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第12章 霧雨を歩く

 私たちに向かって、火櫛(ひぐし)は足早に歩み寄ってきた。彼女に声を掛けるものは誰もなく、辺りに聞こえているのは、霧に反響している車のアイドリング音だけだった。


「戻ります。車に乗って下さい」


 その表情と態度から、私たちの行動を快く思っていないのは明白だったが、火櫛はそれを言葉には表すことなく、自分が運転してきた車を顎でしゃくった。

 私たちは一度顔を見合わせたあと、高井戸(たかいど)が、


「で、でも、その車は五人乗りですよね。全員乗車は出来ないと思うのですが」


 火櫛の背後で唸る車に目をやった。確かに、彼女が乗ってきたSUVには、助手席と三名分の後部座席、都合四席しか空きがない。この場にいるのは火櫛を除いて六名。二人があぶれてしまうことになるが。そう思っていると、


「僕と石上(いしがみ)先輩は歩いて戻ります」


 乱場(らんば)が手を挙げて私を見る。頷き返した私はそのまま火櫛に視線を戻した。火櫛は、乱場と私を交互に()め付けてから腕時計に目を落とすと、


「……いいでしょう。昼食は三十分繰り下げて、十二時ちょうどに変更します」


 徒歩で館まで戻るには十分な猶予だろう。朝霧(あさぎり)たちは何か言いたそうにしていたが、乱場が笑顔で促したため、皆おとなしく車に乗り込んだ。最後に火櫛が、


「遅れないように」と忠告して運転席側ドアを開け、「それと……いくら探しても、何も見つかりませんよ」


 そう言い残してシートに座ると、何度か切り返しを行って車を反転させ、来た道を引き返した。エンジン音が遠ざかるにつれ、赤いテールランプも霧の彼方に沈んでいった。


「火櫛さんが来たということは、飛原(とびはら)先輩と村茂(むらしげ)先輩の仕事は終わったんだろうな」

「ええ。それで館に戻ってみると、僕たちがいない。というか、それ以前に、施錠したはずの玄関が開いていたことに火櫛さんは驚いたんでしょう」

「それで、ああして車を飛ばして来たというわけか。館の周辺で私たちが行きそうなところは、この橋――今はないわけだけれど――しかないからね」


 再び静寂に支配された道の真ん中で、私と乱場は言葉を交した。


「僕たちも戻りましょうか」


 乱場の言葉で、私たちも歩き始めた。


「乱場くん、作戦は見事失敗に終わってしまったね」

「ええ。館の中は、ある程度厳重にしてあるだろうと考えてはいましたけれど、まさか僕たちが捜索した東館側の、ほとんど全ての部屋に施錠がされているとは思っていませんでした」

「ほとんど、ということは、鍵が掛かっていなかった部屋もあったのかい?」

「はい。トイレと掃除用具入れだけ。あと、みんなで確認したリビングも当然、施錠はされていませんでした」

「なるほど。部屋はいくつくらいあった?」

「トイレやリビングを除いた、施錠されていた部屋は四つです」

「四部屋か。そのうちの三つは、館の住人である火櫛さん、(かすみ)さん、庸一郎(よういちろう)さんの三人の個室だろうね」

「僕もそう思います。壁の面積からして、かなり広いと思われる部屋が二つあって、それが霞さんと庸一郎さんでしょう。もうひとつ、少し小さなもの――とはいっても、僕たちが泊まっている二階のものよりはずっと広いですけれど――と見られる部屋があったので、それが火櫛さんと考えられます」

「残るひとつは?」

「全くの不明ですが、多分、地下室だと思います」

「地下室? 倉庫か何かに使ってるんだろうか?」

「僕の考えでは、発電機があるんじゃないかと」

「そういうことか」

「はい。館の中が異様に静かだったので、ちょっとした物音も耳に入るんですね。それで、歩くのにも慎重になって、範囲の割に捜索に時間が掛った要因にもなったわけですけれど、まあ、そんな状況だったもので、その謎の部屋の前に来ると、何か機械の唸るような音が聞こえてきたんです。それも、どうやら床の下から聞こえてきているみたいで」

「それが、発電機の稼働音なんじゃないかというわけか」

「はい。あの館に電気を通すのであれば、どこかから電線を引いてくる必要があります。ですが、ここまで世間に秘匿された館なのに、普通に電力会社から電気を供給してもらうというのは考えがたいですから」

「確かに」

「ええ。ですから、あの館で使用されている電力は、全て発電機による自前で(まかな)われているのではないかと」

「燃料さえ買ってくればいいわけだ。さっきのSUVで」

「もしくは、こんな山の中ですから割り増し料金を取られるでしょうが、配達してもらうという手もありますね。でも、僕も燃料は購入してきているのだと思います。配達ということは、部外者に橋を渡らせることになってしまいますから」

「私たちに対する言動を見るに、それも考えがたいということだね」

「そうです……あ」


 乱場が手の平を上に向けた。その理由は私にも分かった。


「雨、か」


 同じようにした私の手にも、濡れた感触が伝わった。走ろうかと思ったが、やめた。降り始めたのは、霧に溶け込むかのような細かな霧雨だったためだ。しばらく打たれたとて濡れ鼠になってしまう程度ではない。乱場も同じ考えのようだ。速歩になるでもなく、歩調を崩さなかった。


「乱場くん」


 私は羽織っていた薄手の上着を脱ぎ、Tシャツ一枚だった彼の肩に掛けた。


「あ、ありがとうございます」乱場は霧雨に濡れた顔を上げて、「でも、石上先輩が」


 今度は私がTシャツのみとなったが、


「私が着ているのは厚手のシャツだから、大丈夫だよ。この大事に名探偵に風邪をひかれたら困るからね」


 私の言葉に乱場は笑みを浮かべた。さあさあと葉や草を揺らす霧雨程度の音では、声を遮る支障とはならない。次に私は、


「乱場くん、妖精館について、どう思う」


 あまりに漠然とした質問を投げかけると、


「妖精館……」乱場はシリアスな表情をして、「謎ですよね。笛有(ふえあり)庸一郎さんと、その娘、霞さん、さらに雇われの――使用人と言っていいんでしょうか、火櫛さん、たった三人だけが住む館。現れたり消えたりする橋を渡らなければ行き来できない山中に建っている。橋の下の川は峡谷のように切り立った崖の底に流れているため、生身では渡河もまず不可能。そもそも、橋が出し入れされる構造に連動して、そこに橋が架かるという事実さえも隠蔽されるようになっていると考えられます。つまり、ただ単に部外者を近づけないというだけでなく、その存在自体が秘匿されているわけです、妖精館は。携帯の電波も入りませんしね」

「何のために建てられて、笛有親子は何をしているんだろう?」

「館の目的は、ずばり、笛有さんたちが居住するためのものだと考えていいと思います。まあ、それにしても解せないところはありますけれど」

「私たちが泊まっている部屋のことだね」

「はい。三人で住むために、あの部屋数は異常です。そもそも二階は普段は全く使用されていないようですし」

「そうだな」

「広い浴場から見ても、居住者以外に複数名の人間が滞在することを考えられて作られた構造に思えます」

「それこそ、ホテルみたいな」

「はい。昨夜も話しましたけれど、その可能性は否定されるでしょうけれどね」

「ホテルとしては怪しすぎるものね」

「川岸からはかなり離れていますし、部屋のドアも金属のメタルじゃありませんしね」


「ホテル・カリフォルニア」は知らないが、井上(いのうえ)陽水(ようすい)の「リバーサイドホテル」は知っているのか。私は少し面白く感じたが、顔には出さず、乱場の言葉を聞き続ける。


「昨夜もみんなで話しましたけれど、あれが会員制のホテルとかだったなら、僕たちのことは速やかに帰しているはずです」

「ああ。だけど、実際はその逆。私たちを留めておこうとしている。いや、留めるというよりは、軟禁に近いかな」

「まさにそうです。外部から来た僕たちのことを疎みながらも、このまま帰したくない。そんな事情がありありです」

「やっぱり、妖精館の人たちの、私たちに対する最終的な目的は……」

「事故死に見せかけて殺すこと……」

「これからも十分警戒する必要があるね。これから食べる昼食も、そのあとに出る夕食も」

「はい。食事だけでなく、館での過ごし方にも注意を払う必要があるでしょうね。でも、そればかりじゃ駄目です。何とかして、ここから抜け出す手立てを考えないと――あ」


 乱場が足を止めた。顔は森のほうに向けられている。私もその視線を追うと、


「あれは……」

「蝶々ですね」


 森の中、林立する木々の間を、一頭の蝶がひらひらと舞っていた。濃い青紫色の羽に、黄色と白の斑紋(はんもん)が散りばめられている。


「オオムラサキだね。日本の国蝶の」


 私たちはしばしの間、その不規則で危うくも見える羽ばたきを鑑賞していたが、紫紺の蝶はやがて白い霧の向こうに霞み、姿を消した。



 ようやく妖精館に辿り着いた。時刻は昼の十二時二十分。少々ゆっくり歩きすぎてしまったようだ。

 霧雨は止むことなく、弱くはあるが一定の濃度で振り続けていた。玄関扉の前に立ち、改めてブザーかノッカーを探したが、そのどちらも備え付けられてはいなかった。ノブを掴んで引いたが、やはり、施錠されている。仕方がないので私はドアを直接ノックした。厚い木材を叩く重厚な音が邸内にこだましたのが分かった。

 解錠される音が聞こえ、扉が開けられると、敷居の向こうには火櫛が立っていた。その後ろには、朝霧、汐見の顔も見える。


「おかえりなさい、乱場、部長。はい」


 汐見が、手にしていたバスタオルを差し出してくれた。礼を述べて受け取り、私と乱場は頭や肩を拭く。


「先に着替えますか? それともお昼ご飯にします?」


 続いて訊いてきた朝霧に、私は乱場と顔を見合わせてから、「ご飯にするよ」そう答えた。霧雨は服の表面を掠めた程度濡らしただけだったため、着替えるまでには及ばないと判断した。

 東館一番手前にあるリビングには、他の全員がそろっていた。飛原、村茂、高井戸、河野、そして、笛有霞。朝食のメンバーが再び一堂に会したことになる。リビング中央のローテーブルには、サンドイッチの載った大皿が置かれている。これが今日の昼食らしい。私がそれらに目をやると、


「霞さんにも手伝ってもらって、私たちで作ったんです」


 私の胸中を察したように朝霧が口にした。私は乱場と顔を見合わせる。私だけでなく、胸中は彼も同様だったはずだ。つまり、この食事の用意にも朝霧たちが介入しているため、薬品等の異物が混入されている可能性はないということだ。私と乱場は互いに頷きあった。

 私と乱場はテーブルを囲むソファに席を求めた。ほぼ長方形のテーブルの長辺にそれぞれ三人掛けのロングソファが、短辺にはひとり掛けのソファが配されている。ロングソファはひとつが丸々開いており、朝霧と汐見が乱場の手を引いていき、三人でそのソファを埋めた。対面する席には、高井戸を中央に村茂と河野が並び、ひとり掛けソファのひとつは飛原が占めていた。私が躊躇していると、火櫛が残る最後のソファを勧めた。見ると、ローテーブルを囲む以外にも、その外側に二脚のひとり掛けソファが置かれている。そのうちのひとつには霞がすでに座っている。テーブルを囲むソファは私たち外様だけで占領してもらおうということらしい。特に抗う理由もないので、私は素直に飛原と対面するソファにひとり腰を落ち着けた。と同時に、


「いただきます」


 全員が席に着くのを待ちかねていたように、汐見が両手を合わせてサンドイッチを掴んだ。それを合図に他のメンバーも手を伸ばし始め、昼食が始まった。


「失礼」と火櫛が皿を二枚差し出してきて、「いくつか取り分けてもらえますか」


 サンドイッチを所望した。朝霧と河野が手分けして――なるべく種類が偏らないように――サンドイッチを載せていく。十分な量が皿に載せられると、「ありがとうございます」と火櫛は礼を言って、皿の一枚を霞に運んでいった。見ると、火櫛と霞のソファの脇にはサイドテーブルが寄せられており、彼女たちはそこを食卓に使うようだ。霞と自身のサイドテーブルにサンドイッチの皿をそれぞれ置き終えると、火櫛はさらに別のテーブル――こちらは普通の高さのテーブルだった――に向かった、が、


「あっ、火櫛さん、私がやります」


 それを見た河野が慌てた様子で立ち上がった。そのテーブルには大きめの鍋と、スープカップがいくつも置かれている。「そうですか」と火櫛は抵抗することもなく自分の席に移動した。続いて朝霧も席を立ち、河野がスープを掬い入れたカップを運ぶのを手伝う。

 河野たちは、朝食と同じように、食事の用意から分配までの全てを自分たちのコントロール下に置くことに成功している。これでは、たとえ火櫛や霞が料理に何か薬品の混入を目論んでいたとしても、そう簡単に手は出せないだろうし、誰かしらに容易に見咎められてしまうはずだ。自分たちも同じものを口にすること覚悟のうえでの強行は可能だろうが、まさかそこまでするとは思えない。とりあえず私は安心してサンドイッチとスープ――玉子スープだった――を堪能することに決め、レタスサンドをひと口囓った。そこに、


「霞さん、お薬飲まなくていいんですか?」


 乱場が霞を見た。そういえば朝食の席で、霞は食前に薬を服用することを父親である庸一郎から強く言われていたことを思い出した。

 霞は借問してきた乱場を黙って、相変わらずの怪しい微笑みを湛えたまま見つめ返すと、


「……そうね。また忘れていたわ」


 懐からピルケースを出して、朝と同じようにカプセル剤をひとつ口に放り込んだ。手元に水がないためか、ただ単に面倒だからか、霞はカップを手に取り、玉子スープで薬を喉に流し込んだようだ。恐らく水を持ってこようとしたのだろう、火櫛は椅子から立ち上がり掛けたが、そのまま腰を戻してしまった。


「あっ、霞さん」それを目撃した朝霧が、「薬を水以外の飲み物で服用すると、薬の成分が飲料の影響を受けてしまい、満足な効果を発揮できなくなるそうですよ」


 心配そうな顔で忠告したが、


「あら、ありがとう。でもね……いいのよ」


 霞はやはり笑みを浮かべた表情で、何も問題はないというように返した。そこで、リビングのドアが開き、


「霞……」


 笛有庸一郎が姿を見せた。皆の顔がモノトーンの男を向く。


「霞」庸一郎は、もう一度娘の名を呼んで、「薬は飲んだのか?」

「はい、お父様」

「ならば、よろしい」


 それだけ確認した庸一郎が、回れ右をして歩き出すと、


「お父様、あとでお食事を持って行きます」

「少しでいいぞ」


 そう娘に返事をしながらリビングを出て行った。まるきり朝食時の出来事のリプレイだった。

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