(4ー3)
鬼が出るか、蛇が出るか。
何が来てもおかしくない世界に飛び込んだつもりでいたが、目を開ければ人々が住まう平和な街並みが広がっていた。
果物やパンなど露店が並ぶ通りの真ん中で辺りを見回す。特に変わったところはない。起きない女の子の物語に“割り込み”をしたため、近くにその子がいても良さそうなものだが、それらしき子どもはいなかった。
「すみません、図書館の方ですか?」
声をかけてきたのは、子連れの女性だった。果物が入ったカゴを腕に下げ、神妙な面持ちで話しかけてきた。
「はい。図書館『フォレスト』の彩坂雪木と申します」
「図書館の方がいらしたなら、もう物語が進んでいないのをご存知なんですよね?『笛吹きさん』はどうなりましたか?」
トラブルシューターとしても認知されている図書館職員。それが来たとなれば無論、起こっている問題を解決してくれると思うだろう。
しかして、こちらとしては初耳の情報があった。
「物語が進んでいない?」
「ええ。ネズミたちが湖に行き、次は子どもたちがというところなのですが……」
「ふえふきさん、やりたくないってないてたの」
お母さんの言葉に続けて小さな少女は言う。
「ふえふきさんはやさしいから、やりたくないって」
「この子もまた湖に行く予定なのですが……。物語が壊れないように、またこの子と出会うためにも必要なことではあるんですが、ここ最近、笛吹きさんは泣いてばかりで。母親として子どもを湖に行かせるのは嫌なことではありますが、笛吹きさんの様子を見ると“誰も悪くない”のだと、物語を進めようと私や、街のみんなも思っています。けど」
肝心の笛吹きさんがそのことを拒絶している。
物語が停滞しているからこそ、『訪問』をした女の子はここにいるのか?ーーそれでも、あちら側から起こすことは出来るはず。
「分かりました。とりあえず、笛吹きさんに会ってみます。彼はどちらにいますか?」
「はい。多分、湖の近くかと」
あの森林の、と瞳が向かう先を私も見た。
街の裏手か、鬱蒼としげる緑の群生。絵本の世界ではよくある風景だが、何故だか物々しい雰囲気を受け取ってしまう。
親子にお礼を言い、歩く足だが、ふと違和感を覚えた。
「……」
彼が、いない。
いつもならばすぐに来るセーレさんの姿がどこにもないのだ。彼が私の『訪問』を何を持って知るのかその原理は不明だが、ともかくも“来たら来る”といった法則は出来ている。
「まさか、もう……」
ここに来ていて、何かしらのトラブルに巻き込まれてしまっているのか。別の物語界にいる可能性も否めないが、図書館において前代未聞の騒動が起きているこの状況。セーレさんが対処に回っていてもおかしくはない。本人は認めてないが物語の住人たちに愛されている彼だ、きっとまた。
「っっ!」
気づけば歩く足が走っていた。湖までの道中ーー絵本らしく目的地まで一本道を駆ける。早鐘となる心臓は走っていたからか。違うと分かるのは息が止まりそうになっても足を止めなかったから。
「セーレさん……!」
焦燥と不安。早く行かなければ、“手遅れになっては遅いんだ”。
「くっ……はあっ」
湖が見えた。そうしてーー
「ーー、雪木!」
目を丸くして私を見る彼と。
「『そそぎ』?」
相対するかのように立ち尽くす青年。
大木に手をつき、息を整える。あっけらかんとしている二人に対して自身の疲労が無意味とは思わない。
「なんてもの、持っているんですか」
いつも私を抱きしめる彼の手には一本の斧が握られていた。湖近くで斧だなんて、木こりの絵本ではないのに。
「何度も言ったじゃないですか、武力行使はやめて下さいと」
冗談めいた言葉で話すのはこの空気に呑まれないためにもだった。いつもの空気を。何だかんだ言いつつ私にも物語の住人にも優しい彼を求めて出た言葉だけど。ーーそれらを分かった上で、彼は首を横に振った。
「悪いが。もうこいつはーーウィルは後戻り出来ない場所まで来たんだ」
ウィルと呼ばれた青年は、彼の言葉に肩をすくめて笑った。
「酷いな、セーレ。今更……今更だよ。さんざん僕が『終わらせてくれ』と言ったのに。“こんなことをして初めて”、殺そうとしてくれるだなんて」
こんなことをしてと目配せする視線の先には大きな洞窟があった。その入り口にたれかかる少女ーーこの世界に『訪問』し起きない少女がいた。今すぐに安否を確かめたいところだが、それは彼に止められる。あいつに近づくなとした腕と共に言葉が投げかけられた。
「安心してくれよ眠っているだけ。大事な交換材料だからね」
クスクスと笑うウィルの顔だが、その笑いはひどく枯れきっているように見えた。聞こえる声すらもか細く、今にも軋みをあげて折れそうな枯れ木の体で、ウィルは引きつった笑い声をあげていた。
「セーレと図書館の人が来てくれるように、この子には手伝ってもらっただけだよ。傷つけるつもりなんかないーーああ、でも。そうか」
私とセーレさんの様子を見て、そうかそうかと。
「“良かったね、セーレ”」
物語の住人たちから口々に聞いた祝福の言葉のはずが、ウィルが発する音には憎悪が含まれていた気がした。
「『未来には期待しておくものだ』。とは、君の言葉だよな、セーレ。正にそれを証明したのだから、君は本当にすごいなぁ。絵本の中の決められた奇跡じゃない。そんなことが本当に起こるだなんて」
言葉は賛辞。唇は綻び祝福を。しかして彼を見る眼差しは凍てついていた。その眼差しは、彼だけでなく私にまで向けられる。
「図書館の誰かが来ればいいと思っていたが。まさか君が来てくれると思わなかったよ。ーー雪木ちゃん」
「……え?」
ウィルの名呼びに虚をつかれた。彼が私の名を呼んでいたのだ。ウィルがそれを知るのも不思議ではない。
けれど、その音。初対面ではない、まるで昔から知っていたような。
思えば、このウィルという青年は彼のことも『セーレ』と呼んでいた。絵本の住人たちは皆総じて彼を『聖霊さん』と呼んでいるのに対して。ウィルと彼はそれだけ親しい仲で名前を教え合っているにせよ、どうにもそれだけじゃない気がして。
「いい加減にしろ、ウィル。その子供をこちらに渡せ」
考える頭を遮るように彼の言葉が耳に入った。
「いい加減にしてほしいのは君の方だよ。何度言ったら分かるんだ。返してほしかったら、僕の願いを叶えてほしい」
彼が舌打ちをする。私が来る前から彼らは話し合いーー取り引きをしていたのか。あの少女が交換材料と言っていた。言うなれば、人質。先の言葉を辿れば、セーレさんだけでなく図書館にも関わる取り引きではあるが。
「いったい、何が望みなんですか」
枯れ木が笑う。
三日月の唇はただ一言。
「ハッピーエンド」
そう、口にした。端的に、ただそれだけ。“それだけなんだよ”と、ウィルは続ける。
「この絵本はね、ひどい物語なんだ。たくさんのモノたちが悲しみ、死んでしまう」
ハーメルンの笛吹き男。
繁殖したネズミたちの被害に悩まされていたハーメルンの街の人たちのもとに、笛吹きの男がやってきた。男は報酬を払うならばネズミたちを追っ払ってやると、街の人に言い、街の人はそれに頷いた。
男は笛を吹き、街のネズミ集め、森の湖に沈めさせた。街の人との約束を果たしたが、街の人は約束を破った。
怒った男はあくる日、街の子供たちもまたネズミたちと同じように笛の音色で連れ去り、湖にーー
この絵本の内容はそうだ。ウィルの言うとおりに悲しい物語でしかないが。
「絵本というおとぎ話の中でどうしてこんな物語があるのか、不思議でしょうがないよ。この絵本の原点となったものには、もっとマシな話になっていたのか、僕に知るすべはないけどね。この絵本を書いた作者を憎むよ。『おとぎ話ならば、みんな幸せになるべきだ』とね」
元来、童話というのは残酷なものが多い。それを現代の書物として発刊するにあたり脚色や改竄を果て、『めでたしめでたし』で終わるものも多いけど、中にはこの絵本のように悲しい話のままであるものも多い。
悲劇の物語。
喜劇や感動だけで涙が産まれるのではなく、純粋な悲劇もまた人々の胸を打つこともあるんだ。
求められる悲劇。
その中にいる住人の叫びまでは読者に届かなかった。
「僕らは役者だ。決められたストーリーを演じるための。知性豊かな王様も民を笑わせる愚者となり、気の弱い王子も怪物に立ち向かい、慈愛深い妃も我が子を谷底に落とす。やりたくないやりたくないやりたくない、のに……!僕らの人生は既に“完結してしまっているんだ”!始まりも終わりも決まっている中で生きていくしかない!」
既に、笑顔は消え失せていた。
悲痛たる叫びこそが悲劇に違いないはずなのに、これが物語ではなく現実となれば“見ていられない”。
「やっぱり、雪木ちゃんも可哀想だと思ってくれるか。なら、協力してくれるよね?」
私の表情を受け取ったウィルは、こちらに手を伸ばしてきた。『おいで』というよりは、『さあ』と促すように。
「セーレに言ってくれ。愛する君の願いなら聞いてくれるだろう。『現実の世界へ、連れて行ってほしい』と」
ハッピーエンドへの道を作れとウィルは言うが、先ほどからそれを聞いていた彼は「ふざけるな」と吐き捨てるように言った。
「俺を万能か何かと勘違いしているようだが、お前を現実世界に送れるわけがない!お前たちは絵本の中の住人たちだ。住人たちだけでなく、この世界の物全ては雪木たちの世界に存在など出来ない!送った瞬間にお前は……!」
「消えるから、送れない?」
「……っ!」
「セーレは本当に優しい。出来るのにやらないのは、僕が消えてしまうからか。やったことがあるよね?雪木ちゃんと出会ってから君はもう何度も、現実の世界に行こうとしているのだから」
彼の目が伏し目がちになり、過程、私と目があった。悲しげでありながらも、どこか悔いるような眼差しだった。
「責めないであげてね、雪木ちゃん。セーレは本当に君が好きで仕方がないんだ。絵本の住人たちを助ける傍ら、離れてしまう君を待ち続ける日々。いっそのこと、君をこの世界に閉じ込める力もあるのにそれをせず、ただただーー。はは、いい悲劇だねぇ。でも完結はしていない。いくらでもセーレが思い描くハッピーエンドになる可能性だってあるんだ。『生きていればその内、良いことがある。期待しておくものだ』が正に叶い、彼は更に幸せになろうとしている。
羨ましいよ、ひどく羨ましい……!期待通りになってーー“もう夜泣きをしない子が戻ってきて良かったねぇ”!」
ウィルの言葉が撃鉄となった。
その言葉の真意を考える前に、彼が駆け出す。
何とも聞き取れない言葉。獣のそれと同じように、本能に身を任せた彼は獲物に斧を振り下ろした。
「優しい、優しいな、セーレ。僕程度も殺せないだなんて!」
その一撃をいとも容易く受け止めるのは、同じ刃を構えていたからだった。真正面から堂々と受け止め、せせら笑う。
「受け止めやすい攻撃をありがとう。僕が怯えて腰を抜かすのを期待した?残念だね、これは期待通りじゃなくて!」
やせ細った身からは想像出来ない力で彼を押し返してーーいや。
ウィルと彼の体格差は明白だ。力押しで負けるわけがないのに、まったく真逆のことが起きている以上。
「手加減、しているの……」
それを愚かなこととは思わなかった。少女を攫う明らかな悪者であろうとも、彼にとっては大切な絵本の住人。表面上は素っ気ない態度ばかりだけど、みんなから愛されている以上、みんなを愛してしまった人を否定することなんて出来ない。
「……くそっ」
それは彼の葛藤の表れか。殺せる相手のはずが出来ず、かと言って引くわけにもいかない。
「せっかくの顔が台無しだねぇ。雪木ちゃんからの応援あれば、彼も僕を簡単に殺してくれるのかな。ああ、それでもいい。終わらせてほしいも、僕の願いの一つだから」
挑発的な態度は、“それ”が出来ないからこそできることだった。
枯れ木の青年は、私のことを知っている。
私がこんなことを望まないことを知っている。
必死に考えていた。何か案はないかと、最優先すべきは何か。何が最良か。無能な私に出来る唯一のことはーーそう、いつだって。
「私が代わりになりますから、その子を目覚めさせて下さい……!」
その場しのぎの解決策でしかなかった。
二度立ち向かおうとする彼の足が止まる。ぎょっとした顔をし、今にも私を怒ろうとした口だが閉じる。代わりに口を開けたのはウィルだった。
「愚かな英断をありがとう。何よりの弱者を救済するために、多くの強者を犠牲にするその精神を尊ぶよ。おかげで弱者は救われる側に立てるからね」
伸ばされた手は、今度こそ『おいで』の意味を乗せたものだった。
もう、言葉は出ない。自分が最善と思ったことは、後の場面において最悪のものとなるだろう。
悪魔のシナリオ通りに物語は進むのだから。
足を進める。迷いない一歩のはずが、彼の背中に遮られた。
「あいつを消せば、少女も起きる。この物語が崩壊する前に君と少女は元の世界に戻るんだ。俺の心配も必要ない」
これが最悪を免れる最善の策。もしもこの場に野々花がいたならば、彼女もまたこの解決策に至る。
彼とていよいよとなれば、一つの物語を消すことも出来よう。ーーでも。
「誰かが犠牲にならなければいけない物語を書きたくはないです」
命だけでなく、心もまた、結末の代価となってはいけない。
一つの物語を終わらせた彼の悲しみを癒せるわけがない。彼は一人でこの先永遠にその罪を背負わなければならなくなる。
「あなたも、私も、もっと意地悪になれば良かったですね」
冗談めいた口調で言ったのは、彼のせいではないと言いたかったから。その背中を横切る。止めの言葉は入ったが、鎖で繋がれたわけではないのですんなりと進められた。
「ようこそ、完結された悲劇へ」
その手を取ることはしない。払う真似はしないが、拒絶の色を言葉に込めた。
「あの子を返してあげて下さい」
「その前に君を眠り姫にしなければならない。自分の意思で簡単に戻ることが出来てしまうからね。あの子を解放した後、あちらの世界に逃げられては嫌なんだ」
「ここにいます」
「……。いいよ、セーレもいるし、君がこの結末を見ずに逃げることはないだろう。君はきっと、“見捨てはしないさ”」
斧を近くの切り株に刺し立てかけ、ウィルは笛を取り出す。一節もない音色を奏でれば、少女は目覚めた。キョロキョロと辺りを見回す少女。ウィルと目が合いーー
「もういいよ、ありがとう」
そう声をかけられるなり、女の子は頷き、姿を消した。
「悪魔に騙された哀れな少女だよ、あちらの世界で怒らないでやってくれ」
二人のやり取りを考える前にウィルはそう言った。
「さて、次のページに移ろうか」
言うなり、ウィルは私の首もとに斧を添えた。彼が今にも飛びかかってきそうな声が聞こえるが、何も起こらず、必死に歯を噛み締めるような気配を感じた。
「あなたの言うハッピーエンドとは、自分を殺してもらうことなんですか」
「言ったはず。それは昔の願いだよ。まあ、今の願いが叶わなければそれでも良いと思っていたけど。結末は決まった。セーレと、そうして『図書館』がいれば後はーー」
役者が揃ったと言わんばかりに、ここに来て新たなる役が現れた。物語の終盤には相応しい。全てに終わりを感じさせるものは、
「来い、『そそのかし』!」
怪物。
黒き異形が洞窟の中から群れを成してやってきた。
「なっ!」
もはやそれが『そそのかし』と呼べるモノかどうか判断もつかない。手のひら大のものなど一匹もおらず、群れるそれらは人と同等の大きさになっていた。
型は芋虫にせよ、あれほどの大きさであれば例えようがない。うぞうぞと、ウィルの号令一つで集まった怪物らは次の命令を今か今かと待ちわびている。
「お前がなぜ、これを!」
驚愕したのは彼も同じだった。
巨大となった『そそのかし』は見ていたが、こうして群れ、物語の住人に付き従うだなんて。
言うなれば『そそのかし』は絵本の住人たちを操っていたようなものではないか。願望という栄養素を手に入れるため、住人たちに近づいていた奴らが。
「そそのかして、やったんだよ」
その願望を見出された上で、ここにいる。
「『そそのかし』の話は聞いていた。どこからともなく現れる虫だと。僕のもとに来た『そそのかし』も同じだったよ。とても小さな虫で、こんなものに言いくるめられる奴の気が知れないと思った。あの時の僕はただただ、死にたくてたまらなかったからね。『そそのかし』とて、僕ごと消えてしまう前に別の物語に行けばいいものの」
その時のことを思い出したのか、ウィルは一瞬、目を細めた。
「湖に身を沈める時、そいつは言ったんだ。ーー『叶わないならば、終わりたい』って」
憐憫に満ちた目は、洞窟の闇の奥へ向けられ。
「いつも、『物語の先へ行け』と言っていた奴が初めて自分の想いを口にした。けどね、それは僕の思い違いだと悟ったんだ。最初からあれは、ただ自分の願いを言っていただけなんだ。それに触発されて動いた住人たちが栄養源になっていたのかもしれないが、成長してもあれの言うことはーー願いは代わらない」
水面が、草木が、大地が、揺らぐ。
洞窟の奥ーー闇から出て来たのは光に照らされようとも染まることない暗黒。
人の大きさがちっぽけに思える巨体は、白雪姫の物語で出会ったもの以上。
怪物ときたら、次は怪獣か。鎌首をもたげ、それは吠えた。
「『物語の先に行きたい』、叶わないならば死んでも構わない哀れな生き物なんだよ。だからこそ、そそのかすのは簡単だった。僕に従えば、連れて行ってやるぞ、とね」
文字にならない咆哮をウィルは代弁するかのように答えた。
「あなたは、いったい、なにを……」
「それも最初から言っている、ハッピーエンドだよ。そちらの世界の聖霊『ブック』に奇跡を起こしてほしいんだ。そうだなぁ、『笛吹き男は街のネズミたちを踊らせ、街のみんなと幸せに暮らしましたとさ』なんて物語がいい」
「そんなこと、聖霊『ブック』が……!」
「出来るわけがない?それとも、叶えてくれるわけがない?」
言葉に詰まったのは、後者だったからだ。
聖霊。人々に奇跡を起こしてくれる存在。そのおかげで、人間社会は豊かになりみんなが幸せになっているんだ。
聖霊がいない世界では、数え切れないほどの不幸な死が毎日のようにあって、途方もないほどの争いが続いていたという。
人々が真の平和を謡いながら、心では誰かを憎むそんな歪んだ世界を変えてくれたのが聖霊。
奇跡という現実の理不尽に左右されない改竄をもって、世界を変えてくれた。
上位聖霊たるものに願い事をすれば、きっと叶えてくれるだろう。しかしてーー
「そんなことをすれば、全ての悲劇を変えなければならなくなる!」
幸せに平等はつきものだ。天秤が傾くからこそ、均衡が崩れる。
過分なく、平等なる幸せを与えてきたからこそ今の現実社会があるんだ。
その均衡を自ら壊す真似を、上位聖霊たちはしない。だからせめて、心を持った住人たちが幸せに暮らせるように図書館がいるんだ。
「知っているよ、聖霊『ブック』はとても残酷だと。最上の幸福も、終わりも許さないわりに、中途半端に君たちを寄越して幸せにしてあげようだなんて、虫酸が走る善人だ。中途半端な善人だからこそ、取り引き出来るんだよ」
黒い怪物たちが、ざわざわと囁き始める。
『先へ先へ』と。
「まさか、セーレさんに道を繋げようとさせたのは」
「そうだよ、こいつらを送るためだ。セーレは僕が行くと勘違いしていたみたいだけど、安心してほしい。僕は消えない。人質が一人だけでは聞いてくれそうにないからね。絵本の住人全てを人質に取ったところで意味はない。一人でも殺せば物語は僕ごと消えてしまうから。聖霊『ブック』がいる世界に行って直接取り引きも出来ないけど、こいつらは違う。成長したあいつが教えてくれてね。自分たちは『物語の先へ行ける』と。何をしに行くのかまでは教えてくれないけど、こんな奴ら君たちの世界に行ったら大事になるだろうね。
中途半端な善人だ、きっと何とかしようとするに違いない。雪木ちゃんには伝言役になってもらうよ、聖霊『ブック』に伝えてくれ。僕の望みを叶えない限り、いくらでも怪物をそちらに送ると。道さえ繋いで貰えれば、セーレも帰っていいよ。この周回が終わらない限り君の能力は使えず、繋げた道は閉じられない。ごらんの通り僕は物語を進ませる気は毛頭ないしね」
「ふざけるなよ!物語が停滞すれば、崩壊だ!お前が言うハッピーエンドを目指す前、に……」
言いながら、彼だけではなく私も気付いた。
「どっちが先かな。ハッピーエンドか、デッドエンドか」
叶わないならば全てを終わらせる。
最初からウィルは、このために。
「そんなことをすればーー!」
続きを声に出せなかったのは、喉を絞められたからだった。息が止まるくせに、頭が風船にでもなったかのような。血液が沸き立ち、一気に引く。目の前が混濁する瞬間にーー解放された。
なんで、と思わなかった。
「ありがとう、セーレ!」
感極まったウィルの声。その声は湖に出来た深い穴へ風と共に吸い込まれるようだった。
ざわめく黒い怪物たち。押し合いながら我先にと行くその前に、彼がーー
「……え」
私の体を突き飛ばす。
宙に浮く体の背後に何があるかなんて、考えるまでもない。私に見向きもせず、怪物の群れに立ち向かう彼の背中はどこまでも雄々しいはずなのに。
「なんで……」
どうして、
「あなたはーー」
泣きたくなってしまうのか。
彼の名を呼ぶ。
私の名は呼ばれない。
ただ。
「逃げろ!」
最後まで彼は、私のことだけを考えてくれていた。
自分のことは後回しにして、本当は彼が一番。
『セーレさんは、もうだいじょうぶなの?』
泣きたいはずなのにーー!