第2章 退路断たれる
「やっぱりおかしいですよ。来た道よりも、明らかに狭い」
席を立った乱場がフロントガラスに目をやる。橋を渡り終えてから一分ほど経過したころだった。
「それは……」と、ハンドルを操作しながら村茂も、「俺も感じている。道の左右の木も、こんなに密集して生えてはいなかったはずだ」
私たちも席から身を乗りだし、闇と霧を透かしてヘッドライトが照らし出す風景を見た。だが私には、乱場や村茂のような判断は出来なかった。それは他の五人も同じだったようで、
「そんなはずはないでしょう……」
高井戸が力ない声を漏らした以外、誰も口を利かなかった。
「ちょっと、停めてもらえますか」
乱場の言葉に、村茂は一瞬ためらうような素振りを見せてからブレーキペダルを踏んだ。私たち八人を乗せたバンが完全に停止すると、乱場はスライドドアを開けて車外に飛び出す。私たちもあとを追い、運転手の村茂と女優の河野以外の全員が降車した。
乱場は車の前方に周って屈み込み、ヘッドライトが当たる地面をじっくりと眺めると、今度は車に近づき、取りだしたスマートフォンのライトを照らしながら前輪に顔を近づけた。
「どうしたんだ、乱場くん」
「……違う」
「何が?」
二回目に掛けた私の声に、ようやく振り向くと乱場は、
「タイヤですよ。地面に付いているタイヤ痕に、この車のタイヤと一致するものがありません」
「なんだって?」
ライトが照らす未舗装路には、幾筋かのタイヤ痕が刻まれている。私も屈み込んで目を近づけ、タイヤ痕のパターンを憶えてから、乱場と同じようにバンのタイヤを見る。タイヤ表面は乱場がライトで照らし続けてくれていた。
「……確かに、違う」
「おい」と高井戸が歩み出て、「なにがおかしいんだ?」
気が動転してでもいるのだろうか、彼にはこの異常事態が飲み込めていないらしい。私は乱場の口から説明させたほうがよいと思い、彼の目を見た。乱場も私を見返し、その意図を汲み取ってくれたのだろう、小さく頷いてから立ち上がると、狭い未舗装路を指さして、
「見て下さい、この路面には何条かのタイヤ痕が付いていますが、それらはどれもこの車のタイヤのパターンと一致しないんです」
「ということは、つまり……」
高井戸の言葉が消えた。彼もようやく異変を飲み込めたらしい。
「そんな馬鹿な」
高井戸も乱場や私と同じように、地面に屈み込んでからバンのタイヤに目を近づける。その間、飛原もタイヤを見てから、ヘッドライトで照らされた範囲いっぱい、路面に目を走らせている。恐らく自車に該当するパターンのタイヤ痕がないか探しているのだろう。だが、どこをどう見ても、路面に刻まれたタイヤ痕に一致するものはなかった。
「この道を僕たちのバンが走るのは、今が初めてということになります」
乱場の声に、
「そんなわけがあるか」高井戸は声を漏らして、「往路のタイヤ痕は消えたんじゃないのか?」
「いえ、今日はこの辺りでは一滴の雨も降っていませんし、風ですぐにタイヤ痕が消えてしまうような路面状態でもありません。だいいち、今残っているタイヤ痕は、付けられてからそう時間は経っていないようです」
飛原がバンの後方に走り、私たちも続いた。村茂にブレーキランプを灯してもらい、後ろの路面状況も確認する。そこには確かに、今しがた私たちのバンが付けたタイヤ痕がしっかりと刻まれていた。
「この道は、俺たちが来た往路じゃない?」
「そういうことになりますね」
飛原の疑問に乱場は答えた。
「馬鹿な。だいたい、ここはどの辺りなんだ?」高井戸もスマートフォンを取りだしたが、「……圏外だ」
その言葉に、私たちは一斉に自分のスマートフォンを見た。乱場だけは、タイヤを照らすライト代わりに使ったときにすでに確認していたのだろう、ブレーキランプが照らしだすタイヤ痕を黙って見下ろしているだけだった。私のスマートフォンの画面も、間違いなく現在地が電波圏外であることを表示していた。
ブレーキランプが消えた。次いでドアを開け閉めする音が聞こえ、異変を感じ取ったのだろう、車内に残っていた村茂と河野も降車して私たちのもとに歩いてきた。
「どうしたんだ、いったい」
怪訝な顔をする二人に、乱場は今の状況を説明した。
「村茂」監督の飛原がカメラマンに声を掛け、「間違いないか? 全く違う道に入ってしまったということは、ないか?」
「……ありえない。さっきのあれが、間違いなく復路においての一番最初の枝道だ。それに、ちゃんと橋も架かっていた」
「往路で別の枝道があることを見逃していた可能性はないか?」
「ない。それはお前も確認済みだろ。撮影場所を求めて、枝道があればとりあえず入ってみようと、お互い目を皿のようにして道中チェックをしていたはずだ」
その言葉にも間違いはない。往路で橋を渡り、飛原の勘で村茂に左折を指示し、撮影場所に着くまで、一切の枝道はなかった。
「くそ、ケチらないで、カーナビ付きの車にすればよかったですね。通った道を記録しておけたかも」
高井戸が苦々しい顔をする。
「スマホのGPS地図機能は?」
村茂の言葉に高井戸が、「俺のは駄目でした」と答えると、他のメンバーも一斉に自分のスマートフォンを見たが、
「駄目だ。俺も、何かしらの通信状態になってないと地図も機能しない仕様になっている」
飛原が首を左右に振った。他の全員も結果は同じだったようだ。私のスマートフォンも同様、地図機能の画面は真っ白になっているだけだった。
「とにかく、どうする? このまま進むか、それとも――」
村茂の声は、だが、突然聞こえてきた低い唸り声のような音に掻き消された。いや、その音は村茂の肉声を掻き消すほどの大音量ではなかったのだが、何の前触れもなく耳に入ってきた音に、驚いて彼自身が言葉を止めてしまったというのが正解だろう。
「なに?」
朝霧が汐見の腕にしがみつき、河野が支えを求めるように高井戸の近くに寄った以外は、全員がまるで金縛りに遭ったかのように立ち尽くしている。聞こえている音の発信源を探ろうと耳を澄ませているのだろう。無論、私もそうしたが、まるで夜の闇と霧が音を乱反響させているとでもいうのか、その音がどの方角から発せられているのかを見極める、いや、聞き極めるのは不可能だった。
「なに? 動物の声?」
「熊でも出るってのか?」
河野の不安そうな声に高井戸が答え、両者は顔を見合わせたが、河野のほうはすぐに視線を逸らして一歩引き、近づいていた距離を元に戻した。
「熊って感じじゃなさそうだったが」
村茂の呟きには飛原が頷きを返した。
その重く低い音は、一分近くは聞こえ続けていただろうか。やがて鳴り止み、周囲には夜の静けさと、アイドリングするバンのエンジン音だけが戻ってきた。
「橋に戻りましょう」
乱場のひと声に反対するものは誰もいなかった。乗用車がやっとすれ違えるかすれ違えないかの狭い道で、飛原と高井戸にナビゲーションしてもらい、村茂は何度もハンドルを切り返してようやくバンを反転させ、私たちは今来たばかりの道を引き返した。
「もう、そろそろだと思いますけれど」
「ああ」
乱場の言葉に村茂が答えた。その意味するところは私にも分かる。走行時間からいって、そろそろ渡ってきた橋に差し掛かる頃合いのはずだ。その証拠に、ごうごうと聞こえる川の流音が、そのボリュームを少しずつ増してきている。乗車してからずっと、乱場は席に座らず、運転席と助手席の間に立ってフロントガラスを凝視している。私も橋を見ようと座席から立って乱場の後ろに移動した、そのとき、
「――村茂さん!」
「何っ?」
二人の鋭い声が上がり、直後、ブレーキ音が響いた。私は慣性に抗えず前のめりに倒れ、乱場の背中にぶつかった。車内に悲鳴が乱れ飛ぶ。急ブレーキを掛けられたバンは、数メートル路面を滑ってからようやく停止した。
「ど、どうした?」
飛原が叫んだ。彼は助手席に座っていたため、運転手以外では唯一シートベルトをしており、そのため他のメンバーよりも回復が早かったらしい。彼と村茂以外に、満足にシートに腰を下ろしたままでいられたものはひとりもいなかった。
「朝霧! パンツが!」
後方から汐見の声が聞こえる。どうやらシートから投げ出されたことで、スカート姿の朝霧は、あられもない格好となってしまっているようだ。高井戸と河野は、前列シートにしたたか頭を打ち付けてしまったらしい。額を押さえて呻き声を漏らしていた。私はというと、倒れた勢いで乱場を下敷きにしてしまっていた。
「大丈夫か? 乱場くん」
私は乱場の両脇に腕を入れて彼を抱き起こした。
「石上先輩……」
「すまない」私は顔を近づけ、乱場の髪についた埃を払ってやると、「いったい何が――」
フロントガラスを見て絶句した。数筋かのタイヤ痕が刻まれた路面をヘッドライトが照らしている。まだ若干残る霧の向こうに伸びているタイヤ痕は、数メートル先で消えていた。いや、消えているのはタイヤ痕だけではなく。
「道が――」
私は呟いてから再び絶句した。タイヤ痕とともに道までもが消えていた。バンから数メートル先で、天変地異でも起こったかのように、走ってきたはずの未舗装の路面が断絶していたのだ。
「なんだこれは?」
「あ、危ないところでした。あのまま突っ込んでいたら……」
ごくりと乱場が唾を飲み込む音が聞こえた。私は頬を伝ってきた汗を拭って、
「道が……いや、橋か! 橋が消えている!」
道路が断絶していたのではなかった。橋がなくなっていたのだ。つい数分前に渡ったはずの橋が、跡形もなく消え去っていた。
脱兎の如く車外に飛び出した乱場は、道路の先に向かって走った。
「あまり近づくな、乱場くん!」
私も彼のあとを追う。
「川……間違いない。橋が……消えているんだ」
寸断された道路の先、いや、川べりに立った乱場が呟いた。私も彼の隣に移動して直下を見下ろす。水面は一切目視できない。夜の闇と未だ残る霧が、私たちの視野を塞いでいるのだ。ごうごうと絶え間なく耳朶を打つ川の流音が、かなりの急流であることを知らせている。
乱場は、やっと両手で持てる程度の大きさの石を近くから拾ってきて、それを闇に投げ込む。着水する音が聞こえるまで数秒を要した。
「石は途中に何にもぶつかることなく着水しましたね。恐らく、この断崖はほぼ直角のうえ、水面までの高さもかなりありそうですね」
「乱場くん、危ないぞ」
私は、下を覗き込もうと前屈みになった乱場の腕を掴んで引き戻した。そうこうしているうちに、飛原たちも全員車から降りてきたようだ。ヘッドライトを逆光にして黒いシルエットとなった六人が、私と乱場の前に立つ。
「どうします?」
シルエットのひとつ、高井戸が口を開いた。
「どうするもこうするも……橋が消えた以上、戻れないんだ。先を進むしかないだろう」
村茂の影が頭を掻いた。
「橋が消えた」常識では決してあり得ないはずの現象を、さも当たり前のことのように言うのが妙におかしかった。
「そうだな」と飛原も、「タイヤ跡の問題も何かの見間違いで、この道が帰路で合ってるという可能性だってあるしな」
「そう、きっと、そうよ」続けて河野が、「だいたい、乱場くんが、タイヤの跡がどうしたとか、おかしなことを言い始めなきゃ、私たちは何の疑問も抱かないで車を走らせていたはずでしょ。さっさと行きましょうよ」
彼女はそう言うが、往路に私たちのバンが付けたはずのタイヤ痕がないこと、そして何より、ついさっき渡ってきたはずの橋がこうして消えたことは、動かしようのない事実だ。河野自身もそれは嫌というほど理解しているはずだ。強がった言葉だったが、声は若干震えていた。
「そうと決まれば、こんなところに突っ立っていたってどうしようもない。みんな、車に戻ってくれ。飛原と高井戸は、また車を切り返すためのナビを頼む」
村茂の、ことさら場を明るくしようとしているような大きな声に促されて、皆は車内に戻り始めた。
「乱場くん」
私は、まだ川べり――崖の縁というのが相応しいが――に残っている乱場に声を掛けて近づいた。彼は屈み込み、縁の辺りを見回している。
「どうした?」
「何か、仕掛けでもないかと思いまして」
「仕掛けって?」
「例えば、この崖の絶壁から橋がせり出してくるみたいな」
「橋が消えたのは、そういう理由だと?」
「それ以外にあり得ません。もしかしたら、さっき聞こえてきた音は――」
「部長! 乱場!」
汐見の呼ぶ声が聞こえた。
「とりあえず、この場は戻ろう」
私は乱場の二の腕をとって立ち上がらせる。
「……ええ。暗いうえに霧もあって、何も見えませんね」
名残惜しそうに崖のほうを一瞥してから、乱場は私と一緒にバンに戻った。
バンは狭い道を走り続けている。左右に背の高い木々が密集した未舗装路は、狭いうえに曲がりくねっているため速度は出せない。橋が消えた崖を出発してから、すでに数分以上が経過したが、注意深い乱場やハンドルを握っている村茂でなくとも、この道が昼間に走った往路ではないことは確実視できたようだ。皆、窓外を眺めながら不安そうな表情を顔に貼り付けている。かくいう私も当然そうだ。往路においては、舗装された道から未舗装の山道に入り、橋を渡るまで、二、三分程度しか掛からなかったはずだ。それが、ゆうに五、六分走り続けても未だ道幅の狭い未舗装路にいるとは。やはり、あの橋、消えてしまったあの橋は、私たちが往路で渡ったものとは別の橋だったのだ。
「やっぱり、俺たちが来たのとは違う道ですね」
誰もが確信していたことを高井戸が口にした。
「ああ、そうだな」と、それに応えた飛原は、「でも、このまま走り続ければ、元の道に合流できる可能性もある。途中の経路が違ったというだけで」
「のび太が、静香ちゃんとジャイ子のどちらと結婚しても、セワシくんは必ず生まれてくるようなものですか?」
朝霧の妙な例えに、一同の不安そうな表情は一瞬だけ、眉根を寄せた怪訝なそれに変わった。
「……あれ? 皆さんご存じないですか?『ドラえもん』の有名なタイムパラドックス」きょろきょろと皆を見回して、さらに朝霧は、「つまりですね、のび太が結婚する相手が違ってしまうと、必然、子孫が受け継ぐDNA情報も全然変わってくるはずです。ですから、結婚相手如何に関わらず、全く同じ人間が子孫に誕生するというのは物理的にあり得ないわけでして――むぐっ」
汐見が手を伸ばして朝霧の口を塞いだ。
「はは、それじゃあ、俺たちが走っているこの道も、元の帰る道に出られる保証はないわけだ」
高井戸が自嘲気味な笑みを浮かべた。
「朝霧、お前、余計なこと言うなよな」
朝霧の口から手を離して、汐見はため息をついた。
「私は別に、皆さんを絶望のどん底に叩き落とそうとしたわけでは……でも、実は、このパラドックスに解答を与えることは出来るんですよ」
「解答って、のび太が静香ちゃんとジャイ子、どちらと結婚してもセワシが生まれてこれるようになるっていう?」
「汐見さん、『これる』じゃなくて『こられる』」
「どうでもいいって!」
「皆さん、分かりますか? 乱場さんならお答えできますよね?」
朝霧は乱場に水を向けた。彼女の前の席に座っている乱場は、後ろを向いて、
「祖先から引き継ぐDNA情報が違っているから同じ人間が生まれない、というのであれば、それを同じくしてしまえばいいわけです」
「つまり?」
「静香ちゃんとジャイ子のDNAは同じ、つまり、二人は実は一卵性双生児だった」
「お見事です。ぱちぱち」
朝霧は小さく拍手する。
「ぷっ」と河野が吹き出し、飛原は、
「君、朝霧くんだっけ。面白いね。脚本とか書けるんじゃない? どう? 俺のところで勉強してみる気はない?」
助手席から身を乗り出した。それを見た村茂は笑みを浮かべながら、
「やめといたほうがいいよ。こんな留年学生に教わることなんて、たかが知れてる」
「そうですよね」と高井戸も冗談交じりの口調で、「撮影場所のロケーションにあんなに時間を掛ける監督なんて、ろくなものじゃありません」
「お、高井戸、お前、言うようになったな。だが残念だったな。それは監督としての気質であって、脚本とは無関係だ」
「監督としての資質がないことは認めると」
「馬鹿野郎」
返す飛原の口調も、乱暴ながら軽いニュアンスを含んだものになっている。朝霧の発言を契機にして、車内の淀んだ空気は幾分か澄んでいったようだ。
「何かあるぞ」
言いながら村茂はアクセルペダルから足を離したようだ。加速が切れてエンジンブレーキが掛かり、バンの速度が若干緩まる。見ると、
「明り? 人家か?」
助手席で飛原もフロントガラスに顔を近づける。頻繁に曲がりくねっていた道は真っ直ぐに変わり、村茂は再びアクセルペダルを踏み込む。再び車は加速され、目の前に見える明りがぐんぐんと迫ってきた。
「あれは……家?」
河野も座席から身を乗り出して前方を見つめる。彼女の言うとおりだった。夜とはいえ、霧は随分と晴れ、月明かりも射していたため、私もそれのシルエットを十分視認することが出来た。
「家、というよりは……」
「館……?」
汐見と朝霧も呟く。
後に「妖精館」という呼び名が明らかになる謎の洋館に、私たちが辿り着いた瞬間だった。