は嫌いであった。