第4章
第4章
Y&Aが、急遽、秋に向けての販促用のリーフレットを制作する事になった。二つ折りのはがきサイズだから、複雑な内容は抜きで、モデルメインで見せていく。
時間がないので、スケジュールはかなりタイトだ。
ラフデザインが出来次第、撮影に入る。
モデルは、日本で活動しているアルムだ。
撮影場所は、今回も神戸。撮影は1日で終わるけど、2日間の出張扱いで行って来い、と社長。
社長のプレゼントは、仕事がらみの一泊旅行だった。
少し、せこい気もするけど、ありがたく頂戴する事にした。
初夏の太陽の光が降り注ぐ、神戸の港。
アルムの撮影は、順調に進んだ。
相変わらず、ポージングのうまさは超一流だ。カメラマンの要求通りの動き、そして、表情。この人が、私の恋人なんだと、誇らし気持ちになった。
撮影用の服は4パターン。コピーも最小限に抑えられているから、私の仕事は、ほぼ、撮影終了と同時に終わった。
スタッフに、お疲れ様と挨拶した後、その場にアルムとふたりで残った。
「アルム、お疲れ様。」
「渚も、お疲れ様。」
「暑かったでしょう。」
「暑いよ。」
「だけど、とってもよかったよ。いい写真が撮れたみたい。」
「モデルがいいからね。」
「カメラマンの腕がいいからね。」
「悔しけど、それも、ある。」
「今日は、聞き分けがいいのね。」
「モデルだけでは、何もできないよ。みんなの努力があるから、いい写真が、撮れる。」
「そうだね。」
「渚も、素敵なコピー、考えてくれた?」
「バッチリ。素材がいいと、言葉もスラスラ出てくるのよ。」
「僕が、かっこいいから。でしょ。」
「何、それ。みんなの努力は、どこにいったのよ。」
神戸の港に、夕陽が沈むのを、ふたりで見ていた。
夕焼け色の光が、ふたりを包む。穏やかな幸せが、心を満たしている。
結婚後は、 京都に住むか、大阪に住むか。
職場の近い大阪でいいよ、とアルム。
大学を卒業しても、大学に通うんだから、京都にしょう、と私。
お互いに、譲り合う。いつも、結論が出ない。
もどかしいけど、優しい時。私の大好きな時間。
この幸せが、ずっと、ずっと、続きますように。神様に、お願いした。
港の横に建つホテルに、チェックインを済ませてから、タクシーで六甲のドイツ料理のレストランに向かった。
キャンドルの揺れる、あのレストランに、またアルムと行けると思うだけで、胸がときめいた。
暗い山道には、夜景を求めてか、たくさんの車が行き来していた。
急な右カーブにタクシーが差し掛かったとき、前から大きく膨らんだ車のヘッドライトが目に飛び込んできた。タクシーの運転手とアルムが同時に、危ない、と叫んだ。
アルムが私をかばうように、頭から抱きかかえる。
ぶつかる、 強い衝撃を感じた直後、私の意識がなくなった。
全身の痛みで、目が覚めた。
見たことのない部屋で、私は寝ていた。
辺りを見回す。白一色の部屋。私の手首につながっている点滴。ここは、病院だ。
六甲の山道で、乗っていたタクシーが、前から来た車と衝突したことを思い出した。
事故の記憶は、全くないけど、ケガか何かで、この病院に運ばれて来たらしい。
どうして、誰もいないの?横に乗っていたアルムは、どこ?アルムは大丈夫なの?
ベッドから下りようとした。体中が痛い。痛みに堪え、ゆっくり時間をかけて、何とか体を起こす。
左脇腹と、左足に、燃えるような強烈な痛みが走った。
何?この痛み。おかしい、絶対、何かがおかしい。
体に掛けてあった、布団を取った。
左足が、なかった。
戦慄が、走った。体の震えが止まらない。
何、これ?足は?私の足は?何で、足がないの?
着せられていた、ガウンのような服を前で開いた。
左足の、太ももの半分から下がなかった。胸から腰にかけて、包帯がぐるぐると巻かれている。
腕を見る。かすり傷があるけど、ちゃんとある。
手で、顔を触る。絆創膏などは貼られていない。
私は、いったいどうなっちゃったの?
いやだ、いやだ。何なの、これ、何なの?
息ができない。苦しい。
ノックがあり、看護師が入って来た。
「目が覚めましたか?」
「どうなっちゃったんですか。足、後でつながるんですよね。」
「落ち着いて下さい。」
「そうだ、アルムは、大丈夫ですか?」
「男の方は、打撲だけで、お元気ですよ。」
「どこに、いますか?」
「ずっと、そばで看病されてたけど、今さっき、加藤さんのお母さんと、出て行かれましたよ。」
「よかった。無事なんですよね。」
「痛みは、ありませんか?」
「足、どうなるんですか?」
「詳しいことは、先生から説明をさせてもらいます。呼んできますね。」
涙が、とめどなく、あふれてきた。
タクシーが、右カーブを曲がる時、前からセンターラインを大きくはみ出した車が、追突。その衝撃でタクシーの左側面が山に激突したらしい。
後部座席の左側に座っていた私の左足は、シートと前の座席に挟まれた。
左足は、膝上から潰れてしまったため、切断しか、方法がなかった。
右からアルムが抱き寄せてくれたから、切断は、左足だけで、助かったらしい。
ただ、肋骨が3本折れていて、左胸下から腰までの間に、数カ所、かなり深い傷があるので、当分は、寝たきり状態が続く。
丸3日間、眠ったままの私を母とアルムがずっと、看病していた。
足がなくなったのは、辛いだろうけど、家族と彼のために、早く元気になって、安心させてあげなさい。
病室に来た、先生から話を聞いた。
アルムが、命を助けてくれたんだ。
でも、この足じゃ、歩く事もできない。
これから、私は、どうして生きて行けばいいんだろう。
助けて。誰か、助けて。
ノック。アルムが、入って来た。
私の顔を見て、アルムの目から、涙がこぼれた。
ベッドの横に立って、ごめん、と言った。
「アルムが、無事でよかった。」
「僕なんか、どうなってもよかった。」
「アルムが、助けてくれたって。」
「だけど、渚が。渚の足が。」
動悸が激しくなる。
「夢じゃ、ないよね。本当に、足、なくなっちゃったんだ。」
「ごめん。守れなくて。」
「アルムのせいじゃ、ないから。」
「でも、僕が、渚の方に乗ってたら、こんなことには、ならなかった。」
「事故なんだから。」
「僕が、代わってあげたい。」
「そんなこと、言わないで。」
「渚の足は、元には、戻らないんだ。」
「本当に?いや、いやだ。どうしよう。アルム、どうしよう。こんなの、いやだ。」
声を上げて、泣いた。
嘘だと、冗談だと、夢なんだと、言って欲しい。
アルムが、ベッドの上の私を、何も言わず優しく抱きしめた。
病院のベットで目覚めてから、何日も眠れな日が続いている。
なくなった足の事が、頭から離れない。
足を見るたび、涙が流れた。
どうにもならないんだ。誰も、何もできないんだ。
胸の下から腰にある無数の傷痕も、残念だけど、消えることはないと先生から聞いた。
入院中、たくさんの人が、お見舞いに来てくれた。
そして、様々な言葉をかけてくれた。
仕事関係の人は、必ず復帰しろ、ライターは、頭さえあればできるのだから。渚ちゃんがいないと、あの事務所は暗すぎて打ち合わせに行く気も起きない、と。
友達は、飲み助の渚がいないと、飲んでても楽しくないんだから。どんな方法でもいいから、私たちがついてるから、また絶対、旅行に行こうね、と。
そして、韓国からわざわざ神戸まで来てくれた、アルムのご両親は、息子のせいで申し訳ないと、頭を下げ、アルムは一生、あなたを支えていきます。韓国から応援しているから、どうか、以前の明るさを取り戻してください、と。
アルムは、大学に行かず、毎日、京都から神戸まで来てくれた。
でも、私は、足がなくなったと知った時からアルムと別れる事を、考えていた。
これから、リハビリが始まる。かなり辛いけど、頑張ろうと先生から言われている。
アルムは、いつまでかかるかわからないリハビリに、毎日付き合ってくれるだろう。
だけど、それじゃ、いけない。大学に行って、博士号を取って、卒業しなけらばいけない。
教授になる夢を叶えるために。
傷痕を見るたび、アルムは後悔する。自分が傷を負えばよかったと。そんなアルムを見たくなかった。
それに、今は好きでいてくれるけど、足のない私を負担に思う日が来るだろう。
負担になりたくない気持ちより、負担と思われるのがいやなのだ。
アルムは、命がけで私を支えてくれるだろう。でも、私は、アルムをきっと、支えられない。自分で立つこともできないのに、どうして支えていけるのか。
アルムには、片足の女は、似合わない。
アルムは、別れる事に、反対するだろう。
でも、これから、ふたりで苦し思いをして生きていくより、今だけ、悲しみに耐えて、乗り越えていく方が、アルムにとって、必ずいいはずだ。
朝、アルムが来た。体調はどう?といつもの優しい笑顔。
「大変だから、毎日、来なくていいのに。」
「渚の力になりたいから。」
「もう十分、アルムから力をもらった。」
「もっともっと、力になる。」
「アルム、話があるの。」
「何?」
「別れよう。」
「えっ?」
「今の私じゃ、アルムの力になれない。」
「力にならなくていい。」
「アルム、辛いでしょう?」
「何で?」
「アルムのせいじゃないのに、責任を感じてる。」
「渚を、守れなかった。」
「いいの。もう、いいの。」
「何で?」
「アルムには、やらないといけないことがある。夢なんでしょう、教授になるの。」
「夢より、渚の方が、大事。」
「私のために、夢をあきらめないで。」
「僕の一番の夢は、渚とずっと、一緒にいる事。」
「私の足を見るたび、ずっと辛い思いをして行くつもり?」
「辛くない。」
「私も、辛いの。」
「僕が、渚に辛い思いをさせているの?」
「このままだと、アルムも私も、だめになってしまう。」
「そんな事、絶対ない。」
「同情されたくない。」
「違う。」
「別れて。」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってる。」
「結婚、したい。」
「ごめんなさい。」
「辛いのは、僕じゃない。渚なのに。」
「ごめんなさい。」
静かに、アルムが出て行った。
ごめんなさい。許して。
そして、足をなくした時と同じくらい、声を出して、泣いた。
リハビリが、始まった。ずっと寝ていたせいで、筋肉が、ほとんど、落ちてしまった。
車椅子に座っても、車輪を回す事に、すぐ疲れてしまう。
右足が、以前の2/3ほどの細さになっている。
以前なら、片足立ちなんて、簡単な事だったけど、筋肉のない1本の足だけでは、片足で立つ事すら難しい。
それに、足が1本ないだけで、これほどまでに、体のバランスが取れなくなるとは、考えもしなかった。
先生は、焦らなくていいから、腕と右足の筋肉をつける事から始めようと、言ってくれた。
そして、足の切断面と、体の状態が回復したら、義足の事を考えていこうと。
先のことを、考えるだけで、大きなため息がでる。
アルムと別れてから、2か月が経った。
リハビリも順調に進んで、やっと、念願の退院日が決まった。
退院の日、母が荷物を持って来てくれた。
用意してくれた服は、もちろん、パンツ。
腰掛けながらだけど、自分で着替えもできるようになった。
靴をはこうとして、下を見ると、左右が揃ったローファーがあった。
母の顔を見た。はっ、と母が慌てて、右足の靴を、背中に隠した。
「違うよ。いらないのは、左。」
「ごめんね。気がつかなくて。」
母の目に、涙があった。
入院してから、母は、なくなった足を見ても涙は見せなかった。
「こっちこそ、ごめん。こんな体になっちゃって。」
「バカなこと、言うんじゃないわよ。」
母と抱き合って、泣いた。
「辛い時は、辛いって、ちゃんと言いなさいよ。」
「うん。」
「痛い時も、ちゃんと言うのよ。」
「うん。」
「こんなに辛いのに、どうしてアルムと別れたりしたのよ。」
「うん。辛いよ。」
「お母さんが、いるから、いつでも、泣いていいのよ。」
「うん。ごめんね。」
「渚が、謝る事なんか、何ひとつないの。」
「ありがとう。お母さん。」
神様に、ずっと幸せが続きますように、ってお願いしたのに。
もう、神様なんか、信じない。
久しぶりに、自宅に帰って来た。
自宅は、松葉杖でスムーズに移動できるように、所どころリフォームされていた。
被害者なので、いくつかの保険会社から、高額な保険金が出たらしい。
リフォーム代以外は、すべて私の通帳に入っていると言う。無理して、仕事なんかしなくても大丈夫だからね、と母が言った。
妹の七海が、急に優しくなっていた。
「お姉ちゃん、して欲しい事があったら、
何でも言ってね。」としおらしい事を言う。
「お姉ちゃんがアルムも別れたのは、辛い思いをさせたくないからでしょう。自分の方が大変なのに、なかなかやるな、って。これでも、結構、尊敬してるんだよ。」
ありがとう。七海。
自宅に帰ってからも、近所の病院で、リハビリを続けた。
左足以外は、元の状態に、やっと戻りつつあった。
ある日、先生から話を聞いた。
時間がかかったけど、もう義足を装着できると。
今は、普通に歩いても義足だとわからないくらいの動きができるらしい。慣れるまでは大変だけど、君くらいの頑張り屋なら、パラリンピックにも出れそうだ、と。
長いブランク。今更、どれだけできるかわからないけど、コピーライターの仕事が、もう一度、したかった。
通勤が、ひとりでできるなら、仕事することも可能だ。
先生に即答した。すぐお願いします、と。
アルムと会わなくなって、長い時間が過ぎていった。
アルムのことを考えない日はない。
もう卒業したのかな。博士号はとれたのかな。モデルの仕事は忙しいのかな。教授の夢はあきらめてないかな。新しい彼女はできたのかな。
考えれば、考えるほど、切なくて、寂しくて、恋しくなる。
アルムに、会いたい。胸が、張り裂けそうだ。
いつになったら、忘れられるんだろう。
本当に、アルムを忘れられる日が、来るのだろうか。