第3章 閉じられた輪
村茂がブレーキペダルを踏み、バンを停止させた。灯していたヘッドライトも消す。まるで、目の前に突如出現した謎の館から、自分たちの身を隠そうとするかのように。
バンが走ってきた道は、広場のような空間に接続する形で途絶えており、怪しげな洋館は、広場を挟んだ道のほぼ対角線上に建っていた。
「この道が、俺たちが来た往路とは違うことが確実になったな」
飛原は、じっとフロントガラス越しに、夜の山中に佇む洋館を見つめている。
「あの橋は、この館に行き来するためのものだったってことか」
ハンドルに両腕を載せて、村茂も目の前の洋館を見上げる。
「消えてしまいましたけどね」
高井戸の言葉に、私たちは一様に不安そうな顔を見せた。
「どうするんですか? これから」
表情を変えないまま、河野が訊いた。
「どうするもなにも、戻ったところで橋はないんだし――」
飛原がリアガラスを向いたとき、
「見ろ!」
村茂がフロントガラスの向こうを指さした。彼の言葉に従うと、館の正面が明るい長方形に切り取られ、そこに人間の影絵が重なっていた。扉が開き、邸内から何者かが出てきたのだろう。シルエットからすると女性のようだが。村茂がスイッチを捻るとヘッドライトが息を吹き返した。ハイビームにしていたため、光線は正面からまともに女性に当たり、その容姿を露わにさせた。女性が眩しそうに顔を腕で隠したため、村茂はすぐにライトを下向きに変える。一瞬だけ目に映った女性は、ズボン履きで眼鏡をかけ、短い髪をしているように見えた。その女性が、つかつかと大股でこちらに向かって歩いてくる。
「ど、どうします?」
真っ先に狼狽えたような声を上げたのは高井戸だった。
「とにかく、事情を説明しよう」
言い終えぬうちに飛原はドアを開けて車を出た。それを追うように乱場も降車し、私もそれに続いた。
邸内から出てきた女性と飛原は、一メートルほどの距離を置いて向かい合った。
「あの――」
「とりあえず、車は向こうの車庫へ」
飛原の言葉に被せるように、女性は館の隣方向を指さした。見るとそこには、四角い建築物が建っている。まさに彼女が言うとおり車庫なのだろう。飛原は、なおも何か話し掛けようと口を開きかけたが、女性は有無を言わさぬ態度で車庫のほうに歩き、片手でこちらを招く動作をした。車を持ってこいということらしい。我らが監督は諦めたように息をつくと、私と乱場に「車に戻ろう」と声を掛けた。
村茂は女性のあとをついてバンを徐行させる。車庫の前まで到着すると、女性は車庫内の電灯を点け、内部の空きスペースを指さした。コンクリート造りの殺風景なその車庫は数台の車を収容可能のようだが、現在そこに駐まっているのは、グレーのSUVが一台だけだった。
村茂がバックで指示された場所にバンを入れてエンジンを停止させる。一番に車を降りたのは乱場だった。彼はバンの後方に回り込むようにして、すでに車庫内にあったSUVのそばに屈み込む。
「何をしているのです」
目ざとくそれを見つけた女性が声を投げかけたため、乱場はすぐに立ち上がった。私たち八人全員が降車すると、
「荷物があるなら、持って来て下さい。この車庫には鍵を掛けますから」
言われるまま車内からめいめいの荷物を手に戻ってくると、私たちは女性の指示で車庫の外に出された。
「八人。これで全員ですね」
人数を数え終えると、女性は念のためなのか、バンの車内をいちいち確認してから車庫のシャッターを下ろし、懐から取りだした鍵で施錠した。
「俺たちはですね――」
「道に迷ったのでしょう」
飛原の言葉は、またしても女性に遮られた。
「今から麓まで下りるのは不可能です。今夜はここに泊まっていきなさい」
相変わらずの、有無を言わさぬ口調と言葉。車庫の前にも照明が灯っていたため、そこで私はようやく、この女性の容姿をゆっくりと確認することが出来た。
女性としては背は高いほうだろう。百七十センチに届くのではないだろうか。耳に掛かる程度に切りそろえられた髪が、精悍な顔つきによく似合っているといえる。似合うといえば、掛けている細身の眼鏡もそうだ。服装は何の変哲もないシャツとジーンズに、足下はスニーカー。年齢は、若くも見えるし、それなりに重ねているようにも見える。二十台前半から三十台半ば程度まで、どの年齢を言われても納得してしまう。下ならば大人っぽい、上ならば年相応の美人と言われるだろう。
「こちらへ」
女性が、自らが出てきた館の玄関目指して歩き始めたため、
「ま、待って下さい」
飛原の言葉は、ここで初めて聞き入れられた。女性は立ち止まって振り向く。
「ここは、いったい?」
「笛有家です」
「ふえあり?」
「楽器の『笛』に有る無しの『有』と書きます。笛有家の屋敷なのです、ここは」
「そ、そうでしたか」
この館の主の名前を聞いたところで、今の状況の説明には全くなっていないのだが、目の前の女性の口調には、あらゆる借問を許さない響きがある。
「この辺りの山一帯は、全て笛有家の私有地です。麓に看板が立っていたはずなのですが」
「そ、そうでしたか。すみません、見落としていたようです」
「恐らく、経年劣化で朽ちでもしていたのでしょう。今度見てこなければ。夏とはいえ、山の中は気温が低い。中に入りましょう」
女性は再び歩き始め、私たちは顔を見合わせながらもその後ろに続いた。玄関までの短い道中、女性は先頭を歩きながら幾度か私たちを振り返った。まるで、監視しているかのように。
玄関を入ったすぐは広いロビーだった。簡易な応接に使うのであろう、数脚の椅子と机が設えられている。奥には階上へ上る階段が見え、左右には廊下が延びていた。
「簡単な食事を用意できますが」
ロビーのそこかしこを物珍しげに眺める私たちに、女性が声を掛けた。腕時計を見ると、午後七時を回っている。「いただくか」と飛原は私たちを見回す。異を唱えるものは誰もいなかった。女性は、それをそのまま返事と受け取ったのだろう、何も告げないままロビーをあとにしようとした。
「あ、あの――笛有さん。ありがとうございます」
左手の廊下に向いかけた女性は足を止めて、声を掛けた飛原を向き、
「違います」
「えっ?」
「火櫛です」
「ひ、ぐし?」
「私は笛有家の人間ではありません。ここに住み込みで働いている火櫛といいます。火炎の『火』に髪をとかす『櫛』で、火櫛、です」
「そ、そうでしたか。では、火櫛さん、ありがとうございます、こんな突然の訪問に――いや、訪ねてここへ来たわけではありませんが――」
「気になさらずに。食事は十数分で用意できますので、ここで待っていて下さい。食事が終わったら泊まる部屋へ案内しますから」
それだけ言い残すと、女性――火櫛はまっすぐな廊下を歩いて行き、何カ所目かの扉を開けて中に消えた。
「ふう」飛原が大きくため息を吐いて、「何だか分からんが、とにかく助かったな」
「助かった、って言っていいんですかね」
高井戸は、なおも怪訝そうな顔でロビーを見回している。河野は、
「そういえば、私たちはいいけど、石上くんたちは外泊になって大丈夫なの?」
高校生組である私たち、特に女子である汐見と朝霧に顔を向けてきた。
「この撮影に参加するときに、部長から外泊になる可能性もあるからって言われてたんで、家族には伝えてあります」
「私もです」
二人は揃って答え、乱場と私も問題はないと返答すると、村茂が、そうか、と安心した表情を見せて、
「それにしても、笛有、だっけか。どういう家なんだ? ここは」
「この山自体が私有地だと言っていましたね」
私は火櫛から言われた言葉を繰り返した。
「看板が立っていたそうですね」と高井戸も、「村茂さんがそれを見落として、私有地の山に入っちゃったってことですね」
「飛原に言え。俺は、やつの命令で運転していただけだ」
村茂は監督兼脚本家をあごでしゃくった。
「看板なんて見なかったことは本当だ。あの火櫛って女性の言ってたとおり、朽ち果てていたんだろう」
「食事のときに、訊いてみますか?」
ロビーを見回すのをやめた高井戸が、飛原に問いかけた。
「何を?」
「決まってるじゃないですか、消えた橋のことですよ」
「その謎もあったな」
「ええ。ここらの山一帯が笛有家の私有地だというなら、あの橋もこの家の管理下にあるはずです。そもそも、俺たちが帰れなくなったのは、あの橋が消えてしまったせいなんですから」
「そうだな」
飛原は神妙な表情をして腕を組んだ。
「あの」と、ここで乱場が手を挙げて、「車庫に入っていた車のタイヤパターンは、道についていたタイヤ痕と同じでしたよ」
「君、あのとき、それを確認していたのか」
飛原が頓狂な声を上げる。車庫に入れたバンから乱場がいち早く降車したのは、タイヤを見るためだったのだ。乱場は、はい、と答えて、
「ですから、車庫にあったあの車が、さっきの道を行き来しているのは間違いないと思います。であれば当然、消えてしまった橋も渡っているはずです。あのタイヤ痕は崖の先端まで続いていました。あのままですと、車は断崖からダイブしてしまうことになりますから、やっぱり、あの崖には橋が出し入れ出来るような何らかの仕掛けがあるんですよ」
「その橋は、俺たちが渡ったときには架かっていて、おかしいと感じて戻るまでの間に、しまわれたということか」
「はい。車を停めたときに聞こえた、あの異様な重低音は、橋を収納するときに機械が発した稼働音ではないかと思います」
「熊じゃなかったんだな」
高井戸が安心したような声を出す。
「そうだとして」と村茂が、「どうして、あんなタイミングで橋をしまったんだ? まるで、俺たちの車が渡り終えるのを待っていたみたいじゃないか」
「ええ。ですが、その前にも問題はありますよ」
「なんだい?」
村茂は乱場を向く。
「往路ですよ。僕たちがあの橋、というか、正確には橋へ通じる脇道を発見したのは、撮影を終えた復路でです。往路には、あんな脇道はなかった」
「そうだ。だから俺は、あの脇道が往路で来た道だと勘違いしたんだ」
「ということは、往路の時点では橋は架かっていなかったということになります」
「そのとおりだな。それに、橋に通じる脇道も」
「ええ。あの脇道も、恐らく橋の出し入れに連動して出現したり消えたりしているんでしょう」
「随分と凝った仕掛けだな」
「そうなんです。おかしいですよ。ただ橋を出し入れするだけの機構であれば、まあ理解は出来ます。私有地内の居住区画に部外者を立ち入らせないためだとか。でも、その橋に至る脇道まで連動させて出たり消えたりさせるなんて、明らかに異常ですよ」
「そうだな。ただ部外者の侵入を拒みたいだけなら、橋のたもとに、施錠できるチェーンでも張っていれば済む話だ」
「そうなんです。動力を使って出し入れ出来る橋なんて、過剰もいいところですよ」
「施工費も目玉が飛び出るような額になるだろうな。相当な金持ちらしい、この笛有家というのは」
改めてロビーを眺めてみた。私はこういった建築や調度には明るくないが、素人目にも、この館の重厚な作りや、椅子や机が高級な品であることは分かる。乱場も、ぐるりとロビーを見回して、
「金持ちの道楽にしても行き過ぎですよ」
乱場は呆れたようにため息をついた。
「そういえば」と飛原が、「乱場くん、だっけ? 君、凄いな。道中でのタイヤ痕のことといい、車庫に駐まっている車のタイヤパターンを抜かりなく調べたり。――彼、何者なんだ?」
最後の言葉は私に向かって放たれた。
「乱場は名探偵なんですよ」
答えたのは汐見だった。
「名探偵?」
大学生四人が揃って頓狂な声を上げ、乱場を注視した。汐見は腕を組んで、
「ええ。乱場秀輔は、我が本郷学園高校が誇る名探偵なんです」
「そうそう、そうなんです!」と朝霧も入ってきて、「乱場さんは、これまで学校内外を問わず、いくつもの難事件を解決してきた実績を持っているんですよ!」
「ちょ、ちょっと、汐見先輩、朝霧先輩、今、そんな話は……」
乱場は二人の先輩の口を止めようとするが、
「何言ってんだ、乱場、お前が名探偵なのは事実じゃないか」
「いえ、そんな……まあ、そうだとしても、僕が事件を解決できているのは、石上先輩の協力があってのことですから」
「何? ということは石上、お前、この少年探偵のワトソンってことか?」
同郷の先輩である飛原が意外そうな声を上げた。
「そうですよ」と朝霧がそれに答え、「乱場さんと石上先輩は、うちの高校が誇る名探偵コンビなんです」
四人の大学生たちは、物珍しげな視線で私と乱場を睨め回す。
「あら?」と横を向いた乱場の反応を見た朝霧が、「乱場さん、もしかして、言わないほうがよかったですか?」
「え、ええ、なるべくなら」
「どうしてですか?」
「だって、恥ずかしいじゃないですか、名探偵だなんて」
「あーあ、朝霧、乱場に嫌われたな」
ふふん、と汐見は鼻を鳴らした。
「ちょっと待って下さい。先に乱場さんが名探偵だということを暴露したのは汐見さんのほうじゃないですか!」
「お前も乗っかってきただろ」
「なんですって」
「やんのか」
「やるのですか」
二人は乱場の前で睨み合った。
「じゃあ、表の広場を一週する速さで勝負するか?」
「百メートル走のタイムでカップ麺ができあがると言われた私に対して足の勝負を挑むとは、グッド根性ですね、汐見さん」
「かわいそうだから、やめといてやる」
「カップ焼きそばの湯切りをしても、なお余りあると言われています」
「カップうどんでも行けそうだな」
「歴史クイズの勝負で、どうですか」
「日本史の試験で、回答欄をとりあえず全部『織田信長』で埋めた私に対してか」
「無体でした」
「まさに信長無双。初めての遣唐使も、鎌倉幕府の創設者も、安土城を築いたのも、全部織田信長だぞ」
「最後のは合ってます」
言い合いを続ける二人をよそに、村茂は乱場を見て、
「名探偵……しかも高校生か。いるところにはいるんだな」
感心したように声を上げた。
「ふふ、随分かわいらしい名探偵もいたものね」
河野が笑みを浮かべて目を細めた。
「飛原先輩、嫌な予感がしませんか?」
「何がだ? 高井戸」
「この状況ですよ」高井戸は、ロビーの周囲と、そして私たちを見回して、「山中で道に迷い、偶然発見した怪しい館に入り込む一行。これって、いわゆる……」
「〈閉じられた輪〉?」
「ええ」
「まさか。クローズドったって……」
飛原は、懐からスマートフォンを取りだして画面を覗き込み、そして固まった。
「依然圏外ですよね。俺もさっき確認しました」
それを聞いた河野と村茂、私もスマートフォンを見る。圏外であることは変わらなかった。
「しかも」高井戸の目は乱場に注がれ、「メンバーの中に、名探偵と呼ばれる人間がいる。これで何か起きないはずはありませんよ」
「何かって……」
「決まってるじゃないですか……殺人事件です」
「やめてよ、高井戸くん」
河野が青い顔をする。
「ふふ。冗談だって」
からかうような口調で高井戸は河野を向いた。
彼の言葉が現実のものとなるのは、もう少し先のことだった。