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第11章 進退きわまる

「えっ?」


 朝霧(あさぎり)は振り向いて、もう一度私と顔を見合わせてから、汐見(しおみ)の肩越しに向こうを見ようと背伸びをする。私も目を凝らすが、汐見の前方に見えるのは草木の緑と若干の白い霧ばかりで、熊らしきものの体軀は目に映らない。


「近づいてみよう」


 私の声に朝霧は頷いて前進し、私も急ぎ、三人の距離はほぼ密着するほどに詰まった。


「汐見さん?」


 耳元近くで朝霧に声を掛けられ、


「あああ朝霧……、ぶぶ部長……」


 汐見は首だけでゆっくりと振り向いた。その動きは、油の切れた機械のようにぎこちなく、声同様に震えていた。汐見は、これも震える指で前方地面を示す。


「ん……?」朝霧は汐見の腰を掴み、横から覗きこむと、「こ……これは」


 彼女の声も震え始めた。私にもその理由が分かった。汐見の立つ位置から二メートルほど先に、それはいた。茶色く細長い物体が、とぐろを巻いて鎮座ましている。


「マムシ、か」


 私は、その日本ほぼ全域に生息する毒蛇の名称を呟いた。


「汐見さんっ! 熊をも倒すあなたなら、蛇ごときどうってことないでしょうに!」

「わわわ私、へへ蛇だけは……むむ無理で……」


 今の汐見には朝霧の冗談も通じないらしい。呂律の回らない声を返された。朝霧もその反応を見て、汐見の「ガチ具合」を悟ったのだろう。口元に手を当て、まあ、という頓狂な声を出した。


「わわ私、蛇を相手にするくらいなら、くく熊と戦ったほうがマシ……(まんじ)固めでもオクトパスホールドでも、何でもかけてやる」

「落ち着いて下さい、汐見さん。卍固めとオクトパスホールドは同じ技ですよ」


 突っ込むところ、そこかよ。


「それに、蛇に卍固めは多分効きませんよ」

「じゃじゃあ、ここはコブラツイストか? へへ蛇だけに、って……やややかましいわ」


 いや、意外に二人ともまだ余裕があるようだ。


「汐見さん、落ち着いて下さい。とりあえず深呼吸!」

「そそそうだな……」汐見は朝霧の言葉に従って、ゆっくりと深呼吸をして、「ふう、よし、落ち着いたぞ。いいか、二人とも、死んだふりをすれば助かるというのはただの俗説だからな。走って逃げるのも御法度だ。背中を見せると襲ってくる。木に登るのもよしたほうがいい、奴らは木登りが得意だから……」

「汐見さん! それ、熊に遭遇したときの対処法ですよね?」


 全然落ち着いていなかったらしい。振り向いた汐見の目は完全に泳いでおり、これが漫画なら渦巻きで表現されていたはずだ。


「うひゃぅ!」


 汐見が跳び上がった。眼前のマムシが二股に分かれた舌をちろちろと出し入れしたのだ。


「わわ私、知ってる、あれ、空気中の化学物質を与謝(よさ)蕪村(ぶそん)器官ていうところに運んでるんだよな」

「ヤコブソン器官です! 夏の蛇 終日(ひねもす) のたりのたり(かな) 言うてる場合じゃないですよ!」

「うわー! やられるー!」

「二人とも、ゆっくり下がろう。朝霧さん、汐見さんの手を取って……そう、落ち着いて……」


 私は朝霧の肩に手を乗せ、ゆっくりと下がらせた。朝霧に手を握られた汐見は、半ば引きずられるように後ずさりを始める。カーブを曲がり、マムシが見えなくなったところで、私は脇に身を寄せて、


「二人とも、先に行くんだ」


 後輩に道を譲った。うわぁー、と声を上げながら朝霧と汐見は駆け出す。二人のあとから、私も走って森を抜けた。


 這々(ほうほう)(てい)で森から抜け出した私たちは、しばらく動くことが出来なかった。もっともダメージが大きかったのは、何と言っても汐見だ。私と朝霧の二人は、肩で息をしながらも二本の脚で立っていられているが、汐見は両手両膝を地面に突き、荒い息を漏らし続けている。私と朝霧が掛ける声に彼女が反応して、ようやく立ち上がることが可能になるまでに数分を要した。


「では、汐見さんが回復したところで、また別の道を探すとしましょ――」

「断る!」


 朝霧の声を、汐見の怒号と表現してもよい大声が遮った。


「私はもう絶対に森には入らないからな! いいか、絶対にだ!」


 宣言する汐見の目には、浮かぶ涙とともに、揺るぎない決意の色が見て取れた。



「向かうところ敵なしの汐見さんに、あんな弱点があったとは」朝霧は感慨深そうに、「何か蛇が嫌いになった理由でもあるんですか?」

「別にいいだろ」


 隣を歩く汐見は(むく)れた様子で答える。


「寝てる間に耳を囓られたとか?」

「それで真っ青になったってか? ドラえもんじゃないから。いや、私、全然青くないし」

「気持ちはブルーですよね」

「誰が上手いこと言えといった」


 これ以上森へ分け入るのは諦め、私たちは一旦館に戻ることにした。汐見が断固拒否したからではない(それもないではないが)。マムシが出るような森を、この霧の中歩くのは危険と私が判断したためだ。飛原(とびはら)村茂(むらしげ)火櫛(ひぐし)の仕事から解放されるのを待って、改めて村茂を連れて捜索しようということになった。もっと日が高くなれば霧も晴れ、森の中の見通しが良くなることも期待できる。

 霧の向こうに館のシルエットが浮かびあがってきた。歩みを進めるごとにその輪郭は明瞭になっていき、館全体を視認できるようになった。玄関を見る、と、そこには、


乱場(らんば)くん。河野(こうの)さんに、高井戸(たかいど)さんも」


 館内捜索組の三人の姿があった。


石上(いしがみ)先輩、早いですね」

「ああ、ちょっとね……。それより、乱場くんたちのほうこそ、どうして外に出ているんだ?」

「もう捜索するところがなくなっちゃったからですよ」

「そうなんだ」と高井戸は両手を左右に広げて、「部屋はいくつかあったのだけれど、どこもかしこも鍵が掛かっていてね。入れる場所はひとつもなかった。裏口らしいドアも見つけたけれど、案の定、施錠されていたよ」

「玄関扉みたいに、内側にも鍵穴がある構造だったわ」


 河野が付け加えた。


(かすみ)さんや庸一郎(よういちろう)さんには会いましたか?」


 これには三人そろって首を横に振り、河野が、


「それなものだから、私たちも外を調べてみようかということになって、こうして玄関を出たところだったの」

「そこに石上先輩たちが現れたというわけです。で、石上先輩、森のほうはどうでしたか?」

「こっちは思わぬ障害に出くわしたよ」


 私は、マムシに遭遇したことを話し、森の中を捜索するのは危険だと判断して一時退却してきたと告げた。当然、汐見のことは黙っておく。


「それは、やむを得ないですね。これでは視界も利きませんものね。森の中では、なおさら」


 乱場はぐるりを見回した。時間とともに徐々に薄くなってきているとはいえ、未だ館の周辺には白い霧が沈殿している。


「それでですね、石上先輩」乱場は私の顔に視線を戻して、「これから川まで行ってみませんか?」

「川? 私たちが渡った、あの川か」

「そうです。昼間であれば、あの崖か、その周囲に橋を出し入れする設備を発見できるかもしれませんから。霧はありますけれど、夜よりはずっと視界が利きます」


 私は腕時計に目を落とした。橋まで行って昼食までに帰ってくる時間は、現地で数十分程度捜索することを考慮に入れても、徒歩とはいえ十分取れるだろう。他のメンバーも賛成したことで、私たちは昨夜車で走ってきた道を逆に歩き始めた。



 館から離れれば、それに比例して霧も薄くなってくるのではないか、と私は根拠もなく思っていたのだが、それは全く裏切られた。霧は常に、(まと)わり付くかのように私たちと一緒にあった。


「やっぱり、橋はないな」


 ほぼ垂直に切り立った、崖のような川岸に辿り着くと、高井戸が嘆息した。

 道は崖で断絶されたように途切れているままだった。

 乱場はさっそく、ほぼ垂直に切り立った崖のような川岸の縁に腹這いになって崖の垂直面を確認したり、道の左右の草木を掻き分け――当然私たちも強力して――何か設備が隠されていないか探し回ったが、結局何も発見することは出来なかった。


「ない。何もありません」


 乱場は道の真ん中に戻ってきた。私も隣に立って、


「橋を格納しておくような設備なんて、かなり大掛かりなものになるはずだから、そんなものがあれば、すぐに見つかりそうなものだけれどね」

「そうですね。でも、ありませんでした」と乱場は視線の向きを変えて、「少なくとも、こちら側の岸には」


 彼が目を向けたのは、川を挟んだ対岸だった。


「こちらには、って」私も乱場の視線を追って、「もしかしたら、向こう岸にあるかも、ってことかい?」

「そうです。もう、そうとしか考えられません」

「でも、これじゃあな……」

「ええ……」


 私たちの視界は、川の上に横たわる霧によって阻まれていた。対岸に生えている色の濃い木々の緑だけが、かろうじて霧のヴェールを透かして確認できるというだけだ。私は乱場に視線を戻し、


「だとしても、そもそも、橋の機構を対岸に設置するという設計自体がおかしい。あの館から橋を操作するのだとしたら、橋自体もこちら側にあるべきだ。メンテナンスなんかの都合も考えれば、絶対にそうしたほうがいい」

「ええ、僕も同じ考えです。でも、事実こちら側に橋がないということは、何かそうする理由があるからなのだと思います。それが何かは、まだ分かりませんけれど」


 乱場は、ため息を吐いた。と、そこに、


「あのさ」高井戸が口を開き、「もしかしたら、ここには本当に橋は架かっていないんじゃないか?」

「どういうことですか?」


 乱場が彼を向くと、


「俺たちが走ってきた道は、ここじゃないってことだよ」

「何を言い出すのよ、高井戸くん」


 河野が呆れたような声を出すと、「まあ、聞けって」と高井戸は、


「アルファベットの〈Y〉を思い描いてみてくれ……って、地面に描いたほうが早いな」高井戸は落ち枝を拾うと、地面に〈Y〉を書いて、「いいか、このYの下線の先に館――妖精館があるとする。で、Yの右側上線の先端に橋が架かっていて、俺たちはそこから川を渡ってこちら岸に来たわけだ」


 全員が地面に描かれた〈Y〉を囲み、うんうんと頷きながら高井戸の解説を聞く。


「そのまま道を走って俺たちは、〈Y〉の下線にまで差し掛かる」

「待って下さい高井戸さん」と朝霧が待ったを掛けて、「この〈Y〉を構成する線が三本とも道であるなら、私たちは下線に差し掛かる途中に、左側上線へ通じる出入り口、つまり三叉路を通過していることになります。であれば、走行路の右手に別の道が見えたはずですよね。でも、昨夜はそんな道はなかったように思うのですが」

「そうなんだ。だから、そのとき、その道は封鎖されていたんだよ。もちろん、そこを塞いでいたのは、周囲の木と全く見分けがつかないような、本物の木を使用したバリケードだった」

「あ、どういうことか分かりました」


 合点がいったというように、朝霧が右拳で左手の平を叩く。そうだ、と高井戸は、


「俺たちがおかしいと思って車を止めたのは、すでにYの下線の半ばまで差し掛かったところでだった。で、そこで三本の線の交点、三叉路にあったバリケードが移動した。今度は、右側上線への進入を塞ぐような形に変わったんだ」

「線路の切り替えポイントみたいな?」


 汐見の言葉に、まさにそう、と高井戸は我が意を得たりという顔をして、


「このYの左側上線の先端には、橋は架かっていないんだ。その道は川岸である崖まで延び、まるで崖によって寸断されたような格好になっている。それが……」高井戸は川のほうを向いて、「ここだ」


 手にしている枝で対岸方向を指した。全員も枝先が示す方向を向くと、高井戸は、


「どうだ? 橋なんていう、どでかくて重いものを出したり引っ込めたりする方法よりは、ずっと現実的な仕掛けだと思わないか?」

「そうであれば」汐見は川と反対側、つまり妖精館へ通じる方向に目を向けて、「現在はYの左側上線の道にポイントが切り替えされている状態なわけだから、館へ戻る道中の左側にそのポイント、つまりバリケードがあるってことですね」

「それを超えれば、橋の架かった道に通じる、と」


 朝霧が、うんうんと頷いた。


「どう思う? 乱場くん」


 自説を語り終えた高井戸は乱場を見た。


「そうですね……」乱場は考え込むように首を捻って、「確かに今の高井戸さんの推理のほうが、橋を動かす巨大な機構が不要になるため、物理的にはより現実性が増すでしょう」

「だろ」

「はい。でも、今回に限り、それはないはずです」

「どうして?」

「見て下さい」


 乱場は自分の足下を指さした。乾いた路面のそこには、


「そうか」


 高井戸もそれを見て納得したらしい。土の路面に刻まれていたのは、タイヤの跡だった。


「そうなんです」と乱場は、「これは、昨夜僕たちの乗った車が付けたタイヤ痕で間違いありません。パターンが同じです。つまり、この道は昨夜僕たちが通った道に相違ないわけです」

「となると、結局、現実に橋が消えてしまったということか」


 自分の推理が外れていたこともあるためだろうか、高井戸は気落ちしたように項垂れた。

 私は腕時計を見て、


「そろそろ戻らないとかもしれません。お昼ご飯に間に合わなくなってしまいます」


 それを合図に、私たちは崖に背を向けて来た道を引き返し始めた。と、そこに、


「……何か来ますよ」


 乱場が目を凝らす。白い霧の向こうから音が近づいてくる。エンジン音とタイヤが地面を掻く音だ。浮かび上がってきた二つの光はヘッドライトのものだろう。


村茂(むらしげ)さんが車を奪還したんですかね?」


 汐見が明るい声を上げたが、恐らく違う。案の定、霧を透かして見えてきた車体の色と形は、私たちが乗ってきたものと違っていた。この車種を私は、いや、ここにいる全員は目にしたことがある。立ち止まった私たちの目の前でSUVは急停止する。ドアが開き、運転席から降りてきたのは、


「何をしているのですか」


 眼鏡越しに鋭い視線を浴びせる火櫛(ひぐし)だった。

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