第6章 猜疑渦巻く
「ようせいかん……?」
目の前に立つ女性の口から漏れた言葉を、私は思わず復唱した。その女性、笛有霞は、こくりと頷くと、
「いつからか、そう呼ばれるようになりました」
「〈ようせい〉とは、背中に羽の生えた小さな人間の〈妖精〉のことでしょうか?」
私の質問に彼女は頷いた。
「そうですか……」〈妖精館〉その、おかしな名称の由来を訊いてみたいところだったが、私は先に、「それと、もうひとつ――」
「霞様」
鋭い声が廊下に響き、私は言葉を飲まざるを得なかった。霞は、ゆっくりと振り返る。声は彼女の背後から聞こえてきていた。霞の肩越しに近づいてきたのは、やはり――声でそうと分かってはいた――火櫛だった。
「霞様」火櫛は、もう一度女性の名を呼んで、「今夜は部屋の外へ出てはいけないと、申し上げていたはずですが」
「ごめんなさい、火櫛さん」
半身になって火櫛を向いた霞の顔は、またも言葉とは裏腹に、そう申し訳なさそうに思っているふうにも見えなかった。
「まったく」火櫛は、はあ、と、ひとつため息を吐いて、「お部屋に戻って下さい」
ロビーの奥に向けて顎をしゃくった。霞は、「はあい」と緩い返事をすると、
「また、ゆっくりと話しましょう」
私と村茂に、例によって笑顔とも無表情とも判断がつかない胡乱な顔を見せ、火櫛に急き立てられるようにロビー方向に戻っていった。
「火櫛さん」
私は、霞のあとから歩いて行こうとした彼女を呼び止めた。火櫛は面倒くさそうに振り返る。
「先ほど、霞さんが、私たちがここに閉じ込められてしまったのは自分のせいだ、というような意味のことをおっしゃっていたのですが、どういう意味でしょう?」
だが、火櫛は、じっと私の目を見つめて、
「そうですか」
と口にしたきり、歩いて行ってしまう。さらなる私の呼び止めには、もう歩調を緩めもしなかった。
霞はとうに見えなくなっており、火櫛の後ろ姿もロビーの先、東館側廊下の闇に完全に呑まれると、私は村茂と顔を見合わせて、
「笛有霞……彼女が、この館――妖精館、というそうですが――の主?」
「まだ随分と若そうに見えたな……いや、年齢不詳というか」
その言葉には私も同意して頷いた。十代と言われても二十代と言われても納得する。今日日であれば、ああいった若い外見をした三十代もざらにいるだろう。火櫛といい、どうもここでは、外見で年齢を推察できない人物にばかり遭遇する。
「まあ、彼女以外にも笛有家の人間がまだいる可能性は高いですが」
「石上くん、あの言葉の意味は、どう取る?」
「分かりません……霞さんには結局訊けませんでしたし、火櫛さんにも、まさか、ああも華麗にスルーされるとは思ってもいませんでしたから」
「そうだな」
「それに、私にはもうひとつ、気になったことがあるんです」
「何だ?」
「火櫛さんの、霞さんに対する態度ですよ。火櫛さんは、ここに住み込みで働いていると言いました。であれば、霞さんは雇い主であるはずです。なのに、少し邪険な感じがしませんでしたか?」
「確かにな。二人の会話からすると、霞さんが火櫛さんの言いつけを守らなかったらしいな」
「ええ。『今夜は部屋の外へ出てはいけない』でしたか」
「どういう意味だ?」
「額面どおりに受け止めれば……霞さんが私たちと顔を会わすのを阻止したかった、ですか」
「どうして?」
「さあ……とにかく、戻りませんか」
「そうだな。飛原や、乱場くんにも意見をもらいたいところだな」
私と村茂は二階に戻った。飛原の部屋を訪れると、やはりそこには高井戸と乱場も一緒にいて、テーブルの上には缶ビールが二本置かれていた。
「小型の保冷袋に入れておいたんだが温くなってたな。食堂の冷蔵庫で冷やしてもらおうかとも思ったんだが、さすがに厚かましいと思われそうだし、我慢できなかったものでね」
椅子に座った飛原が、自分の手前にある缶を持ち上げて揺らした。そのときに缶の中から聞こえた液体の音と、彼の赤みが差した顔を見るに、すでに缶の中身はほとんど空になっているらしい。少し上機嫌な口調に聞こえるのは、アルコールが入ったためだろう。酒の力を借りて、今置かれた状況を少しでも忘れようと思っているのかもしれない。
テーブルを挟んで椅子に座る高井戸のほうは、未だ緊張の面持ちを表情に残していた。飛原に比べてビールが進んでいないらしい。もっとも、飛原ほどに現状を楽観視できないだけなのかもしれないが。部屋に備え付けの椅子は一脚だけだったはずだから、高井戸が座している椅子は自分の部屋から持ち込んだのだろう。乱場はベッドに腰を下ろして、お茶のペットボトルを握っている。
飛原は、床に投げてある自分の鞄を目でさして、
「村茂、お前もやるか? 椅子は自分の部屋から――」
「それよりも、聞いてくれ」村茂は掛けられた言葉を制して、「ここへ戻る途中、笛有家の人間に会った」
三人の視線が集中した。
私と村茂は、乱場と並ぶ形でベッドに腰を落ち着けると、女性陣を脱衣所まで送り届けてから、ここに戻るまでの一部始終を話して聞かせた。話が終わると、数秒間の沈黙を破って、
「笛有……霞、か」
「妖精館……ねえ」
高井戸と飛原が続けて呟いた。
「乱場くん、どう思う?」
私は少年探偵に尋ねた。黙って村茂と私の話を聞いていた乱場は、顔を上げると、
「状況とやり取りから察するに、こういうことになるのではないかと思います。まず、僕たちが撮影から帰るときに渡ってしまった橋。本来あれは、使用しないときにはしまってあるはずなのに、何らかのアクシデントで架橋されたまま放置されることになってしまった。その原因を作ったのが、笛有霞さん」
「だから、彼女、霞さんは、私たちが閉じ込められることになったのは、『自分のせいだ』と言ったのか」
私の言葉に、はい、と答えて乱場は、
「その後に彼女か、あるいは火櫛さんかが、橋が架橋されたままであるという事実に気付き収納した。ところが折り悪く、そのときにはもう僕たちの車は橋を渡って〈こちら側〉に上陸してしまったあとだった。タイヤ痕を確かめるため一度車を停めたとき、おかしな音がしましたよね。やはりあれは、橋を収納するときに発せられる機械の稼働音だったと思われます」
思い出す。夜の森に響いた、あの重く低い音。
「だから、火櫛さんは、僕たちの車が館の前に走り着いたのを見て、とても驚いたのだと思います。あの橋は、撮影のために山を登っている往路中には架かっていませんでしたから、橋が架けられていた時間というのは、ほんの数時間程度しかなかったはずです。その数時間の間に、偶然、僕たちの車が橋を渡ってしまった」
「彼女、いや、この館にとって、私たちは突然の〈招かれざる客〉だったということか。そう考えれば、火櫛さんの私たちに対する、妙につっけんどんな態度も理解できるね」
私は、ここへ来て一連の火櫛の態度と口調を頭に思い浮かべた。
「はい。でも、ただ単に〈招かれざる客〉だというのであれば、普通に追い返せばいいだけです。『また橋を架けてやるから、それを渡ってさっさと帰れ』って」
「確かに」
「でも、火櫛さんは、歓迎すべき客でないにも関わらず、僕たちを館に招き入れた」
「どうしてだと思う?」
「考えられるのは……ここの存在を知ってしまったから」
「知ってしまったって……」
「ここに来てすぐのときにも言いましたが、あの出し入れ可能な橋の機構、ただ部外者の立入を禁じたいというだけであれば、あれはどう考えても異常です。あの橋と、火櫛さんの態度を合わせて考えるに、この館は、その存在自体が外部に知られてはいけない、というような代物なのではないでしょうか?」
「どういうことだい?」
「分かりません。でも、外界からの侵入者を拒絶しているにもかかわらず、火櫛さんが僕たちを館に入れた理由というのは、それくらいしか思いつきません。もし、あそこで僕たちを追い返してしまったら、どうなります? きっと僕たちの誰か――あるいは全員が、今日のことを誰かしらに、世間に流布するでしょう」
「ああ」と飛原が、「こんな異様な体験、自分の中だけに留めておくのは余りに惜しいからな」
「そうですね」今度は高井戸も、「俺、きっと帰ったら、友達や知り合いとか会う人会う人に、ここのことを言いまくると思いますよ」
「火櫛さんは、それを恐れたから、追い返さなかった?」
私の言葉に乱場は頷いて、
「僕が、電話を借りたいと頼んだときの反応もそうです。さっきも言いましたが、こんな環境にある家に電話がないというのは考えられません」
「俺たちに、外部との連絡を取らせないため?」
若干、酔いが覚めた顔で飛原が訊くと、また乱場は頷いた。
「だ、だが、ちょっと待て」ここで村茂の声が入り、「だとしたって、状況は何も変わらないだろ。いずれ俺たちはここを離れるんだ。あの時点で追い返そうと、一泊させてから返そうと、ここに居る間に外部との連絡を遮断しようと、結果は変わらない。あの橋を出しっぱなしにしていて、俺たちが偶然渡って、この館を見つけてしまった時点で、彼女らにとっては〈詰み〉だ」
確かに、と高井戸が呟き、飛原も納得したように一度は頷いたが、
「いや、村茂、俺たちを帰すつもりが初めからないとしたら、どうだ?」
「それって、どういう――」
「決まってるだろ」高井戸の声を遮って飛原は、「この館の存在を知られてしまった以上、ここから帰すことは出来ない。つまり、ここで消されてしまうんだよ、俺たちは」
「なっ……」
高井戸は絶句した。村茂も血相を変える。飛原の顔も青ざめており、酔いは完全に吹き飛んだようだ。
「待って下さい」と文字どおり乱場が待ったを掛けて、「それはないんじゃないかと僕は思います」
「どうして?」
乱場の回答に期待しているのか、飛原の声からは幾分か不安の色が薄れていた。
「仮に、ここで僕たち全員を皆殺しにしてしまったら、僕たちの家族や知り合いが黙っていないでしょう。いつまで経っても帰らないことに不審を抱いて、捜索願を出すはずです。そうしたら、ここも含めた仙台市山中が捜索されることは間違いありません。僕はこの撮影に出る前に、両親にきちんと行き先を告げて来ましたから」
「お、俺も」と高井戸は、「仲間に今回の撮影のことは話してある」
乱場が目をやると、飛原、村茂も頷いた。当然、私も。皆、家族や知人の誰かしらに、仙台市の山中で撮影をしてくることを告げて来ているのだ。それは現在入浴中の女性陣も同様だろう。
「まだ法整備も整っていなかったり、治安の悪かった昔ならいざ知らず、現代社会においては、人がひとり消えただけでも誰かしらが不審に思うし、大事になります。ましてや、八人もの人間が同時に姿を消したともなれば」
「警察やマスコミが放っておかないだろうな」
「はい」と乱場は飛原に答えて、「警察や自衛隊がヘリでも飛ばして本気になって捜索すれば、収納式の橋で陸路を断絶されていることなど問題になりません。この館も、あっさりと発見されてしまいますよ」
「で、警察が乗り込んできて、殺人容疑で御用、か」
「ええ、ですから、殺されるという点は考えなくともよいのではないかと、僕は思います」
飛原は、明らかに安堵の気持ちが込められた息を吐き出し、ビール缶を手に取って口元に運んだ。そのひと口で空になったのだろう、戻された缶は、テーブルに置かれると乾いた空虚な音を鳴らした。高井戸も自分の缶を一気に煽ると、
「じゃあ、この館の人間は、俺たちの処遇を、どう決めようと思っているんでしょう?」
口調が丁寧だったのは、乱場だけでなく飛原たち先輩にも同時に尋ねているからだろう。それに答えたのは、やはり乱場で、
「殺してしまうはないにせよ、簡単にここから出さないつもりなのは間違いないでしょうね」
「具体的に、何かそういった兆候はあったかな?」
高井戸が訊くと、
「はい。まず、僕たちの乗ってきた車を車庫に入れさせた際、火櫛さんはシャッターを閉めて鍵を掛けました」
「そうだったな」
「あれは、僕たちに自由に車を使わせないためでしょう」
「鍵、といえば、食堂での……」
「はい。火櫛さんはとぼけていましたが、あのときは間違いなく扉が施錠されていました。でも、あれは僕たちを閉じ込めるというよりは、勝手に館の中をうろつかせないための措置だったように思います。恐らくですが、僕たちが食事をしている間に火櫛さんは、霞さん――や、いるのであれば、他の笛有家の人たち――と、今後のことを話し合っていたのではないかと思います」
「それで、その間だけ、俺たちから監視の目が外れるから、食堂から出られないように?」
乱場は頷いた。まじかよ、と高井戸は頭に片手をやる。
「僕の推測に過ぎませんけれど」
乱場は付け加えたが、火櫛が車庫と、そして食堂に鍵を掛けたことは事実だ。少しの沈黙が流れてから、村茂が、
「じゃあ、乱場くん、この館の人たちが俺たちに行う処遇で、どういうものが現実的に考えられるか、検討はつくかい?」
「そうですね……殺してしまうのはまずい。かといって、そのまま帰すわけにもいかない、となると……僕たち全員を説得して、ここに一生住まわせるとか。当然、家族や知り合いには僕たち本人から連絡させて」
「俺はごめんだぜ、こんなところで一生暮らすなんて」
真っ先に異を唱えたのは高井戸だった。僕もです、と同意してから乱場は、
「もしくは、僕たち全員が寝ている間に、車ごと山の麓まで運んで、そこに置き去りにする」
「そんなことをしたって、俺たちがここに来たという事実は消せないだろ」
「はい。ですから、僕たちがここで経験した一切合切を、夢だったのだと思ってもらうことを期待するんです。この館の存在を確かめようと再び山に入っても、もう橋は架かっていないため、存在を立証できないというわけです」
「それは都合が良すぎる考えだな」
「はい。もし意固地になった誰かに、ヘリでもチャーターされて上空から調べられれば、やはり終わりですからね。これも現実的な対処ではないかと。ですが、まさか僕たちがそこまではしないだろうと思っている可能性はありますが」
「ああ、俺も、もし今、乱場くんが言ったような状況になったとしても、別にヘリを飛ばしてまでこの館の存在を確認しようとは思わないな」
「でも、個人で調べる気はなくても、事件性を疑って警察に通報するとか、マスコミに話を持っていくとか、そういった理由でヘリが飛ぶ可能性もありますし」
飛原が取りそうな行動だ。で、それでドキュメント映画の制作も持ちかけ、その監督をやらせろと自分自身も売り込むかもしれない。
「最後に……」乱場は口調をいくらか沈んだものにして、「やはり、僕たち全員を殺してしまうという可能性も残ります」
「だが、それでは家族が――」
「はい、だから」乱場は高井戸の言葉を遮って、「殺し方の問題です。この館に捜索の手が及ばないような殺し方をしてしまうんです」
「それは、もしかして……」
「そうです。僕たち全員を、事故死に見せかけて殺すんです。この山から離れたところで」