第三編・その2 晴天に業火は唸る
東京都世田谷某所の閑静な住宅街。平凡の2文字がよく似合うそんな街で事件は起こった。
時刻は12時過ぎ。
自動放送のチャイムの余韻がまだ残る中、母親の手を引く未就学児の女の子が、唐突にバケツをひっくり返したような晴天を指さした。
その空にはさっきまで無かった赤い火が一筋駆けている。きっとその子は流れ星だとでも思ったのだろう。
だが、それはそんな美しい物では無い。
あたりに戦闘機が飛んでいるかのような爆音が立ち始め、周囲にいた他の人たちも「なんだなんだ」と揃って空を見始める。
彼らの視線を集め、赤い火はこれ見よがしに赤い尾を引き、徐々に高度を下げ始める。その勢いは留まること無く、そのまま本物の隕石のように墜落した。
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「もしもし佐野さん、世田谷区○○で霊獣が現れたそうです」
市民からの通報で霊獣に関する情報を得た鳴賀は、背を丸くし、慌ただしい背後の雑音が入らないよう電話口を押さえながらヒカルに連絡を飛ばしていた。
通話が繋がった時、ヒカルの息は軽く上がっていて、電話越しでも走っているのが容易に分かる。
「ええ、もう向かってますよ」
「そうですか……」
ヒカルの言葉を聞いた鳴賀は、ほんの少し眉間に皺を寄せ、顎を撫でた。
今回ばかりは流石に止めるか? いや、止めてもどうせ無駄だろうと思い直し、鳴賀は重たい口を開き告げる。
「重々承知していると思いますが、今回は特に用心してかかってくださいね。なんせ――」
「…………え?」
続く言葉にヒカルは耳を疑った。
普通、そんなモノが住宅街に建ち並ぶだろうか……。
けれど百聞は一見にしかず。ヒカルは鳴賀の情報が正しいことを理解する。
徐々に徐々に、現場へ近づいて来ると、それにつれて連なる丸い薄緑の建造物も近づいてきていた。
「ホントにあった、ガスタンク……しかも5基……」
よりにもよって、霊獣が迷い込んだのは住宅街に隣接する、整圧所だったのだ。
これにはヒカルもゴクリと喉を鳴らす。
当たり前だが、ガスは便利であるが、扱い方を間違えれば大惨事を引き起こす。
戦いが激しくなれば……、いや下手したらこの瞬間にも暴れる霊獣によってたちまちドカン! ……もあり得なくもない。
そもそもこれ、人いんのか? そう疑問に思うヒカルであったが、その時、中から悲鳴が聞こえてきた。
「……ッ」
どうやら助けが必要らしい。ならばもう……。ヒカルは意を決して、黄色と黒の警告帯を一跨ぎに突入した。
まだ霊獣の姿も確認できないうちに、念のため&無駄な抵抗で変身しておいて、ガスタンクの膝元で危険すぎる探索を開始した。
ヒカルが思っていたより、ガスタンク5基を収容する整圧所は広かった。
変身時間は、今日の日差しからしておよそ10分。
たったそれだけの時間で霊獣を見つけ出し、なおかつ穏便に倒さなくてはいけない、火花の1つも命取り。
時間はないのに、かといって雑になってはいけない。
「ハァ……」
背負う制約の重さに耐えきれず、ヒカルがため息をつく。
と、肩を落としながらも歩いていると、何やらグチュグチュと不気味な粘着音が微かに……。
瞬時にヒカルは気持ちを切り替え、周囲に警戒を払う。
どこにいる……。近くにいることは分かっているヒカルが首を振ってあたりに目を配るも、背後にも、ガスタンクの影にもその姿は認められない。しかし――
ピチャン……
水滴がポタリと背中に。
雨……ではない。
ヒカルがバッと上を向けば、アメフラシのような軟体型の霊獣がガスタンクにへばりついていた。
「なんだコイツ……」
悍ましい姿にヒカルも面食らう。
見た目の不快度は、今まで戦ってきた霊獣の中で群を抜いて強い。
毒々しい紫の体色、歩く度に聞こえてくるグチュグチュという粘着音、そして顔の分からない顔。どこを切り取っても、人が生理的に嫌う要素がふんだんに盛り込まれている。
「ホワオオォォォッ!!」
霊獣は気色の悪い奇声を上げ、ヒカルにのしかかろうと跳びかかった。
ヒカルは跳び避け、地面を転げる。そして立ち上がろうとした時、右脚に違和感が。
「うおっ?!」
その違和感の通り、ヒカルは右脚を引っ張られ転んでしまった。霊獣が触手を伸ばし、巻きつけてきたのだ。
ヒカルは地面をズルズルと引きずられている。その終着点で、霊獣は腹部を横開きの大口に変え、それを広げて待ち構えた。
霊獣はヒカルを喰う気だ。
流石にこんなクリーチャーに食われる最期は嫌だったヒカルは触手に手を伸ばし、引きちぎろうと腕に力を込めた。
けれどヌメヌメした触手は弾性があって、引っ張っても千切れない。おまけに滑る。
「ッッッ、マズいっ!!」
このままでは腹の中に直行だ。
ヒカルは光の手刀を纏う。これはイチかバチかの賭けであったが、伸縮性に富んだ触手も斬撃には脆く、見事一刀とされた。
そのままヒカルは霊獣の腹に一発蹴りをお見舞いしてやった。
「あっぶねぇ……」
ヒカルはホッと胸を撫で下ろす。
喰われなかったのも幸い、そして斬った時に生じた火花がガスに引火しなかったのも幸い……。しかしどうにも戦いづらい……。
これほどまでに一挙手一投足が高濃度の死を内包していると、精神が摩耗する。霊獣が何かする都度、肝を冷やしては体も持たない。
ヒカルは滝のような汗を流しながら、なんとかこの状況を打開する方法を考えていたが、そんな都合が良い方法は思いつかなかった。
だが、その戦いの様子を空から見ている者がいた。空から成り行きを見守っているその影は、しばらくは風に吹かれる雲のように自ら事を起こそうとはせず、地上を静観していたが、やがて痺れを切らしたかのように突然その翼を折りたたみ、急降下した。
みるみるうちに霊獣とヒカルとの距離も迫っていったが、彼らがその存在に気づいたのは、それが霊獣を掴み、持ち上げた瞬間であった。
「へ? ああああ!!」
ヒカルは一瞬にして素っ頓狂な悲鳴を上げた。突然襲来したツバサが、霊獣を連れて飛び去ってしまったのだ。
通りすがりに「じゃあな」の一言だけ残して、瞬きする間にもう行ってしまった。
まるでひったくりにでもあったような気分で、一瞬連れ去られた霊獣を取り戻そうとして手を伸ばした……が、ふと気づく。
「アレ? これラッキーか?」
よくよく考えると、霊獣を整圧所から遠ざけてくれるだけでありがたいことにヒカルは気づく。大勢の安全が確保されるなら、この際、霊獣を倒すのが誰であってもまっったく問題にならない。ちゃんと倒してくれるなら問題ないが、ツバサならその点にも懸案はない。
「じゃあいいか……」
よく分からないままにその結論に達したヒカルは、とりあえず整圧所内の怪我人救助へと向かった。
その後、世田谷から南東の海上で、小規模な爆発が観測されることになるのだが、その詳細を知る者は当事者だけであった。
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その頃、マイとハレトはキャンプ場で帰宅の準備を終えていた。
「そっちはどうだ? そろそろ片がついたか?」
彼らも魔法少女と水晶を介して、整圧所での成り行きを片手間で観察していた。
ハレトの欠伸混じりの問いにマイは頷く。
「ええ終わりました」
そう答えると、マイは考え込むようにやや前傾姿勢になった。
「どうした?」
ハレトが尋ねる。するとマイは「フフフ」と静かに笑った。
「ははーん、さては何かイイコト思いついたんだな?」
その様子から察したハレトがマイをうかがうと、彼女はニッコリと笑った。返答としては、それで充分であった。
吹き抜ける春風が、木々をザワザワと揺らす。