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産廃水滸伝 ~産廃Gメン伝説~ 12 腐臭の谷  作者: 石渡正佳
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内部告発

 携帯が鳴動したので伊刈は番号表示を見た。非通知ではないが登録のない番号が液晶の窓に流れた。時計を見ると午前二時だった。一瞬迷ったが非常連絡かもしれないと思って着信ボタンを押した。

 「伊刈さんですか。自分小笠原商事の米沢です」

 「ああ工場長ですね。こんな時間にどうしたんですか。それになんで僕の番号知ってるの」

 「番号はある人から聞きました。明日の朝早くに現場に来られませんか」

 「早くってどれくらい」

 「五時頃にどうですか」

 「随分早いな」

 「会社が始まったらやばいもんで」

 「内部告発ですか。それなら電話で済むんじゃないですか」

 「現場を見てもらいたいんですよ」

 「わかりました。五時に工場でいいですか」

 「工場じゃなく猿楽町の三叉路がいいんですけどわかりますか」

 「わかりますよ。そこに五時ですね」

 「自分車は黒いワゴンRですから」

 「それじゃあこっちも自家用車で行きます。シルバーメタのパジェロです」

 「すいませんほんとに」

 電話を切ると半同棲中の大西敦子が不思議そうな顔で伊刈を見ていた。

 「誰から?」

 「仕事のタレコミってとこかな」

 「ふうん」

 「四時にここ出るから今日はこのまま起きてるよ」

 「大丈夫?」

 「徹夜の仕事は慣れてる」

 「危なくないの? 罠とかじゃない?」

 「まあ大丈夫じゃないかな」

 「じゃあたしも徹夜付き合うよ。頼まれてた翻訳の仕事まだ終わってないしちょうどいいよ」

 「三月で事務所のバイトほんとに辞めるのか」

 「伊刈さんも県庁に帰るんでしょう。そしたらもう居る意味ないから」

 「ほんとにスウェーデン行くのか」

 「ナチュラル・ステップってグリーンピースよりかなりまともみたいだからね」

 「ストックホルムまで会いに行ってもいいかな」

 「もちろんよ。何か飲む?」

 「じゃコーヒー」

 「夜中のコーヒーは胃に悪いよ」

 「じゃヨーグルトドリンク」

 「やっぱコーヒーにしようか」大西敦子は愉快そうに笑うと冷凍庫に入れておいた豆を出して電動ミルに入れた。コーヒー豆を挽かずに冷凍保存すると炭酸ガスが閉じ込められて劣化しなくなると伊刈に言われて始めた習慣だった。

 ようやく空が白み始めた早朝五時、伊刈は約束どおり米沢と猿楽町の三叉路で落ち合った。夜間パトロールを試行した時にはたびたび通りかかった三叉路の空地も今は雑草に覆われていた。米沢のワゴンRは猿楽町の畜産団地へと向かった。伊刈のパジェロがテールについた。久しぶりに走る道はかつては直しても直してもたちまち不法ダンプに荒らされてしまったが、今はそれほどひどい起伏もなくなっていた。ワゴンRはかつての嵐山の不法投棄現場に向かう途中で右手の林道へと折れた。その林道に入るのは初めてだった。左手に植生がはげている五メートルほどの高さのマウンドがあった。これは昔の不法投棄現場だと直感した。雑草に覆われた状況からすると伊刈が環境事務所に赴任する以前の現場のようだった。植物は地下の根の深さしか地上の茎も伸びられないので廃棄物の山には何年経っても高木が育たないのだ。もしも強アルカリ性の固化剤を混ぜた建設汚泥だとしたら酸性雨に洗われて表面が中和されるまでの数年間は雑草も生育できない。林道はなだらかな下り坂になり、奥に牛舎の廃屋が見えてきた。道路はそこで行き止まりになっていた。ワゴンRは廃屋の前に停まった。あたりは強烈な臭気を放つ真っ黒な汚泥で埋め尽くされていた。近付いてみるまでもなく小笠原商事の熟成ヤードで見た未熟成の肥料、いや未処理の食品系廃棄物に間違いなかった。出荷先もなく、保管場もなくなったのでここに移動していたのだ。これはもう不法投棄以外の何物でもなかった。米沢はそれを告白したかったのだ。

 「こっちへ来てください。足元が悪いですから気をつけてください」米沢は廃牛舎の裏手に回った。

 牛舎の裏の深い谷津には大量の黒い汚泥が流出していた。谷津を埋め尽くした泥の流れはまるで黒い氷河のようだった。ところどころに濃緑色の水溜りができていた。

 「いつからここに移動してるの」伊刈は米沢に向き直った。

 「二年前からです。入荷量が増えてからほとんど毎日ここに入れてました。出荷した量よりここに運んだ量の方がずっと多いんです」

 「どれくらいの深さに入ってるの」伊刈はヘドロの深さを確かめようと一歩踏み出した。

 「あっ危ない」米沢が警告したときは遅かった。伊刈の右足は太ももまで汚泥に潜ってしまっていた。もがいてももはや自力では抜け出せない底なし沼だった。

 「ムダに動かないほうがいいです。ゆっくり引き上げますから」

 「頼むよ」

 米沢になんとかひっぱり上げてもらったが革靴は持っていかれてしまった。泥にはまっていた右足はまるで蟻塚のようにどろどろだった。しかも経験したことがない強烈な悪臭を放っていた。

 「ちょっと待っててください。自分のでよかったら作業服の替えがありますから」米沢は車へと走った。伊刈は肥溜めに落ちたような自分の無様な姿に呆然と立ち尽くしていた。

 「わっどうしたの伊刈さん」

 ベッドから跳ね起きた大西はしょんぼりとアパートに帰ってきた伊刈を見て驚いた。汚れたズボンは棄ててきたのに、全身から異様な悪臭が発散していた。

 「底なし沼に落ちちゃってね」

 「どんな現場なの。とにかくシャワー浴びてよ。シャンプーも三回して」

 「三回?」

 「あと鼻の穴も耳の穴も洗ってね」

 「なんでそこまで」

 「そこに一番臭いがついてるからよ。あたし経験があるの。クジラの死骸が打ち上げられたときの臭いと同じよ。とにかく匂わなくなるまでシャンプーしてね」

 「クジラの死骸?」

 「それはもう死ぬかと思うほど臭いわ。今の伊刈さん、あの時以上かもよ」

 「ひどいなあ」

 「着てる服は玄関で全部脱いで、そのまま洗濯機に入れてね。すぐに洗うからね。あと車だけど」

 「わかったよ、車も洗えばいいんだろう」

「マットもよ」伊刈は大西の意外な手際のよさに呆れながらバスルームに向かった。

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