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第8章 朝の攻防戦

 スマートフォンのアラームで目を覚ました。電波圏外であるこの地においては、最新鋭科学技術の結晶であるこの小さな機械も、今のところ目覚まし時計代わりにしか用をなさなかった。

 時刻は午前五時半。普段であれば未だ夢の中にいる時間帯だが、今日ばかりは勝手が違う。私はベッドから跳ね起きるとカーテンを開け、そして思わずため息をついた。窓に鉄格子がはまっていることを思い出したせいと、外が未だ濃い霧に包まれていたためだ。霧が発生しやすい土地なのだろうか。早朝という時間帯のせいもあるのだろうが、窓の外に広がっているはずの森の緑も一切見通せないほどだ。夜の黒い闇がようやく明けたと思えば、今度は霧の白い闇。私は憂鬱な気持ちになって、もう一度嘆息したが、気を取り直して支度を始めることにした。

 着替えを終え、洗面用具を手に廊下に出ようとドアノブを握った。が、ドアは開かない。施錠していたことを忘れていた。私はサムターンを回して解錠状態にする。洗面所に行くだけなら施錠し直すこともないだろうと思い、私はサイドテーブルに置いたままの鍵は無視して廊下に出た。

 廊下のカーテンは全て開け放たれていた。私よりも早くに起床した誰かが開けてくれたのだろう。階段を通りすぎ、洗面所に入ったところで、その人物、村茂(むらしげ)と鉢合わせた。


「おはようございます」

「おはよう」さっぱりとした洗顔直後の顔で村茂は、「さっき一階に下りていったら、もう河野(こうの)さんと朝霧(あさぎり)さんが厨房前の廊下にいたぞ」

「早いですね」

「ああ、でも、鍵が掛かっていて入れないらしい。彼女たち、そのままスタンバイしてるそうだ」


 とりあえず、早起きの二人のおかげで、火櫛(ひぐし)に先んじることは出来たようだ。そのまま、彼女たちに朝食の準備を任せてもらえたらよいのだが。


「他に起床済みの人はいますか?」

「朝霧さんの話だと、汐見(しおみ)さんはまだ寝てるらしいな。俺も今から、みんなの部屋をノックして廻ろうと思ってたところだ」


 と、そこで背後からドアの開く音が聞こえ、


「あ、おはようございます」


 乱場(らんば)の声がした。振り向いて彼を見ると、声同様、顔にも若干眠気を残しているように思える。村茂は、おはよう、と挨拶を返して歩いて行くと、そのまま高井戸(たかいど)の部屋のドアをノックした。


「おはようございます、石上(いしがみ)先輩」

「おはよう、乱場くん。寝癖が凄いぞ」


 私は乱場の後頭部に逆立っている髪を撫でた。


「あ、すみません……」


 乱場は寝ぼけ(まなこ)で私を見上げた。

 洗面所の前に立った私たちは、並んで洗顔と歯磨きをしながら、このあと一階に下りて様子を見てこようと言い合った。

 村茂のノックで目を覚ましたのか、まだ眠たそうでおぼつかない足取りの高井戸と挨拶を交しながらすれ違い、私と乱場は洗面用具を部屋に置いて階段を下りた。

 階段の踊り場に差し掛かったあたりで、鼻孔をくすぐる美味しそうな香りが漂ってきた。すでに朝食の用意がされているようだ。西館廊下に出ると、食堂の扉が開いていることが分かった。その隣にある厨房へのドアも開かれており、香りはそこから流れてきているに違いない。厨房を覗くと、


「あっ、おはようございます、部長、乱場さん」


 野菜を刻んでいる手を止めた朝霧の顔が向いた。その後ろでは河野がフライパンを返しており、さらに隣には、鍋をお玉で掻き回す火櫛の姿があった。三人の視線が一斉に私たちを捉える。河野も、おはよう、と挨拶をくれたが、火櫛は私たちを一瞥しただけで、すぐに視線を鍋に戻してしまった。


「皆さんで朝食を作っているんですか」


 乱場は厨房に足を踏み入れる。


「はい」と朝霧は包丁の上下運動を再開させて、「私と河野さんが無理を言って、手伝わせてもらっているんです」

「泊めてもらって何もしないのは気が引けるものね」


 二人は昨夜申し合わせたとおりの言い訳を口にした。さらに二人は、自分の仕事をこなしながらも、ちらちらと火櫛のほうにも目をやっている。彼女が何か怪しいものを料理に混入しないか、見張っているのだ。が、見たところ怪しい動きはない。もっとも、料理は全員分を一度に作っているらしいため、何か混入したならば、火櫛や(かすみ)をはじめとした笛有(ふえあり)家の人間までそれを口にしてしまうはずだ。もし彼女が睡眠薬なりを混入する計画を立てているとしたら、料理を個別に盛りつけたあとにするはずだ。そう思って火櫛を見ると、再び彼女がこちらを向き、


「お二人が手伝ってくれたおかげで、予定よりも早く準備ができそうです。料理が冷めてもいけませんので、朝食開始を三十分早めましょう。二階の人たちに伝えてきてもらえますか。私も霞様たちに知らせますので」


 鍋の火を止め、私と乱場の横を抜けて廊下に出て行った。目で追うと、ロビーの向こう、東館側へ進んで行き、そのまま長い廊下を抜けて左に曲がっていった。一直線の廊下の突き当たりでドアに突き当たる西館と違い、向こうは廊下を折れた向こうにもまだ先があるということだ。


「石上先輩」乱場も廊下に出てきて、「火櫛さん、『霞様たち』って言ってましたね」

「ああ、ということは」

「はい、火櫛さん以外に、ここには少なくとも、笛有霞さんを含めて二人以上の人間がいることになります」

「いよいよ、朝食の席でご対面か」

「朝霧さん、河野さん」乱場は厨房に戻り、「朝食は何人分くらい作っていますか?」


 二人は顔を見合わせてから、


「だいたい、十数人分、てところかしら」


 河野が答え、朝霧も頷いた。


「であれば、ほとんどが僕たちの分ということになりますね。ということは、笛有家の人たちは、そう大人数いるわけじゃないと考えられますね」

「朝霧さん、河野さん」私は二人に声を掛け、「調理中、火櫛さんに何か怪しい素振りはなかったですか?」


 ドアが開けっ放しになっている出入り口を横目にしながら訊いた。まだ火櫛が戻ってくる様子はないが、自然と声を顰めてしまう。


「怪しい素振りって」と朝霧も同じように小声になり、「睡眠薬らしきものを入れるとかですか? 私は何も見ませんでしたけれど……」


 朝霧に顔を向けられた河野も、黙ったまま首を横に振った。


「乱場くん、どうやら杞憂だったようだね。いや、二人が一緒に調理をすることになったから、計画を中止しただけかもしれないけれど」

「いえ、石上先輩、火櫛さんが本気で睡眠薬か何かを混入させるつもりだったら、朝霧さんと河野さんを厨房から締め出してしまえばいいだけです」

「それもそうか」

「ああ、でもですね」と、また朝霧が、「もし火櫛さんが料理に睡眠薬を混入したとしても、無意味かもしれません」

「どういうこと?」


 私が訊き返し、乱場も興味深そうな目で朝霧を見た。その朝霧は、河野と一度目を合わせてから、


「いま用意している朝食はですね、どうやらバイキング形式らしいんですよ」

「バイキング? 昨夜いただいた夕食みたいな?」

「はい。ビュッフェとも言いますけれど。人数が多いので、いちいち個別に盛りつけるのが面倒だからと、火櫛さんのほうから提案してきたんです」


 今度は私が乱場と顔を見合わせた。大皿に盛った料理を各々が好きなだけ取るバイキング形式では、私たち〈招かれざる客〉たちが口にする料理だけに薬品を盛るなど、出来るはずがない。まして、火櫛のほうからそのスタイルを提案してきたという。


「やはり、ただの杞憂なんでしょうか? 私たちの考えすぎ?」


 朝霧は煮え切らない表情で小首を傾げる。乱場は、そうかもしれませんが、と前置きしてから、


「もし、それでも僕たちだけに薬を盛ろうとするなら、食器に何かするしかなくなりますね」

「私たちの使う箸や皿に薬品を塗っておくと?」

「はい」乱場は私に頷いて、「かなり難しい手段だとは思いますけれど」

「私と朝霧さんで、食事が始まる直前に、使う食器を全部洗っておくわよ。石けんが付いた手で触ってしまったからとか何か理由をつけて」


 河野が対抗策を考案すると、


「そこまで徹底すれば、朝食は全員が口にしてもいいかもしれませんね」


 乱場の言葉に私は頷いた。現に、こうして私たち外様だけに任せて火櫛は厨房を離れてしまっている。端から睡眠薬の混入など考えていなかったのか、それともやはり、計画されてはいたが朝霧と河野の登場で断念したのか。さらにバイキング形式で提供されることも考慮すれば、この朝食に問題はないと考えて差し支えないのではないだろうか。朝霧と河野の二人も乱場の意見に賛同している。

 では、そのように、と乱場が確認したところで、あまり厨房に長居をしても変に思われると思った私と乱場は、あとのことは二人に託して二階へ戻ることにした。


 飛原の部屋を訪れると、そこに村茂、高井戸、汐見も合流していた。私と乱場は厨房でされたやり取りを四人に聞かせ、朝食に問題はないと思われることも告げると、汐見は「それなら腹一杯食えるな」と喜びを露わにしていた。腕時計を見ると、六時二十五分に差し掛かっている。飛原も自分の腕時計に目を落として、


「じゃあ、そろそろ行くか」


 その言葉を合図に、私たちは部屋を出た。



 食堂では朝食の用意が万全に成されていた。何種類かの料理が載った大皿が数枚、テーブル中央に寄せられており、その横には取り皿が重ねられている。さらに隣にはいくつかのカトラリーケースが置かれ、フォークや箸がそれぞれ何本、何膳も入れられている。それを見た私は乱場と顔を見合わせる。彼も同じ事を思ったに違いない。「各人にあらかじめ食器が割り当てられていない」これでは食器に薬を仕込むことも不可能だ。誰がどの食器を使用することになるか、一切予測も割り当てることも不可能なためだ。さらに、恐らく朝霧と河野は、宣言どおり直前に食器を洗うということも実行してくれたに違いない。

 私たちが食堂に入るとほぼ同時に、厨房から朝霧と河野、火櫛も戻ってきた。


「お好きな席に」


 火櫛はテーブルを囲む席を見回す。座席選択の自由まで与えられては、もう、この朝食の何かしらに薬品などが混入されている可能性はゼロと考えていいだろう。

 私たちは自然と昨夜と同じ席――高校生組と大学生組が対面する――に落ち着こうとしたが、乱場から視線の合図を受けた私は反対側に廻り、昨夜飛原が座った席に腰を据えた。乱場の意図したことは恐らくこうだ。万が一、火櫛が昨夜の私たちの座席配置を憶えていた場合、今朝も私たちが同じ席に座ることを考慮して、特定の人物が座る席にだけ何か仕掛けをしているかもしれない。この可能性も考え、それを阻止してしまおうということだ。

 私が先に座ったことで、飛原は別の席を使わざるを得なくなり、乱場も当然、昨夜とは別の席を素早く占める。それに伴い、玉突き的に全員が昨夜とは違う席に落ち着くことになった。乱場と隣席できなくなった朝霧と汐見は不満そうな顔をしていたが、この場の雰囲気を察してくれたらしい。何も文句を言わないまま、大人しく空いた椅子に座った。最後に火櫛が席に腰を下ろす。窓側の角席だった。

 ここで私はテーブルを見回す。用意されていた席は全部で十。長方形のテーブルの両長辺に五席ずつという、昨夜と全く同じ並びだ。私たち外様組が八人に火櫛を入れて九人。残る席はひとつだけ。ということは、この朝食の席につくのは必然、あとひとりだけということになるが。乱場と目が合う。彼も同じ事を思っていたらしい、小さく頷くと火櫛に向かって口を開きかけた、そのとき、


「すみません。遅くなりました」


 声がして、同時に扉が開かれたままの出入り口から、ひとりの女性が入室してきた。私たちは一斉に向く。

 笛有霞。薄手の白いシャツに白いロングスカートという服装は、昨夜私と村茂が見たものと同じだ。昨夜はそこまで視野に入れていなかったが、履き物はマットな黒色で、足首辺りまでを覆うショートブーツと呼ばれる種類のものだった。そして、白い肌と黒い髪。水晶のような白目と深淵のような瞳。小さな桜色の唇を除けば、笛有霞の全身はモノトーンだけで描けてしまう。

 敷居を跨いだすぐで一度立ち止まった霞は、ゆっくりとテーブルを、席に着く私たち全員を見回してから、


「笛有霞です」


 短く名乗って、小さく頭を下げた。漆黒の髪が流れ、揺れる。私たちを見回したとき、霞は二度ほど僅かに微笑んだ。私と村茂に視線を合わせたときだった。村茂は照れたように――恐怖したように?――すぐに顔を逸らしてしまったが、私は深淵と形容した彼女の双眸を黙って見つめ返していた。

 歩みを再開した霞は、そのまま空いている最後の席――廊下側の角――に腰を下ろす。隣は高井戸だった。


「では、いただきましょう」


 火櫛がサラダが山盛りにされた大皿に手を伸ばしたが、


「待って下さい」


 乱場の声が彼女の手を止めた。火櫛はトングを掴みかけた姿勢のまま乱場を見る。


「あの」乱場は一度霞を見やってから、「これで、全員ですか?」


 火櫛の顔に視線を戻した。確かに用意されていた席は霞の登場で全て埋まったため、この場に集うべき人間は揃ったと見ていいのだが。


「はい」


 と火櫛は簡潔に答えを返した。


「笛有家の方は、こちらの霞さんお一人だけ?」


 乱場は再び火櫛を見る。「そうです」と、またしても火櫛の返答は素っ気ない。彼女の機嫌を損ねないように、どう詰問を続けるかを考えているのか、乱場は沈黙した。止まっていた火櫛の手がトングに伸びたところに、


「火櫛さん、私が」


 横――彼女の隣の席に座った河野が身を乗り出し、火櫛の指が触れるより先にトングを奪い取った。反対の手で、重ねられていた取り皿も一枚手にし、サラダを盛り付けていく。上手いフォローだと私は思った。自分が最初に料理に手を付けることで、火櫛が何かしらのトリックを用いて土壇場で薬を盛らないとも限らなかったからだ。河野も私と同じ考えのもと、そうしたのだろう。火櫛は抵抗することもなく、そうですか、と素直に浮かしていた腰を椅子の座面に戻していた。

 河野はサラダを盛り付けた取り皿を火櫛の前に置き、その流れで他のメンバーにも同じようにサラダを取り分けていく。それを見た朝霧と汐見も、ソーセージやら目玉焼きやらを皿に盛り、周囲のメンバーに手渡ししていった。乱場もカトラリーケースからフォークとスプーンを取りあげて皆に配る。これで、盛り付けから使用する食器に至るまで全て、私たち外様の手だけによって配膳することに成功したことになる。調理段階から河野と朝霧がついていてくれたことも鑑みれば、とりあえず、この朝食に何かしらの薬物が混入されていることはないと考えてよさそうだ。が、私は念のため、火櫛と霞の動向を横目で窺う。テーブルで一番に料理に手を付けたのは、その火櫛だった。オリーブオイルをかけたサラダを数回口に運び、ソーセージや目玉焼きも囓っていく。


「……遠慮しないで、どうぞ」


 未だ食事を始めない私たちを火櫛が見回す。それを契機に、いただきます、と私たちも朝食にありつき始めた。


「この目玉焼き、最高だな」と汐見が箸で目玉焼きの黄身部分を真っ二つに割って、「見ろ、この割っても流れ出ることのない、かといって固くぱさぱさになってもいない、絶妙な黄身の半熟具合。キング・オブ・目玉焼きの神髄をここに見た」

「それ、私が焼いたのよ」


 河野が嬉しそうに微笑む。


「さすがです! 河野さん」


 汐見は歓喜しながら、醤油をまぶした目玉焼きを頬張った。

 そこかしこで軽い談笑も始まり、本格的に朝食風景が開始された、が、高井戸ひとりだけが、未だ目の前の料理に手を付けていなかった。


「どうしたの?」


 その彼に横から声が掛けられる。隣席している霞からのものだった。高井戸は「い、いえ」と言葉を濁し、手の中で弄んでいたフォークでソーセージを串刺しにすると、覚悟を決めたように齧り付いた。それを見ていた霞は、


「心配しないで。毒なんて入ってないから」


 顔を近づけて囁いた。「むぐっ」と高井戸はむせる。その様子を細めた目で楽しそうに見て、うふふ、と笑った霞は自分でもフォークを操り、ゆっくりとサラダを口に運び始めた。

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