第5章 モノクロームの佳人
階段は踊り場で一度百八十度折れて二階に繋がっていた。二階に上がり、見つけた壁のスイッチを汐見が押すと照明が灯り、左右に延びる廊下を見渡すことが出来るようになった。
「全部で九部屋あると言っていたな」
「トイレは……ここか。私、ちょっと行ってくる」
汐見が階段を上りきってすぐ右にあった手洗いに走った。手洗いは洋式の個室が二つ用意されており、洗面所も併設されていた。私たち全員も手洗いを済ませることにして、全員が再び廊下に集まった。
「乱場くん、さっきの」
私が訊くと、
「ええ、あれは嘘です。最初にロビーで言ったとおり、僕は外泊するのに問題はありません。ちょっと確かめたかっただけです」
「確かめるって、ここに電話があるかどうかを?」
「というよりも……」乱場は表情を暗くして、「僕たちに電話を使わせてくれるかどうかを、です」
「どういうことだ?」
飛原が反応した。
「こんな携帯の電波も入らない場所で暮らしていて、固定電話がないなんて普通考えられません」
「あるのに、ないと嘘をついたってことか? あの火櫛って人は」
「その可能性が高いと思います」
「どうして?」
「外部と連絡を取らせたくないんでしょう。僕らに」
「なんだって?」
全員の顔に不安の色が広がったが、乱場だけはすぐに笑顔を見せて、
「立ち話も疲れますから、とりあえず部屋がどんな感じか見てみましょう」
階段を上りきってすぐ左の部屋のドアを開けた。続けて手探りで壁のスイッチを入れると室内にも照明が灯り、私たちは入室した。
「シングルね」
河野の言葉どおり、部屋は十二畳程度の広さで、シングルサイズのベッドがひとつと、細長いテーブルが壁際に付けられており、テーブルの前には椅子が一脚置かれていた。他には小さめの開放型のワードローブと、窓側天井にエアコンが設置されており、リモコンがベッド脇のサイドテーブルに置かれていた。
「寝泊まりするだけの部屋って感じだな。まるでビジネスホテルだ」
「確かに」飛原の言葉に村茂も同意して、「これなら、ひとり一部屋で使うしかないな。幸い、部屋数は足りてる」
見ると、もしかしたら何かを期待していたのか、朝霧と汐見は若干残念そうな表情をしていた。
「鍵があると言ってましたね」
乱場がサイドテーブルの引き出しを開けると、一本の鍵があった。よくある銀色のシリンダー錠の単品だけで、ホテルのもののようにキーチェーンが繋がっているということはなかった。ドアを見ると、ノブの上側にサムターンが付いている。室内からは、このサムターンを捻るだけで施錠可能なため、鍵で施錠する必要があるのは、部屋を空けるときだけということか。
鍵の確認を済ませると、乱場は窓際に歩いて行き、覆っている厚手のカーテンを引き開けた。すると、
「あっ」
乱場は小さな声を上げた。その理由は私も含め全員が分かったはずだ。窓の外側には、食堂で見たものと同じように何本もの鉄格子がはまっていた。乱場は窓を引き開け、食堂で飛原がそうしたように格子の鉄棒を握って揺すろうとしたが、結果は同じことだった。
「びくともしません」
乱場は手を離して窓を閉めた。
「これじゃあ、ビジネスホテルじゃなくて、ちょっとした監獄だな」
村茂が乾いた笑いを浮かべると、
「もしかして……」
乱場は部屋を飛び出して、廊下の壁に一定間隔で掛かっているカーテンのひとつを引き開け、そのまま動きを止めた。そこにもやはり、窓の向こうに鉄格子が並んでいたのだ。
私たちは、廊下の端から端までを歩き、二階の構造を確認した。階段を上りきって手洗いと洗面所があった側に四つ、反対側に五つの部屋が用意されていた。ちなみに手洗いのスペースは、他の個室ひとつ分とちょうど同じ広さのため、階段を中心として左右は同じだけの面積を有している。
私たちは部屋割りを決める。
スマートフォンの地図機能などは使えないが、村茂が方位磁石を持っていたため、この館は玄関がほぼ真南に向いていることが分かった。よって、玄関前から館を見る状態で、ロビーや階段のある中心部から左側(手洗いがあるほう)を「西館」右側を「東館」と呼称し、西館側を女性に、東館側を男性にあてがうことにした。西館奥から、河野、朝霧、汐見、空き部屋、手洗い。東館奥から、飛原、村茂、高井戸、私(石上)、乱場、とした。
部屋に荷物を置き終えると、私たちは再び廊下に集合した。シングルの部屋に八人が集まるのは窮屈すぎるし、かといって、今さら階下のロビーに戻るのも、何とはなしにはばかられたためだ。
先ほど乱場がしていた話の続きが始まるかと思われたが、疲れているためか、乱場本人も含めて、誰もそのことを口に出しはしなかった。
「今、何時だ?」
しばしの沈黙を飛原が破ると、高井戸が腕時計に目を落として、「九時になりますね」と答えた。
「もう、そんな時間か」
頭を掻きながら飛原がため息を吐く。
「どうするんですか? これから」
表情を暗くした河野が見回すと、
「私、お風呂入りたいです」
遠慮がちに朝霧が小さく手を挙げると、河野も笑みを浮かべて「そうね」と賛同の意を示し、汐見も頷いた。
「じゃあ」と飛原が、「女性陣に先に風呂を使ってもらうか。一階食堂側廊下の奥にあると言っていたな。上がったら誰かしらに教えてくれ。そのあとで男性陣も入るから」
と河野に目配せした。が、河野は動かず、黙って飛原を見たまま、
「ちょっと」
「うん?」
「女性三人だけで行けって? 誰かお風呂場の前までついてきてよ」
「何だよ、河野」飛原が吹き出して、「怖いのか?」
「あ、当たり前じゃないですか! じゃあ訊くけど、監督は怖くないんですか? こんな怪しい屋敷に泊まることになって。それに私、あの火櫛って人も、ちょっと怖い……」
それを聞くと飛原は笑うのをやめた。
「大丈夫です、河野さん」と朝霧が、「汐見さんがついてます」
「任せといてください」
汐見も力強く拳を握る。
「ホッケーマスクを被って斧を持った怪人が出てきても、汐見さんがやっつけてくれます」
「ジェイソンだろうがフレディだろうが返り討ちだ」
「得意の卍固めで」
私は、ホッケーマスクや長い爪を持った怪人相手に、彼女が卍固めを決めているさまを想像した。
「駄目よ、汐見さん」しかし、河野は朝霧の唱えた「汐見ならホラー映画の怪人を返り討ちにできる説」を受け入れることはなく、男性陣を見回して、「村茂さんと……石上くん、ついてきて下さい」
村茂は、同じく指名された私と顔を見合わせてから、
「どうして俺と石上くんなんだ?」
「村茂さんは体が大きくて頼りになるし、石上くんは強そうだから」
「ええっ? そうですか?」
河野の言葉を私は意外に思った。
「うん。石上くん、線が細くて優男ふうだけど、芯の通った感じを受けるわ」
河野がそう評すると、汐見も、
「あ、同感。部長って、達人感がありますよね」
「何だい、達人感って」
「老師的な」
「私はまだ十八だぞ」
「わかる」と河野は笑みを浮かべると、「それに、石上くん、紳士っぽいもの。絶対覗きなんてしなさそう」
根拠のない信頼を置かれた私は苦笑するしかなかった。一連の流れを見ていた飛原は、はは、と笑うと、
「じゃあ、俺たちは大人しく待っていようぜ。村茂、高井戸、鞄に酒があるから少し飲んでるか? 乱場くんも、どうだ」
自分の部屋方向を親指でさしたが、
「未成年の飲酒はダメ絶対、です。それに、飛原さんと高井田さんも入浴前に飲酒するのは危険ですよ」
朝霧に釘を刺されてしまった。
私と村茂は、女性陣三名を浴室まで送るため、再び一階のロビーに立った。階段を下りてすぐにあったスイッチを入れると、天井に明かりが灯る。続いて食堂があったほうの、階段から見て右側の廊下(二階に名付けた名称と照らし合わせれば〈西館〉ということになるが)へ移動。ここでもスイッチを押して廊下に照明を灯した。
廊下を歩き、最初の両開きの扉は、つい先ほど食事を出してもらった食堂だ。その先に片開きのドア。これは位置関係からして厨房のものと思われる。食堂にも、この方向にドアがついていたことを私は思い出した。そのすぐ先は狭い廊下が右(方角でいうと北)にも枝分かれして延びている。そこの照明は別となっているらしく、廊下の先は見通せない。とりあえず私たちは、今歩いているメインの廊下を進むことにした。右手に引き戸があり、数メートル先で廊下は終わり、突き当たりにはドアが見えた。私はその右手にある引き戸を開け、廊下からの明りでみつけた壁のスイッチを入れる。
「ここが脱衣所みたいだな」
中を見た村茂の言葉どおり、そこは脱衣所で、洗濯機も置いてある。入って左側が磨りガラスのサッシ扉になっている。その向こうが浴室なのだろう。いち早く脱衣所内に滑り込んだ河野が、引き戸を裏からチェックする。
「鍵はついてるわ。もう大丈夫」と顔を上げて、「ありがとう、村茂さん、石上くん」
そこで私と村茂はお役御免となった。
帰路に私たちは、廊下突き当たりのドアまで行ってみたが、
「鍵が掛かっているな」
「ええ、しかも、内側から」
村茂がノブを握って回そうとするがドアは開かない。しかも、ノブの上側に付いているのはサムターンではなく通常の鍵穴だった。このドアは内側からでも鍵がないと施錠できない構造になっているということだ。
「勝手口みたいなところか」
「それにしては、鍵を使わないと内側から開けられないというのは不便な気もしますが」
私はドアから離れ、廊下の壁に掛けられたカーテンの一枚を開いた。そこには予想どおりの光景があった。二階のそれと同じく、窓の外には鉄格子がはまっていたのだ。
私と村茂は戻る途中に、途中に見た枝分かれした狭い廊下(といっても、メインの廊下がかなりの広さを持っているため、狭いというのは相対的な意味でだ。一般住宅と比較したら十分幅の広い廊下である)の奥も確認してみることにした。枝廊下の照明スイッチも容易に見つけることが出来た。その奥もすぐに突き当たりになっていて、やはりドアがある。その廊下の長さは、食堂の奥行きとほぼ同じく感じる。つまり、そのドアも館裏側に出る勝手口だと思われたが、ノブの上に鍵穴がついており、これもやはり施錠されていた。
「ここは物置とトイレみたいだな」
次に村茂が廊下の横に三つ並んだドアを指さした。開けてみると、なるほど、勝手口側のドアの向こうには、雑多な清掃用具などがしまい込まれており、残る二つは手洗いだった。どちらも洋式で、これは二階のものと全く同じだ。
これで、一階西館側の間取りは全て確認したことになった。二階は全て私たちの部屋にあてがわれているわけなので、この館で私たちが未踏なのは、残る一階東館側のみということになる。だが、まさか好奇心に任せて探検をしに行くわけにもいかない。私と村茂は枝廊下の照明を消して主廊下に出て、二階に戻ろうと歩き出した。が、そこで、
「――ちょっと、村茂さん」
「どうした?」
私に続いてカメラマンも足を止めた。私は廊下の向こうを指さして、
「……誰か、いませんか?」
「なに?」
村茂は私が指さす方向を向き、一点を――恐らく、私と同じものを――見つめていた。
ロビーの向こう、東館側は照明が灯っていないため、廊下には暗闇が充満している。だが、そのロビーから東館側廊下に入ったすぐの辺りに、白いものが浮かび上がって、いや、立っているのが見える。私が「誰か」と表現したように、それは人のシルエットをしているように思える。村茂もそうだったのだろう、
「だ、誰だ?」と、そこにいるものが人間であることを前提とした呼びかけをして、「ひ、火櫛さん、か?」
「……いえ、彼女は、もっと背が高かったような」
「じゃあ……乱場くん?」
「違いますね。私には、スカートを履いているように見えます」
「俺にもだ……」
私たちは廊下の真ん中で固まった。目を凝らすが、その白い人影は、廊下の暗闇に溶け込みかけているかのように、おぼろげにしか視認できず、丈の長いスカートを履いていて、背丈はそう高くない、ということくらいしか情報を得られない。
「も、もっと近づけば、はっきりと見えるな……」
「ええ、そうですね……」
と言ってはみたが口ばかりで、村茂も私も、その場から一歩も動こうとはしない。
「汐見くんを呼びに行きますか」
「バカ。そんなこと出来るわけないだろ」
「ですよね」
「飛原たちを呼んでくるか」
「そのためには、ロビーまで進んで階段を上がらなければなりません」
「だよな。大声を上げて、二階の飛原たちに気付かせるか」
「この位置からだと、入浴中の女性陣の耳にも確実に届きますよ」
「それは避けたい」
「もう、覚悟を持って行くしかないんじゃ――」
「石上くん!」
白い影が動き出した。位置は変わらないまま、少しずつ大きくなっている? いや、そんなことがあるわけがなかった。こちらに向かって前進してきているのだ。
「や、やっぱり人間じゃないか……」
村茂が安堵したような声を出す。
白い影がロビーに入ると、照明の下に正体が判明した。それは女性だった。身長は百六十センチに届かない程度だろうか。白を基調としたシャツに丈の長いスカートを履いていた。袖から覗く手と顔も陶器のような白さだ。腰ほどまである長い髪だけが、まるで闇を連れてきたかのように黒く、肌の色と相まって強烈なコントラストを放っていた。
女性は、私たちの手前二メートルほどで足を止めた。そして、村茂、私の順に、じっと顔、いや、目を見つめてくる。
魅力的な目を形容する言葉に「吸い込まれそうな」というものがあるが、目の前に立つ女性の双眸が、まさにそれだった。顔が小さいことで、その大きさがさらに強調されている。透き通るような白目と、深淵の底を覗き込んでいるかのような黒い瞳とが、ここでもモノトーンのコントラストを形作っていた。その下には、真っ直ぐで小さな鼻、さらに、薄く紅を引いているのだろうか、艶やかな桜色の唇が配され、顎は鋭角に尖っている。色々と使い慣れない言葉を並べてしまったが、私の言いたいことを簡単に表現すると、目の前に立つ女性は相当の美人であるということだ。
私が横目で村茂を見ると、彼と目が合った。何だか気まずくなって正面に視線を戻す。目の前の美女は、わずかに口角を上げて私たち二人に、どちらにともなく漠然とした眼差しをくれている。その黒い双眸は、「どちらから吸い込んでやろうか」と吟味しているかのようだった。
「あ、あの……」
後輩としての責務――と、いかつい部類の外見をした村茂よりは、私のほうが女性に対して与える印象は幾分か柔らかになるのでは、という勝手な思い込み――から、私が声を掛けた。が、私が二の句を詰まらせているうちに、
「ごめんなさい」
美女の桜色の唇が開いた。
「あなたたちね。私のせいで、ここに閉じ込められることになった人たちって。ごめんなさいね」
言葉尻に彼女は再び詫びの言葉を加えたが、その表情は少しも悪びれているようには見えず、むしろ面白がっているのではないかとさえ感じられたので、私は戸惑った。
「と、閉じ込められるって……」
村茂が小さく呟いた。
彼女は恐らく――いや、間違いなくこの館の住人だろう。訊きたいことは山ほどある。まず、手始めに私は、
「もしかして、あなたが笛有さん、ですか?」
漠然と虚空を見つめているようだった彼女の瞳が、はっきりと私を捉えた。再び唇が開き、
「はい。笛有霞です」
「カスミ……」
「仙人が食べる霞、の霞です」
霞。目の前の、捉えどころのない不思議な美女の名前として、これほど相応しいものはないのではないかと私は感じた。彼女には本当に実体があるのか? 私は手で触れて確かめたいとさえ思った。
笛有霞は、村茂に視線を移し、もう一度私を見てから、
「ようこそ〈妖精館〉へ」
笑みを浮かべたのが今度は確かに分かった。