第三編・その5 甘い
往来には、ヒカルとナルミ以外にも行き交う人たちがチラホラといた。
しかし今のヒカルには、そんな他人のことなんて全く見えていない。今なら例え霊獣が目の前に現れても、スルーしてしまうかもしれない。なぜなら目に入らないから。
今、ヒカルの目に見えるのは、目の前にいるナルミだけだ。それ以外のことなんて目に入らない。
「……ナルミ」
何度となく呼んだその名をヒカルは呼ぶ。その声は重々しく、鉛のように沈んでいた。そのせいで次に言うと決めていたはずの言葉が沈んで出てこなかった。
「……なに? どうしたの?」
いつもとは違うヒカルの様子。
ナルミはそれに気づかないような薄情な女ではない。とても心配した様子で、ナルミは慰めのつもりでヒカルの頬に優しく触れた。
「……何かあったんだね、辛いことが」
「……あぁ、流石に分かるか」
その手をヒカルはそっと受け入れる。
「分かるよ、何年の付き合いだと思ってるの」
交際の始まりから数えてもすでに10年、会った時から数えれば13年にも及ぶ2人の付き合いだ。
ナルミからしたら、分からない方がおかしい話だ。積み上げてきたものが、気持ちを伝えてくれる。
「そうだな、俺とお前の付き合いも相当なモンだもんな」
「ん? 今のはダジャレ?」
「……違えよ。それを言うなら韻だろ、分かんないけど……て言うかそれはいいんだよ、この際」
ヒカルは呆れて大きなため息をついた。
全く、悩んでるのが分かるならそこはスルーしてもいいだろうに、やっぱりナルミはどこかズレている、ヒカルは改めて思う。
「……」
けれど、そういうところがたまらなく好きだ。
だいぶ天然が入ったところが、放って置けないところが、馬鹿正直なところが、好きだ……。
笑った時に出るえくぼが、スラッとした脚が、やたら触れたがる手が、もちろん誰もが羨む胸も好きだ。
全てが好きだ。ナルミの全てがヒカルは好きだ。
今……いやこれからも、この地球上で1番大切な人が誰かと聞かれれば、ヒカルは迷わず彼女の名をあげる。
だからこそヒカルは決めていた。「別れよう」、その一言を言うことに。
「……」
自分には未来がない。いや、あるかもしれないが、その未来は暗闇に垂れる1本のか細い糸のようで、伝っていける可能性は極めて低い。途中で切れれば容赦なく闇へと落ちてしまう。そんな未来に、ナルミを付き合わせたくはなかった。
まだ生きているナルミには未来がある。自分のために、そんな未来を台無しにさせるのは酷いとヒカルは考えた。
自分はいつ消えるかも分からない。今日、死んだっておかしくない。そして、もしそうなったらまた2度と会えなくなる。
すでに1度味合わせてしまった、好きな人に会えなくなる悲しみを、もう1度ナルミに味合わせるわけにはいかない。
だからそうなる前に身を引いて、全て精算してしまえば、そんな感情を味合わせずに済む。そうすれば、きっとナルミは新たなスタートを歩み出せる。だから身を引くのが最も妥当なやり方だ、そうヒカルは決めていた。
しかし理屈ではそう決めていても、感情がどうしても邪魔をした。
「どうしたの?」
「あ……!」
ナルミの声にヒカルはハッとした。
知らず知らずのうちに自分がうつむいていたことに気づき、ヒカルは言葉を失った。
そしてナルミのことを見て改めて思った。それが自然と口から出てくる。
「……ナルミ、やっぱりお前が好きだ」
なのに身を引かなければならない。
ヒカルは頭の中がグチャグチャになってしまいそうだった。
感情と行動が乖離して頭がボォーッとする、まるで現実ではなく夢の中にいるような感覚だった。
夢ならば覚めてほしい、そう願えどこれは現実、覚めることなどなかった。
「……好きなのに、どうして」
体から力が抜けていく。ヒカルは壁にもたれ掛かり、そのまま地面に崩れ落ちた。
「……ヒカル君、泣いてるよ」
「ああ……」
手を触れるまでもなく分かる、涙が頬を伝うのが。
「……俺、なんで泣いてるんだ。……みっともない、こんなの」
その時、ヒカルの両肩に触れる手。ナルミの手だ。
目線を合わせるために、ナルミも雪の溶けた路に膝をついていた。
何も言わず、ただ真剣な眼差しで真っ直ぐヒカルを見つめる。
それを見たヒカルは1度目を伏せ、そしてもう1度視線を上げた時に口を開いた。
「……ナルミ、俺は今日ね、お別れを言いに来たんだ」
「……どうして?」
優しい声、首を傾けてナルミが聞いた。
「……俺はお前に、俺のために立ち止まって欲しくない、俺のためにお前の人生を犠牲にして欲しくない、そう思うようになった。だって、お前はまだ生きてるから。だから、死んだ俺はもう潔く身を引こうって考えた」
「……それで?」
ナルミは落ち着いた様子で懐からティッシュを取り出し、それでヒカルの涙を拭いた。
「潔くってどういうこと?」
「え?」
まさか"潔く"の意味が分からないのかとヒカルは思ったが、どうやら流石にそれは違うらしい。
「潔くなんて、全然見えないけど」
雪の溶けた道のようにグチャグチャになったヒカルの姿を見て、ナルミは言った。
「……そりゃそうだろ。俺が今、こうしてここにいるのは、お前に会いたかったからだ。お前とまた一緒にいたいから、俺はこのゲームに参加した。お前と別れたら、俺はきっと戦えない」
「……じゃあ一緒に頑張ろうよ。私だってヒカル君と一緒にいたいから。ちょっとくらい迷惑かけられたって、それはまぁホラ、今まで私がかけた迷惑と合わせたらプラマイゼロか、ちょっとプラスになるでしょ? それでいいんじゃないかな」
そう言ってナルミは笑うが、ヒカルは沈んだまま首を横に振った。
「……お前を危険に晒すかもしれないんだ。このゲームは想像以上に厳しい。もし俺とお前の関係が他の参加者にバレれば、俺を蹴落とすためにお前のことを利用する奴は絶対に出て来る。俺は昨日、殺されかけた。ソイツは願いのためなら何だってする、そう言ってた。そう考える奴がいる以上、お前も俺といる限り安全じゃないんだ。俺の巻き添えで……お前がもし死んだら……俺は耐えられない! だから!」
ヒカルはまたうなだれた。
「……俺はお前には、俺と違って出来るだけ長生きして欲しい。俺みたいにつまらない事故で死んで、人生を不意にして欲しくない……。だから……だから別れてくれ……頼む!」
ヒカルは頭を下げた。
1度死んだからこそ、生きてた頃より一層強く思っていた。死は忌むべきものだと、悲しいものだと、誰よりも強くそう思っていた。
「……つまらない、か」
ポツリ、ナルミは呟いた。
「ねぇヒカル君、なんで私がヒカル君と付き合ったか考えたことある?」
「なんで?」
正直、考えたことはなかった。でも今までずっと分かっている気でいた。
「幼馴染だからか?」
「ブッブー」
「面倒見か?」
それも違うと、ナルミは首を振った。
「私がヒカル君と付き合ったのは、別にヒカル君が優しいからでも、頭がいいからでも、運動ができるからでもないんだよ。正直私が会ってきた人の中で、1番優しかったのはタイヨウ君だったし、1番頭がよかったのはヒロヤ君だったし、運動が1番できたのはコウタ君だった」
「……ん?」
ヒカル、首を傾げる。
何というか、ちょっと色々と釈然としなくて……。
「でもね、それでも私が付き合うのはヒカル君しかいないの。なんでか分かる?」
「……」
「それはね、ヒカル君といるのが1番楽しいから。何しててもヒカル君となら面白いって思うから。だから私は付き合うの。ヒカル君がいない世界で平凡に生きられても、そんなの私はつまらない。そんなんじゃどんなに長生きしても、私は幸せになんかなれない」
「……」
「だからね、私はずっとあなたの側にいたい。もしもそれで死んだって、私はつまらないなんて思わない。結末が死でも、それまでが楽しければ私は幸せだよ。ヒカル君といる限り、つまらない死なんてない」
「……でも——」
「わかってる! それでもヒカル君は、私が死ぬのは絶対嫌、だから別れたい、別れることが私が死から遠ざかる方法だから」
「……そうだ。だから俺は」
「別れることが正しい答えだってなったんでしょ?」
ナルミがヒカルの心境をズバリ言い当てた。
「私も正直、ヒカル君の立場だったら、きっとその答えにたどり着くと思う。だけどさ、たどり着けても多分納得はできない。ヒカル君も全然納得できてないよね? だからそんなに泣いてるんでしょ? きっとヒカル君の"願い"も、これからも一緒にいることなんじゃないの?」
ヒカルはうなずいた。壊れた人形のように何度も何度も、泣きながら繰り返しうなずいた。
それがヒカルの心からの"願い"だ。言葉に嘘はつけても、願いに嘘はつけない。
「……だからもうさ、問題の答えが望ましくないんなら、そんな答え出さなきゃいいんだよ。なぁなぁでもいいじゃない。どうせどんなに理屈じゃ正しくたって、絶対納得なんてできないんだから。そんな答えを出して塞ぎ込むより、口を塞いじゃって答えを出さないほうがマシだよ」
ナルミがイタズラっぽくにやっと笑う。
「へ?」
そしてナルミはヒカルの肩にかけた手に力を込め、唇と唇を重ねた。「ほらね」と言ったナルミの顔は少しだけ赤かった。
突然のことにヒカルは戸惑い、目を丸くさせてただナルミのことを見つめていた。
そんなヒカルにナルミが満面の笑みを浮かべる。
「もう今更身を引いたって同じ。私の苦しみはそれで減ったりなんかしない。だから私は、今まで通りのままがいい。私はそれがいいよ!」
ナルミが肩を掴む力はものすごいことになっていた。これで駄目ならもうどうしようもない、この告白はそんな決意に満ちた、彼女の思いの全てであった。
「……ナルミ」
その時ヒカルの目から涙は消えていた。そしてヒカルは本能的にナルミのことを抱きしめた。
「ヒカル君……」
「…………いや、もう今まで通りじゃ駄目だ!」
ヒカルはきっぱりそう言い切った。そして抱きしめるのをやめ、不安そうな顔をするナルミの左手を胸の前に持ってきて、
「1つだけ、約束してほしい。もし、このゲームで俺が勝って、生き返れたなら……その時は……」
「俺と結婚してくれ!!!!」
空まで届くほどの声で宣言した。
「やっぱり俺は、お前が側にいないのは嫌だ! だから別れるなんて出来ない、ずっと側にいてほしい。だから俺が生き返れたら、俺と結婚してくれ!」
堰を切ったかのようにドバドバと、押さえつけようとした感情が拙いながらも言葉となって流れ出る。
しかし突然のプロポーズに理解が追いつかなかったのか、ナルミは一瞬目を逸らした。
「……結婚かぁ」
何か反応渋くね?
そう思ったヒカルは恐る恐るナルミに尋ねた。
「さすがに……駄目かな?」
「……そんなことない! うん、いいね、結婚! しよしよ! いい機会だもん!」
ナルミは明るく言うと、「ついに私も奥さんかぁ」ともうその気になって照れていた。
「……いいのかよ、そんな即答で」
自分から言っておいてなんだが、もっと色々考えた方がいいんじゃないかと思っての発言だった。
そんなヒカルの発言を受け、ナルミは「え〜、そうかなぁ」と言い、ついで何か閃いたように
「結婚しよッ!」
と、発した。
「え? あぁ!」
「ほら、そっちも即答じゃん」
「あ……!」
……なるほど、確かにそうだ。
自分も同じだったことに気づいたヒカルは、まんまとしてやられたようで少しだけ悔しかった。
「あーあ、してやられちゃった」
ヒカルが照れ隠しにそう言うと、ナルミは得意げに「いつもしてやられてるから、その仕返しだよん♪」と、胸を張った。
「えぇ、俺、そんなしてやってないだろ。むしろいつもフォローをしてやっ……」
というヒカルの言葉は途中で途切れた。
「確かにそうだけど、やられっぱなしは……って、どうしたの? 顔赤いよ?」
いつのまにかヒカルの顔が茹で蛸ようになっていた。
「……いや、周り見てみろよ」
理由を尋ねられると、ヒカルは周りを指差す。
いつからだろうか、2人の周りにはギャラリーが取り囲んでいた。
深い事情は分かっていないだろうが、とりあえずプロポーズ的な何かが行われたのは分かったらしく。
みんな拍手と「おめでとう」「ヒューヒュー」「いいぞー」とか口々に祝福していた。
「俺たち完全に見せ物だぞ」
ようやくここが2人きりの世界でなく、周りに人がいたことを思い出したヒカルは、あまりの恥ずかしさで茹で上がるような気持ちだった。
しかしナルミは意外と気にしていないようで、あまつさえヒカルの腕に抱きついてみせた。
ギャラリーからはさらに歓声があがる。
「おい、ナルミ!」
「アハハ、まぁいいじゃん。全員が仲人だと思えば」
「よくねぇよ!! 意味ズレてるし!」
「気にしない気にしない。ホラ、もっとみんなに見せつけてあげようよ、私たちのラブラブっぷり」
そう言って、ナルミは抱きついたまま離れようとはしなかった。
せめて顔隠したい……。でも腕を掴まれているから。
そんなことを考えながら、ヒカルはこっそりと笑った。
帰ってきた時は漠然としていた願いは、今、確固たる形を持った願いへと変わった。
きっと前よりもずっと強く進むことが出来る。そんな思いを胸に秘め、ヒカルはナルミに顔を寄せる。
そんな幸せの光景を、ギャラリーに入ることが出来ず、物陰からカーブミラー越しに見ていた男がいた。
「……甘ちゃんめ」
男は誰に気づかれることなく、胸につけたフクロウのペンダントを静かに揺らして、逃げるように去って行った。
プロフィールNo.3 吾妻ナルミ
苗字の読みはアヅマである。アガツマでもワガツマでも無い、ア・ヅ・マである。
彼女のやらかしは日常茶飯事で様式美、そんな彼女の天然を周りの人たちは暖かく見守り、フォローし、そして事が終わる頃にはくたくたになっている。(主にS・H君)
幼なじみで恋人のヒカルのことを何よりも大切にしていて、彼さえいればいいやとさえ思っている。
ヒカルとの力関係は意外とナルミ>ヒカルである。
あとどうでも良いがおっぱいが大きい……おっぱいが大きい。