第四編・その1 エンカウント
イライラするのは理由がある。その理由に関しては色々あるが、総合するとそれらは結局この一言に集約される。
『気に食わない』
大抵の人は気に食わない時にイライラする。
空腹、失恋、睡眠不足はそういう状態が気に食わないからイライラする。
仕事が長引いたり、ゲームで負けてイライラするのは、自分の思う通りにいかないのが気に食わないからイライラする。
だからもし人が幸せになってイライラするなら、ソイツのことが気に食わないか、あるいは自分とソイツとのギャップが気に食わないのが原因である。
⭐︎
2月25日。
ギリギリ都内に位置付けられるとある街、昼下がりで閑散としていた住宅街を、ある男がツカツカと肩で風を切りながら歩いていた。
その男は焦げ茶の外套を身に纏い、そしてハンサムに分類される顔をしていた。もしこの男にもう少し愛嬌というか、近寄りやすさがあったなら、さぞかし女子にもモテていたことだろう。
そんな一見クールに見えるこの男も、外面には現れないが今、内心は非常にイライラしていた。理由は分かっている、この前会った"甘ちゃん"だ。
ソイツのことを思い出すたびに、思わず舌打ちをしてしまいそうになるのを必死に抑える。それほど男はソイツのことが嫌いであった。
なにしろ、人が願いを叶えるために躍起になっているのに、その甘ちゃんは「殺しはいけない!」とか綺麗事をほざいて、自分のことを非難した。それが男は許せなかった。
本当に、心の底から願いを叶えたいと思うならどんなことでもできる、殺しだってやむを得ないはずだ。そう信じる男にとって、その甘ちゃんの考えはただゲームを舐めているようにしか聞こえず、あとその真っ直ぐ過ぎる人間性が眩しくて、とにかくムカついた。
そんなムカつくなら、ソイツのことなんて考えなければいい話なのだが、どういうわけかそう言う奴に限ってやたらと印象的で、忘れられなくなってしまう。
「……フン」
ああ気に食わない。
そんなムカつく甘ちゃんのことをしばらく考えさせられていた男をさらに気に食わない出来事が襲った。少しばかり思考に気を取られ過ぎていたせいで前方不注意だったようだ。男の肩が、柄の悪い2人組の男の肩をわずかにかすめた。
「イッテェな!」
金髪のリーダー格の男が、大袈裟に肩を押さえて、男に詰め寄る。迫真の演技であった。もう1人の取り巻きは、金髪の後ろでニタニタと笑っている。
人気のない道で、大して強そうにも見えない男は、彼らにとって格好の獲物だったのだろう。
「あー、痛いなぁ、こりゃ折れたかもしれないなぁ、お前が不注意でぶつかったせいでさ」
テンプレ通りのセリフを吐く金髪、次に続く言葉もその通りであった。
「こりゃ治療費が必要だなぁ、誰が払うべきかなぁ」
「そんなん決まってますよ、コイツですよコイツ!」
取り巻きが男のことをしつこく指差す。
「コイツの不注意で怪我したんだから、コイツが金払うのが筋ってもんですよ」
「だよなぁ」
さらに取り巻きは捲し立てた。どうやらこれが彼らのお決まりらしく、かなり手慣れている。
「というわけだ。お前、あるだけ置いていけよ。痛い目みたくないんならさ」
金髪が手のひらを男の前に差し出した。人差し指と中指を軽く曲げ、早くしろと言わんばかりの挑発をする。
「何をだ?」
「金に決まってんだろ。何、アホなのお前?」
「あぁ、金か」
金髪は唾がかかるほどの近さから男を煽る。
しかし当の男は男に凄まれているというのに至って冷静なまま、外套のポケットに手を突っ込むと「これでいいか」と拳を男の前に突き出した。
「これが有金全てだ」
男が拳を開くと、金髪は一瞬呆気にとられ「は?」と間抜けな顔を見せるも、すぐに形相は険しくなり、
額には青筋がたった。
「てめぇ、舐めてんのか」
金髪がそんなリアクションをとるのも仕方ない。男が拳を開いてもそこには何も握られていなかった。ビタ一文、男は差し出さなかったのだ。
「金を出せ、つったろうが!」
「悪いが今は手持ちがない。諦めろ」
「あぁッ!」
冷たく言い放った男の胸ぐらを金髪が掴み、取り巻きはその後ろからメンチを切った。
「持ってねぇわけねぇだろ! そんな嘘でごまかせると思ってんのか!?」
「そうだよさっさと出せよ! 俺たちも暇じゃないんだよ」
しかし、彼らはそうは言うがこの男、本当に金銭の類を持ち合わせていない。
だからなんと言われようが金は出せないのだ。もっとも、仮に持ってたとしても出す気はなかった。なぜなら……
「ハァ」
「なんだそのため息はよ」
「……哀れだな、そう思っただけだ」
「おい、もういっぺん言ってみろよ」
「なんだ聞こえなかったのか? あ・わ・れだな、そう言ったのさ」
その時風が吹いて、男の外套がなびいた。乱れた髪をすく、男の表情が、金髪のイライラを頂点まで達させた。
「テンメェ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れた男は、実力行使に打って出た。
「そんなに痛い目見たいか!? なら見せてやるよ」
右腕を振りかぶって、男のハンサムな顔目掛けて拳を突き刺す。
「!!」
しかしそのパンチ、男は易々と掴み、受け止めた。
何も言わず、掴んだ手に男が力を入れると、金髪の拳はビキビキと音を立てた。
「イテテテッ! やめろ、折れる、ホントに折れちまうよ!」
金髪の顔が激痛に歪み、体は欠陥住宅のように傾き出した。
しかしどんなに喚こうと、男が力を抜く気はさらさらないようで、それどころか喚くたびに力は増す。
加速する痛みに苦しむ金髪の姿を目の当たりにした取り巻きは、男の腕に縋り付いた。
「おいやめろよ! もういいだろ!」
取り巻きの1人が金髪のことを助けようと、男が掴む手を力任せに開こうとする。
すると男は意外にも、手に込めた力を緩めた。
これで一安心……そう思っていた2人組の心情は3秒後に砕け散った。
「何が"もういいだろ"、なんだ」
「え? なに—」
バキィッ!
気づいた時には、取り巻きの鼻っ柱に男のパンチが炸裂していた。
訳のわからないまま、ショックで取り巻きは一瞬にして気を失い、鼻から血を噴きながら地面に大の字になって倒れた。
「そっちから仕掛けておいて」
「テメ—」
メキャッ!
さらに続けて金髪には回し蹴りの贈り物。あまりの威力に金髪は蹴りが来た方向へ倒れた。
「アッ、ヴゥッ、ウゥゥ〜」
「旗色が悪くなったら許してくださいで済ませようなんて、甘々もいいところだ。舐めるなよ」
不幸にも、気を失えた取り巻きと違って、金髪には辛うじて意識が残ってた。だから金髪は自身を襲う痛みに呻き声を上げるしかなかった。その胸ポケットに男の手が伸びた。続けて取り巻きのポッケトにも。
「何だ、たった4万ぽっちか、しけてるな。これでどうしろと?」
2人組の財布から金を抜き取った男は、それを不服そうに外套の内ポケットにしまうと、その場を立ち去ろうとした。
これが金を出さない理由、2人組をねじ伏せる力くらい持っているから、出す必要なんてないのである。
「ま……待て」
金髪が男に手を伸ばすと、男は獣のような鋭い目線を金髪に返した。金髪の喉の奥が急速に乾く。
文句なんて認めない、男の目はそう物語っていた。言ったらどうなるか、想像に難くなかった。
「じゃあな、サービスで救急車は呼んでおいてやる。良かったな、お前たちは運が良くて」
そう吐き捨てると、男はツカツカとその場を立ち去った。
「……ううっ、イテェ、マジで折れたかもしんねぇ」
男が去ると、恐怖心に打ち消されていた痛みがまた金髪を襲い、そのせいで金髪は情けなく呻き声を上げていた。
こんな化け物がいるなんて知らなかった。金髪は心底震えた。
「さて、お楽しみは2週間後か」
そんな人知れず畏怖を振り撒いた男は、しばらく経って商店街を歩いていた。
金髪から奪い取った4万全てを宝くじに変えた男は、しばらく扇状にしたそれを眺めた後、それを懐にしまうと行く宛もなくフラフラと商店街を行き交う人たちを観察していた。
見れば色々な人がいる。しかし有象無象な他人に男が心惹かれるようなことはなく、面白いとは思わなかった。
今、男の興味を引くのは、たった2人だけ—
そんなことを考えていると、ふと頭に頭痛に似た電流が走った。これは霊獣が現れたサインだ。
「また出たか」
男は遠い空を見上げた。新たな戦いが始まることを察した男はため息をついた。
間違いなくあの甘ちゃんも来るだろう、暴れる霊獣を放置出来るような男じゃない。きっと今度こそ決着をつけてやる。そうすればこのイライラも晴れることだろう。そんなことを考えながら男は戦場へと赴く。