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第20章 毒が効く

「どけ!」


 火櫛(ひぐし)は、支えるように抱いていた(かすみ)の体を床に横たえると、乱場(らんば)を押しのけた。そうしてから火櫛は、両手を霞の胸の上に重ね、自らの全体重を掛けるように小刻みな上下運動を繰り返した。心臓マッサージを行っているのだ。が、火櫛の動きに合わせて揺れる霞の肢体からは、命あるものとしての存在感がまったく消え失せていた。一分もそうしていただろうか。しかし、目を見開き、乱場が手を突っ込んだことで口を大きく開けたままの霞の顔も、細い四肢も、ついぞ再び動き出すことはなかった。

 未だ心臓マッサージを続ける火櫛の横で乱場が、霞の手首と首筋から脈を確認して、小さく首を横に振る。それを見た火櫛がマッサージをやめると、乱場が霞の口元に顔を近づけ、すぐに身を引いて、


「僅かですが、アーモンド臭が漂っています。死亡時の苦しみ方、即効性から見て……シアン化カリウム、俗に青酸カリと呼ばれる毒物を嚥下(えんげ)したことによる死と断言していいと思います。恐らく、いえ、間違いなく」と乱場は、散乱したカップの破片と、床に広がった黒い染みを見やって、「コーヒーに混入されていたのでしょうね」

「……ってことは」と高井戸(たかいど)は青い顔になって、「お、俺たちが飲んでいたコーヒーにも……」

「いえ、それはありません。でしたら、コーヒーを飲んだ皆さん全員が、こうなっていたはずです」


 乱場は視線を霞に戻し、まぶたと、開かれたままの口を閉じてやると、火櫛から差し出されたハンカチを受け取り、霞の口元に流れていた唾液を拭き取った。霞の死に顔は少しは穏やかなものになった。


「そ、それは、つまり」今度は河野(こうの)が、口元を両手で覆いながら、「霞さんの飲んだコーヒーにだけ、毒が入っていたっていうの?」

「そういうことになりますね」


 乱場は、苦悶によって捻れた霞の四肢も真っ直ぐに戻してやると、ため息をついて立ち上がった。ハンカチは火櫛が受け取った。


「どうして、そんなことが……」


 当のコーヒーを作った本人である村茂(むらしげ)は、高井戸や河野より、いや、この場にいる誰よりも顔を青くしていた。


「誰だ」ハンカチを丁寧に畳んで懐に戻した火櫛が、「誰がやったんだ」


 刃物のような視線でもって、私たち外様組を睨み付けた。


「ちょっと待って!」と汐見しおみが一歩進み出て、「『誰がやった』って、どういうことだ? まるで、私たちの誰かが霞さんを殺したような言い方――」

「そうに決まっている」


 汐見の声をねじ伏せるように、火櫛は自分の声を被せた。


「自殺かもしれないだろ!」


 汐見は怯まない。が、火櫛も一歩も引くことなく、


「馬鹿を言え! あの霞が自殺なんてする玉か!」


 その剣幕に押されたのか、汐見は何も言い返すことなく黙った。


「火櫛さん」と、汐見からタッチを受けたかのように、今度は乱場が火櫛の前に立って、「落ち着いて下さい」


 二人とは対照的に、冷静な声を投げかけた。それを聞くと、火櫛は大きく息をついて、


「……すまない」


 シャツの袖で額に浮いた汗を拭った。乱場も安堵した表情になって、


「とりあえず、火櫛さん、このことを、庸一郎(よういちろう)さんにも知らせないと――」


 そこまで言ったとき、リビングの扉が開かれる音がした。皆が一斉に向くと、


「どうした、騒々しい」


 その庸一郎が敷居の上に立っていた。


「庸一郎様!」


 火櫛が叫ぶと、


「朝食が少なかったので、珍しく腹が空いた。火櫛、霞に言って、何か食べるものを……」


 そこで言葉を止めたのは、庸一郎の視界にも「それ」が入ったためらしかった。彼の視線は、私たちを越した先の床に向いている。そこに横たわっているのは――

 突如、庸一郎は目を見開くと、その痩躯のどこにそんな力を備えていたのかと、驚くほどの足の運びで私たちの間を駆け抜けて、床に寝かせられた霞の――正確には霞の遺体の――前に屈み込んだ。


「霞……?」


 庸一郎の針金のような指が、娘の頬を撫で、首筋に触れ、さらには手首に当てられた。


「庸一郎さん……これは――」


 沈痛な表情で、乱場が告げようとした、その瞬間、


「死んだのか?」


 がばりと顔を上げた。


「えっ?」


 面食らった顔で乱場は庸一郎の視線を受けた。


「死んだんだな? 霞は」

「は、はい……」


 もう一度訊かれ、乱場は頷いた。そうするしかない。


「そうか……」庸一郎は、また顔を下げて霞の遺体に目をやると、「毒が、効いたのか」

「えっ?」


 小さな呟きだったが、乱場は聞き逃さなかった。彼だけではない、私も含め、この場にいる全員の耳に届いただろう、庸一郎のその呟きは。もっとも反応が顕著だったのは火櫛だった。庸一郎がその呟きを発すると、ぐらりと体を傾けたほどだった。足を踏ん張って倒れるのを防いだ火櫛は、信じられないものを見るような目で、庸一郎の横顔を凝視していた。


「庸一郎さん、あなた今、なんて――」


 乱場は声を掛けた。が、それを無視して庸一郎は立ち上がると、


「霞の遺体は、裏にある墓地に埋葬する。準備をするので、少しの間このままにしておきなさい」


 そう言い残して、足早に出入り口に向かい歩いていった。


「ちょ、ちょっと――」


 乱場が駆け寄って庸一郎の肩を掴む。足を止められた庸一郎は、振り向いて乱場を睨むと、


「聞こえなかったのか。そのままにしておけ」


 肩を揺すって乱場の手を振りほどくと、今度こそリビングを出て行った。


「……な、何なんだ、あのおっさん」


 しばし流れた沈黙を破り、汐見が呟いた。


「ええ」と朝霧(あさぎり)も、「自分の娘が亡くなったというのに、涙ひとつ流しもしないで……」

「そのことも解せませんけれど」と乱場が、「庸一郎さんは、おかしなことを呟いていましたよね」

「ああ、私も聞いたぜ。霞さんが毒で死んだことを確認していたな。なんでわざわざそんなことを。本当に血も涙もない――」


 汐見が不快そうな顔をした。が、乱場は、


「違うんです」

「えっ? 違うって、なにが?」

「どうして庸一郎さんは、霞さんの死因が毒死だと分かったんですか?」

「どうしてって、そりゃ……あれ?」


 汐見も乱場が口にしたことの不自然さに気付いたようだ。


「そうなんです。庸一郎さんは、霞さんが亡くなった現場に居合わせてはいませんし、ここに来てからも、誰ひとり『霞さんが毒で死んだ』とは口にしていませんし、死体を見てそう判断することも不可能でしょう、なのに、庸一郎さんは霞さんの死体を見て、『毒が効いたのか』と言いました」

「乱場さんみたいに、匂いを嗅いで分かったんじゃないのですか?」


 朝霧の言葉を試すように、乱場はもう一度霞の遺体のそばに屈み込んだ。その位置と顔の距離は、つい先ほど庸一郎がしたのとほとんど同じだ。


「……この距離では、青酸カリ独特の匂いは嗅ぎ取れませんね。霞さんの遺体の口は閉じられていますし、遺体全体からアーモンド臭が発せられるようになるには、死んでからの時間が短すぎます。それに、青酸カリから嗅ぎ取れるアーモンド臭というのは、それ自体が有毒な物質であるわけですからね。青酸カリで死んだ死体からの発せられるアーモンド臭を嗅いでいるということは、青酸カリが胃液と反応して発せられた、有毒なシアン化水素を吸い込んでいるのと同じわけですから。もしアーモンド臭、すなわちシアン化水素をかぎ続けていたら、あんなふうに平然としていられるわけがありません」

「そうか、だから乱場はさっき、霞さんからアーモンド臭を嗅ぎ取ったら、すぐに離れたんだな」


 汐見は納得した様子で頷いた。


「そうです。まして、庸一郎さんは体も弱っているようでしたから、有毒なシアン化水素を少量でも吸入してしまうことは大変危険ですよ」

「だとしたら……どうなるのでしょう? どうして庸一郎さんは、霞さんの死因が毒だと知ったのでしょう?」


 朝霧が改めて疑問を投げかけると、


「……そうよ!」はっとしたように顔を上げた河野が、「盗聴!」

「あっ! 河野さん、それだ!」汐見が両手を打って、「庸一郎さんは、自室でこのリビングの様子を盗聴してたんだ。だから、乱場が言った青酸カリのこともを知って――」

「ちょっと待って下さい」


 汐見を制する声があった。火櫛だった。彼女は、私たちを見回して、


「盗聴って、何のことです?」

「ははぁ、とぼける気だな」と、汐見は火櫛の言葉に受けて立つように、「あんたたちが、このリビングを始め、私たちの泊まってる部屋を盗聴していることは百も承知なんだよ!」

「してませんよ、そんなこと」


 だが、汐見の勢いに反して、火櫛の返した答えは冷静そのものだった。


「い、いやいや、だから、とぼけても無駄――」

「そんなこと、するわけがないじゃありませんか」

「……そうなの?」


 火櫛の声と態度は演技には思えない。少なくとも私はそう感じたし、他のメンバーたちもそうだっただろう。それほど火櫛の言動は自然だった。ぽかんとした私たちを見回して、火櫛は、


「盗聴なんて、そんなことをして、ばれたら信用問題になりますよ」


 話にならないというふうに嘆息した。


「信用問題って、誰に対してのですか?」


 乱場が言葉尻を捉えた。火櫛の顔に、しまった、という色が浮かぶ。だが、それは一瞬だけのことで、


「このままにしておくのは、かわいそうです」


 いつものポーカーフェイスに戻ると、霞の遺体を抱き上げて、三人掛けのソファに横たえさせた。現場保存を盾に乱場が何か言うかと思ったが、火櫛の手によって霞が、そっとソファに寝かせられるのを黙って見届けているだけだった。が、その代わりというのでもないだろうが、


「火櫛さん、警察に通報していただけますね」


 と声を掛けた。火櫛の動きが一瞬止まる。なおも乱場は、


「人がひとり亡くなったんですよ。しかも、毒殺という異様な事態でです。警察の捜査を入れるのが当然だと僕は思いますが」


 それは乱場だけが思っていることではなく、極めて当たり前のことだろう。というよりも、自己の敷地内に死体があることを知っているにも関わらず通報を行わないというのは、それ自体が軽犯罪法に触れる行為だ。だが、火櫛の答えは、


「それは、庸一郎様が判断することです」

「火櫛さん」乱場は声に呆れの色を混ぜ、「本気ですか?」

「霞様のご遺体も、こちらで厳粛に弔います」


 検視を経ないで変死体を葬ると、今度は軽犯罪法ではなく刑法に触れることになる。霞が変死者であることに異論を挟むものはいないだろう。


「私は、庸一郎様と話をしてきます」


 火櫛はリビングを出て行こうとする。乱場は、


「現場はこのままにしておいて下さい。お願い出来ますよね」


 そう声を掛けたが、火櫛は何の返事も返さないまま、最後に自らがソファに横たえた霞の亡骸を振り返るように見てから、廊下に出てドアを閉めた。彼女がどんな表情で霞を見たのかは、ちょうどドアの陰になってしまい分からなかった。


 火櫛が出て行ったあとにリビングを支配した沈黙は、これまでに訪れたどれよりも静かで、そして重苦しいものだった。


「な、なあ」と、重い沈黙を振り払って、汐見が、「霞さんは、その……他殺、なんだよな?」


 その答えをすぐに返すものは誰もいなかったが、数秒してから乱場が、


「あの状況で自殺とは、ちょっと考えがたいというのは確かですね」

「誰が? 何のために?」


 再度の汐見の質問には、今度こそ誰も返答をしなかった。


「庸一郎さんですよ」朝霧が断言して、「だって、さっきも話に出たじゃないですか。庸一郎さんは、現場を見もしないで、かつ、誰からも何も聞かないままに、霞さんの死因が毒だと看破したのですよ。犯人でなければ、そんなことは不可能です」

「でも、庸一郎さんは、それこそ現場にいなかったぞ」


 汐見が、もっともなことを言う。


「遠隔殺人です。庸一郎さんは、何かしらのトリックを使って、遠くにいながら霞さんに毒を飲ませたのですよ」

「どうやって?」


 朝霧が返答に窮しているところに、


「私……部屋で休みたい」


 河野がソファの背もたれに両手をついた。自分の体を支えているのだろう。手が小刻みに震えている。それを聞いた村茂が、


「い、いや、でも、こういう場合、みんな一緒にいたほうがいいんじゃないのか? もし、この中に――」


 そこまで口にして、飲み込んだように言葉を止めた。


「この中に」と、その言葉を継いだのは高井戸だった、「犯人がいたら、むざむざ単独行動を助長することになるから、ですよね」

「この中に……」

「犯人が……」


 汐見と朝霧は呆然として呟いた。先ほど朝霧が口にした庸一郎犯人説は、たぶんに彼女自身の願望を反映させたものだったのだろう。庸一郎の言動におかしなものがあることは、紛れもない事実ではあるが。


「いや、私、ひとりになりたい」


 だが、河野は譲らなかった。私たちは自然と乱場に目をやっていた。名探偵が下す判断ならば、従う覚悟が皆にはあるのだろう。乱場が口を開いた。


「……そうですね。ここは一度、部屋に戻ったほうがいいと僕は思います」

「いいのか?」


 異を唱えたのは高井戸だった。乱場は頷いて、


「はい。もし、この中に犯人がいるとして、さらに、まだ誰かを殺そうとしているのだとしても、これ以上犯行を重ねるのを阻止するためです」

「どうやって?」

「これから全員が個室に戻ったら、もう廊下には出ないことにしましょう。当然、身を守るためです。二階に戻るまえに、食堂から必要な分の食料や飲み物を持って行きましょう」

「籠城するってことか」


 高井戸に乱場は頷いて、


「そうです、籠城です。当然ドアには施錠をします。で、もし、自分の部屋に誰かが訪ねてくるようなことがあっても、決して中には入れないようにして下さい。鍵を開けてもいけません」

「自分以外、誰も信用するなってことか……」


 高井戸がそうしたように、私たちは互いの顔を見合った。


「しかし、乱場くん」と村茂が、「いつまでも籠城を決め込むわけにはいかないぞ。トイレだってあるし」

「ええ、ですから、全員が一斉に部屋を出る時間を決めればいいんです。で、トイレを済ませたら、また決めた時間になるまで部屋に籠城して、これを繰り返すんです」

「……なるほど、間接的に全員が一緒に行動するということか」


 村茂は納得したように頷いた。それは他の全員も同じだったらしい。誰の口からも反対意見は出なかった。


「では……」と乱場は懐から出したスマートフォンを見て、「今がちょうど十一時なので、食べるものを持って、二階に上がってトイレを済ませたら、まず二時間後の午後一時に全員で廊下に出ることにしましょう」


 その言葉を合図に、私たちは連なってドアに向かった。リビングを出る直前、全員が一度立ち止まって、霞の亡骸を見やっていた。その目に浮かぶのは、悲しみか、同情か、それともそれ以外の何かか。

 リビングを出るのは、私が最後から二番目で、その後ろには乱場がいた。背中を突かれた。振り向くと、乱場がスマートフォンを手にしている。彼の視線に誘導されて、その画面を見た。

『部屋に戻ったら、すぐに廊下に出てきて下さい。誰にも気付かれないよう静かに』

 私は黙ったまま頷いた。

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