第1章 橋の向こう
細く、暗い山道だった。
山側から伸びる枝葉が、まるで天蓋のように道の上にせり出して、降り注ぐはずの日光を遮断しているのに加えて、
「霧が濃くなってきましたね」
乱場秀輔は窓外を見た。私も目をやると、確かに下山を始めた時分に比べ、車を囲む白い霧は明らかにその濃度を増していた。
細く、暗く、そして寂しい山道だ。
この道に入る前に渡った橋を通過直後に、一台のワゴン車とすれ違ったきり、車も人も一切見かけない。運転席に座っていた中年男性が、ただでさえ強面の顔に皺を作り、怪訝そうにこちらを見ていたのが妙に印象的に残った。
「村茂、ライトが霧に反射して、かえって見にくくないか?」
助手席に座った飛原孝司の言葉に、ハンドルを握る村茂豊は、そうだな、と答えてヘッドライトを消した。が、車――八人乗りのバン――前方視野の改善はほとんど見られない。飛原の言ったとおり、ライトの反射による眩しさが取り除かれただけだった。
「視界は五メートルもないですね。こりゃ、いきなり鹿なんかが飛び出してきたら絶対に轢いちゃいますよ」
二列目シートから高井戸明人が、運転席と助手席の間に身を乗り出した。
「村茂さん、気をつけて下さいね」
狭い通路を挟んで高井戸の隣の席に座る河野弥生が、不安そうな声を上げると、
「ああ、分かってる。十分徐行しているよ。この速度なら、鹿にぶつけたって掠り傷程度で済むさ。車も鹿もね」
村茂はバックミラー越しに笑顔を見せた。
「ねえ、汐見さん」と最後列席に座る朝霧万悠子が、「自慢の肺活量で、この霧を全部吹き飛ばして下さいな」
「私のことを何だと思ってるんだ! お前は!」
彼女の隣に座る汐見綾は朝霧を睨んだ。
「聞きましたよ、汐見さん」と朝霧は汐見の言葉を無視して、「春の体力測定で、肺活量を計る機械を木っ端微塵に破壊してしまったそうですね」
「どんだけだよ! 吸引力が変わらない掃除機か私は」
「チョップ一撃で」
「肺活量が凄すぎて壊したわけじゃないのかよ! 直接的攻撃でかよ!」
「チョップで壊したことはお認めになる?」
「お認めしねえよ。何で体力測定で肺活量を測りに来た女子生徒が、いきなりチョップ一閃、機械を破壊しなきゃならねえんだよ。絶対頭おかしいだろ、そいつ」
「頭おかしいことも、お認めになる?」
「だから、認めねえって。それに、何だ『も』って。肺活量測定器を壊したことは認めた、みたいな言い方すんな」
「あっ、頭おかしいと言えば、汐見さん、一学期期末試験で、全教科0点を達成したというのは本当ですか」
「んなわけあるか!」
「その偉業を讃えて、『アブソリュート・ゼロ』の二つ名で呼ばれるようになったとか」
「その呼び方だけはかっこいいから貰ってもいい」
「オール0点というのは、どこかのどいつ様が流した、根拠のないデマゴギーだったというわけですね。友人として、ひと安心しました。よかった。ふう」
朝霧は、ほっとした――いかにも芝居がかった――様子で胸を撫で下ろした。
「0点取ったのは数学だけだから、それに尾ひれ背びれが付いて広まったのかもな」
「えっ? やだ」それを聞くと朝霧は両手で口元を覆い、「私、生涯に一度でも0点なんて取ってしまったら、人生に絶望して清水の舞台から愛を叫びますよ」
「飛び降りねえのかよ。生きる気満々じゃねえか。まあ、朝霧なら、清水の舞台から飛び降りても、木の葉みたいにふわふわ落ちて怪我ひとつしないかもな。その貧弱な体じゃ」
「私は蟻ですか!」
「体力測定といえば、朝霧、お前、砲丸投げのとき、投げた勢いに貧弱な体を持っていかれて、砲丸と一緒に飛んでいって、お前自身のほうが遠くに落ちたそうじゃないか」
「馬鹿も休み休みおっしゃって下さい、汐見さん。だいたい、投擲者が投げた物体と一緒に飛んでいくなんて、物理的にありえません。いいですか、砲丸を投げたということは、投げた側には砲丸が飛ぶ力の反作用が加わるということなのですよ。それがどうして投げた方向に一緒に飛んで行かなくてはならないのですか。投げた反作用で尻餅をついたというなら分かります。実際に私がそうでしたから」
「で、記録は?」
「八です」
「八メートル? 全然悪くないじゃん」
「八センチ」
「おい!」
「汐見さんは?」
「聞いて驚け、十四だ」
「キロメートル?」
「そんな記録が出せたら、明日からスーパーヒーローとして生きるわ! メートルだ! 十四メートル!」
最後列席で言い合いをしている朝霧、汐見、二人の女子生徒を振り返って河野は、
「相変わらず、仲がいいわね」
微笑ましさと呆れがない交ぜになったような笑顔を見せた。
「すみません、後輩たちがやかましくて」
本郷学園高校、映像芸術部部長として私は、前方席に座る大学生の先輩方に頭を下げた。
「はは、いいさ」と助手席の飛原――大学映画サークルのリーダー――は、「こう濃い霧に包まれて、空気が締めっぽくなるのを防いでくれてる」
「それに」と、その後ろの席に座る高井戸は、「二人とも、かわいいしね」
「高井戸くん」
その隣席で、河野が諫める声を上げた。運転席の村茂は、そんな皆のやり取りを笑みを浮かべながらバックミラー越しに見つつ、慎重な様子でハンドルを操作していた。未舗装路の山道は路面の凹凸が多く、時折バンは左右に傾ぐ。
「あっ」
またバンが大きく傾いた拍子に、朝霧は体のバランスを崩して通路を跳びこえ、隣席に座る汐見の太ももに倒れ込んでしまった。
「大丈夫か、朝霧」
「何ともありません。汐見さんの鋼の筋肉が衝撃を全て吸収してくれましたから」
「鋼にぶつかったなら余計に痛くね?」
「あーあ、どうせ倒れるなら、乱場さんの太ももにすればよかった」
汐見に膝枕された形のまま、朝霧は自分の前の席に座った乱場を見る。
「お前の場所から乱場に向かって倒れるわけねえだろ。それこそ物理的にありえねえよ。その点、私なら通路を挟んで交差するようにして、乱場のところに倒れれるな」
「汐見さん、ら抜き表現。正確には『倒れられる』」
「うるせえよ」
「それに、汐見さんがムーンサルトプレスなんて仕掛けたら、乱場さん圧死してしまうじゃないですか」
「何でわざわざバック転してから倒れ込まなきゃならないんだよ! いいからもう戻れ」
はーい、と返事をして、朝霧は自分の席に戻った。
部長である私、石上誠司も含めた、本郷学園高校映像芸術部の生徒四名は、この夏休みにある仕事を引き受けることになった。その内容は、大学映画サークルの自主映画制作の手伝いをするというもの。サークル代表の飛原孝司が私と同郷でよく知った仲でもあり、「映画作りの勉強にもなるから」という理由で連れ出されたのだった。私が部長を務める「映像芸術部」は、どちらかというと「作る」よりも「観る」活動が主体のため、制作実務などには正直あまり縁がないのだが。文化祭での出しものも、映画そのものではなく、映画の批評、紹介パンフレットなどの出品公開で済ませている。
しかし、どうやら詳しく話を聞いてみたところによると、飛原も本来は自分の大学内でスタッフを集められることを期待していたのだが、今日日の大学生はそこまで暇ではなく、全然人手が確保できなかったらしい。そこで、どういう伝手を使ったのから知らないが、同郷の後輩が高校で映画に関連する部活に入っていると聞き及び、こうして私たちに声を掛けたというのが本当らしかった。
しかしながら、今日日暇でないのは大学生だけでなく、高校生も同じ事情のようだ。夏休み期間であるにも関わらず、私の呼びかけに応需してくれたのは、数いる部員の中でたった三名だけだった。
汐見綾は二年生女子の中で一番の長身を誇る。その見た目に違わず運動も得意で、よくバレー部やバスケ部の助っ人に駆り出されている。当然、各運動部から引く手あまたの俊英であるが、どうして彼女のような運動の逸材が映像芸術部に在籍しているのかは、本郷学園の謎のひとつとされている。部長である私も詳しくは知らない。我が映像芸術部は来るもの拒まずが伝統。入部時に志望動機を訊いたりは一切しないためだ。
朝霧万悠子は、汐見と並び立つと身長が頭ひとつも違う。当然見上げるのは朝霧のほうだ。彼女を表現するのに才女という言葉ほど相応しいものはないだろう。毎期行われる中間、期末考査の成績は常に学年トップクラス。聞くところに寄れば、中学時代も変わらぬ才媛振りを発揮していたらしい。進学に力を入れているでもない我が学園に彼女が入学してきたことも、学園の謎のひとつに数え上げられている。
そして、乱場秀輔。我が学園が誇る名探偵。正直、朝霧と汐見がこの仕事に参加してくれたのは、この乱場の存在に依るところが大きい。
何もかも正反対で、先ほどのように、顔を合わせればいつ何時でも舌戦を始めてしまう汐見と朝霧だが、二人にはたったひとつだけ共通点が、価値観を同じくする事柄がある。それが本郷学園高校一年、乱場秀輔に対する熱い(?)想いだった。実際、当初は渋っていた二人だったが、乱場が参加すると知ると態度を一変させたのだ。
ここに部長である私、石上誠司を加えた四名が、こうして大学生四名に混じり、総勢八名の自主映画撮影班が構成されたのだった。
「暗くなってきたな」
飛原が周囲を見回した。
「ああ、霧どうこう関係なく、ライトを点けないと走行できないな」
村茂が再びヘッドライトのスイッチを捻ると、フロントガラスの向こうに霧が浮かび上がる。その色が白から灰色に変わっているのは、夕闇を含んだせいだろう。
「これは、麓に付くころにはすっかり日が暮れてしまいますね」
乱場が不安そうな表情で窓外を見つめる。
「ああ、撮影が予想外に長引いてしまったからな」
飛原も窓から空を見上げると、
「誰かさんがNG連発したおかげでね」
河野が笑みを浮かべて隣の高井戸を見た。
「いや、監督が撮影場所を求めて、こんな山奥まで入ったせいでもあるでしょう」
高井戸が抗弁する。
この高井戸と、大学生組の紅一点である河野の二人は、俳優としてこの撮影に参加している。ハンドルを握る村茂がカメラマン。助手席の飛原が脚本と監督を務めている。この映画は、メインで登場する俳優が高井戸と河野の二名だけで、あとは場面場面でのエキストラのみという構成だという。今回の撮影は、監督である飛原たっての希望ということで、彼(そして私)の生まれ故郷である宮城県仙台市の山中で行われることとなった。私たちの通う本郷学園高校は、福島県会津若松市に位置しているため、東京からレンタカーで来た飛原たちが、会津若松市で私たちを拾い、そこから二時間近くの行程を掛けて、ここ撮影現場である仙台市青葉区端の山中までやって来たのだ。
ちなみに高井戸は四年生で河野は三年生だが、飛原と村茂の二人は一年留年により現在二回目の四年生であるため、俳優二人ともが監督とカメラマンに対しては丁寧な言葉遣いをしている。
「仕方ないだろ」と高井戸に槍玉に挙げられた飛原が、「俺のイメージに合う場所が、なかなか見つからなかったんだから。木の配置とか、斜面の角度とか」
当初、撮影は山に入ったすぐで済ませる予定だったのだが、飛原が拘りを見せたため、監督の意に沿うロケーションを求めて、運転手の村茂はさらに山奥に向けてバンを走らせる羽目になったのだ。
「私には、どこもみんな同じに見えましたけど」
河野が呆れたようにため息を吐いた。
「そうじゃないんだよ、河野。帰ったら撮影した映像を見せてやるよ。計算し尽くされた構図とカットに酔いしれてくれ」
飛原の得意気な言葉に河野は、はいはい、とぞんざいな返事を返すと車窓を向いてしまった。その隣では、高井戸が笑みを浮かべている。うまいこと自分のNGから話題を逸らすことができたのを喜んでいるのかもしれない。実際、河野が撮影をほぼミスなく終えていたのに対し、高井戸の出したNGは十回に届いていた。カメラマンの村茂にも、「昔のフィルム撮影の時代だったら、お前、監督に殺されてるぞ」と冗談交じりの口調で言われていたほどだ。確かに、この高井戸という男は、背が高くルックスも抜群だが、演技は私の素人目にも上手いとは言い難い出来だった。将来どの道に進もうとしているのかは知らないが、芸能関係の仕事を目指しているのであれば、俳優ではなく、黙って立っているだけでよいモデルになるべきだと私は思う。
「あれだな」
村茂の声にフロントガラスを見やると、薄闇と霧で混濁した進路の右側に、今走っている本線と直角に接続された枝道が口を空けていた。山中で周りに他の車は一台も見当たらないが、村茂は丁寧にウインカーを出してから右折して枝道に入る。さらに数メートルも進むと、すぐに川に架かる橋が見えてきた。
「これを渡れば、すぐに舗装整備された広い山道に出られる」
飛原が言い終わる頃、タイヤの音が変化した。未舗装の土の路面から、アスファルト舗装された橋の上にバンが載り上がったのだ。橋の直下を流れる川の水音が、ごうごうと聞こえる。
「……この橋でいいんですか?」
橋に乗ってすぐ、急に乱場が立ち上がった。運転手の村茂はバックミラー越しに、私も含めた他の六人は直接、乱場に目をやる。
「どういうことだい? 乱場くん」
代表して私が訊くと、彼もこちらを見返して、
「早くないですか?」
「早いって、何が?」
「橋を渡るのがですよ。僕の感覚だと、渡ってきた橋までは、もっと距離があったように思いましたけれど」
「そうは言うがな、乱場くん」と、それに返したのは運転手の村茂で、「さっき曲がったのが、戻る途中最初の枝道だったぞ」
彼の言葉に間違いはない。先ほどの道を走って最初にある右側の枝道が帰路であることは、全員が承知しているはずだ。
往路では、橋を渡った先の丁字路を左折し、途中、左右どちらにも枝道はない一本道を走り続けていた。その道の復路であれば、最初に見えた右側の枝道が帰路となるのは当然の帰結だ。
「現に、こうして橋も架かっているじゃないか」
「ええ、確かに。けれど……」
乱場がそう呟くうちに、バンは橋を渡り終えて再び未舗装路へと降り、タイヤの音も土を掻くそれに戻った。
「ここまで来たら、麓までは三十分掛からないで下りられるな」
飛原はフロントガラスから視線を外し、シートにもたれかかった。
乱場は振り向き、リアガラスを見つめていた。私も目をやったが、今しがた渡ってきた橋は、薄闇と霧の二重のヴェールに遮られて、もう見えなくなっていた。