残暑の楔としあわせの定義
「なぁんで校長の話ってあんな長いんだろな」
もうとっくに終わったことなのに、思い出すだけでぐわ、とあくびが漏れる。そんなぼやきを横で聞いたりんこも苦笑いをこぼす。
夏休み明けとはいえ9月1日の帰りは早い。茜は担任に呼び止められたらしく、少し時間がかかりそうだから先に帰っててほしいとたまたま通りがかりに声をかけられた。じりじりと一番高い場所で太陽が揺らめく中、アスファルトを蹴る足が4本しかないのはそんな理由だ。
「まあ、毎年同じ話されたらさすがに飽きちゃうよね」
「飽きるなんてもんじゃねえだろ。むしろ去年の話とか何ひとつ覚えてねえよ俺」
なんなら校長の話は寝るものだ。空調管理なんて効かず、太陽と約300人分の熱気がこもる体育館で寝ることは自殺行為に等しいためもちろん寝ることはないが、ひたすらぼーっと床の木目を数えるか、先生にバレない程度の小さなふざけ合いをクラスメイトとするか、そのどちらかだ。
どうやらさっさと体育館を出たいのは先生たちも同じなようで、のんびり話を終えた校長のあとはやけに速く集会は終わりへ向かった。教室に戻ってしまえば担任のおみちゃんこと小美玉先生はワイシャツの襟元を人差し指でかすかに開けながら「宿題を出してさっさと帰れ」と実に適当で素晴らしい指示を下した。ただしそのあと各教室を回っていたらしい英語の境先生が、英語のワークが終わっていない者は残ってでも提出しろと告げたため、水戸は今頃半泣きで机にかじりついているだろう。見せてくれと縋られたが、あいにくそこで見せてやるほど俺は優しくない。そのまま提出したりんことごく自然に教室を出た。
「アツくんどうしてるかな」
「心配しすぎだっての」
今日の登下校の道だけで何度かは聞いたその名前にそろそろ苦笑いを浮かべたくもなる。敦典はたしかにりんこに少しずつ懐いているようだが、それ以上にりんこ自身が敦典に懐いているようだ。
「ひろくんは調子悪いの治った?」
柔らかい目に見られてどきりとした。何かを見透かされているような気がするのは、俺自身にやましさがあるせいだろうか。
「……ん、別に平気」
「そう? ならいいんだ」
茜ちゃんみたいに熱中症で倒れたら大変だから、とりんこはなんでもなさそうに笑った。
はっきりいうと晩夏は好きじゃない。晩夏自身がというよりは、晩夏から冬にかけて転がり落ちるようなこの季節が大嫌いだ。
何度も前の夏の暑さがまだじりじりと残る頃、"俺の家族"は一番幸せだったのだと思う。何度か母親と一緒に病院に行った。顔色が悪そうな母親も見た。それらはたしかに不幸せの印なのかもしれないが、たしかに両親は幸せそうだと5歳の俺の目には写っていた。
「ひろくん」
「あ、あぁ」
声が喉の奥で突っかかるような感覚がした。シャツの中の背中を、暑いせいだけではない汗がすっと落ちていく。
「今日の夕飯当番、代わってもらう?」
「わり、大丈夫」
りんこのほうを見ることができない。優しい気遣いがなぜだかやたらと苦しくて、息ができない。
「……ほんとに?」
「しつけーよ、平気だって」
「…………うん」
ついきつい言い方になってしまった。しまった、と向き直る。少しだけ視線を下に向けたりんこのこめかみを汗が一筋伝うのが視界に残った。
「……悪い」
「ううん、こっちこそごめん」
力なくりんこは笑った。
互いに触れて欲しくないことはある。それは普通の友人や家族にすら人が抱く防御壁なのだから、ましてや"ワケあり"のレッテルを貼られる俺たちがそれを持たないはずがない。残暑で茹だる頭の中、ふと浮かぶのは四角がくしゃくしゃになったあの紙に書かれたフレーズ。
五、それぞれの家族事情を不必要に詮索しないこと
踏み込み過ぎた、とりんこも考えているのだろうか。どうも毎年のこの時期はイライラしてしまって精神が不安定になりがちだ。苛立ちを抑えるように足元の小石を蹴ると、アスファルトから立ち上るゆらぎの中へ消えていった。俺のイライラも、ああして消えてしまえばいいのに。