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コピーライターの憂鬱   作者: 原 恵
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第1章

第1章


パソコンを眺めること10時間。もう目が限界だった。

私の勤める、社員5人の小さなデザイン事務所で、春夏コレクションのカタログを制作している。


クライアントは、20代のメンズに結構人気のあるメーカー、Y&A。

コピーライターの私の担当は、カタログの見出しであるイメージコピーと、それぞれの商品を説明する商品コピーの制作だ。

カタログデザインのラフと商品写真からコピーを考えていく作業だが、朝から10時間、何一つ言葉が出てこないのだ。

スランプ?違う、これには訳がある。

コピーライターになって8年、ここまで言葉が出てこなかったことはない。


パソコンの前で落ち込んでいると、社長がデスクまで来て、声をかけてきた。

「珍しいじゃないか。そんなに難しい仕事でもないのに、どうした。」

「このヘタな商品写真、たぶんこれが原因だと思います。誰がこのブレブレの写真撮ったんですか?これでコピーを書けと言う、Y&Aも信じられない。」

「まあ、まあ。」

これ以上、文句を言われてはたまらないという感じで、話を遮った。

「Y&Aは、この春夏から新しい試みで、韓国のモデルを使うらしい。そのせいか、企画が遅れて、まだ、サンプル製作途中の物しかなかったみたいだ。」

「それにしても、これじゃ。」

「そうだ、明後日から神戸で撮影が始まるから、行ってみる?実物見た方がはかどるんじゃない?」

この写真以外で服が見れるなら、願ったり叶ったりだ。


「行きます。服をチェックしながら、向こうで仕上げて来ます。で、出張にしてもいいですか?」


2日後、とりあえず3日分の荷物を持って、大阪から神戸に向かった。



今日の撮影場所は、神戸の街中だった。

撮影開始予定の30分前に着いた。

カメラマン、照明、スタイリスト、メイクさんたちが、慌ただしく動いている。


Y&Aの担当者、島野さんにとりあえず挨拶をして、商品の服が置いてあるという、大型のバンに向かった。

撮影を見学してもよかったが、プロのカメラマンが撮った写真と現場の動画が後で見れるということなので、まずは素材と細部のデザインから調べていくことにした。


バンの扉は開いていた。中に入り、自分で作ったチェックシートを元に、服を探した。

一番奥に行くと、誰かがシートで横になっていた。

「失礼しました。」と言いながら戻ろうとしたけど、聞こえてくる荒い息づかいが気になった。

「大丈夫ですか?」と近づいて行った。

横になっていたのは、たぶん、今回のモデルだ。目を閉じて少し苦しそうだけど、とてもきれいな顔をしている。


「誰か、呼んできますね。」

その場から去ろうとした時、手首をつかまれた。びっくりして振り返ると、「だめ」と言った。

「でも、病院に行った方がいいですよ」

「撮影、始まる。迷惑かけれない。」と片言の日本語。そう言えば、社長が今回は韓国のモデルって言ってた。

だけど、体調、悪そうだし。どうしようと考えていた時、ゆっくり起き上がってきた。

背が高い、180cm以上はある。細いけど、肩幅は広く、筋肉もありそうだ。

歩き出そうとした時、少しよろめいた。慌てて手を出し、体を支えた。

「大丈夫、ありがとう。」と爽やかな笑顔を見せ、バンから出て行った。


素敵、かっこいい。女子高生のようだが、これが30女の第一印象。

これから始まる、乱雑な仕事が、なぜか楽しみに思えてきた。


今回、カタログで使用する商品は、靴や帽子などの小物を入れると300点以上になる。

書かなければいけないコピーは、半分の150点以上。気合いを入れて、目の前の仕事に取り掛かろうとしたが、バンにいたモデルの男の子の笑顔が頭から離れない。

いけない。頭を振り雑念を払おうと思ったが、全く効果はなかった。

仕方ない。とりあえず、自分の仕事は後に回し、撮影を見学することにした。


現場では、撮影が始まっていた。

20代に人気があるというだけあって、新しいコレクションは、白を基調としたシャープでシンプルなデザインだ。


モデルは3人。個々のパーツはそれぞれ異なるが、3人ともきれいだ。男性にきれいという言葉は当てはまりそうにないが、今回ばかりは他の言葉が見つからない。見た目は、日本人とほとんど変わらないけど、どこか、何かが違っている。


表情もポージングも、上手い。動きの中のどのコマを取っても、絵になる。指の先まで神経が行き届いている。

問題なく、スムーズに次のシーン撮影に入る。


きれいな顔と若さが際立つけど、このモデルたちはプロだ。仕事に対する姿勢は、尊敬に値する。なんて考えてたら、お昼の休憩でーす、という声が上がった。


しまった、モデルたちに見とれてしまい、全く、仕事が進んでいなかった。


Y&Aの島野さんが近づいて来た。

島野さん。年は35歳前後、顔は人並み。企画室の中堅社員。アパレルメーカー勤務なので、センスはいい。仕事はそつなくこなし、愛嬌の良さで社内外での信頼も厚い。


「ランチ、一緒にどう?」

「すみません。商品のチェック、全然進んでないから、先にやっちゃいます。」

「でも、食べなきゃ、元気でないよ。」

「大丈夫です。元気はありあまっていますから。」

誰にでも、優しい人だ。

彼氏いない歴3年の私が言える立場ではないけど、島野さんは、あまり、タイプではない。


バンに戻ったら、ドアが開いていた。もしかしたら、と奥まで行った。やはり、またモデルの男の子が横になっていた。

撮影を見ていたけど、体調が悪いなんてみじんも感じなかった。治って良かった、と思っていたけど、違っていた。


「大丈夫?無理してたんだね。」

「すみません。」

「すみませんじゃなくて、どこか痛いの?」

ほんの少し笑って、頭を指でトントンと叩いた。

ちょっと待って、と言い、バッグの中からいつも使っている頭痛薬と水のペットボトルを差し出した。

「頭の薬。飲んで。」

「ありがとう。」

薬を飲みかけた時、あっ、と思った。ペットボトルの水が半分。朝から私が飲んでいたんだ。ペットボトルだけ取り上げ、新しいのを買って来る、と言ったけど、反対にペットボトルを取り上げられ、大丈夫、と言い、頭痛薬を水と一緒に飲んだ。

ドキッ、と胸が鳴った。 間接キスよね、これって。でも普通に飲んでるって事は、あんまり気にしてないんだ。そんなもんだよね。


「 すぐ、治る。撮影、大丈夫だから。ありがとう。」

真っ直ぐ、 目を見ながら話かけてくる。

たぶん、顔が赤いはず。少女のようにぎこちなく、視線を外した。

「早く治るといいね。」バンの窓の外を見ながら言った。

「本当、ありがとう。感謝してる。」

30女が、年下のモデルに、一目惚れした瞬間だった。


モデルの男の子が横になっている、後のシートを気にしながら、できるだけ物音を立てないように、商品チェックの仕事を進めて行った。

30分位経った頃、モデルの男の子が後から歩いて来た。

「治った。とても、元気になった。」と笑顔を見せて、しっかりとした足取りで、バンから出て行った。

「無理しないでね。」声をかけたら、振り向いて大きくうなずき、指でVサインを作って撮影現場に戻っていった。

顔色は良かったし、声にも力があった。薬が効いたみたい。良かった、心の底から思った。


撮影が気になった、というより、あのモデルの男の子が気になったけど、本気で仕事にかからないと、締め切りに間に合わない。


夕方、今日の撮影終了です、とスタッフの声が聞こえるまでバンの中で、作業に没頭していた。



ホテルに帰って、パソコンを開いた。撮影動画とチェックシートを見ながら、コピーを仕上げて行った。

ふと、時計を見ると、もう10時になっていた。夕食を食べてない、そういえば今日は昼食も食べていないことを思い出した。


ロビーに降りた。ホテルのインフォメーションを見ながら、ホテルの中か、外に出るか悩んでいた。

その時、前から、あのモデルの男の子が歩いて来た。


「ここに泊まっていたんだ。」

「はい。」

「もう、体は、大丈夫?」

「はい。元気になりました。」

「どうしたの?外に出るの?」

「何か、食べたいから。」

「夕食、まだ?」

「まだ。」

「だったら、一緒に食べに行こう。」

「はい。」


ホテルの近所に居酒屋を見つけ、ふたりで入った。

話を聞くと、撮影から帰ってから、今まで寝てしまった。昼も夜も食べてないから、お腹がすいた、とのこと。


日本語を読むのはまだ苦手、というからメニューから若い男の子が好きそうな物をたくさん選んで注文した。


届いたビールで、お疲れ様の乾杯、をしようとした時、気になったことがあった。


「まさか、19歳とかじゃないよね?」

一瞬、えっ、とした顔をしてから大声で笑われた。

「26歳。」

今度はこっちが、えっ、という顔になった。

「若く、見えた?」

「すごく。もう、びっくり。」

「ビール、大丈夫。20歳越えてるから。何歳?」

「25歳って言いたいけど、30歳。」

「見えない。」

「えっ、もっと上だと思った?」

「違う。若く見えた。」

「嘘でも、うれしい、ありがとう。」


つられたみたいだ、こっちまで片言の日本語になっていた。ひとりで、くすくす笑っている私を不思議そうな顔で眺めていた。


さすが、モデル。26歳になんて絶対見えない。まじまじと顔を見つめた。

アーモンド型の切れ長の目、鼻梁の通った高い鼻、色っぽい少し厚い唇。何回見ても、やっぱり、きれいな顔だ。

26歳だと、私と4歳しか違わないよね。

4歳違いはうれしかったけど、ふたりの見た目を考えると、少し落ち込んだ。


料理がどんどん運ばれて来た。モデルなのに、食べっぷりがいい。何でもおいしそうに食べる。見ていて、こっちまで気分がよくなった。

ふたりでビール6杯と、2食分を食べまくった。


支払いは、私がした。自分が出す、と言ったけど、こっちが誘ったし、年上だから、出さす訳にはいかない。何度も頭を下げ、ありがとう、と言ってくれた。


ホテルまでの帰り道、仕事を聞かれた。コピーライター、カタログの文章を書いてる。と答えると、素敵な仕事、と言う。そして、かっこよく書いてね、と笑った。


ホテルの部屋に帰り、もう少し仕事をしようとパソコンの前に座ったけど、全くはかどらない。

モデルの男の子と過ごした、さっきまでのことが、頭の中でリフレイン、顔が自然ににやけてしまう。


仕事、明日から、頑張ればいいよね。

パソコンを片付けていると、撮影のタイムスケジュールが書いてある資料が出てきた。もしかしたら、と思い資料を見ていると、一番最後のページにあった。スタッフリスト。

モデルの欄を見る。

ジェミン、ヒョンウ、アルム。

資料の最初のページに戻って、今日のタイムスケジュールを見る。

朝イチの撮影には入ってなかった。昼イチには入ってた、となると、たぶんアルムだ。


韓国人の名前は、よくわからないけど、アルム。かっこいい名前。よく似合っている。ちょっとだけ、アルプスの少女ハイジを思い出してしまうけど。韓国では、どんな意味があるのかな。話する機会があれば、聞いてみよう。



2日目の撮影は、須磨の海。

秋の砂浜には、もう誰もいなかった。


今日は、昨日できなかった分、気合いを入れて仕事にかかるぞ、と両手で頬をたたく。

ふと、横を見ると、島野さんがくすくす笑っていた。


「眠気覚まし?」

「いえ、気合いを入れて仕事しようと。」

「柔道選手みたいだね。」

「はい。強いですよ。」

「近寄ったら、投げられそうだ。」

「島野さんに、そんなことしません。投げるのは、下心のある男の人だけです。」

「じゃあ、僕も投げられそうだ。」

「また、そんなこと言って。」


バンの中に入ろうとした時、アルムが駆け寄って来た。


「おはよう。昨日はありがとう。」

「おはよう。元気になって、良かった。」

不意に、アルムが顔を寄せて来た。鼓動が早くなる。

「誰にも言わない。助かった。」

耳元でささやいた。

体調が悪い事を、スタッフに言わなかったから感謝されたようだ。

それにしても、急に、あんな近くに顔を寄せるなんて。

手が震えるほど、ドキドキしてる。憎たらしいほど、女心を掴む技を自然にやってのける。

またね、と言い残し、アルムが走って行った。


年上のお姉さんをときめかせるなんて、アルムはかなりプレイボーイだ。


ときめいた気持ちを押さえ込み、仕事に没頭した。

商品のデザインや素材をチェック。撮影動画を見ながら、イメージをふくらませ、言葉を繋ぎ合せていく。パソコンの上で軽やかに指が踊る。

いつもの仕事のリズムに戻った。


お昼前に、昨日の分の仕事を片付けた。


手の平を天に向け、大きく体を伸びをしながら、バンから外に出た。


潮の香りと初秋の風が、吹き抜ける。

頭も体も心も軽くなる。

3時間分の疲れが消えていく。


撮影現場もそろそろ、休憩のようだ。

スタッフには、お弁当が配られている。急遽、参加した私の分はない。


海沿いにある、カフェ。

砂浜に面したテラス席に座わり、パスタのランチをオーダーした。


あぁ、気持ちいい。ワインでも飲めればもっと気分よくなるのにな。


海を眺めていると、隣の席に、どこからもとなくやって来たアルムが座った。


「どうしたの?みんなで昼食でしょう?」

「こっちに来るの見えたから、こっそりついて来た。」

「みんな、心配するよ。」

「散歩。大丈夫。」

「何か食べる?」

「同じの。」


料理のオーダーを聞きに来たスタッフに、アルムは白ワインふたつ、と言った。


「仕事中なのに、大丈夫?」

「グラスだけ。気持ちいいから、少し飲みたい。」


同じことを考えている。

仕事中なのに、なんて、お姉さんだからって野暮なことは言わない。


潮風の中で、ワインと食事と会話を楽しんだ。


韓国のモデルプロダクションに所属していること。韓国の大学で日本語の勉強をしていたこと。1か月前から博士号をとるため、京都の大学に留学してること。今は一人暮らしで自炊していること。彼女がいないこと。

そして、名前は、シン アルムだということ。


楽しい時間は、いつの時もあっという間に過ぎてしまう。

撮影現場に戻る途中、アルムがふと足を止めた。


「名前、聞いてない。」

アルムの話をずっと聞いていたので、自分の事をほとんど話していなかった。


「加藤 渚」

「渚。夜、飲みに行こう」


アルムは、いつも人をびっくりさせる。


午後からの仕事も、ハイペースで進んだ。商品をチェックし、撮影を見ながら、パソコンに文字を打ち込んでいく。

撮影で使用しない商品は、バンの中で確認して特徴をメモする。書き上げたコピーは、すぐにデザイナーに送信。その作業を何度も繰り返す。


夕陽が落ちる頃、撮影は終了した。


加藤さん、と背後から呼ばれた。島野さんだ。


「ホテルまで帰るから、一緒に車に乗っていく?」

「いえ、大丈夫です。」

「どうせ同じとこに帰るんだから。遠慮しないで。」

「ゆっくり散歩しながら帰ろうと思ってたから。」

「いいから、いいから。」


強引に、腕を引っ張られ、駐車場に連れて行かれた。


駐車場には、スタッフたちが、各々、車に乗り込んでいる所だった。一番奥に止まっている大きなワゴン車には、モデルたちが乗り込んでいる。


アルムがふいに振り返った。

目が合った。

少し寂しそうな顔で、ワゴン車に乗り込んで行った。

島野さんに掴まれていた手を、思わず、振りほどいた。


ホテルまでの帰り道、島野さんが、夕飯を一緒に食べよう、と誘ってきた。仕事があるから、と断ったが、でも、いつか食べるでしょ。その時、連絡くれればいいから。


島野さんって、こんなに強引な人だったかしら。

今まで、一緒に仕事をしていても、食事どころか、お茶に誘ってもらったこともない。

悪い人じゃないから、食事くらいはいいけど、今夜は、アルムが誘ってくれている。

仕事は何時に終わるかわからないから、コンビニで何か買って済ませます。

少し、冷たかったかな。


ホテルの部屋に帰り、小さなスーツケースを開けた。

男性に誘われるとわかっていたら、もう少しマシな服を持って来るのに。

スーツケースの中には、トレーナーとダンガリーシャツ、Gパンとカーゴパンツしか入ってなかった。

アルムに誘ってもらったのに、最悪だ。


急いで、外に出た。

近くにあったブティックに飛び込んだ。

白いシフォンのシャツと、スリムタイプの黒のパンツ、そして、普段はあまり履かない黒のハイヒールを買った。


アルムの横にいて、恥ずかしくない女性になりたかった。


急な出費は痛かったけど、久しぶりのデート、と思うと、うれしさの方が大きかった。


シャワーの後、服を着替え、やっと落ち着いた。

そして、考えた。

アルムは、何時に、どういう風に誘いにくるのか。

何時に、どこで。何も決めていなかった。

本当に誘ってくれたのか、不安になった。



午後7時。部屋の電話が鳴った。アルムだった。ロビーに来て、と一言。声が、いつもより低い。


ロビーの隅で、アルムが腕を組みながら待っていた。

やっぱり、何だか怒っている。

何かあった?それとも私が何かした?


「待った?ごめんなさい。」

「30分前に電話した。」

服を買いに行ってた頃だ。嘘をついた。

「シャワーしてたから、わからなかった。」

「あの男の人とどこか行った、と思った。」

「島野さんと?」

「そう。」

「行かないわよ。アルムが誘ってくれているのに。」

「じゃあ、行こう。」


何?これって嫉妬?まさかね。

昨日、知り合ったばかりだし、まして彼女でもないしね。

ホテルの前でタクシーに乗った。アルムが運転手さんに何かを見せている。タクシーが走り出した。


「どこに連れて行ってくれるの?」

「いいとこ。」


タクシーは、街を過ぎ、六甲の山を登って行く。暗い山道の前方に、明かりが見えた。

大きな山小屋風のレストランだった。

テーブルの上のキャンドルの灯りが、幻想的な雰囲気を醸し出している。

暖かくて、懐かしくて、それでいて異次元の空間に迷い込んだ感覚。

目の前に、日本人ではないアルムがいることが、よけいに不思議な気分にさせてくれているようだ。


大きなソーセージにザワークラウト、仔羊のカツ。ドイツ料理はあまり食べたことはなかったけど、どれもおいしかった。

アルムにドイツ料理が好きなの?と聞いたら、初めて食べた、と笑った。

ビールと赤ワインが私の顔を赤くしている。お酒は結構、強い方なのに、今夜は少し酔ったみたいだ。


支払いは、アルムがしてくれた。割り勘にしようと言ったけど、モデルのギャラが入るから、と断られた。


お店の人が、少し歩いた所に展望台があって、きれいな夜景が見える素敵な場所だと教えてくれた。


展望台までの道は、ゆるい上り坂。

少し酔っているせいか、なかなか前に進まない。

アルムが手を繋いできた。

男性と手を繋ぐのなんて、3年ぶり。心拍数が一気にあがった。

余計に動けなくなった私を、アルムはゆっくりと引っ張って行ってくれた。


「ごめんね、ちょっと酔ったみたい。」

「大丈夫?」

「今日は、楽しかったから、飲み過ぎちゃった。」

「僕も、楽しかった。」

「いつもは、酔わないのに。こんなにいい気分、久しぶり。」

「僕も、久しぶり。横に、きれいな人がいるの。」

「アルムは、お世辞が本当、上手ね。」


話ながら歩いていると、展望台に着いた。

神戸の100万ドルの夜景。

わぁ、とふたり同時に声を上げた。

そして、私の日本語と、アルムの英語が重なった。きれい。

顔を見合わせて、ふたりで大声で笑った。


キラキラ輝く夜景を見ていると、ふいに、目の前にアルムの顔が近づいて来た。

あまりに近すぎて、横を向こうとした顔をアルムの指が正面に戻し、顎を少し上げた。

目を閉じた。

優しいキス。


久しぶりのキスに体がしびれた。

いきなりこんなに展開になるなんて、考えもしなかった。


ちょっとした遊び?

年上の私を好きになってくれるなんて思えない。

それでも、いい。遊びでも、こんな素敵な時間が過ごせるなら、それでもいい。


抱きしめられながら、そんなことを考えていた。


レストランで、予約していたタクシーが来た。

タクシーが街中に入った頃、雨が降り出した。

ホテルに戻ったとき、繋いでいた手を解いた。アルムは怪訝そうな顔をしたけど、スタッフたちに、見つかる可能性がある。撮影が進行している今は、それだけは避けなければならない。


ふたりでエレベーターに乗り、6階と8階のボタンを押した。私の部屋のある6階に止まり、おやすみなさい、と降りようとした時、アルムが腕を掴んで引き止めた。

「部屋で、飲もう。」

「明日も仕事でしょう。」

「まだ、渚といたい。」

「だめ。」

何か言いだそうとしたアルムにキスした。そして、ひとりでエレベーターを降りた。


遊びでも、構わない。20歳そこそこの女の子じゃないんだから、一夜限りの恋でも、傷つかない術は持っている。

だけど、若くないからこそ、常識だけはしっかり持っていたい。モデルを寝不足の顔で撮影に行かせるわけにはいかない。私もスタッフの一員なんだから。


部屋で、自分の気持ちを整理した。



朝早く、島野さんから電話があった。

雨が上がりそうにないから、今日の撮影は中止になったらしい。急遽、スタジオを探したけど、手配できなかったから、スタッフはオフになると言う。

せっかくだから、どこか行きませんか、と誘われたけど、今からバンの中で仕事です。今日、帰らないといけないので。と断った。


荷物をバックに詰め、部屋を出た。

ロビーには、島野さんがいた。バンはホテルの駐車場にあると言う。

駐車場まで付き合います、と言う島野さんとロビーを出た時、ロビーの隅に、アルムがいたような気がした。振り向いてロビーを見回したけど、勘違いのようだ、アルムはいなかった。


「いつまで、います?」

「仕事の目処がついたら、帰ります。明日の撮影の動画をまた送って下さいね。」

「了解です。頑張って下さい。また、飲みに誘いますから、付き合って下さいね。」


アルムに連絡を取りたかったけど、電話番号を知らない。黙って帰ったら、びっくりするかな、それとも何も思わないかな。


アルムほどの男性だもの、たくさんの女の子が寄ってくるんだろうな。その中の1人でもいいか、もう経験できないような素敵な時間、過ごせたんだから。

さあ、仕事だ。バンの中に入った。


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