第3章
第3章
アルムが韓国に帰国した日の夜、電話があった。
「寂しいよ。渚。」
「何、言ってるの。今日、帰ったばかりじゃない。」
「ここに、渚がいないと思うと、本当、寂しい。」
「待ってるから。子供みたいよ。」
「渚は、強い。」
「強くなんてない。心が折れそうな時もいっぱいある。」
「僕が、いるから。」
「ありがとう。」
「渚、今日は仕事?」
「見送りに行けなくて、ごめんね。」
「いいよ。」
「いい仕事してきて。そして、早く帰って来て。」
「もちろん。早く帰る。待ってて。渚、愛してる。」
いつもの、アルムだった。でも、もしかして、空港にいるところを、見られた?
2日後、Y&Aの仕事のため、東京に行った。
うちのような小さな事務所は、コピーライターであろうと、デザイナーであろうと、企画を考える。そして、社内コンペで企画が決まれば、プランナーを兼任するのだ。
今回、私の企画が選ばれ、プランナー兼コピーライターとなった。
東京での仕事は、多忙を極めた。
Y&A本社での、広報や企画室との打ち合わせ、営業とのテーマや方向性の擦り合わせ、そして、カタログのラフ案の決定。
夜は、ホテルで様々な書類作成、訂正の作業に明け暮れた。
アルムからの電話は、なかった。
1度、電話をしたけれど、出なかった。
モデルとして、彼も忙しい日を送っているのだろう。
3日目の夜、島野さんから電話があった。
「お疲れ様。今、ホテル?」
「お疲れ様です。そうです、ホテルに缶詰め状態です。」
「ちょっと、出てこない?」
「今、ですか?」
「そんなに働いたら、体壊すよ。」
「でも、まだやることが。」
「書類が、明日でなくてもいいなら、時間作れるんじゃない?」
「まあ、それはそうですけど。」
「今、ホテルの下にいるから、晩御飯に行こう。」
島野さんの誘いで、食事に出かけた。
最初に、今日は、仕事の話はなし。と言ってくれたので、久しぶりに、仕事の事を考えず、ゆっくり食事ができた。
映画の話や、島野さんの趣味のヨットの話で、盛り上がった。
島野さんが、周りの人に好かれるのが、よくわかる。本当に、いい人だ。
「そう言えば、神戸の時のモデルから、加藤さんの事務所の連絡先が知りたいって事があったけど、なんだったの?」
「あっ、あれは、モデルが私に一目惚れしたって話でした。」
「じゃ、連絡先教えたの、まずかった?」
「いえ、私も一目惚れしてましたから、大丈夫です。」
「えっ、どういう事?」
「神戸の撮影で、初めて会って、お互い好きになりました。」
「神戸で、そんな事があったの?」
「事務所に電話があった時から、付き合い始めました。」
「そうなんだ。」
「すみません。ご迷惑をおかけして。」
「じゃあ、神戸で告白してたら、まだ、チャンスはあったわけだ。」
「えっ?」
「結構、プッシュしてたのに、気づいもらってなかったんだ。」
「プッシュなんて、してくれてました?」
「ずっと、してたよ。好きだったから。」
「ごめんなさい、私、全然、気づかなかったです。」
「まだ、チャンスは残ってる?」
「すみません。」
「だよね。モデルみたいに、かっこよくないからなぁ。」
「島野さん、素敵です。とっても優しいし、いい人だし。」
「加藤さんが、別れたら、教えて。待ってるから。」
ホテルに帰って、アルムに電話した。
アルムが言うように、島野さん、私の事が好きだったんだ。
男性に、告白された経験が少ないからか、あんなにストレートに想いを伝えてくれた事に、動揺していた。
付き合っていることを、先に伝えてよかった。
その後、何度コールしても、アルムは出なかった。
島野さんは、告白した後も、以前と全く変わらなかった。私の仕事をさりげなくフォローしてくれていたことに、初めて気づいた。
1週間の出張が終わった日、島野さんは、東京駅まで見送って、疲れた時は電話して。東京から飛んで行くから。と言ってくれた。
東京にいた1週間、アルムと連絡がつかなかった。
大阪に戻ってからも、帰宅は深夜か、事務所に泊まるほど、忙しい日が続いた。
体も頭も心も、全てがボロボロになりそうだった。
アルムの声が聞きたい。そして、好きだと言って欲しい。
夜の9時、ひとりで仕事をしている時、アルムから電話があった。
「電話、できなくて、ごめん。」
「アルム。」
「韓国に着いて、すぐ、ドイツだった。ベルギーとフランスとイタリアで仕事だった。」
「電話、何回もしたのに。」
「僕も、電話したかった。」
「だったら、どうして?」
「忙しいし、時差があった。」
「待ってたのに。」
「ごめん。」
「アルムの声、聞きたかった。」
「どうしたの?」
「すごく、疲れてたの。」
「助けてあげたい。」
「ありがとう。」
「どうしたら、助けてあげられる?」
「頑張れ、って言って。」
「頑張れ。渚。」
「もう少し、話していい?」
「ごめん。今から、移動するから。」
電話を切った後、涙が出た。ボロボロの心が、更に傷ついてしまったような感覚。
アルムがいつもと違った。声は、同じだけと、何かが、違う。
疲れた頭では、なにも考えられなかった。
今日は、もう帰ろう、と思った時、また、電話が鳴った。
アルム?着信を見る、違った。
「お疲れ様。まだ仕事中?」
島野さんからだ。
「はい。でも、もう帰ろうかと思ってたところです。どうしたんですか?」
「今、大阪に着いたとこ。」
「えっ、大阪ですか?」
「そうなんだ。明日、朝から会議があるからね。」
「島野さんも忙しいですね。」
「仕事終わったんなら、少し、飲もうか。」
「今からですか?」
「ちょっとだけ、寝酒につきあってよ。」
島野さんと梅田で待ち合わせ、静かなワインバーに行った。
「なんか、元気ないね。」
「忙しくて。」
「うちの会社のせいだね。」
「いえいえ。なんでもさせる、うちの事務所のせいです。」
「彼氏と、うまくいってる?」
「どうしてですか?」
「仕事だけで、加藤さんがそんなにバテるはずないから。」
「そんなことまで、わかるんですか?」
「ずっと見てたからね。」
「今、海外に行ってて、会えないんです。」
「モデルの仕事で?」
「はい。」
「どれくらい、行ってるの?」
「1カ月。今で、2週間くらい。」
「でも、電話とかはしてるんでしょう?」
「なかなか、連絡も取れなくて。」
「加藤さんを、放ったらかしにするなんて、許せない奴だな。」
「本当、そうですよね。」
「まあ、モデルもハードな仕事だから。」
「ても、冷たすぎません?」
「じゃ、乗り換えてみる?」
「それは、ちょっと、話が違うと。」
「だよね。仕事人として、彼女に電話できないくらい、頑張ってる相手に、卑怯な事はしない。」
「頑張ってるんですよね、きっと。」
「加藤さんって、韓国語ができるの?」
「いえ、全然。」
「じゃあ、日本語で、いつも、愛を交わしているんだ。」
「そんなに、愛は交わしませんけど。」
「日本から離れたら、日本語も話せなくなりそうだね。」
そうだ。電話でアルムがおかしいと感じたのは、日本語を一切話していないからだ。日本語に接していないから、言葉を忘れてしまっていたのだ。
そして、私だけが忙しいんじゃない。アルムも大変な仕事をしているんだ。疲れているアルムに、優しい言葉もかけてあげられなかった。自分の事だけ、考えていたんだ。悪いのは、私だ。
「島野さん、ありがとう。」
「何が?」
島野さんは、きょとんとした顔で聞いた。
島野さんの言葉で、目が覚めた。
移動、って言ってたけど、もう一度、アルムと話したい。
島野さんと別れ、電話した。
出てくれますように。祈りながら、コールを聞いた。長いコールの後、アルムの声が聞こえた。
「何度もごめんね。今、大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
「アルム、ごめんなさい。」
「何が?」
「疲れてたのは、私だけじゃない。アルムも仕事で大変な思いをしてたはずなのに。」
「大変じゃないから。」
「自分な事ばかり言って、ごめん。癒してあげる言葉ひとつ、アルムにかけてあげられなかった。」
「謝らないで。渚が疲れてる時、いてあげられない。」
「アルムが、大変な時、私もそばにいてあげられない。」
「もう少し、待ってて。」
「もう、わがまま、言わない。」
「わがままでも、いい。」
「アルム。」
「渚が好きだから、わがままでもいい。」
ボロボロの体と頭は、回復はしていないけど、心の傷は、アルムが癒してくれた。
明日から、もう少しだけ、頑張れると思った。
1カ月後、アルムが日本に戻って来た。
空港の到着ロビー。アルムが出て来た。私を見つけ、大きく手を振る。お互いに駆け寄り、人目もはばからず、強く抱き合った。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
「会いたかった。」
「会える。うれしい。」
「私も、うれしい。」
「待ってた。よかった。」
「好き。」
「僕も。愛してます。」
「アルム。」
「何?」
「日本語、ヘタ。」
「ヘタ?困った。」
「大丈夫。私が、教えてあげる。」
「ありがとう。うれしい。」
空港から、アルムの部屋に戻った。ふたりとも、離れたくなかった。
部屋に着くなり、アルムの激しいキス。
ベッドの中で、アルムは何度も、ヘタな日本語で、うれしい、愛してます、を繰り返した。
それから1週間、アルムの部屋に泊まり込んだ。1時間半の通勤はきつかったけど、そばにいたかったし、そばにいて欲しかった。
アルムの部屋にいる事を母親に伝えたら、好きにしなさい、と着替えの荷物まで送ってくれた。
桜の花が咲く頃、アルムが、大学を卒業したら、結婚しよう、と言った。
「急に、何を言い出すの?」
「渚と結婚したい。渚は?」
「私も、一緒にいたい。でも。」
「日本のプロダクションからオファーがあった。」
「日本で仕事を続けるってこと?」
「そう。日本が好き。」
「博士号まで取るのに?」
「モデルの仕事しながら、研究を続ける。」
「どうして、大変な道を選ぶの?」
「今はモデルの仕事を続けるけど、いつまでできるか、わからない。」
「アルムならずっとやっていけるわ。」
「夢が、あるんだ。」
「夢?何?」
「大学教授。学生に、勉強や研究の楽しさを教えたい。」
「素敵な夢。応援する。」
「必ず、なる。だから、心配いらない。」
「心配なんてしていない。仕事がなくなったら、私が、食べさせてあげる。」
「渚に無理はなせない。」
「ふたりで生きていくなら、お互いに支え合わないと。」
「9月に卒業するから、渚と初めてあった10月に結婚しよう。」
「ひとつ、聞いていい?」
アルムの全てを信じたいから、心の底にしまった事を聞くことにした。
「空港に一緒にいた女の子のこと。」
「やっぱり、渚、いたんだ。」
「見送りにいったら、女の子がいたから、黙って帰ったの。」
「どうして、何も言わないで、帰った?」
「女の子と一緒に韓国に行ったでしょう?」
「違うよ。彼女の友達が日本に遊びに来たから、空港に迎えに行ってた。そこで、偶然、会ったんだ。」
「そうなの?」
「渚、ヤキモチ?」
「ごめんなさい。ずっと、誤解してた。」
「大学の友達って言わなかった?」
「それは、聞いたけど、すごく可愛い女の子だったから。」
「だから?」
「私なんかより、アルムに似合ってた。」
「渚が一番って言わなかった?」
「聞いた。」
「信用してなかった?」
「違う、自信がなかったの。アルムの彼女になれる自信が。」
「今は?」
「今は。今は、アルムの言葉、全部、信じてる。」
「賢くなった。」
「あっ、博士号だからって、バカにした?」
仕事の合間を縫って、アルムと韓国に行った。
アルムのご両親に会うためだ。
韓国には、まだ、反日感情を持ってる人も多いと聞く。アルムは、平気だと言うけど、日本人でしかも年上。それに、結婚後は日本で暮らすことになる。本当に、許してくれるのだろうか。
ソウルの空港には、アルムのお兄さんが、迎えに来てくれていた。アルムに似て、スラリとした長身で、かなりのイケメンだ。
私と同い年で、まだ独身らしく、アルムのことをうらやましがってるそうだ。
「こんにちは。俳優の仕事、してます。」
日本語で話したのには、びっくりした。
アルムの話では、映画やテレビドラマに何本も出演している。日本でも結構、人気があり、何度か日本でトークショーなどの仕事で来日していると言う。
そう言えば、母がアルムの事を韓国の俳優に似てるって言ってたっけ。それが、お兄さんだったのかもしれない。
「知らなくてすみません。なかなか、テレビ観る時間がなくて。」
アルムの通訳に、笑いながら、もっと頑張らないとね、と言ってくれた。
アルムの家は、ソウルから、車で30分ほどのところにあった。豪邸と呼んでもおかしくない大きな家だった。兄が建てたんだよ、とアルム。すごい俳優なんだ、ということがわかる。
ご両親も、明るく、優しい方だった。
アルムは、子供の頃から、自由奔放で、自分の気に入る事しかしなかった。勉強が好きで、女の子に興味がなかった。そんなアルムが好きになった人なら、私達も大歓迎だ。
頑固なところもあるけど、支えてあげて下さい、と頭を下げられた。
意外な展開だった。こんなにすんなり受け入れてもらえるとは、思ってなかった。
それには、訳がある、とアルム。
お母さんは、アメリカと韓国のハーフで、アメリカで育ち、アメリカの大学時代に、留学生のお父さんと知り合った。
お兄さんが生まれるまで、アメリカで生活していたから、国際結婚なんて、全く意識していない。それに、兄貴の今の彼女は、イタリア人だから、と。
アルムが、だから、大丈夫って言ったでしょ、と笑った。
結婚、と言っても形だけでいいと思っていた私に対し、アルムは日本式の結婚式を挙げたいと言う。両親も呼びたいから、と弱いところを突かれ、京都の神社で、純和風の式を挙げる事になった。
社長に、結婚の報告をする前に、私には、しておかないといけないことがあった。
社長の口からではなく、自分から島野さんに伝えないといけない。私を好きになってくれた礼儀として。
仕事で追い立てられる中、どうにか休みを取り、東京に行った。アルムに話すと、僕も絶対に行く、と聞かなかった。
指定された、ホテルの喫茶室に行くと、もう島野さんは来ていた。
島野さんは、横にいるアルムを見て、全てを悟ったようだった。
「君だったのか。」
「お久しぶりです。その節は、お世話になりました。」
今まで聞いたことない言葉が、アルムの口から飛び出した。きっと、一生懸命、練習したに違いない。
島野さんが、大笑いした。
「すごいね。加藤さんのために、頑張って覚えたんだ。」
「はい。覚えました。渚に恥をかかせないように。」
「加藤さん、愛されてるんだね。」
「すみません。どうしても行くって聞かなくて。」
「いいよ。こんなにかっこいい男を見たら、あきらめがつく。」
「渚から聞いて、島野さんに、待たないでくださいって、言いたくて来ました。」
「君が、日本にいない時、加藤さんに迫ってね。見事に振られたけど。」
「僕が、そばにいてあげられなかったから、僕のせいです。」
「これからは、離しちゃダメだよ。加藤さんが、寂しそうにしていたら、すぐに奪いに行くから。」
「はい。離しません。」
「それと、加藤さん、すぐに仕事にのめり込んでしまうから、ちゃんとセーブさせてあげて。」
「はい。しっかり、守ります。」
「幸せになってね。」
「ありがとうございます。」
島野さんに会い、とんぼ返りで大阪に戻るつもりだったが、アルムが行きたいとこがあると言う。
電車に乗り、着いたところは、スカイツリーだった。一度、ここに来たかったんだ、とアルムはうれしそうな顔で言う。
そんなアルムを見て、少し腹が立った。
忙しい仕事の合間をぬって東京に来たことをアルムは知っている。それに、結婚式の準備だってある。
早く大阪に帰って、少しでも、疲れた体を休めないと、どこかで支障が出そうで怖いのだ。
私の気持ちをよそに、展望台で喜んでいるアルム。
ちょっとは、私の気持ち、わかってよ。
「すごいよ。こっちに来て。」
「うん。」
「渚、どうした?疲れた?」
「うん。疲れた。」
「もうすぐ、夜景見れるね。」
「夜までいるつもりはなかったのに。」
「神戸は、100万ドル。ここは、何万ドルかな?」
「わからない。」
「渚?」
「アルム、帰りたい。」
「わかった。帰ろう。」
「ごめんね。」
アルムは、困った顔で、私を見つめる。そして、小さくため息をついた。
新幹線が京都に着くまで、眠っていた。
アルムが、気をつけて帰るんだよ、と手を振って、京都で先に降りた。
アルムは、いつだって、優しく思いやりがある。
今日だって、たぶん、気分転換をさせてくれようとしたのだ。
でも、今は、それが少し、煩わしかった。
翌日から、仕事に没頭した。でも、順調なのは、最初だけだった。徐々に頭の回転が止まり、最後には、パソコンのキーをひとつ打つ事すら出来なくなった。煮詰まった頭で、コピーが書けるほど、仕事は甘くない。
ひとり、ふたりと仕事を終え、帰宅して行く。
最後にに残った社長が、デスクまで来た。
「どうした?まだ、やる?」
「なんか、煮詰まっちゃって。」
「飯でも行く?」
「はい。社長に話もあるし。」
「かしこまった話?」
「一応。」
事務所の近所の居酒屋は、話し好きの気のいい女将さんがいる、馴染みの店だ。
事務所まで迎えに来てくれた、アルムとも一度来た事がある。
今日は、かっこいい男の子は一緒じゃないの?と女将さんが言う。
「かっこいい男の子って、誰?」と社長。
「話は、それなんです。」
「それ、って?」
「その、かっこいい男の子が、婚約者で、今度、結婚する事になりました。」
「ちょっと、待って。」
「一応、10月に式を挙げる予定です。」
「渚ちゃんが、結婚?信じられない。」
「びっくりし過ぎです。」
「彼がいるのも、知らなかったし。」
「内緒にしてました。」
「誰?知ってる人?」
「直接的には、知らないけど、社長は知ってます。」
「全然、わからない。本当、誰?」
「Y&Aのカタログモデル。」
「去年の?じゃ、韓国人の?」
「そうです。神戸の撮影で知り合って、こうなりました。」
「そうなんだ。おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「そうか、渚ちゃんが、結婚か。」
「はい。」
「でも、結婚前なのに、うれしそうじゃないね。」
「いろいろ考えてしまって。」
「仕事、今、忙しいから。悪いね。もっと前に聞いてたら、あんなに仕事、振らなかったのに。」
「仕事のせいじゃなくて、いろいろと。」
「マリッジブルーってやつ?」
「わかってもらえない事があって。」
「普段でも、女の子の気持ちなんてわからないのに、結婚前の気持ちなんか、絶対、男にはわからないよ。」
「そういうもんですか?」
「どれだけ年を取っても、女心だけは、理解できないよ。」
「どうしたら、わかってもらえるんでしょうか。」
「素直に言えばいいじゃない。いつもの、渚ちゃんらしく。」
社長に言われて、気付いた。
仕事が忙しいこと、アルムならわかってくれていると勝手に思ってた。
結婚式の準備、韓国人のアルムにはわからないとだろうと考えて、自分ひとりでやろうとしてた。
何ひとつ、アルムに自分の言葉で、伝えていなかった。
3年前と同じだ。
少し頼りなかった、同い年の彼。彼が望むなら、何でもしてあげた。彼に負担がかからないように、いつも彼をリードしていた。
それで、満足してくれていると、思っていた。
だけど、違っていた。
彼は男だった。甘え上手で、わがままな妹が好きになった。
笑いが込み上げてきた。
学習能力のなさに、あきれた。
あんなに、辛い思いをしたのに、また繰り返そうとしている。
アルムは、違う女の子を好きにはならないかもしれないけど、私を好きでなくなるかもしれない。
もっと、素直になりたい。心の底から、そう思った。
夜の11時を過ぎていたけど、迷わず、京都行きの電車に乗った。
アルムの部屋のインターホンを鳴らす。
反応がない。出掛けているんだ。
いつもの私なら、アルムが心配するかも、と考えて、来た事はすらアルムに伝えていないだろう。でも、それは本心ではないと、私自身が知っている。
アルムがいなくて寂しかったと言いたい。
アルムの部屋の前に、座り込んだ。
今日は、いろんな事を考えた。体より、頭の方が疲れたみたいだ。
いつの間にか、眠ってしまった。
渚、渚。アルムの声。おかえりなさい、と言おうとしたけと、寝起きに急に立ち上がったため、体がふらついた。
アルムは、私の体を支え、ドアを開けた。
「どうしたの?」
「急に来たら、いけなかった?」
「いけなくない。」
「アルムに会いたかったの。」
「来てくれて、うれしい。」
「本当に、うれしい?」
「渚、この頃、少し変だったから。」
「ごめんね。」
「何か、あった?」
「仕事、すごく忙しかったし、結婚式の事とかもあって、パニックになってた。」
「言ってくれればいいのに。」
「そうだね。全部、言えばよかった。」
「受け止められるから。」
「そうだね。アルムだもんね。」
「そう。僕は、強いし、賢い。」
「甘えてもいい?」
「もちろん。」
「困らせても、心配かけても、嫌いにならない?」
「嫌いになんかならない。」
「本当?」
「渚の全部が、大好きだから。」
「幸せにしてくれる?」
「絶対、幸せにする。」
朝早く、アルムの部屋を出た。行ってらっしゃい、とアルムが見送ってくれた。
事務所に着くと、社長が手招きしている。
「彼と話した?」
「はい。わかってほしい事は、わかってもらえるまで、ちゃんと言葉で伝える事にしました。」
「さすが、コピーライター。」
「だから、社長にも言います。仕事、減らして下さい。」
「わかった、わかった。渚ちゃんなら、何を頼んでも嫌な顔しないで、引き受けてくれるから、俺も、甘えてたよ。」
「ちゃんと断る事も大切なんだって、知りました。」
「結婚するからやめる、なんて言われないようにしないとね。」
「それはないから、安心して下さい。」
「それを聞いて、こっちも安心したよ。」
「じゃ、仕事します。」
「ちょっと待って。いい話がある。」
「何ですか?」
「これまで、頑張ってくれた渚ちゃんに、婚前旅行をプレゼントするよ。」