(3ー1)
偉い人は、一番上にいるものだ。単純明快にして、万物全てに当てはまろう理論。それに則れば、建物の最上階。どこまでも青空が広がる屋上にて、椅子に座る人は下たる私たちが敬うべき相手に違いなかった。革で出来た椅子は一人掛け。重厚感がある広々とした机もその方以外が使うことはない。身にまとうのはシンプルなスーツにせよ、シワが一切ない生地の艶がよく出ており高級なものであるのは明白。
貧富の差などそうない時代において、その方は極端だった。見目麗しくいられるが、この場に来るまでに様々な努力を積み重ねてきたに違いない。努力に比例して結果を得たその方ーー本城海こそ、図書館『フォレスト』の司書長にして上位聖霊『ブック』のネイバー。私含め、この図書館に勤務する人たちが皆須く頭を下げるべきお人ーー
「ごめんねー、雪木ちゃん。わざわざ、売店のシナモンロールを買ってきてもらっちゃってー」
なのに、今現在、私は彼女に頭を下げられていた。
「いえ、お呼びだしついでですから。どうぞ」
「ありがとう、助かるわー。一階の売店まで行くのは骨が折れるのよー。きゃあ、これよこれよ!もう、毎日これを食べなきゃやっていけないのよねー。朝、昼、晩欠かしたことはないわー。あ、雪木ちゃんもどうぞ。それとこっちがシナモンロール代」
代金とシナモンロールを一つ貰う。その間、司書長はコーヒーを淹れていた。
「ほらほら、雪木ちゃんは座りなさいなー」
私がっと、言う間もなく訪問者用の机にコーヒーを置かれてしまった。お礼を言い、ソファーに腰をかける。本来ならここは、会議に使ったりするテーブルなのだけど。文句も言えるわけもなく、コーヒーをいただく。おいしい。
「暑くはないかしら?聖霊たちに頼んで、ここの気温と湿度は常に快適値に設定はしてあるのだけど。そよ風もつけちゃう?」
「大丈夫です」
外壁がなく、天井さえもない屋上では、常に聖霊の天候操作が行われている。雨が降っていても、スポットライトを浴びたかのようにここだけは晴れのこともあるし。天候操作の聖霊と直通電話で連絡出来るそうで、司書長の気分次第で気温の上げ下げ、風量の調整までも可能。それを羨ましいとは思わない、むしろ当然だろう。
「あらやだ!鳥がシナモンロールを狙っているわー!」
外で仕事をしているんだから。しっ、しっ、と鳥を追い払う司書長。「まったく不便ねー」と言いながら、どこかに連絡している。
「中で仕事をすればいいのではないのですか……」
「それも一度考えたのだけど、大概、私って出張でいないでしょー?あんまり使わないのにわざわざ作ることもないかと思って。それに蔵書の数も多くなってくるし、私の執務室を作るなら本たちの部屋を作るべきじゃない?」
上空を飛び交う鳥たちが突風で飛ばされる。可視化された風ーー螺旋を描く白い線がニッコリマークを作り、去っていった。
「あんな風に不便なことも聖霊たちが解決してくれるし。ただ、次からは図書館建設時の際、司書長室は屋上以外でってアドバイスするかもしれないわねー。やっぱり、見てくればかりを気にしてちゃダメなのよー。大事なのは中身だわー」
実用性が大事だと、司書長は腰を叩きながら「よっこいしょ」と自身のいるべき場所に座る。司書長の年齢は不詳だ。見た目からして30代とも言えよう美貌。しかして中身は野々花曰く、『老齢』とのこと。上位聖霊と交流があることから、何かしらの恩恵を受けているのでは?との噂もある人だが、ともすれば、先述の言葉にどういった返事をすればいいのか分からなくなる。
「あの、司書長。それで、お話しがあると聞いたのですが」
シナモンロールのおつかいは、ついでだ。大概、司書長からの指示は電話のみだがこうして呼び出されるからには何かしら重要なこと。ーー聞いておきながらも、予測はしていた。
「『そそのかし』の件なの」
にっこりと、先ほどの風の線のように綻んだ口と目元だった。
「この前、シンデレラの事件があったでしょう?報告書には、『そそのかし』は関与していないことになっていたけど」
「はい。シンデレラ、並びに登場人物に聞きましたが『そそのかし』は無関係なようでして。事件の原因は、報告書記載通りに『シンデレラの性格』から発生してしまったものです。以降、こんなことがないように口頭での注意のみとし、本件は終了となっています」
物語界でトラブルがあった際は必ず問題内容、原因、対処、対策といった報告書を記入することを義務づけられている。提出先は上司であって、そのほとんどは出張が多い司書長までには行かないものだけど。彼女がシナモンロール片手に見ている紙は、紛れもなく私が書いたものだった。
「雪木ちゃんの性格がよく出ている文字よねー。真面目で責任感が強いからこそ、仕事も多く任せられるわー」
「評価して頂き、ありがとうございます」
「ええ。そんな真面目な雪木ちゃんに質問があるのー。『そそのかし』について、どこまで知っているのかしら?」
動揺が指先に出てしまった。持っていたカップを音を立てて置いてしまう。
「どこまでって……」
「野々花ちゃんから、何か聞いているんじゃない?」
「……」
言い方からして、やはり『そそのかし』を極秘事項扱いしているのは間違いないか。素直に聞いたと言えばいいのだけど、話してはいけないことを話したとして野々花に何らかの処罰が下るのではと友人心から庇ってしまいたくなる。そんな私を見てか、ふふと司書長は笑った。
「そう怖がらないでちょうだいよー。というよりも、その反応で分かるわ。あなたは顔に出やすいのねー」
「勝村司書にも、同じことを言われました……。勝村司書は決して悪意を持って話したわけではないので」
「ええ、ええ。安心して。それに野々花ちゃんがあなたに話した段階ではまだ極秘事項になっていなかったのよ。セーフ。野々花ちゃんから『そそのかし』を預かった後にあった司書長たちの集まりでの決定したのー。あ、だからこれからの話も内緒よー。野々花ちゃんにはもう言ってあるからー」
「それじゃあ、勝村司書が持ち帰ってきたのがーー」
「初めてよ。私もびっくり」
びっくりには似つかわしくない表情は、来たときより変わっていない。安心出来るし、信頼出来る上司なのだけど、どことなく彼と同じで心が掴みにくい人だった。
「本当だったら、こんなイレギュラーが発生した時点で、図書館の運営をやめるべきなのだけど。虫を持ち帰って来られるとなっただけで、『それで?』と思う司書長が多くてねー。『訪問』をしたお客さんの誰一人として、『そそのかし』を見た人はいないのも問題視されない点よねー。何かあったらどうするんだー、って意見もあるけど。今の時代、何かあったら何とでも出来ちゃう世の中でしょ?どんな危険も軽視されちゃうのよ。『何かあったら神頼み』が言葉通りに出来ちゃう時代よね。昔はお百度参りだなんて、裸足で参道を行ったり来たりしていたものだけど」
何かを壊してしまっても、元通りにしてもらえる。病にかかってしまっても、治してもらえる。何かあっても、大丈夫。そんな単純な公式が出来てしまうのも、聖霊の力があるからだった。それだけ世の中は平和で生きやすくなったということなのだけど。
「また顔に出ているわ」
「すみません。何があっても大丈夫なんてこと……、ないのに」
私は、その公式が好きではなかった。何があっても大丈夫。つまりは、何があっても平気だと今あるものを軽視しているように思えて。本当に大切にすべきことを見失っている気がする。当たり前のように持っていたものが、ある日突然なくなってしまう恐怖すらも塗りつぶされていく幸福(大丈夫)な日々。それを恐ろしいと思ってしまう私はーーきっと、“体験者”だからなのだろう。
「そんな顔をしないで、雪木ちゃん。『そそのかし』の究明はもとより、何かある前に対処出来るよう、私も尽力を尽くすわー。こう見えても私、司書長たちの中では古株なの偉い方なの!もしかしたら、近々お仕事がお休みになるときが来るかもだけど、その時は図書館スタッフ全員で旅行にでも行きましょうかねー」
励ますかのような司書長の口振りには笑ってしまった。権力を振りかざすことなく、誰にも分け隔てなく優しい司書長。だからこそ、図書館運営の要たる上位聖霊『ブック』とも懇意に出来るのかもしれない。
「それでね、これからが本題なのだけど。『そそのかし』が持ち帰れることを知っているのは、この『フォレスト』であなたと野々花ちゃんだけなのよねー。もちろん、後から司書統括の子にも話はするけど、あの子も忙しい子だからなかなか物語界に回せないのよねー」
困ったわーと、頬に手を添える司書長に言うべきことは決まっている。
「私に出来ることならば、誠心誠意努めさてもらいます」
待っていたと言わんばかりに司書長は手をたたき、うんうんと頷く。
「頼もしいわー、雪木ちゃん。野々花ちゃんにも頼んだのだけど、同じように返事されちゃって、私は良い子たちに恵まれているわねー。もしも『そそのかし』のことで何かあったら教えてね。ああ、無理に持ち帰ってくることはないわよ。サンプルは一匹いれば十分だからー」
野々花が持ち帰ってきた『そそのかし』は司書長に渡されたはず。その後の司書長たちの定例会でお披露目はしただろうから、今こちらの世界にいる『そそのかし』は研究所かどこかにいるのだろうか。察した司書長が、引き出しから赤い布を被せた箱を取り出した。
「え、まさか」
「そうよー。この中にいるのー。見たい?」
手のひら大の黒い芋虫。想像するのも鳥肌ものだが、怖いもの見たさ、野次馬根性が働き、頷いてしまった。オープンー、と気の抜けた言葉と共に赤い布が取り払われる。布の下はガラスケースだった。虫かごよりも一回り大きいガラスケースには、うねうねとする虫が一匹。引きつった悲鳴をあげてしまった。目をそらしたい気分に駆られたのに、一向に留めていたのは。
「手……が」
口のみがついた頭より少し下、五本指の手がついていた。指も手のひらも丸々として、しきりに何かを探すかのように動かしている。
「赤ん坊の手、みたいでしょ?」
黒い見た目もあって成長途中のオタマジャクシみたいだと思ったけど、司書長がそう言うものだから赤ん坊にしか見えなくなってきてしまった。頭から尻尾まで寸胴の芋虫のはずが、大きさだけでなく形状まで変え始めている。
「勝村司書からは、手のひら大になっていたとしか聞いていなかったのですが」
「また成長したのよ」
ガラスケースの蓋が開けられる。ぎょっとする私をお構いなしに、司書長は『そそのかし』を手のひらに置き、撫で始めた。
「あ、あの!」
「安心して。こっちの世界に来ても、この子たち『口だけの生き物』みたいだから」
『そそのかし』の口の形状は人間と似ていて、歯がなく、舌のみがある虫だと広まっているものの、司書長に向かってぼそぼそと話す虫には乳歯のような白い突起物がはえていた。ますます、人間の赤ん坊に見えてきてしまう。
「平気、なんですか……」
「言ったでしょー?大事なのは中身だって。結構可愛いものよ」
『そそのかし』の手が司書長の首に伸びる。そのまま抱きつき、肩上まで移動した。司書長を『そそのかす』つもりかと思えど、当の人は笑いながら頭を撫でている。「うふふ」と母親そのもので虫と接する司書長。醜悪と戯れるさまは異様であるが、大事なのは中身と思えば可愛くも思え、て。
「し、司書長!な、なにか、虫から粘液みたいなのが!」
「ああ、よだれかしらー?撫でられてきもちよくなっちゃったのねー」
お口フキフキをする司書長の趣味には賛同出来なかった。
「やあねー、赤ん坊と同じよ。あなたも旦那さんと結婚して赤ん坊を産んで、お世話しなきゃいけないのよー」
「か、彼は旦那ではありませんっ」
「え?」な顔をされ、しまったと思った。この前の野々花の一件もあったせいで、旦那のワードでセーレさんを勝手に思い浮かべてしまった。司書長はセーレさんの話題を出したわけじゃないのに、自ら墓穴を掘ってしまった。
「あ、ああー、やっぱり結婚決まったのね!彼との子供なら美形間違いなしねー!」
「か、からかわないで下さい!だ、だいいち、彼は聖霊で、本の中にしかいなくて、で、できるか、ど、う、かも……」
墓穴に入りたい……。顔が赤くなっていくのを自覚してしまい、顔を逸らした。もうこの話は止めにしてほしいけど、耳に届いた含み笑いは追撃予告だ。
「そうねー。聖霊と人間の子供は聞かないわけじゃないけど、なかなか出来にくいのよねー。ま、彼は人型だし無理はないんじゃないかしら?プラトニックを貫くのもいいけど、聞くところによると彼ってかなり情熱的じゃそうじゃないー?物語界に行く度、クタクタになって帰ってくるあなたを見ればもうそろそろかしら?って思っちゃうわー!」
「変な意味で捉えないで下さい!」
「あら?情熱的な告白から何とか逃げようとしてクタクタなんじゃないのー?どんな意味かしらー」
「失礼しますっ」
「冗談よ、じょーだん。ふふ、本当にあなたは可愛いわねー」
本当に人をよくからかう人だ。憤りの域まで達するも、ほんわかな笑顔を向けられてしまえば肩の力も抜ける。
「さて、『そそのかし』はこうして私が預かっているから、無理して持ち帰ってこないでねー。お母さんはこれ以上、赤ちゃんの面倒を見ることが出来ないからー。母子家庭で忙しいのよー」
冗談めいた棒読み口調で『そそのかし』をあやす司書長。シナモンロールまであげていた。危険回避がため、これ以上こちらに未知を持ち込むなということだとはよく分かる。
『そそのかしは、こちらの世界にまで“来よう”としている』
野々花の言葉を思い出す。司書長に飼い慣らされたかのような『そそのかし』が、今々何かしようとする素振りはない。けれども、明確なる成長は何を意味しているのか。未知だから殺せとまでは思わない。危険であるかどうかの判断はその時が来なければ分からないし、その時に向けて出来うる限りの対処をするのが先決だ。
彼に言わせたら、甘い。と言われることだろう。自覚はしている。手遅れになる前に何とかしなきゃと気を急いているのも事実だが。だからといって、“そう思うから殺す”なんて身勝手な理由で命を摘み取るわけにもいかない。命の蘇りは、今の世でも出来ないのだから。万能たるかの方でも叶えられないーーいや、“叶えてくれない”死者の蘇り。
「この子が怖いかしら?」
「司書長の身に何かあったらと考えると」
怖かった。見知った人がいなくなるのは。命は多数だ。『そそのかし』の命に視点を向けた矢先、今度は司書長の命にも。さらに言えば、野々花や図書館スタッフ、訪れる子どもたちにまで何かあったらとーー気を急いているのはそのせいだ。ならば元凶を消せばいいとの話になるが、それだとまた『出来ない』との振り出しに戻る。願わくば、『そそのかし』の正体が何であるか分かるまで手の届かない場所に置いてほしいのだけど。
「心配してくれているのねー。大丈夫よ。この子がどこまで成長するかを見届けたいのもあるから、こうして一緒にいるの。性善説ってあるじゃない?私、その言葉が凄く好きなのよねー。産まれたものは全て善き心しか持っていない。成長するにあたって悪しき心を学んでしまうから、善悪というものが出来る。なら、見方を変えれば、良い子に育てちゃえばいいってことじゃない?今、私がこの子にしているのはそれ。悪いことなんかさせないぐらい、いっぱいの愛情を注いでいるところ。人を『そそのかし』ちゃうのも仕方がないのよねー。この子たち栄養は、人の欲求だから」
悪いことをするために産まれたわけじゃない。いい言葉を聞いた矢先に、「え」と声を出してしまうことも聞いた。
「欲求、ですか?」
「ええ。見ての通り成長しているでしょ?シナモンロールで成長しちゃうのかしらー、なんてこともなく、色々食べ物を与えて育ててみたのだけど、大きくなることはなかった。時間経過と共に?とも考えたけど、それよりも試したかったことがあったからやってみたのー」
シナモンロールを食べた後も、ボソボソと話続ける『そそのかし』。うんうんと、司書長は頷きながら耳を傾けている。
「小指にも満たない小さな内からお喋り出来るなんて偉いじゃないー?それと同時に、どうしてこの子は『そそのかし』をしているのかしらとずっと思っていたのよねー?人か産まれた瞬間から呼吸をするように、この子が喋るのも生きるためーー生きて健やかに成長するために、『そそのかし』をしているのだとしたらー、って勘で『そそのかされた』通りに自分の欲求に忠実に動いてみたら、おててが生えてきたのよねー」
もう、びっくりよー。と『そそのかし』の手と握手する司書長にはなんと言葉をかけるべきか。賢いはずなのに、軽すぎて凄いとの表現が似つかわしくない。くじを引いたら当たりが出ちゃった的な感覚で未知の究明に大きく近付いているなんて。
「ちなみに、司書長はどんな欲求を……」
「内緒よー。これを言ったら雪木ちゃんに嫌われちゃうからー。でも、これ以上成長させるのはやっぱりまだまだ分からないことだらけだから自重するけど、行き詰まった時にはまた成長させてみるわー。今度は足が生えて、私の後をとことこ一生懸命ついてくる姿が見られるかもしれないじゃない」
赤ん坊で想像すれば可愛いことこの上ないが、手足生えた黒い芋虫がどこまでもついてくるなんて恐怖じゃないのか。いえ、大事なのは中身には全面的肯定ですけど。
「だから、私の心配はノーセンキュー。もしもの時は、『神頼み』しちゃうからー。あらやだ。私もこの時代に染まってしまってるわねー。何かあったら遅いというのに。でも、結局は誰かがやらなきゃいけないじゃない?『その時』に向けての対策を講じるに経験者が必要だと思うのよねー。愛情いっぱいに育てているから良い子のままでいると思うけど」
「何かあったら……」
「何とかするわ。私にはその力があるのだから」
上位聖霊と懇意にしているからこそ出る自信。頼もしいことこの上ないが危うくも思える。本来ならば止めるべきなのに、確かにこの人以外適任はいないと認めてしまう。ここで私がやると挙手したところで、私ごときでは『その時』に対応出来る訳がない。彼の顔が過ぎるが、私の勝手に付き合わせるわけにもいかない。司書長は遠慮なく上位聖霊を頼るつもりだけど、私と彼はーーそこまでの仲じゃないんだ。
「……」
「こっちのことは何とかするから、雪木ちゃんは物語界でのことをお願いね。『そそのかし』の成長の仕方ーー栄養分が分かった以上、耳を貸してしまった人の近くには絶対に成長したこの子たちがいるはずだから。今までそれほど目立った成長をしなかったのは摂取量の違いなのかもしれないわねー。仮にも大きな欲求ーー“何をしてでも物語の先に行きたい人”がいたとすれば危険を伴うかもしれないわ。そんな悪い物を食べちゃうこの子たちもだけど、そんな願いを持ってしまう人自体もまたとても危うく、出会った『その時』には」
何があるか分からない。生唾を飲む思いとなるが、司書長はそれに苦笑で返す。
「ごめんなさいねー、脅かしちゃったみたいで。あのね、私が『そそのかし』の件を司書統括の子ではなく、あなたや野々花ちゃんに任せた理由はーーあなたが私にこの子を任せても大丈夫と思ってくれたのと同じことなのよ」
つまりは適任適任。何かあっても何とかしてくれると思ったから。野々花に関しては紛れもない実践派だからだろう。冷静に物事を思案し、迅速に対応が出来る。自分の身は自分で守って、それ以上に周りが傷つこうものならば我が身を以てーー“我が身を案じながら、周りを案ずる”という考えの持ち主だ。いつに活躍するかも分からない刀を常に持ち歩き……いや、六本も携えているから趣味も大半だけど、“そんなことを想像”しているからこそ鍛錬も欠かさず行っているらしい。いつ如何なる時でもーー『その時』が来ようとも、むしろ待っているかのような野々花にはうってつけの申し出だ。
そうして、私と言えば。
「彼が、いるからですか」
先刻、彼を付き合わせるわけにはいかないと思ったばかりなのに。
「そうね。彼、始終雪木ちゃんにべったりだそうじゃないー?ヒロインのピンチにヒーローが助けるのは望むべき展開だわー」
「私は彼がいなくとも……!」
続きに、詰まる。彼がいなくとも、私に何が出来るというのか。無能な頑張り屋さん。そんなレッテルの上から、彼がいることで有能という文字が貼られているこの私に何を期待しろというのか。司書長が期待しているのは私ではなく、彼なんだ。仮にも彼が別の相手をーー
「彼はあなたがいなくては駄目なのよ」
「っ……」
だからーー“あなただから”頼んでいると司書長は言う。
「あなたの有能ぶりは彼がいるからこそ成り立つ。そう思う人も少なからずいると思うけど、そんなの実際にあなたを前にしたら誰もが言わなくなるわよ!異例のスピード出世に司書統括の子から散々まだ早いだなんて言われて来たのだけどね、今はぱったりと無くなったのよねー。あれはね、あなたが一生懸命やっている姿を見て『任せられる』と思ったからなのー」
てっきり司書長の性格からして諦めたと思っていたことだったけど、事実は違うと当人は続ける。
「雪木ちゃんの頑張りは誰もが認めているのよ。例え結果がついてこなくても、そこをサポートするのが私たちの役目。サポートしたいって思うほどあなたが頑張るから、私たちもはりきっちゃうのよねー。たまには休んでもいいのよ?なーんて、思っちゃうほどなんですものー。あなたはそのまま頑張りやさんでいてね。何かあっても周りがーー特に彼があなたについているから。彼もまたあなたに頼られたくてウズウズしているはずよー?男の甲斐性を奪っちゃ駄目よ?」
いつの間にか、司書長の手が私の頭を撫でてきた。子をあやすそれだが、悪い気分はしない。もう成人したのに、社会人なのに、けれど認められていたことが嬉しく口元が綻んでしまう。無能な頑張り屋さんのレッテルは私が勝手につけたもので、その周りには温かな言葉で埋め尽くされている。
「かわいいお顔が大変なことになってるわねー。どうする?午後からのお仕事お休みにしましょうかー?」
甘やかしてばかりな人には、いえ大丈夫ですと返す。
「午前中に半休を頂いたばかりなので」
「あら、そうだったの?ーーああ、今日は確か」
図書館に戻る前に行ってきた場所。事情を知る司書長は初めて、笑顔を崩した。どこまでも悲しそうな顔で。
「本当に命は尊いものね」
ぽつりと、こぼされた一言がとても重く感じられた。消えたと思っていた線香の残り香が鼻を掠める。小さい頃はこの匂いがーーお墓に関連することが嫌で仕方がなかったのに、時は全てを変えていく。約束された幸福の日々で薄れそうになるからこそ、月命日には必ず行くーー両親のお墓。
ひどい話で、あれほど散々泣いたのに、今やお墓参りに行っても涙を流すことはなかった。両親を亡くしたのが三歳の時というのも悲しみが薄れていく原因なのかもしれない。記憶の底にはしっかりある。組み上げれば泣くことも出来よう。けど、日常においてふとした時にそれが浮き上がってくることはなくなった。私も生きなきゃいけないんだと、成長してしまっているから。時が経つとはそんなことだ。残酷ながらも、成長(生きる)のためには欠かせない要素。泣いてばかりの人生は辛いんだ。
「あの、本当に大丈夫なので。ご迷惑おかけしました」
『今を生きる』とはこのことであり、言葉だけでは成り立たない。だからこそ、更なる期待に応えようと、司書長にそう返す。
「彼の苦労が分かるわー。雪木ちゃんはもっと甘えてもいいのに。本当にお休みじゃなくていいの?」
心配そうな顔には心配要りませんとしか答えられない。命日やお盆にはがっつりと休みを貰えているのだし、月命日で半休を取らせてくれるだけでもありがたいだろう。早速、仕事に戻りますと伝えればーー心配そうな顔が、晴れる。
「じゃあ、雪木ちゃん。早速なんだけどー」
本当に早速、便利屋ならぬ頑張り屋としての勤めを果たせそうです……。