第19章 毒婦逍遥
見回してみると、乱場、朝霧、汐見以外の六人は皆同じコーヒーカップを手にし、あるいはテーブルに置いている。この三人以外は全員コーヒーを口にしているということか。と、ここで乱場が、何か言い出したげにリビングを見回した。いよいよ、霞を含めた今後の去就の話し合いが行われるのだろうか。であれば――
「村茂さん」
が、先に動いたのは霞だった。彼女は、自分のカップを持ってソファを立ち、名を呼んだ村茂のもとに歩いていく。出鼻をくじかれた形の乱場は、仕切り直しとばかりにグラスを口元に運んだ。村茂の前に行った霞は、テーブルにカップを置いて、
「今日のコーヒー、昨日のもの以上に美味しいわ」
「あ、ありがとうございます」
礼を言って村茂は顔を赤くした。コーヒーを褒められたことだけが理由ではないだろう。というのも、このときの霞は、またぞろ薄手のシャツを着て、今度は下半身を覆うスカートも、極端に短いものだったからだ。朝食の席では普通の格好をしていたので、わざわざ着替えたということだ。霞はコーヒーメーカーが置かれたテーブルに両手を突いて、前屈み気味の体制になる。こちらからは霞の背中しか見えず、その正面に座る村茂の体は、彼女の背中に隠れてしまっているが、彼の視線がどこに向いているかを想像するのは容易い。
その後霞は、コーヒーのことについて二つ三つ村茂と会話をすると、テーブルに置いたカップを取り村茂珈琲店をあとにした。彼女が次に向かったのは、
「河野さん」
河野の隣だった。霞はテーブルの、河野のものの隣に自分のカップを置く。河野のカップの中身は、黒ではなく濃いブラウンだった。彼女は、ブラックではなくミルクを入れて村茂ブレンドを味わっている。
河野は横目で霞を見た。その刺すような視線は、睥睨という表現をするに相応しいものだった。霞は、そんな河野の視線もどこ吹く風とばかりに、いつもの――あくまで見た目上――屈託のない笑顔で、
「河野さん」もう一度名を呼び、「機嫌、直してくれた?」
「……何がですか」
河野は視線を正面に戻した。その理由は恐らく、あのまま横目で見たままだと、屈んでいる霞の、大きく開いた胸元が視界に入ってくるためだろう。私の位置からも完全に見えていた。私も目を逸らし、目の前に置かれた黒いコーヒーに視線を注ぐ。
「私ね、河野さんと仲良くなりたいのよ」
まるで男性を誘惑しているかのような、甘い声を出した。
「やめてよ、気色悪い」
対照的に河野の態度は、にべもなかった。
私は、この笛有霞という女性がますます分からなくなった。
「お風呂場にあったシャンプー、よかったでしょ」
「――なに?」
河野は横に身を引いた。霞が彼女の髪に鼻先を突っ込んできたためだ。
「私も同じもの使ってるの」
霞は自分の艶やく黒髪をひと房掴んで左右に振った。私のところまでその香りが振りまかれたのだろうか、甘い匂いが漂ってくる。
喉の鳴る音がした。少し離れて私と同じソファに座る高井戸のものだった。先ほどから――正確には、霞が河野の隣で屈み込んでから――彼は視線をずっと霞のほうに、まるで定点観測でもしているかのように固定している。横に身を引いた拍子に、河野が高井戸を見て、彼の視線の行き先を知ったのだろう。河野は、侮蔑以外の何ものも含まれていない目で高井戸を見ると、ソファに座り直して髪を払った。だが、高井戸は、河野の視線が自分に向いていたことなど分からなかっただろう。彼の視線は微動だにしていなかった。
コーヒーカップを手にした霞は、河野の後ろを廻ると、
「いいかしら」
そう断ってから、高井戸とテーブルの間の狭い空間に身を入れた。
「は、はい」
高井戸は脚を折って体を引き、霞が通るスペースを作ってやる。
「ありがとう」
霞は高井戸の前を通ると、そのまま彼と私との間に腰を下ろす。私たちが掛けているソファは三人掛けで、私も高井戸もその両端に席を占めているため、二人の間にはちょうどひとり分の座席が空いていたのだ。
テーブルにカップを置いた霞は、
「高井戸さん」
私とは反対方向に顔を向けた。
「な、何でしょうか……」
高井戸は自分のカップを口に運び、コーヒーをすすった。ごくりと喉が鳴る。唾を飲み込んでしまうのを誤魔化すために、コーヒーに口をつけたように私には見えた。
「どう、楽しんでる?」
霞の言葉に動揺したのだろうか、高井戸は、カップをソーサーに戻した際、がちゃりと音を立てた。
「あ、は、はい」
今度はコーヒーに口をつけずとも、答えた高井戸の喉が鳴った。
「将来は、やっぱり俳優になるの?」
「そ、そうですね。俳優に限らず、何かしらの芸能関係の職に就きたいとは思っていますけれど……」
「そうなの。私、高井戸さんはモデルが似合うと思うわ」
「そ、そうですか?」
「うん、だって……」
霞は、その先は続けず、僅かに首を傾げただけだった。その拍子にシャツの襟が肌を滑り、彼女の白い左肩が露出した。が、霞はそれを直すでもない。霞は、組んだ足の膝に肘を乗せる形で頬杖を突き、前屈みの姿勢になっているため、自然と高井戸のことを見上げるようになっている。いや、私の視界からは彼女の背中しか見えないのだが、間違いなくそうしていることだろう。転じて、霞の顔と胸元とに視線を往復させていた高井戸は、その循環に露出した肩を含ませることになった。高井戸の視線の動きが奇妙な三角形を作っていることに、私は言いようもない滑稽なものを憶えた。
霞がカップを持って脚を組み替えた。その動きを終えると、彼女は顔を反対方向、つまり私のほうに向けた。極めて自然な動作だった。ことり、という音も立てずに再びカップを置いた霞は、
「石上くん」
なまめかしい視線を下から突き刺さして、いや、纏わりつかせてきた。視線というものに味があるとしたならば、霞のそれは濃密な糖度を持っているに違いない。それとも、この視線の持つ意味は――
「石上くんは、好きな人、いるの?」
霞のその言葉が、私の思考に割り込んできた。私は彼女の視線を受け止めざるを得ない。が、質問には沈黙で答えた。
「もしかしたら……」霞は瞳を横に動かし、「あの中に、いるのかな?」
私の対面側のソファに視線を先を向けた。その瞬間、「ぶっ」と汐見が飲んでいたジュースを吹いて、
「悪い、部長」
「どうして私が謝られなきゃいけないんだ」
拝むように手を向けた汐見に、私は思わず抗議した。
「あら、汐見さんは、石上くんのこと好きじゃないの?」
霞に訊かれると、汐見は、
「はい」
清々しいくらいに潔く断言した。その瞬間だけ、張り詰めていたような空気が僅かに弛緩する。村茂は声を上げて笑い、変わらず神妙な顔を崩さなかった飛原も苦笑を見せる。高井戸が私に向ける視線は同情を含み、仏頂面だった河野も口元に手を当てて、笑いを堪えているように見える。
「ああ、いえ」と、さすがに場の空気を感じ取ったのか、汐見は両手を振って、「部長のことは尊敬していますよ。でも、好きとかはないです。いや、人間としては好きですけれど、異性としては見れないっていうか……」
「汐見さん」と朝霧が、同級生の無体をたしなめてくれるのかと思ったら、「『見れない』じゃなくて『見られない』」
ら抜き表現を訂正しただけだった。
「朝霧さんは?」
霞に意見を求められた朝霧は、
「私も汐見さんと同意見です。部長のことは尊敬していますけれど、タイプじゃないと言いますか……部長、申し訳ありません」
「だから、どうして謝るんだ」
座ったまま深々と頭を下げた朝霧に、私はまた抗議の声を上げた。
「あ、もしかして」と霞は、「二人とも、乱場くんのことが好きなのね」
「おう」
「はい」
同時に返事をした二人に挟まれて、乱場は気まずそうに赤くなって下を向く。
「ふーん……石上くんって、意外ともてないのね。こんなにかっこいいのに。でも、これって、凄く面白いことになりそうね」
霞は口元に笑みを浮かべて私に視線を戻した。その視線には、糖度以外の物質が湧き上がってきていた。私にはそう見えた。霞の目に新たに加わったもの、それは、毒。これまで幾度となく私たちに向けられていた、弄ぶような、面白がっているような、あの目が戻ってきたように私には思えた。
「いえいえ」と、またしても汐見が、「部長は学校ではもててますよ。部長みたいな病的な優男が好み、っていう女子生徒、結構いますから」
褒められているのだろうか?
「汐見さん」と、さらにまた朝霧が、「〈優男〉という言葉には、〈優美な男性〉という意味と、〈柔弱な男性〉という二種類の意味があるのですが、汐見さんはどちらの意味で使ったのでしょう?」
「『にゅうじゃく』って?」
「虚弱体質、みたいな意味です」
「うーん……」
汐見は腕組みをして首を傾げた。そこで悩むこと自体が、もうおかしいではないか。二人のやりとりを、例の笑みを浮かべまま見ていた霞が、
「でも、火櫛さんは、石上くんのことが好きだって言ってたわよ」
「えっ?」
全員の顔が一斉に、ひとり我関せずを決め込むようにコーヒーを味わっていた火櫛に向いた。
「――なっ」
ちょうどカップを口に運ぶ途中だった火櫛は、動きを止めた拍子に少しコーヒーをこぼしてしまった。
「霞様!」慌てた様子でカップをソーサーに戻した火櫛は、「私が、いつそんなことを言いましたか!」
懐から取りだしたハンカチで、コーヒーがこぼれたズボンの膝付近を叩きながら抗議の声を上げた。頬が紅潮しているのは、照れではなく怒りによるものなのだろうと私は解釈した。
「うふふ」
さも面白そうな声を出して、霞はカップを手にして立ち上がると、私の前を通り過ぎ、さらには飛原の後ろを廻って、自分が使っていたひとり掛けソファに戻った。
霞の訪問をスルーされた飛原は、意外そうな、あるいは残念そうな、しかし、見ようによっては安堵したかのような、複雑な表情を浮かべて、霞の動きを目で追っていた。
隣で高井戸がカップを取り、渇いた喉を潤しているのか、流し込むようにコーヒーを飲む。ソーサーに戻されたカップは空になっていた。
火櫛は立ち上がって、村茂のもとにコーヒーのお代わりをもらいに行く。村茂は新たに淹れたてのコーヒーを火櫛のカップに注いだ。河野の顔は渋面に戻っており、高井戸の視線は相変わらず霞に囚われている。飛原は複雑な表情をしたまま膝の上で手を組む。
霞の、冗談とも何とも受け取りがたい発言のあと、リビングを包む空気は再び張り詰められた。先ほどよりも、さらに張度が増したように感じられる。
私は目の前のカップを手にする。顔を伏せ気味のまま視線だけを上げると、霞と目が合った。笑みを浮かべて、彼女もサイドテーブルに置いたカップを手にすると、口元に運んでカップを傾けた。白く細い喉が脈動し、次の瞬間、けたたましい音がした。霞が取り落としたカップが床に落ちて砕けた音だった。その霞は、ただでさえ大きな目をさらに引き剥いて、激しい呼吸音とともに、ついさっきまで脈動していた白い喉を指、いや、爪で掻きむしった。
全員が異変を察知して立ち上がり、霞を向いた。彼女が糸が切れたように床に崩れたのは、その数瞬後だった。まるで、私たちから視線の集中砲火を浴びたためであるかのようだった。
「霞さん!」
「霞様!」
いち早く行動を起こしたのは、乱場と火櫛だった。二人は伏臥しまま全身を痙攣させている霞に駆け寄る。火櫛が上半身を抱きかかえ、乱場が霞の口に指を突っ込んで胃の内容物を吐き出させようとする。が、大声で火櫛に呼びかけられ、乱場に咽頭を刺激され続けても、霞は痙攣以外の何の反応も返すことはなく、その痙攣もすぐに途絶える。それはすなわち、彼女の生命の火が消えたことを教えていた。




