第13章 妖艶妖美
庸一郎はリビングを去った。その後、少しの間、皆が食事をする音だけが聞こえていたが、
「あの」乱場が口を開き、「そろそろ話してもらえませんか」
霞と火櫛を順に見た。火櫛は目も合わせずスープカップを口に運んでいたが、霞のほうは、しっかりと乱場の視線を受け止めて、
「何をですか」
「この館のことですよ。ここはいったい何なんです?」
「私たちの住居です」
珍しく、問い詰めるような口調になった乱場の言葉を、しかし、霞は事も無げな態度で受け流した。
「それにしては、僕たちが泊めてもらっている二階など、部屋が多すぎるように感じるのですが」
「お客様が来られたときのための部屋ですから」
「こんなところに、どんな客人が訪ねてくるというんですか?」
「それは、色々です」
「その度に、あの川に橋を架けているわけですか?」
「……」
「昨夜、僕たちがあの橋を渡ってしまったのは、完全にイレギュラーな事態だったというわけですね。昨日、お客が来たのか、麓まで買い出しに出たのかは分かりませんが、川に橋を架けて、そして戻すのを忘れてしまっていた。そこを運悪く僕たちが渡ってしまったということですね」
「……」
霞は肝心な質問には答えない。
「だったら」乱場は、そんな霞の態度にも焦りや苛立ちは見せずに、「もう帰してくれてもいいんじゃありませんか? 招かれざる客なわけでしょう、僕たちは。僕たちをここに幽閉して、いったいあなた方にどんなメリットがあるっていうんですか?」
これにも霞は沈黙を貫くかと思われたが、
「メリットですか……それは、もうすぐ分かるかもしれませんよ」
「えっ……?」
曖昧なものとはいえ、答えが返ってくるとは乱場も予想外だったのだろう。咄嗟に二の句を出せないようだった。
「もう少し、ここにいてもよいのではないかと、私は思いますけれど」ふふ、と霞は笑って、スープをひと口すすると、「もしかしたら、とても面白いものが見られるかもしれませんよ」
「えっ?」
乱場のみならず、私も含め全員――火櫛までも――が驚きの表情を作った。その様子を楽しそうに見回す霞は、
「それに、無理に山を下りようとするのはお勧めできません。この周辺にはマムシがたくさん生息していますから」
むぐっ、と汐見がサンドイッチを喉に詰まらせた。
食事が終わると火櫛が、「コーヒーを淹れます」と立ち上がった。見ると、リビングの隅に本格的なコーヒーメーカーが用意されている。ここでも当然、私たちのメンバーが手伝いに入り監視を継続する。その任に当たったのは村茂だった。彼はコーヒー通であることを告白し、手伝いというよりは、火櫛を追いやってほとんど自分ひとりでコーヒーを淹れてしまった。薬物の混入を阻止するという必要がなくとも、村茂ならば嬉々としてこの任務を買って出たことは間違いないだろう。彼は用意されていた豆を見て感嘆の声を上げていた。この豆を堪能するためにはホットでなければならない、という村茂の主張に異を唱えるものは誰もいなかった。夏とはいえ、山の中ということもあり気温はそう高くはない。実際、昨夜からずっと、空調を使う必要がないほど快適に過ごせている。
村茂が挽くコーヒー豆のよい香りが漂う中、私は窓ガラス――そして、その向こうに並ぶ鉄格子を通して外を見た。午前に比較すれば霧はかなり晴れてきている。だが、私たちが外を散策する機会はもう――少なくとも今日は訪れないだろう。
窓外にオオムラサキが舞っていた。まるで、檻の中に捕らわれた私たちを見物に来たかのようだった。
村茂がコーヒーの準備をしている間に、昼食に使用した食器類はカートに載せて高井戸と河野が厨房へ置いてきていた。リビングの戸棚からはコーヒーカップが取り出され、豆から抽出された芳醇な液体が注ぎ込まれるのを待っている。カップはソーサー、スプーンとセットになっており、私のような素人目にも高級なものだということが分かる代物だ。全て同じデザインのそれは、全部で一ダース――十二セットが戸棚に並んでおり、その中から人数分の十セットを取りだしたのは朝霧と汐見の二人だった。村茂がデカンターからコーヒーを注ぎ、朝霧と汐見に加え、乱場も手伝ってカップが皆に配られた。このコーヒーにおいては、火櫛と霞は一切手を触れることのないままに全ての準備が成された。
出来れば、最初のひと口だけでもブラックのまま味わってくれ、という村茂の要求に応え、私たちは全員とも砂糖もミルクも入れないままカップを口に付けた。「ほう」と火櫛は感心したような声を上げ、霞も満足そうに頷く。飛原や高井戸、河野もその味を絶賛したが、乱場と汐見は、それほどでもないという顔をし、朝霧は見るからに苦そうな渋面を作っていた。高校生の中でこのコーヒーの味を理解出来たのは、僭越ながら私ひとりだけだったようだ。
「無理しないでいいよ」
「まだ高校生には早いかな」
村茂と高井戸の言葉に従い、私を除く高校生三人は、ひと口飲んだだけで砂糖とミルクをコーヒーに投入した。見ると、河野も同じように砂糖とミルクに手を伸ばしていた。これらは個装されたもののため、何か混入されているとは考えがたい。当然全て同じ銘柄で個々に区別はなく、仮にこの中のどれかだけに薬品を混入させたとて、それを避けて選び当てるのは不可能だろう。実際、霞も数口飲んでから、何の躊躇も意図的に選択した様子もなく砂糖とミルクを手に取っていた。
それから、食後の優雅なコーヒータイムとばかりに雑談が始まった。というのも、霞が自分のカップとソーサーを持ったままソファを立ち、私たちの輪の中に入って積極的に言葉をかけてきたからだ。
霞はまず、村茂が抜けたソファに腰を下ろした(村茂は、使われていない椅子を引き寄せてきてコーヒーメーカーの隣に陣取り、そこを自らの陣地としてしまった。その目的はもちろん追加のコーヒーを作り、所望してきたものに随時おかわりを注ぐというコーヒー番をやるためだ)。
霞は持ってきた自分のカップをローテーブルに置くと、隣に座る人物に話しかけ始めた。高井戸だ。
「高井戸さん、こうして近くで見ても、本当、かっこいいわね」
そんなことを言いながら霞は、多少前屈みになり、高井戸の顔に上目遣いの視線を突き刺す。彼はさぞ目のやり場に困ったことだろう。というのも、このとき霞が着ていたのは、朝食の席のような襟の付いたシャツにスカートではなく、ゆったりとした長袖ワンピースだったためだ。サイズが大きく彼女の体型に合っていないものと思われ、その袖はほとんど拳を覆う程度まであり、必然、襟元も大きく空く結果となっている。
「ああ、ありがとう。俺、モデル事務所に所属してるから、見た目には結構気を遣う必要があって……」
そう返しながら高井戸の視線は、霞の目ではなく胸元にずっと注がれていた。そのことを意識しているのかは分からないが、霞はさらに上体を屈みこませ、ほとんど高井戸にしなだれかかるような姿勢になる。高井戸はそれを避けるでもなく、むしろ彼のほうからも体を寄せていった。
その高井戸に冷たい眼差しを突き刺している人物がいた。河野だ。高井戸を中央に置き、霞の反対側に座っている河野は、口元に運んでいたカップをソーサーに強めに置いた。陶器同士がぶつかる甲高い音がリビングに響く。衝撃で僅かにコーヒーが零れ、ソーサーのみならずテーブルも濡らした。
「……ごめん」
河野は懐からハンカチを取りだしてテーブルを拭く。
「どうかしましたか、河野さん」
霞が高井戸越しに河野を見た。
「何でもないわよ」
河野は霞を見返して、すぐに高井戸に視線を移した。すでにこぼれたコーヒーは完全に拭き取られているが、ハンカチでテーブルを拭う動作は続けられていた。
「あの、お二人は恋人同士なんですか?」
霞が質問をすると、ハンカチがぴたりと止まる。河野は再び霞を見て、
「え、えっと――」
「いや、そうじゃないんだ」
河野が言いあぐねている間に、先に高井戸が質問に答えた。たちまち河野は顔を紅潮させ、ハンカチを鷲づかみにして立ち上がると、足早にドアに向かって歩く。
「河野さん――」
「トイレ」
掛けられた朝霧の声を振り払って、河野はリビングを出て行った。私がソファに視線を戻すと、高井戸の隣から霞の姿が消えており、いつの間にか彼女は、コーヒー当番をしている村茂の元に移動していた。
「おかわりを下さい」
霞は村茂に自分のカップを差し出す。「あっ、はい」と村茂がデカンターからコーヒーを注ぐと、霞は立ち上る香りを味わってから、カップを口に運びひと口飲むと、
「とてもおいしいです。村茂さん、コーヒーを淹れるのがとても上手なのね」
「あ、はい。好きなので……」
デカンターをコーヒーメーカーに戻した村茂は、河野が出て行ったドアと、三人掛けのソファにひとりだけで腰掛けている高井戸を気まずそうに交互に見やった。そんな村茂に、霞は、
「同じ豆を使っているのに、私や火櫛さんが淹れるのと全然違うわ。何かこつがあるんですか?」
「ま、豆の挽き方ですよ。コーヒー豆は抽出する方法によって、挽き方を変えたほうがいいんです。一般的にコーヒーメーカーを使う場合は、荒すぎず細かすぎず、中挽きくらいにすると味も香りも引き立って……」
デカンターの中に溜まるコーヒーを覗き込んだため、前屈みになった霞の胸元に(高井戸ほど露骨ではないものの)視線を送りながら、村茂は説明を始めた。霞は、うんうんと頷いてはいたが、真剣に村茂の話を聞いているようには私には見えず、自分に対する反応を楽しんでいるだけなのではないかという印象を受けた。それは今の村茂だけではなく、先ほどの高井戸に対してもだ。正確には、楽しんでいるというのも違っているかもしれない。笑顔を作ってはいるが、霞の目が全く笑っていないように私には思えたからだ。男性陣の反応を試している、あるいは確かめているとでもいうような。
どれほど耳に入っていたのかは知らないが、村茂のコーヒー談義をひとしきり聞き終えると、霞はまた高井戸の隣に腰を据えた。が、話し掛ける相手は彼ではない。テーブル短辺のひとり掛けソファに座っている私を霞は向いて、
「石上さんも、映画作りに興味があるんですか?」
肘掛けに腕を乗せて身を乗り出し、私の顔を覗き込むようにして訊いてきた。こうしてすぐ近くにして分かったが、霞は何かの香水をつけているようだ。あるいは髪の匂いなのか、周囲に発散するというものではなく、接近しないと分からないくらいに微量だが、露骨にならない程度に甘く、だが男の理性をくすぐるには実に効果的であろう香りが私の鼻孔をくすぐった。
「いえ、私はもっぱら観る専門で」
答えてから私はコーヒーカップを口を付けた、カップにより、視界から霞の姿が遮られる。
「ふうん……」
霞は顔を動かした。カップの横から再び彼女の白く小さな顔が覗いた。
「私、石上さんは脚本家とか似合うと思いますけれど」
私はカップを傾ける手を止めた。
「だって」霞は続け、「いかにも文学青年って感じがしませんか? あ、まだ高校生なのに、青年なんて言ってごめんなさい」
「いえ、実年齢より高く見られるのは慣れてますから」
正直、コンビニで何度かアルコール飲料を購入したことがあるが、私服であれば店員に止められたことは一度もない。
「大人びていて、かっこいいですよね」
霞は私を見て笑みを浮かべた。視線が合う。やはり目だけは笑っていなかった。
「でも、石上さんに似合うのは脚本というよりも小説かな。ミステリとか、お好きですか」
「えっ? どうしてですか?」
思わず訊き返した。また目を合わせると、霞は表情を一瞬だけ強ばらせていた。まるで、余計なことを言ってしまった、とでもいうふうに。が、すぐに霞はまた形だけの笑顔を戻すと、
「そんな感じがしただけです。石上さんって、何だか名探偵っぽいと思ったから」
実際は名探偵ではなくワトソンなのだが。横目で本物の名探偵を見る。彼も、その両隣にいる朝霧と汐見も、乱場のことを話題に出しはしなかった。乱場のことを知っている大学生は? と見てみたが、高井戸も村茂も、乱場が探偵をしていることも何も口に出さず、ただ霞の横顔を、あるいは、肘掛けにしなだれかかり優雅な曲線を描いている体を目で追っているだけだった。
霞は立ち上がった。「ごめんなさい」と、テーブルと高井戸の間の狭いスペースを通って、彼女はソファの反対側に場所を移した。この流れでは当然、次に霞のターゲットとなるのは飛原のはずだ。
「飛原さん」
私にしたときと同じように、霞は肘掛けに腕を乗せて話し掛ける。が、下から覗き込むようにとはいかなかった。というのも、飛原がすでに膝に肘を乗せた俯いた姿勢でいたためだ。その視線はテーブルに向けられている。いや、向いているだけで、どこも見てはいないのではないかと感じる。「焦点が定まっていない」とは、こういう目のことをいうのだろう。
「……飛原さん」
「――えっ?」
もう一度名前を呼ばれてから、ようやく飛原は顔を霞に向けた。途端に目の焦点があったようだ。予想以上に霞の顔が自分に接近していたことに驚いたようで、あっ、と小さく声を上げて飛原は背筋を伸ばした。
「どうしたんですか、飛原さん。具合でも悪いのですか?」
この霞の言葉には私も同意する。飛原の様子がどうもおかしい。私と乱場がリビングに入ってから――いや、その前からだったのかもしれないが、終始何か考え事でもしているかのように俯き加減でいる。サンドイッチも二切れ程度しか口にしていないはずだ。村茂が淹れたコーヒーも、まだ一杯目の半分以上が残っている。思い返してみても、昼食の席から今まで彼はひと言も発言をしていなかった。朝はこんなではなかったはずだが。
「いえ、大丈夫です」
飛原は霞を見もしないまま答えた。霞も彼の様子をおかしいと感じたのか、「そう……」と呟くと立ち上がり、最初に座っていたひとり掛けのソファに戻っていった。
「飛原さん、どこか体の具合でも悪いんですか?」
乱場が尋ねた。乱場も時折飛原のほうに目をやっていたので、彼の様子がおかしなことに気付いていたのだろう。
「ああ、いや、何でもないんだ。本当」
飛原は笑顔を見せたが、それは無理に作ったようなものに私には見えた。
「でも、顔色が優れないように見えますよ」
しかし、乱場の追求は止まなかった。
「ただの疲労なんじゃないのか」と挟んできたのは村茂で、「慣れない力仕事をしたせいだろ」
そういえば、この二人は午前中、火櫛の頼みで屋外で倉庫の整理に駆り出されていたのだった。
「あ、ああ、そうかもしれない」と飛原は村茂の意見に乗り、「俺は村茂とは違って頭脳労働担当だからな」
「言ってくれるぜ、こいつ」
村茂が笑った。霞と相対していたときのような、色気に当てられたような状態はもう見られず、いつもの彼に戻っていた。それを聞くと高井戸も、
「代わりに俺が行けばよかったですかね」
と笑いを交えた。高井戸のほうは、まだ霞と接触していたときの余韻が残っているように思える。冗談交じりの言葉だったが、それに対して飛原は、
「いや、いいんだ」
思いの外、真面目な顔で答えた。そのためか高井戸は、「そうですか……」と意外そうな、覚めた顔をして引き下がった。
これまでのやり取りが行われる中、火櫛は我関せずとばかりにコーヒーを味わっている。朝霧と汐見は危険なものを見るような目で霞を見据え、その霞は、相変わらず面白そうな、しかし、若干鋭さを増した目をして皆を見回していた。
我が名探偵は、この状況をどう見ているのだろうか。目をやると、乱場はどこにも、誰にも視線を突き刺しておらず、何かを思案しているような表情で、黙って虚空を見つめていた。